クレオパトラの母
フジ美は52歳を目前にして余命宣告を受けた。
その日から一週間は食事もノドを通らず、布団に入っても自分の運命を受け入れられず、ひたすら唇をかんで泣き続けた。
フジ美には友人がいない。それはフジ美自身のせいである。
彼女はいつもカリカリと他人の間違いを指摘し、どんなささいな主張の違いにも食ってかかった。本当にどうでもいいことでも、である。相手が冷静に、かつ論理的に話すほど、彼女はヒステリックに叫び、内容はどんどん本題から外れていった。
最後には相手の容姿、生い立ち、服装を罵ることで、相手を激怒させるか泣かせるかしてフジ美は孤立した。
フジ美には家族がなかった。それはフジ美自身のせいである。
彼女はいつもイライラと、他人の持ち物と自分のそれを比べ続けた。だれだれちゃんが誕生日に何をもらったから始まり、夫の収入、両親の職業、娘の成績、さらには飼い猫の購入価格までもである。
よその家と比較し、劣ることが何よりも耐えられず、その怒りは常に家庭に向けられた。自分は他者よりもみじめな境遇にある、いわば被害者であり、それは家族の怠慢が原因だと信じていた。
だから食事中といわず来客中といわず、それを大声で訴え、誹謗し続けた。
最終的にフジ美は、両親、兄弟、親類から絶縁された。さらにはこの一件を、夫の甲斐性の無さゆえと近所中に触れ回ったことで、ついに堪忍袋の緒が切れた夫からも離婚をつきつけられた。
フジ美の最大の被害者は、なんといっても娘の玖麗緒心良であろう。
フジ美にとって娘は自らの分身そのものであり、永遠の所有物のはずだった。だからこそ女王の名がふさわしく、また受けるべき待遇も、女王のそれでなくてはならなかった。
ゆえに幼稚園の劇の配役はもちろん、進学、友達作り、習い事にいたるまで、フジ美の決定こそが絶対であり、玖麗緒心良が主役級のあつかいを受けぬときはかならず激高した。
玖麗緒心良が17歳にして家を飛び出し、その後、音信不通となったのは、なんといっても高2のPTA総会が決定的であった。100人を超える教師、父兄らの集った体育館で、フジ美は玖麗緒心良の写真入りのビラを撒いたのである。
「うちの玖麗緒心良ちゃんの顔を見てください!
利発で優秀で愛嬌があって、クラスの誰からも愛されているんです。
ただひとり、あの男を除いては!
あの男です!
壇上の一番右のメガネの……
お前じゃああああああああああああああああああああああ!
どこみとるんじゃあああああああああああああああ!
なんでうちのコが平泉女子の推薦から洩れなあかんのんじゃああああああ!
お前が玖麗緒心良ちゃんの成績になんかしたんだろうがああああ!」
フジ美は、体育館の鉄扉を揺らすほどの大絶叫で、担任教諭を非難した。
その場にいた人々はフジ美の迫力に圧倒され、止めることなどできなかった。誰もが少しでもフジ美から離れようと席を移動したため、彼女の周り3メートルは空席だらけとなった。
いや一席だけ、彼女の真後ろのパイプ椅子に老人がひとり座っていた。彼は落ち着いた声で、体育館中に聞こえるように言った。
「クレオパトラってなに? 飼い犬のはなし?」
そのあとの有り様は、とても全容を記載できない。
キエエエエエエ! と豚の断末魔のごとき絶叫をあげたフジ美は、手に持っていたビラの紙束で老人をメッタ打ちにしてしまった。
そして鬼の形相で壇上をにらむと、全部お前が悪いと吠えながら、半分腰を抜かした担任教師のもとまで父兄をなぎ倒しながら突撃した。壇上に近づいたところでようやく、柔道部顧問の若い教師に抑え込まれたものの、その抵抗たるやすさまじいものだった。パトカーが到着するまでの間、2年D組のヨシカワ玖麗緒心良への差別をやめろとわめき続けた。この事件がきっかけとなり、親族との絶縁となるのだが、かわいそうなのは娘である。
このとき、玖麗緒心良はソフトボール部の遠征のため校内にはおらず、その日の夕方チームメイトとともに学校に戻ったところ、母のしでかした一部始終を校長から聞かされ泣き崩れた。
「ぎゃああああん! 死にたいよう!
もう生きていたくないよう! 死にたいよう!
