第五話 ~出航~
えぇと、まずは最初に謝らせていただきます。三か月も更新に時間をかけてしまい大変申し訳ございませんでした。
アクセスカウンターからほぼ毎日特定の方々が更新の確認に来てくださっていたこと、毎週多くの方が拙作の更新を待っていてくださったこと、大変励みになりました。ここに感謝の意を述べさせていただきます。
実は第五話は八月の十五日、第四話の更新とほぼ同時に書き進めておりましたが明野と由佳の外出にまでどう持っていくか、や戦略特殊警察が襲撃するシーン、海崎准将がキレるシーンなど、私が納得するところまで持っていくのに時間がかかり九月中の更新を果たせませんでした。申し訳ございません。
第六話はすでに話の展開は決まっており、変に横道にそれることなく進められると思います。いよいよ終わりが見えてきましたが、これからも拙作『空想科学戦艦伊吹』はもちろん、これまでに書き上げた作品、連載途中の作品もよろしくお願いいたします。
『伊吹計画』が始動してから一カ月、超戦艦日本武尊とイージス戦艦大和改の改修は大幅に進んでいた。それと同時、第三十六女子前線艦艇科決戦艦隊の面々は世間一般と自分達との認識の祖語、その理解しがたい思考回路に辟易していた。
食堂に据え付けられたテレビから流れる女の声は基地で働く女性からの熱い敵意の視線に焼かれている。同性からも異性からも敵意を集める、不思議な魔力を持つ言葉だった。
『我々女性は生存権を認められていないんです!』
『ウンウン』
理屈の通らない言葉をその女が吐き出す度に観客席で見ている馬鹿そうな顔をした女性達が頷いていた。それが尚更彼女達の神経を逆なでさせた。
生存権が認められていないとは一体何という言い草か。何故厚顔無恥にもそんなことをテレビカメラの目の前で垂れていられるのか、まるで女性全員がそう思っているかのような言い草、いらつかない筈が無かった。
いつの間にか食堂内はテレビに映っている女性に対する誹謗中傷や罵倒で溢れかえっていた。
何故あの様に恥知らずなことを全国に向けて発信出来るのか、それが彼女達には理解出来ない考えだった。
――いや、理解したくないと言った方が正しいだろうか、少なくともああいう人間を作るために闘って来たわけではない。そして世の男性にはああいう女性ばかりに見られているのかもしれないと考えると憤懣やるかたなく、次第に声が大きくなっていくのは仕方のないことと言える。
「――何の騒ぎだ」
途端、水を打ったように食堂内が静まり返った。
人によっては高圧的とも取れる声の質、低めの声はその一般と比較して平均的な身体の何処から発されるのか、硬く噤まれた口は真一文字を描いていた。同じ女性からしてみても異質と言える女性、艦隊の指揮官である渡辺明野だった。
「お前達の言いたいことはよく分かる。私もあんな人間が発言力を増してきている現状には忸怩たるものがある――憤るというなら行動で示せ。ここでモニター越しの人間を罵倒するということはあの女と同類だと言っているような物だ」
悔しいことながら、明野の言うことはまさしくその通りだった。モニターの向こう側にいる人間を罵倒することは簡単だ。それはまさしくモニターの向こうでご高説垂れる女と全く同じ、いやモニターの向こう、こちらの意思が届かない場所に存在する人間に対して罵倒している分こちらの方が断然悪質だった。
面と面を合わせずに行われる罵倒にどんな意味があることか。名前が秘匿される匿名掲示板や海外のサーバーを経由して送られてくるメール越しに一体どれほどの力が込められることだろうか。
別に相手をこき下ろすなと言っているわけではない。ただ安全圏の中でだけ威勢よく、考慮もせず図々しく形ばかりの善意を垂れ流す、そういう卑怯者となってはいないか。
百姓を襲った熊を殺した猟友会の人間をこき下ろすマスメディア、生類憐みの令を復古するべきだと唱える見当違いの愛護論者、往来のど真ん中で爆弾テロを起こしたテロリストを釈放すべきだと声高に叫ぶ自称人権論者、被害者に対して加害者を許すべきだ、そうでなければ日本人ではないと脅す沙汰に無関係の部外者ども。
超高度文明化した現代、法や社会に護られ憲法で言論を保障され法によって統治された世界、覚悟無く口から人糞を垂れ流してはいないだろうか。そんな社会を、そんな人間を守るために戦ってきたわけではない。
今もなお虎視眈々と攻め入る隙を狙っている中国に韓国にロシア、属国にしてその技術を余すことなく吸い尽くそうと皮算用を立てるアメリカ。
国民の生命という財産を守るために戦っているというのに、その国民が自衛軍を、ましてや今も多くの男性が何かしら戦っている陸自や空自の人間を扱き下ろすなどあってはならないことであったし、そのうえ女性は人権を認められていないなどという戯言を真に受ける世論が信じられなかった。
そこに田口たちがやってきて、テレビに映る女性をにらみながら吐き出すように言った。
「なに、今に始まったことじゃない。平成の時代からああいう奴らは台所の天敵同様にうじゃうじゃ湧いてきては国会前や公共放送、ラジオ番組なんかで恥に恥を上塗った上にさらに傲慢の衣を着て叫んでいた。それでも我々はお国のために戦ってきたさ。それが命令であろうとなかろうと、祖国を悪く思える人間はおらなんだ」
「――同じ女として恥ずかしい限りだ」
その言葉を残して明野は食堂を抜けて足早に執務室に向けて歩き出した。その彼女を見送る様々な目。それはやはり言葉に出さないだけで彼女を信頼している目だったが、けれど星崎由佳を筆頭とした艦橋に詰めている少女達はをそれを不安そうに瞳を揺らしていた。
いつの間にか艦隊において彼女の一党独裁が当然と言った空気が流れていたが、今更になって考えてみればまともに彼女と会話をしたのは一体いつだっただろうか。少なくとも横浜を出港し駆逐艦艦隊から攻撃を受けて以来、自分達はあまりにも彼女との関係を希薄にしてはいなかっただろうか。それがいま彼女、渡辺明野一等海尉を独りにさせていた。コミュニケーションを取るのが苦手だと知っていながらだ。
星崎由佳は思う。このまま彼女にだけ期待や責任を押し付けるのは卑怯だ。我々も変革が必要なのではないだろうか。そう、目の前の田口徳太郎一等海佐やその副官、日本武尊の乗組員のように。
そうと決まれば、行動だけは早かった。明野の走り去った後を追いかけ星崎由佳二等海尉は執務室に急いだ。
□
渡辺明野は執務室でお茶を飲んでいた。あれから着いてきた由佳はばれないように後ろを尾行してやってきて、扉の前で耳を欹てている。
「――渡辺君は、なんかここに来る回数増えてないかい?」
「…………気のせいだと思います」
「――――まあいいか。それで君はまた何か相談があってきたんだよね?君がここに入り浸る時は大抵個人的な相談がある時だからね」
釘を刺すように言われた言葉に目線を泳がせる明野に由佳は驚いたような眼をしてからさほど時間をかけずに冷えた目をしながら明野の次の言葉に耳の全神経を集中させた。
心臓の鼓動が聞こえてくるような張り詰めた緊張感。ばれれば懲罰は免れないが、どうしても盗み聞かなくてはならないことが増えた。
星崎由佳、彼女にとってはそれほどまでに自分達は信用がないのかと耳を疑わずにはいられない。
相談事があるならば副官である彼女に言えば良いことであるし、そうでなければ他の親しい人間にぶちまければいいことだ。それすらなしに海上基地の指揮官であるとはいえ艦隊とほぼ無縁の人間に相談されるというのは怒りまでは湧かなくとも相応に不快な気にさせた。
コミュニケーションが苦手なのは先刻承知であるし部下があれだからまともに相談できないのも分かっている。けれど副官や艦橋に詰めている人員の誰にも告げずに赤の他人に頼られるのは嫌だった。
聞こうともしない自分を棚に上げて。
「――私はしっかりと艦隊の指揮官を演じられているのか、不安になってきたのです」
時が止まったかのような衝撃を受けた。
何故と言葉が口から漏れそうになった。
これまでも杜撰なところは多々あれど決してそんな弱音は吐いてこなかった。それをなぜ、大和が改修を受けた時に世話になっただけのただの基地司令官に。
彼女の中で悶々としたものが溜まるのは早かった。今からでも怒鳴り込んでその襟首を掴みたい衝動に駆られながらも、冷静な部分の彼女はそれを見て自分も他の乗組員と変わらないただの狂信者だということに気が付いていた。
彼女はあの鉄面皮の下で、何か自分たちでは思いも寄らない突飛なことを考えているに違いない。それが艦隊の中では常のことだった。
そうして彼女が何を考えているのか、何に悩んでいるのかも聞こうとはせずその鉄面皮の隙間に指を差し込むことをためらい黙殺していた。そんな烏合の衆に、誰が相談などしてくれよう物か。
ゆえにこれは必然だった。外に頼る宛があったということ。それはすなわち以前にもここに来ていたということ。それはいいようのない痛みとなって彼女のなかに降り注ぐ。
やがて重い沈黙を破るように加藤一佐は口を開いた。
「君はよくやっているんじゃないかな。あそこまで信頼を得られる指揮官はあまりいない。だから君は指揮官として正しいと、私は思うよ」
「――そう、ですか」
それは彼女からしても同様の意見だったが、しかし明野が聞いているのはそういう意味ではないとその気のない返事で分かってしまえた。それは加藤一佐も同じだったはずだ。
またいやな沈黙が部屋の中に流れたとき、不意に加藤一佐は声を上げた。
「――ここに詰めていてもしょうがない。適当に外で遊んできなさい。こう言ってはなんだけど、こんな陰気な場所に詰めているからストレスが溜まっちゃうんだ。頭を休めることも、たまには必要だよ……ということで、扉の向こうにいる君、入ってきなさい」
心臓が飛び跳ねるかと思った。比喩でも何でもなく、その表現以外には当てはまらない。ばれているなど露とも知らずに盗み聞いていたことが酷く滑稽に見えてくる。羞恥心でどうにかなってしまいそうだった。
いつから気がつかれていたのかわからなかったが、本来上官の執務室の中を盗み聞いていたとなると叛意を疑われてもおかしくない。どうしようもなく慌てふためきながらも、執務室に入室した。
「星崎君だったか、本来は謹慎か掃除と反省文提出と事情聴取のトリプルパンチだけど、罰の代わりに渡辺君と一緒に外で遊んできなさい。十万くらいあげれば足りるよね?」
「――失礼を承知でお聞きしますが、自衛軍のお金ではないですよね?」
「本当に失礼だね……私のポケットマネーだよ、安心しなさい。変装に関しては広報の女性自衛官、城崎一尉と遠藤一尉に頼んでくれ」
彼女、星崎由佳に金庫から出した十万を封筒に詰めて手渡すと、明野は加藤一佐に従うように星崎由佳の手を取った。
柔らかい小さな手の感触が星崎由佳の細くしなやかな手に絡まり、探るようなその手つきはそこはかとない背徳感を感じさせる。まるで秘密の逢瀬を楽しむ恋人同士のそれのようで、甘い刺激が由佳の背筋を這って行く。
別に彼女が同性愛者というわけではない。ただ何となくといったように警戒心もなく行われる明野の一挙動が艶めかし過ぎる、ただそれだけのことだったのだ。
城崎一尉と遠藤一尉に電話しているのだろう、研究途中の空中投影ディスプレイ越しで明野に目配せして退出を促すと、退出と同時に電話がつながった。その先は――
『こちら城崎、どうかしましたか司令?』
「遠藤君にも伝えておいてほしいんだけどね、渡辺明野君と星崎由佳君の変装の手伝いをしてほしいんだ。頼めるかい?」
『監視と護衛ですね?了解しました。つかず離れず、気付かれない距離から遂行します』
広報の女性自衛官など、そんなもの表向きに過ぎない。本来の彼女たちの任務とは諜報と護衛であり、彼女らが本気を出せばその姿かたちはおろか輪郭さえ変えることができるだろう。ゆえに彼女たちほど今回の頼みごとに適した人材はいなかった。
人道に悖る行為は当然控えさせているし、売春にも似た行為もまた厳禁である。そういう一切を許せない潔癖なところがあったが、だからこそ彼女、ないしは彼らからの信頼を得ることができたのだろう。
誰もなりたくて諜報部についたわけではない。したくもない相手としろと命令されるよりはよほど良かったし、人柄にしてもそれなりに信を置ける人物である。加藤一佐と城崎一尉の間にはただの基地司令と軍人というよりも大きなものがあった。
「悪いね、安倍総理の身辺調査を頼んでいる最中に――でも彼女たちは、阿倍政権が作った今の問題を片付けてくれる唯一の存在だから、失うわけにはいかない」
『――司令も人が悪いですね。倒すべきは山本英機ではなく内閣総理大臣だと教えて差し上げればよろしいのに』
「今の彼女たちに言ってもせん無いことさ。それよりもまずは目先の敵を倒してもらったほうが早い。どの道安倍政権はもう終わりさ。反国家思想者再教育場という名前の洗脳施設が公になっちゃったんだから」
恋人、と称するにはいささかその関係は奇異にすぎる。この二人を的確に表現するなら連れ合いと言ったほうが正しいのではないだろうか。その会話は、すでに司令官としてでも上官としてでもなく二人の人としての会話だった。
あともう一歩で、日本の膿を摘出できる段階なのだ。逃しはしないしみすみす彼女たちを殺させるような痴態は犯さない。
せめて子供たちに胸を張れるような、そんな未来を作りたい。いつの間にか薄汚れてしまったが、それはきっと今でも変わらない。
『あの一般人、古川芳野や鳥海神楽はいかがしますか?』
「火消しに大忙しの阿倍政権と潜航中の秘匿部隊はそっちに目を向ける暇もないだろうし――そうだねぇ……“玄武”でも雇っておけばいいんじゃないかな?」
『殺し屋を護衛に――ですか?』
「彼と彼女もまた、日本の今後には必要な子たちだ。望む望まないにかかわらずね。それに玄武だってすでにどういう状況かは把握している。二重の意味で監視には最適だ」
それだけの政治的価値が、そして今のどうしようもなく歪んでしまった世に投与できる劇薬が彼と彼女たちなのだ。
使えるものをすべて利用してでも守る。所詮世界は一度の革命によってなるものではない。こつこつとした変革が大きな変革になっていく。そのための先行的投資だと思えば何ら辛いことはない。
民主主義の名のもとに独裁を正当化しようなどおこがましい。それによってどれほどの子供たちが不幸になるのか、それを想像し創造できない政治家は無能どころの話ではなくまさしく滓という言葉が正しい。ゆえにそんな社会にとって、人類にとっての塵は早々に排除するべきなのだ。ほかならぬ子供たちのために、自分たちの未来のために。
『了解しました。玄武へのアポイントメントは他の諜報員に任せます』
「頼むよ。それと玄武には別の報酬を渡す代わりに――」
『――――了解しました。ですが本当によろしいので?殺し屋を信用してしまって』
「殺し屋も結局のところは商売だ。御上に告げるようなことさえしなければお互い不干渉。それがあの業界の掟だからね」
『ではそのように取り計らいます。それと……今夜は寝かしませんからね?』
「ふふっ、楽しみにしているよ――江美」
それを皮切りに、電話はツーという音とともに切られたことを教え、加藤一佐は緩慢な動作で空中投影ディスプレイのボタンを押して通話状態を切った。
第三十六女子前線艦艇科決戦艦隊が寄港して一か月、これまで帝國軍は眼を皿にして日本中を探していた。
それでもこの基地での秘密改修がばれなかったのは一重に二十重に情報統制が行き届いていたからだ。だが15日後の小学校の海上基地見学で、確実に帝國軍は動く。どのような手を使うかはわからないが、確実に一手を決めてくる。改修を急がせなければ、ここは孤立無援となり砂上の楼閣のごとく国家権力によって押しつぶされる。
それを防ぐためにも――
「整備主任、出来るだけ改修を急いでもらいたい。できるかな?」
『――次はないということですね?』
「あぁ。おそらく次で感付かれる。それに気がついた時には彼女たちを逃がすことすら困難を極めるだろう。その前に、打てる手は全て打ちたいんだ」
『――期限は?』
「二十日以内に」
『了解しました』
それを皮切りに通信が一方的に閉ざされたが、こちら側から頼みこんだことゆえにいちいち不満を覚えることもなく別のアドレスを入力して彼女たちに最も因縁のある人間を呼び出すことにした。
ある意味で彼こそ彼女たちの護衛にはふさわしい。その名前のとおり、主の寝首すら掻いてもらおう。それこそ安部内閣にとって一番の訃報となる。
調子づいて御国を守るためではなく他国を攻めるためだけの力を求めた愚かな政治家には一番似合いの終焉の序曲。他国を攻める力を作るということ、それは我が身を害される危険と常に隣合わせだということを教え込んでやらなければならないのだ。
「あぁ、君が“少佐”かい?実は頼みたいことがあってね――」
こうして日本に存在する最高峰、一騎当千の戦力は佐世保に集結しつつあった。
□
城崎一尉と遠藤一尉によって着せ変えられ、渡辺明野と星崎由佳は街に繰り出していた。なお明野本人の希望により加藤一佐の十万円は星崎由佳が管理している。
とはいっても、もともと米軍基地のあった佐世保の市街は、現在は自衛軍の海上基地が沖合にある関係上田舎の市街地といった風情であり、端的に言って閑散としている。
だが港から離れ、バスを利用して駅前あたりにまで出れば人通りはそれなりにあり、ゲームセンターや如何わしい匂いのするテナント、服屋や飲食店が軒を連ねてそれなりの活気を誇っている。これにはあまり外に出たことのない明野は勿論、上陸することがまれな星崎由佳も面喰らっていた。
「――どこ行きます?」
「とりあえず何か腹に詰めよう。加藤一佐のところでお茶菓子を食べ損ねた」
「目的そっちなんですね……ではあそこのバーガークイーンはいかがですか?産地偽装やら異物混入といった話も聞きませんし」
時間が昼を少し過ぎたあたりということもあって店舗に内包された人の姿は店員を除けばまばらといえた。あまり長居しなければ身バレすることはないだろうと考え、購入してすぐに店舗から出ると路地裏に回って表通りを見ながら食事をした。
あまりにも平和ボケしている。それが明野の感想だった。
自分たちが戦っている間も、世界は変わらずに回り続けている。それはきっといつの時代でも、どの場所でも同じなのだろう。総力戦体制のような異常事態に突入しなければ、きっと人々は自分たちが今戦争していることにさえ気がつかない。なぜなら、平和を与えられることに慣れ切ってしまったからだ。
言論、居住、集会結社、あらゆる権利を、今の日本人は与えられている。それはきっと一世紀も昔には当たり前ではなかったはずだ。それを今の人々はさぞ当たり前のように無思慮に無責任に行使している。
与えられることに慣れすぎて想像することを忘れてしまったのだろう。自身がいつか、小説よりも奇々怪々な死を遂げることだってあるということを知らずに、きっと明日はいつでも頭の上にやってくると愚直に信じて。
『我々は男性によって働く機会を奪われているのです!』
そして時に平和はそんな人々の心を蝕む。頭に蛆虫がわいてしまう。そうして腐った人間性と希薄な人間関係しか築くことが出来ない社会が形成されていく。
そんな社会の何所に至誠があるのだろうか?
人と人の関係が希薄になって生まれてくるのは孤児同然に親の庇護と愛を受けられなかった子供と、その歪みを正してくれる存在を得られずに体だけは老けていった子供が生まれる。
もしかすれば虐待され打ち捨てられることだってあるかもしれない。はたまた生存すら許されずに殺されてしまうかもしれない。それを端的に表すとしたらば、悲劇などという言葉で片付けてはいけないだろう。
それを端的に表すならば“退化”だろう。
進化とは学習し覚えそれを子々孫々に受け継いでいき、種族として発展していくこと。もっと言いかえれば、それは情緒という言葉に落ち着くだろう。
けれど代を重ねるごとに完熟しあとは腐っていくだけの現代社会、人間性が昭和や大正の時代の人間たちよりも劣っている。猥雑としてモノで溢れ返った現代、情緒という言葉を正しく聞く機会すら年々減ってきている。これを退化と言わずして何というのだろうか。
明野はいつの間にか食べきっていたハンバーガーの包みを、手が汚れるのも構わずに握りしめた。
帝國軍を否定できない。否定する材料がないのだ。確かに活動そのものは過激に過ぎるが、言っていることやっていること、それには多大な共感を示せるのだ。そうでもしなければ■■■■■■■■■■■■■■――
「――何をお考えかは分かりませんが、今日は楽しみましょう」
気がつけば星崎由佳はウェットティッシュでソースやケチャップで濡れた明野の手を拭っていた。
されるがままになりながらも、明野は星崎由佳の言ったことを反芻していた。
加藤一佐に言われたように陰気なこと、つまるところこういう頭の痛くなるような考え事ばかりをしているからだと言われた。そういうことばかりを考えていてはせっかくの外出を楽しむことも出来ない。
おそらく加藤一佐はそう言いたかったのだ。一般に息抜きと呼ばれる行動を就寝か食事のとき以外にとらない明野に。
実際問題、こうして明野の目の前で星崎由佳が甲斐甲斐しく世話を焼いている。何となく懐かしくて、くすぐったいその指先の感覚がいとおしく、言葉を発することなく明野は黙ってそれを見つめていた。
「終わりましたよ、艦長」
「――名か苗字か、好きなほうで呼んでいい」
「へ?」
「怪しまれないために必要なことだ……それに、楽しむのだろう?」
照れくさいような、そんな新鮮な気もしながら星崎由佳に微笑みかけると、先程までの陰鬱とした考え事は脇に除けられるような気がして、素直に外出を楽しもうという気にさせた。
佐世保の市街地は重要拠点ということもあってインフラ整備に余念はなく鉄道や軍事的貨物運搬用の路線、幹線道路や非常時の軍用道路などが広範囲に張り巡らされており、九州全体が一つの軍需工場の様相を呈している。
その関係から防衛にも余念はなく佐世保沖のメガフロートには航空機の離着陸用の滑走路が五本、竜胆や由良をはじめとした超大型補給艦や戦艦空母を五隻は停泊させられる特殊軍港が整備され、広報兼避難所兼最前線のメガフロートには直通の大型フェリーなどが備えられている。
これらを一般人にも開放するとともに、積極的に自衛軍への参画を薦める一環として一日乗車乗船無料券などがかなりお手ごろな値段で発券されている。
前置きが長くなったが、それらを利用することで佐世保のさらに中心地点までを一日の間乗り降り自由で公共交通機関を利用できるのもあり、観光客目線で見るならそこまで痛い出費はなく移動できた。
最初こそウィンドウショッピングを楽しもうとしていた二人だったが、やがて飽きると星崎由佳の先導のもとゲームセンターにやってきていた。
「よくわからん筺体が並んでいるが、これは何だ?」
3Dグラフィックを用いて線の多いロボットを忠実に再現したゲーム台を指さしながら、明野は不思議そうに星崎由佳に尋ねた。
ゲーム台には小さなレバーとボタンが五つほど。ある程度の行動ルーチンが決まっているのは明らかだったが、それよりも明野の目を引いたのは同年代の男女がたくさんあるゲームの筺体に打ち込んでいる姿だった。
家では兄の部屋にあった家庭用ゲーム機で遊ぶこともあり、彼らが打ち込むゲームがそれと同種のものであるのは理解できていたが、家庭用ゲーム機とではあまりにシルエットが違いすぎた。
技量が違うのは正直言ってどうでもいい。ロボットが瞬間移動したり瞬間移動したり瞬間移動するのも至極どうでもいいことであるが、あまりに自分の知る姿からかけ離れたそれはある種の興味を惹いた。
「アーケードゲームと呼ばれる大きなゲーム機みたいなものです。基本的には一回につき百円が主ですが、メーカーによっては二百円や三百円とる筺体もあります」
「ほぉ――あまり来たことがないのでわからないが、確か暁はあっちのCR聖戦士ダ●バインとか言うのがお勧めだと――」
感嘆したような素振りを見せる明野の姿に随分と世間、というよりは娯楽というものを知らないな、と星崎由佳はにべもなく思ったが、直後の明野の行動に焦らされることとなった。
パチンコ台が置いてある一帯に向けて歩き出そうとする明野、遠目から見てもわかるほどにいかつい人間が雁首つき合わせてパチンコに散財している姿が見えないのだろうかと思ったが、分かっていて行こうとする明野の姿に眉間のあたりが痛くなるのを感じた。
いくら兄がお勧めしているとはいっても自衛軍の士官がパチンコは駄目だろうと思ったのと、ここで留めなければ将来が不安だったというのもあり、明野の奇行を全力で留めにかかった。
「行っちゃ駄目ですよ?」
「何故だ?」
「如何にもなヤクザのおじさんがいっぱいいるじゃないですか」
「安心しろ、ヤクザは皆よき隣人だ」
「余計安心できなくなりました」
その後一万円分をアーケードゲームですった二人は、ゲームセンターを後にすると当て所もなく佐世保の市街を歩きまわった。
いくら学生といえど二人は紛れもなく自衛軍に所属しており、明野は論外だとしても星崎由佳も同様に自衛軍に所属するようになってからは時間に忙殺される日々を送るようになっており、浦島効果も相まってだんだんと遊びという行為から遠ざけていた。
社会人によくある暇になった途端に何をすればいいのか分からなくなるワーカホリックにも似たあの感覚。慣れない外出によってその倦怠感は倍増し、彼女たちから歩く気力を削いでいた。
つまるところ、休みを与えられたところで何をして過ごせばいいのかわからないという本末転倒としたものが、彼女たちの行動を狭めていた。
やがて住宅街と市街地の境にあるような公園にたどり着くと、どちらからともなくベンチに腰を下ろし、遊んで回っている子供たちに目を向けていた。
無邪気な笑顔はある種の邪気に溢れていると言うが、傍目に見れば何ともない、無垢で可愛らしい子供たち。微笑ましく男女仲好く遊んでいる姿に、明野の鉄の様な表情が小さく動いていた。
その横顔を眺めながら、星崎由佳は明野に問いを投げた。いや、この場合は詰問と言った方が正しいか、はぐらかすことは許さないと、その目が訴えている。
「何か悩みがあるのでしたら、相談に乗りますよ、艦長」
その勢いは一言一言かみしめる様な感じだと言うのに、けれども有無を言わさない迫力が備わり、まるで目の前の人物が普段知る人間とは別の人間ではないかと錯覚させる。
威圧感は言葉に乗り、明野の鼓膜を揺さぶる。
話せと強要されているかのようであり、瞠目しながらも明野は唇が震えるの自覚しながら話すか話すまいかを逡巡した。
自身のあり方に疑問を覚えていること、帝國軍の考え方に賛同する自分がいること。その全てを話すことは、彼女たちに対する裏切りになるのではないか。もしもそれで、今の居場所を失うくらいなら――
明野は恐れている。自身が折角作り上げたコミュニティが崩れ去ることを。それは自分を否定されることとほぼ同義だと思うからこそ。
故にその言葉はある種の鬼門だった。触れられたくない、自身の浅ましさを曝け出すことに対する抵抗感。ひとえにまともな交友関係を築き心を通わした経験のないこと、それが恐れとなって明野に襲いかかっていた。
「どんな事でも構いません。ここでの事を忘れろとおっしゃるならば忘れましょう。他言を禁じられるならば胸の内に留めましょう」
おいそれと人に話せる内容ではない。常ならばそのようにして交流を絶ってきたのだろうが、彼女、星崎由佳はそんな明野の逃げを許さない。この場で何としてでも聞き出そうと躍起になっている。
それだけ心配されているのだとしても、話した瞬間に何かが壊れてしまうのではと考えると、疑心暗鬼に陥りそうで、かつての幼い自分が顔を覗かせてしまいそうになるほど、心身が不協和音を立てている。
目の前が揺れているのではと錯覚する様な酩酊感は、けれど彼女の言葉を認識するほどにそれは増していくかの様で、話を打ち切るために立ち上がろうとして、声が掛った。
星崎由佳が明野の顔を自分の方に向けさせたのだ。目を合わせ、逃げることは許さないと、もう一度念を込めるかのように。
そうして掛けられる言葉の、何と恐ろしいことか。これでは、不義理を働いているのは自分の方ではないか。明野は段々と彼女に恐れにも似た感情を抱くようになった。
その先を言わないで欲しい、聞きたくないと耳にふたをしようとして、それでもその言葉は明野の心にすとんと落ちて来た。
「それとも私は……私たちはそれほどまでに頼りないですか?それほどまでに不甲斐ないですか?それほどまでに信用が置けないのですか?」
「――――――!」
今にも泣きそうな顔で訴えかけてくる彼女の瞳に嘘は無かった。目を逸らすことさえ不可能な、悲哀に満ちた魔力が彼女と明野の視線を一つに合わせて離さない。
彼女の紫紺の瞳に映る自分の、何と情けないことか。滑稽で、惨めで、それでいて気色悪い。自分の不幸に酔っているわけではなかった。けれど他人からはそう見えている。
星崎由佳、彼女が憤っている理由に、明野は気が着いた。いくら関係者とは言え、艦隊とはほぼ無縁の基地司令に相談をしたことだ。
副官に頼らず、知己であることをいいことに外部の人間に弱さをさらけ出していたこと、それその物が間違っていたのだと言うことにだ。
このまま彼女に何も相談しないでいる事は、それこそ逃げだろう。彼女にこんな顔をさせてまで逃げることの一体何処に至誠があるのだろうか。きっとないだろう。そうやって得た至誠はきっと何処かが歪んでいる。それは間違っている。
間違ったことを盾にとっても、間違いは間違いのまま、過ちは過ちのままにしかならない。
逃げた先に得る物は何も無い。ただ一つ得られるのは孤独だけ。孤独の将に、御山の大将に一体何が為せるのか。何も為せやしない。それを分かっていて何もしない人間が、一番罪深い。
要するに、これは自慰なのだ。自分の胸に留めておくべきだと勝手に判断して視野狭窄に陥るだけの、無意味な自慰。その自慰を重ねるたびに嘘が塗り重ねられていく、悪循環。
不意に田中徳太郎一佐の言葉が思い起こされた。
自分から踏み出さない限りは誰も理解してはくれない。
その通りだし、分かっているのなら話は早い。ぶちまけてしまえばいい。それで終わってしまう関係なら、それまでのことだったと言うこと。明野には開き直っているようにしか見えなかったが、時には開き直るのも、人としては当然なのかもしれない。
観念したように溜息をつくと、再び遊んでいる子供たちに目を向け、世間話でもする様に明野は語り始める。
「――最近考えるんだ。私は指揮官として正しいのだろうかとな」
「加藤一佐が仰られた様に、貴女は指揮官として正しいことをしてきました。それは間違いありません。事実、艦隊に死傷者は一人としていません。敵将もこちらに引き込みました。ほぼ無血で、です」
「違うんだ――私は本当は、艦長なんてやって良い様な人間ではないんだ。いつもいつもその場凌ぎで、もっといい方法がある筈だと言うのに……何も出来ないんだ」
明野は後悔していた。なんにもできない自分に、嫌気がさしていた。
これではまるで昔と変わらない。ただただ何も考えずひな鳥のように誰かの後ろをついて回っていたあのときと。
依存し、執着し、何も考えずに済む優しい牢獄を望んで、明野はそういう壊れた人間だった。壊れているが故に人肌の温もりを望み、一を与えられれば十を望み、十を与えられれば百を望んだ。それがなおさら離れられないと知ってなおも。
「今日出かけて、私は思ったんだ。こんな世界を守る価値はあるのだろうかと。私たちはこんな歪んだ世界を作るために闘って来たわけではないだろ?」
だからこそ、生きるということの素晴らしさを誰より知っているはずだった。我を持ちその我に従って生きることのできる素晴らしさを。
けれどこの現代社会、見ていて聞いていて飽き飽きしてくる。学歴のために大学に通い、やりたいことも将来への展望もなく惰性で生きることの何が人生か。
差別をなくそうと騒ぐものが、自分が一番差別をしていると気がつくこともなくあれもこれも差別だと騒ぎたて、何となくという薄弱な意志で便乗する愚者。女性の社会進出だのと騒ぎたて要らない法案を立てては潰していく政治家。気に食わない派閥だからと幼稚園児ですらわかる道理に悖る行為を平然と行える無知蒙昧。
社会全体が卑屈になり幼児化していた。
「だと言うのに、国民は何も知ろうとはせずのほほんと惰性で一日一日を無駄に生きている。動物愛護だの人権尊重だの、つまり人心が乱れているんだ」
平和になった社会は男尊女卑などの思想が廃れていくのは自明であった。やがて男女が平等に近づき社会的に身分を保障される人間が増えれば差別撤廃などの耳触りのいい言葉が飛び出てくるようになる。
それを鑑みて考えれば、帝國軍の主張というのは三分の二まで肯定的に見ることができる。田中徳太郎一佐の話を聞いて、今の社会の現実を見て、明野は思った。
そして何のために守ってきたのかが明野にはわからなくなった。
こんな不誠実な世を作り出すために日夜戦っていたわけではない。一般に平和と謳われるような、少なくとも明野自身のような存在を生み出さないために戦ってきた。そのいきつく先が塵溜めのような世界だとは認めたくなかった。
そうして考えれば、帝國軍の主張には納得がいく。筋はある程度通っている。方法が間違っているだけで、その平和を望む心には変わりはない。
「そう思うと、帝國軍の主張の方が正しいのではないかと、首を傾げたくなる。我々が守ろうとした国はこんな国だっただろうかと」
そこで言葉を切る。
度々感じてきた人心の乱れ、それを正そうとする働きそのものは確かに評価に値するのだろうが、方法が間違っている。だからと言ってそのすべてが間違っているとは言えない現状、己の在り方がひどく希薄化し存在意義が揺らいでいく。
女性の参画に反対するだけでなく、現在の社会に対するアンチテーゼ的な存在意義を持ち、差別を作ることによって社会を平等にする。
社会主義的かつ封建主義的考え方だが、確かに一人の君主によって、ないしは階層による格差があることによって大昔の国々は国としてのまとまりを保っていた。それと比較すれば、おそらく今の時代は平成の時代よりも国としてのまとまりが薄いのではないか。
少なくとも今の世の中、自主性のない現代人はそれこそナチ党の党首、アドルフ・ヒトラーのように民衆を引っ張り国を富ませてくれる存在を求めている。
その側面では正しいのかもしれなかったが、自立と自発を促すことこそ、今の社会に必要なのではないだろうか?
帝國軍を否定できない。否定する材料がないのだ。確かに活動そのものは過激に過ぎるが、言っていることやっていること、それには多大な共感を示せるのだ。
――そうでもしなければ誰も理解しようとはしないからだ。
一つ息を吐くと、明野は昔を思い出しながら星崎由佳に語って聞かせた。まるで算数の回答を親に聞こうとする子供のように、涙で揺れた瞳は彼女の瞳をまっすぐに射抜き、未了の魔法にかけ高のように釘づけにしてはなさなかった。
「――私は昔、3歳かその辺りから親や親類から酷い虐待を受けるようになったんだ。隙間風の酷い物置の狭い空間を寝床に、殴られ、蹴られ、人格を、人間であることを否定され、飯は五日に一回ほどだったか――それが十年近く続いた」
「…………」
「数えで十三になるとき、それまで姿を一度も見かけなかった兄が突然物置にやってきて扉を開いたんだ。ひどい栄養失調や他にも病気を何個か患っていてね、体はガリガリに痩せて、半年を特殊病棟で過ごした」
「――渡辺暁一佐は何をやっておられたのですか?そんなになるまで放置して、あの方がそんなことを許すとは到底……」
「――わからない。けれどそれが最初だった。抱きしめられたのも撫でられたのも、夜泣きした時に手を握ってくれたのも、私に何もかもを与えてくれたんだ」
答えは知っている。入学前夜に兄から告白された内容は今も頭の中に一寸の間違いもなく記憶されている。その上で、明野は兄を許した。
愛情をくれたのも手を握ってくれたのも抱きしめてくれたのも、夜泣きに眉一つ動かさずに必死の形相で慰めてくれたのも。自身の純潔を奪われてもいいと思うほどに、その甲斐甲斐しさは明野を救っていた。
ゆえに明野は実兄、暁を許すことができた。
「兄は第二十九海域強襲制圧艦隊の艦長に就任するはずだったのだが、出世の道を蹴って私の世話を焼いてくれてな、二年間も兄を拘束して、依存して、ひな鳥かカルガモみたいに兄の後ろを追いかけた」
要するに、依存していたのだ。明野は明野自身を守るためにすぐそばに存在する庇護者に依存した。心が壊れて幼いままで止まった彼女にはそうするしか生きる方法がなかった。
だがそれを止める人間が出てきた。
はた目から見れば異常なほどの懐き具合、少しでも他人が近付けば小鹿のように震える姿、庇護欲求がわかないはずがなかったが、あまりにも内面が幼すぎた。それではこの先の人生を生きていくことはできない。その姿を見れば誰しもがそう思うだろう程の危うさを秘め、だからこそ暁を連れ戻そうとした夜長契司をして余計な世話を焼かせた。
誰もが知る真理、誰もが自分と同じ時間を生きていけるわけではないこと。親はいつかいなくなるし兄弟や姉妹だって突然の事故で死ぬことだってあるだろう。ゆえに人は何時か死ぬことを知り生きることの意味を学ぼうとする。
「だが途中でそれでは駄目なのだと気がつけた。兄と一緒に出入りしていた夜長契司に言われたんだ。兄がこれから先同じ時間を生きるわけではないこと、私もいつかは大人にならなければいけないことを」
人はいつか老いて死んでいく。老いなくとも死んでいく。いつか死ぬのだということを知り、そして自立することを覚えさせる、それが彼女にとって一番必要なことだった。
十年間甘えられなかった分を甘やかし倒すのではなく、手近なところに死が転がっていることを教え自立と自発を促し一人になろうと生きていくことを、生命の連続性を途絶えさせず己の生きた証を残していくことこそ必要なことだということ。
その事実は彼女の中にすとんと落ちて波紋を起こすとバターを広げるように万遍無く染み渡り、やがて一人で立ち上がることを覚えさせた。
「やがて自分から率先して勉強するようになってね、碌に小学校にも通っていなかったから年を考えれば異常なほど無知だった。だが兄は根気良く付き合ってくれた。やがてそれに甲斐を見出すようになると兄と同じ道を目指すようになってな、話し方や一般常識などを教え込まれて、そうして入学した折に由佳、君に出会ったんだよ」
「私に――ですか?」
「あぁ――最初はいやいやくっ付いてくれていたが、だんだんと角が丸まって世話を焼いてくれるようになって……君のおかげで、今私はここにいられるんだ。いや、いろいろな人が助けてくれたおかげで、今ここにいることを許されている。だけれど、それでも悩むんだ。指揮官としてどうあるべきなのかを」
与えられるだけではなく己自身で考えること、そうやって生きてきたからこそ明野は今の世界の有り様に疑問を呈さずにはいられなかった。
今を生きている幸福を忘れ、生きていることを当たり前と感じ他者を平気で害することができる。やがては生きていることにも差別されないことにも平和を害されないことにも不満を抱き、耳触りのいいお為ごかしが流行するなど言語道断。
政治家が無能なのは今に始まったことではないし、平和になれば政治機構が腐っていくのは当然と言え、それに胡坐をかき変えようとする覚悟も持てないものが国政を批判する。
差別をなくそうと騒ぐ癖に差別化を図ろうとする熱病に侵された女性たち。それを半ば諦観の眼差しで見つめる男性たち。
そこに至誠はあるのだろうか?それが真に誠実であるのだろうか?
確かに加藤一佐の言うことは正しく、そして助けになった。もしもこの考えを、そこに至る筋道を整理できないままで出港することになっていれば、きっと明野は致命的な愚を犯していただろう。
「――きっと、答えなんてないんですよ」
ずしりと響いた言葉に遅れて明野の脳味噌は動きだした。
答えなんてない、とはどういう言い草か。そう思わずにはいられなかったが、三年間連れ添ってきた副官が、意味もなくそんなことを言うと思うほど明野も落ちぶれてはいなかった。はやる気持ちを抑えながら、明野は由佳の言葉を待つ。
最適な言葉を探すかのように逡巡する様子もなく、由佳は明野に視線を合わせながら云った。思いついたことをそのまま伝えるかのようで、けれどそれが一番最適な答えだという自信をもって明野に伝える。
それはきっと、それこそ彼女の求める答えだからこそ。
「この世に正しいことなんて、きっとないんです。艦長が、いいえ、明野さんが思ったこと為したことを私たちは正しいと信じていますが、人によっては正しくないというでしょう――きっと、そういうことなんです」
正しいことなんてない。正しい戦いなんてない。
どだい人間の思想を一つにまとめることは不可能だ。ゆえに正義などというものは存在せず、また悪徳と呼ばれるものもまた存在しない。
至誠とはきっと、そういう誰の中にもある主義や社会的道徳に反していないか、ただそれだけの意味しか持っていないのだろう。だからこそ、帝國軍に所属する人間はテロリストまがいのことも正義と信じ貫ける。
守りたいという志は、その至誠は何も違えてはいなかった。同じ志を持つからと言って道が重なるわけではない。いや、なまじ志が同じだからこそ一人一人が各々平和を思い描いて戦っている。正義や悪というのは、それを俯瞰する第三者がつける付属品に過ぎない。
ゆえに世界に答えは存在せず。きっと、そういうことなのだ。
青天の霹靂というべきか、明野は目の前にあったはずの単純な答えにしばし呆気にとられると、答えは分かっていながら、泣きそうな笑顔を浮かべて由佳に尋ねた。
「では私たちがやってきたことは――何だったんだ?
教えてくれ、由佳。
私は何回、こうやって懊悩すればいい?あと何回、こうやって迷子になればいいんだ?」
答えなんてはなから分かり切っている。いや、それこそ人間の最大の試練なのかもしれない。
誰も自分の戦いを、自分の答えを知ることはできない。だからこそそれに近づこうとする。それを探すために生きている。自分が一番納得できる結論にたどり着くために。
彼女たちの何所が一般と違うかと問われれば、その精神性だと誰もが口をそろえて言うだろう。生意気と取られかねない言動が多々あれど、彼女らは世間の波に流されることを嫌い中途半端な答えではなく自分自身、時には誰かの手を借りて立ち上がっている。
生きることのなんたるか、自身が何を知っていて何を知らないか、自分自身を知っているか。それに対してここまでの回答を出すことは、きっと今の世の中誰にでもできることではない。
故にこそ、きっと誰もが彼女らを羨む。彼女らの強さに。
「それを、探しに行くんじゃないですか。
誰だって、これが確固とした答えなんてわからないです。明野さんにそう尋ねられても、私の答えはきっと、明野さんの望む答えじゃないでしょう。だから、それを探しに行くんです。懊悩するなら懊悩した分だけ、迷子になれば迷子になった分だけ、きっと納得のいく答えが見つけられるはずですから」
生きることを学べ、死を忘れるな
Vivere disce, cogita mori.
私は何も知らないことを知っている
Scio me nihil scire.
あなた自身を知れ
Nosce te ipsum.
明野はその言葉に、これまでの問答の答えとしてラテン語の格言を思い出していた。
そのどれもが今の明野自身を示しているかのように滑稽で、そして明野は良き副官を、良き友人を手に入れられたと思った。それは星崎由佳も同様だったはずだ。
一日を外で過ごした両者を質問攻めという名のタコ殴りの洗礼が襲うのは余談だろう。
□
それから15日、超大和型戦艦伊吹は艦橋の組み付けと試験航行を除けばほぼ完成した状態となり出港の時は近かった。だが第三十六女子前線艦艇科決戦艦隊の面々は、最後の恩返しとばかりに近隣の小学校の社会科見学における広報をしていた。
本来は一般に開放されている工廠区画にはシャッターが下ろされバリケードとバリケードテープが張られ、良識のある大人ならば立ち入ることに抵抗感を与える。
しかし道から外れた場所の先、入口の方にバリケードもバリケードテープもあったはずだが、その一区画だけはシャッターが開かれ内部の様子を双子だろう姉弟に見せていた。
巨大、巨大すぎるほどに巨大。
大和型戦艦を上回るその巨躯は鈍い銀色を灯し、喫水線のあたりからは明確に黒い線によって裂けて、それは艦尾部にまで長く長く裂けている。
その線を形容するなら、口と言ったほうが正しいだろうか。張り裂けた唇の線のような無気味な模様を描き、それは甲板の真ん中を艦頭部から艦橋にまで伸びている。
まるで異形の怪物。その怪物にふさわしい51cm三連装砲三基九門と、前部二基のほぼ真ん中左右を囲むように二基の副砲、艦橋下に一基あり、同様に艦尾に配置された20cm三連装砲六基十八門、見た目だけならば電磁機銃に見えなくもない25mm機銃と10cm連装砲によって、もはや要塞の様相を呈し、後部甲板に据えられた30連多弾倉VLSや最新式の電探と遠目ではウェアラブルアーマーとは露見しにくい増加装甲。
まるで要塞の中に要塞が入っているかのような圧倒的圧迫感。その威圧感はまさしく戦艦の中の戦艦、超弩級戦艦の名にふさわしい。ドレッドノートは勿論ソヴィエツキー・ソユーズ、ビスマルクより圧倒的に巨大で威圧的で、男が好きそうな武骨さがあふれている。
だがまだそこには艦橋が設置されていない。
艦橋が収まるのだろう場所はぽっかりと穴があき、その外周をあの黒い線が奔っているだけ。それでも完成までに幾日もないのは明白であった。
命令どおりに、この写真を持ち帰らなければならない。命令は絶対でありそれこそ至上。それはもはや洗脳の領域であったが、彼らがそれに気がつくことはきっとない。なぜなら洗脳されている人間はそれに気がつくことが出来ないからだ。
そこに通りがかる一人分の足音。音からしてハイヒール、それもかなりそこの高いものと見て間違いなく、広報担当の士官の巡回ルートだということを知らせたが、すでに遅い。
「ちょっとボクたち?そこは関係者以外立ち入り禁止っ――!」
「「なぁに、お姉さん?」」
続くはずの言葉が口から出ない。入り組んだ道の先にあるとはいえ確かにバリケードとバリケードテープを張り防火シャッターを下ろしていたはずの区画が解放されている。
ミス、ということはないだろう。メガフロートを大雑把に区切っても十区画、そこをさらに区切れば優に百を超える区画すべては二十ある制御室から制御されており、担当士官から異常はないと報告されている。
つまるところ、今の状況そのものが異常。
開いているはずのない防火シャッター、子供とは思えないほど冷たいひとみで見下ろす子どもたち、目の前の全てが異常だった。
「ねぇ、ボクたち。ここで見たことは絶対に誰にも言わないでね?」
「「うん」」
「じゃあお姉さんも安心だなