前編
五話目まで少し修正が入っております。内容にはほとんど変わりありません
「さよなら」
周囲は飲めや歌えの大騒ぎ。街の広場には明々とかがり火が立てられる。
今宵は暗闇も忘れて仮面をつけた男女が踊る年に一度の大祝祭日。今は廃れた異教の神への豊穣の加護をこいねがったなれの果てだ。わずかに後を留めるのは、広場の中心でまさに点火されようとしている巨大な木の柱と、それにくくりつけられた道化姿の藁人形だった。元は冬の神として崇められていたのに、ほとんど誰にも見向きされずに、夏の化身たる炎に呑まれていく。
けれども、そんなことどうだっていい。
ユリアは追いすがろうとする相手の手を振り払い、踊りの輪から抜け出した。人垣が自分の姿を覆い隠してしまうことを願った。
早く、早く。帰らなければ。
彼女は簡素な茶色の仮面をはぎ取りながらも、駆ける。胸がぎゅうぎゅうに締め付けられていた。それは決して走ったためではなかった。
早く、早く。逃げなければ。
祭りの喧騒が後ろに遠ざかり、自分を追う者がいないことを確かめてから、ようやくその足が緩む。ユリアはとぼとぼと町はずれの修道院――今の我が家に向かって歩いた。
ユリアはまだ若い修道女だった。赤まじりの金髪に、茶色の眼。十人中九人がお世辞でも「優しそうなお嬢さんだね」と言いたくなるような顔立ちをしている。実際、性格も、物静かでおとなしい、という点を加えるほかは、おおむね間違っていない。
けれどもどんな優しい人だっていつでも優しいというわけではない。彼女は、先ほどの踊りの相手が握ってきた手首をさすりながら悔しげな顔をしていた。悔しいあまり、ぽろりぽろりと涙が出てくる。
「コンラート……」
自分がこの名を覚えていることが忌々しい。
コンラート、というのが彼女の心を波立たせている男の名だった。
コンラート。ユリアにとってはにくき敵というべき男である。もしも彼がいなかったら、ユリアは修道女にならなかったかもしれない。
コンラートとユリアは幼馴染だった。
互いに職人の息子と娘同士で、ご近所同士。仲が悪くなるはずもなかった。
だが、コンラートが勝気で喧嘩が強く、他の子どもたちのまとめ役だったのに対し、ユリアはお人形遊びや一人遊びを好むような性格で、いつも遊びの人数に困ったコンラートが嫌がるユリアを無理やり引きずり出したものだった。
「おい、そんなところで絵を描いていないで、俺たちと遊ぼうぜ!」
そう言って、ユリアが木の枝で一生懸命地面に描いていた父親と母親の絵を踏みつけたのがコンラートである。もちろんユリアはせっかく両親に見せようと思ったのに、と考えるのにも悔しくて、びいびいと泣かずにいられなかった。
コンラートは自分が何をしたのかわからないので、ますます怒る。それを聞きつけた互いの両親がどうにか宥める。その繰り返しだ。
でもこのころのユリアは、現在ほどこの幼馴染のことを嫌っていなかった。引っ込み思案の自分を外に連れ出してくれたし、互いの両親の言葉で仲はそこまでこじれることはなかったのである。
ユリアにとっての転機が訪れたのは、八歳の洗礼式の時である。
教会の聖職者たちがお話をするというのに、当の彼らは皆変なものばかり見ていた。
「あれ、何だろう」
「あぁ、あれか、あれは本だぞ」
「本? それは何?」
ユリアはこの時まで「本」というものを知らなかった。街で読み書きできる人は、貴族と騎士、聖職者、一部の商人ぐらいのものだったから、ユリアはそれまでの人生で本というものを目にすることはなかったのである。もちろん、本は羊皮紙を重ねたもので、非常に高価なものだった。
「きらきらしてる」
ユリアを驚嘆させたのは、本の皮表紙についたきれいな石が美しく模様を描いていたからだ。それは、彼女が生まれて初めて目にする宝石だった。
「お前、そんなことも知らないのかよ。本ってのは、宝石でそーしょくするもんなんだぜ」
「ふうん、それで何でその本を見ているの?」
「そりゃあ、あそこにお話が書いてあるからだってさ。神話っつーの。そういうやつ。父ちゃんが言ってたぞ」
自分のことでもないのに自慢げにしているコンラートをほうっておき、ユリアはその「本」というものを穴が開くほど見つめていた。
どんなお話が書いてあるんだろう。全部見てみたいな。