もう学校にいられないよお! 死にたいよう!」
その通りだった。
クラスメイトからもチームメイトからも、教師からも、玖麗緒心良への接し方は、絶望的に変わってしまう。
全員が敬語で話しかけるようになったのだ。先輩も、同級生も。
仲間はずれにしたら何されるかわからない。かといって機嫌を損ねたらえらいことだ。
だから極力かかわるな。
どうしてもとなったら下手に出ておけ。
怒らすな怒らすな……
それは、疫病神の鎮めかたと同じだった。
大魔神の怒りがこっちに来ませんように、くわばらくわばら……ああ、はやくどこかに行ってくれないかなあ。みんなが玖麗緒心良にむける敬語は、玖麗緒心良が長年、母に対してとってきた敬語と同じであった。
お母さんの怒りがこっちに来ませんように、くわばらくわばら……
玖麗緒心良が家出をしたのは、この日の晩のことである。
そして11年がたった。
フジ美は、ほかに誰もいない居間でひとりうずくまっていた。フジ美の人生において、こんなに静寂な1週間はなかったといっていい。こうしている間にも、病魔は徐々に体を蝕んでいる。そう考えると、動く元気さえ出てこなかった。
考えていたのは玖麗緒心良のことである。
娘に会いたい。
会ってどうしても聞きたい。
なぜ、私を捨てて出て行ったの?
それを聞けないうちは死んでも死にきれなかった。そう思うと、またフジ美は涙を流した。
だが娘の連絡先などわからない。連絡のつけようもない。
過去に「こっちから」離婚してやった夫ならば知っていたかもしれないが、その夫の連絡先も知らない。
もしかしたら、いまこの瞬間に娘が玄関をあけて帰ってくるのでは…………そんな奇跡を想像もしてみた。しかし離婚した際に住んでいた家は売却し、現在フジ美は、とある公団住宅に住んでいる。帰ってくるも何も、娘のほうもフジ美のところへ戻りようがない。当時使っていた携帯電話も、料金をめぐるクレームから解約してしまい、番号が変わっているために娘からかかってくるはずもない。
またフジ美は涙を流した。
「そうだわ……」
がば、とフジ美は立ち上がり、押入れをひっかきまわしてスプレー缶を探した。
何カ月か前に、フジ美が天ぷらそばの出前を注文したことがある。その到着が15分遅れたことにフジ美は逆上し、出前持ちの若者を1時間にわたってなじり続けた。あきれた出前持ちは代金を受け取らずに、衣もソバもブヨブヨになり果てた天ぷらそばを置いて帰っていった。そのソバ屋のシャッターに「ここで食うと死にます」と落書きをした、あのペンキのスプレー缶。
あった。
まだ十分に中身は残っている……
「玖麗緒心良……」
フジ美はスプレー缶を手提げかばんに入れると、夜が来るのを待って娘の通っていた高校へ出かけた。
……
…………
………………
では次のニュースです。
今朝、府内にあります高校の校舎に、スプレーで落書きがされているのを出勤してきた男性職員が発見しました。内容は、
「クレオパトラへ、実は母は余命わずかです。会いたくてたまりません。
あなたの誕生日、正午に、あなたが行くはずだった女子大学の正門前で待っています。
あなたが来ない場合、その正門にもこれと同じ文章を落書きします。
ただし、あなたの苗字と名前を、漢字で正しく書き加えて。
いまどんなお仕事をしているか知りませんが、落書き犯にされるとなると困るでしょう?
必ず来てください。母より」
という、非常に奇妙な文面です。これを受けて警察では、周辺の聞き込みを……
………………
…………
……
テレビから流れるニュースを聞いて、フジ美はうれしくなった。ああ、これで玖麗緒心良に会える。体の不調も、なんだか急に軽くなったような気がした。
そして玖麗緒心良の誕生日がきた。
フジ美は何年かぶりに外出用の装いをすると、化粧をし、娘へのプレゼントを持って平泉女子大学へ出かけた。
電車を乗り継ぎ1時間半。
駅を降りるとすぐにレンガ造りの風格ある建物が目に入った。娘が入学するはずだった、国内でも指折りのお嬢様大学。名門・名家の令嬢や、各県の成績・素行ともに認められた才媛のみが入れる難関、平泉女子大学である。
痛む胸をおさえつつ、フジ美が正門前に到着すると、なぜか人だかりができていた。
がやがやと大勢の学生や通行人が、正門の壁をながめているではないか。だが、人が多すぎて皆が何を見ているのか、フジ美にはまったくわからない。
「なにかしら?
まあいいわ。
それより玖麗緒心良はどこかしら。
もしかしたら、門の中のほうにいるのかもしれないわねえ……」
キョロキョロと娘の姿を探しながら、フジ美は門をくぐり、大学の敷地へと入っていく。
その数分後に、がやがやとテレビカメラを持った一団がワンボックスカーから降りてきた。
「ちょっと通してください、すいません。
壁の前を開けてください、列島テレビです、すいません。
あーこれだこれだ。カメラさん準備いい?
じゃ、始めようか。
現場のサカシタです、
今日、平泉女子大学の正門前に、落書きがされているのを通行人が発見しました。
先日、府内の高校でも同様の落書き事件が起きており、警察では関連を調べています。
今回、正門前に残された落書きですが、内容は
「はぁ?
だから?
吉川 玖麗緒心良 あらため ミウラ ナオコ(仮名)より。
吉川富士美へ」
という、やはり意味不明の文章です。
被害にあった大学では……」