ユリアは寝る前に母親にたくさんの寝物語を求める娘だった。もっともっと、と話をせがむほどだった。 今ではせがんでも母親がうんざりした顔になる。「本」とやらを読めれば、母親にも文句をつけられることもないだろう、と幼心に思ったのだ。
家に帰って、さっそく両親に相談してみると、そんなの無理だという答えが返ってきた。ユリアの家庭は裕福でなければ、読み書きを求められることもなかったので、文字を学びたいという気持ちを誰も理解してくれなかったのである。
だからユリアは教会に通うことにした。「本」を持って説教壇にあがる聖職者たちに少しでも近づき文字を教えてもらおうという魂胆だった。けれども、勇気を出した尋ねたところ、
「あぁ、読み書きってね、普通男のものなんだよ。男の子なら、将来役人になることを見据えて教えることもあるんだけれどねえ」
穏やかながらもぴしゃりと断られてしまった。そして、
「修道女になれば、写本という仕事もあるからね、読み書きを習うことができるよ。でもそれには俗世を捨てなくてはいけないんだ。結婚もできないし、子どもも作れない。一生修道院にいなくちゃいけない。それぐらいの覚悟があるなら……」
人がいいことで有名なその聖職者は、ユリアに近隣の女子修道院の場所を教えてくれた。ユリアは何度も何度も聞き返しながら、その場所を暗記した。
しかし、暗記していたからと言って、この時ユリアが修道院に入る決意を固めたというわけではない。幼いユリアにも、修道女になるという決断がどれほどのものはぼんやりとわかっていたし、その年で結婚も子どもも諦められるほど「本」に執着していたわけではなかった。
ただ、日々弟や近所の子どもの世話の忙しさに埋没しそうな毎日の中で、燈台のように彼女の心を照らし続けていた。もしかしたら、いつか、と。
ある時、それをふとした時にコンラートに漏らしたことがあった。コンラートは怒った。
「お前、そんなこと許さねーぞ。絶対、ゆるさねー。お前はここにいればいいんだよ! ずっと俺たちと一緒に遊ぶんだ! 修道院なんかにいかせねえ。お前に、読み書きなんてできるか!」
「で、できるもん、やるもん! 一生懸命おぼえるもん!」
「無理だ! どんくさユリアになんか無理だ! もしも同じことを言ってみろ、こうしてやる!」
ユリアはどん、とコンラートにぶつかられ、倒れこんだ。ユリアの身体は泥と牛糞にまみれ、ぷうんと臭った。それをコンラートとその仲間たちがこぞって、くさいくさい、と鼻をつまんで逃げ回る。
彼女はこの時コンラートが心底嫌いになった。
十四歳になると、ユリアに縁談が来た。早いとは思われるものの、縁談はあってもおかしくないとされる年齢だった。相手たっての希望、しかも断りづらい相手ということで、ユリアは緊張しながら家で相手を待った。現われたのは……。
「よう」
コンラートだった。生意気にも栗色の髪を撫でつけて、腰に剣をぶらさげた兵士服を身につけている。だが、その意地悪そうな青い目は、間違いなく幼い頃の面影を残している。
ユリアは、彼が職人とならずに軍へ入ったことは知っていた。すでに上に何人も兄がいるから父親の工房の後を継ぐのは自分で見切りをつけただの、喧嘩っ早いのが軍の上官の目に留まっただの。
コンラートや遊び仲間にいじわるをされてから、もう二度と遊ばなかったユリアは、人づてにそんな話を聞いていた。
ユリアはあからさまに顔をしかめた。
名前を聞けば会うのも拒否するに違いないと両親が感じたから、今まで相手の名を伏せていたのだ。そうとしか思えなかった。しかもユリアの父はコンラートの父の工房で働いているのだから、断りづらい話だったに違いない。
しかし、わずかな希望もまだ残っていた。会っていなかった数年の間に、多少なりともコンラートはユリアへの意地悪を悪かった、と思っているのかもしれない、これからは少しぐらい優しくされるかもしれないと。一応、結婚するということになるのなら……。
でも、コンラートはコンラートのままだった。横柄そうな態度で、嫌な感じに唇を歪ませる。
「お前、ずいぶんと不細工な顔しやがって。大丈夫かよ、おい。こんなんが俺の嫁って勘弁してくれよ」
ぶつっと頭の中の何かが切れた。
ユリアはコンラートと絶対結婚してなるものか、と憤怒に燃える。
表面上はそれなりに取り繕い、コンラートからの嫌味をすべて受け流すことに専念した。耐えた。
その次の日にわずかな身の回りの品を持って家を出奔したのである。両親には近所の人に頼んで伝言を残した。
昔教えてもらった女子修道院では、思いとどまるようにと院長からも言われたが、ユリアは頑として修道女になる意志を曲げなかった。紆余曲折あったものの、彼女の金髪が首のあたりでざくりと切られ、彼女は修道女になった。
両親は嘆いたが、ユリアの頑固さに折れた。ちょうど姉たちの結婚の支度金に困っており、ユリアの分の支度金を用意しなくて済むことが大きかったのだろう。
コンラートから何度かあった面会の申し込みは断固として拒絶した。
修道女の生活は朝も早く、日課も多かった。女性ばかりということで、独特の悩みもある。
けれどもそれなりに幸せだとユリアは思っている。
ユリアはコンラートのせいで男性が苦手になった。男というものは、皆いじわるで暴力的なのだと。コンラートじゃなくても、結婚は無理だったのだ。
それに比べて女子修道院は女性しかいないし、何より「本」に触れられる。女子修道院には図書室が備えられていたのだ。
彼女が修道女になった時、院長に願ったのは、読み書きができるようになることだった。必死に勉強した。ユリアはもの覚えが悪かったけれど、諦めることは知らず、少なくない時間をかけて、読み書きを完璧にマスターし、彼女は写本の仕事を手に入れた。
写本というのは本を書き写す仕事だが、読み書きができること、文字がきれいであることなどが求められる知的作業だ。……そして、図書室への出入りも許可される。
ユリアは夢中になって「本」を貪り読んだ。彼女は特に神話や物語が大のお気に入りだった。ここではない世界で、王子さまと王女さまが出会って、恋をする。うっとりとするような表現がまるで織物のように積み重ねられ、閉じた時、惚けたような時間を過ごす。
同僚の修道女たちもその光景を微笑ましく見守っていた。
「ユリアは本の虫ね」
ユリアは「本」を求めても拒否されない女子修道院が好きだった。神への祈りも嫌いではないので、修道女も天職だとさえ思っている。
でも——。
修道女になってから一度も行かなかった街の祭典に、今年に限って来ようとどうして思ったのか。
確かに修道女としても半日はめを外せる貴重な機会だった。皆仮面をかぶってしまうし、髪を隠すために深くフードを被ってしまえば、誰も修道女だなんてわからない。別段、ユリアのいる修道院は規律に厳しいわけでもなく、毎年、何人かの修道女たちが連れだって出かけていく。ユリアだって、毎年誘われていたのに断っていたはずだ。どうして、今年だけ……。
まるで魔が差したように、彼女はふらりと仮面をかぶって祭りに埋没した。
今宵は無礼講だ。乞食も商人も貴族も、兵士も職人も……聖職者も。踊って、飲み、食う。
浮き足立っている街の中を、うるさいな、嫌だな、と早くも後悔しつつも歩いていく。
冬の神がくくりつけられた柱に辿りついたとき、舞踏用の音楽が始まった。
唐突に大きな手が差し伸べられた。相手はわからない。相手もまた、木の精霊を模した変な仮面をかぶっていたから。
「……よかったら」
くぐもった声が、しん、と静まり返った中で響いた気がした。もちろん錯覚である。
周囲は皆踊っていた。踊っていなければ目立つ。
ユリアは意を決して手を取った。抱き寄せられる。
軽快な音楽に合わせて、踊った。息があがる。……楽しい。
仮面の下のユリアはいつしか笑っていた。相手もきっと笑っていることだろう。
そして、曲が一端中断され、祭りのメインイベントとして、冬の神を模した藁人形が燃え上がっていく。その熱がユリアにも届くようだった。一時、踊りの相手を忘れていたユリアが、
「ユリア……」
確かに彼女の名前を呼び、仮面を外した彼の素顔を見てしまった。数年たっても見間違うはずがない。声には出なかったものの、口の形ははっきりと紡いだ。コンラート、と。
しかし、実際は相手には見えなかったはずなのだ。ユリアは仮面をつけたままだったのだから。彼女は懸命に自分を立て直そうと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
「わ、わたしは、ユリアではありません……」
震えそうなその言葉をつっかえつっかえどうにか言って、
「さよなら……」
幼馴染から逃亡した。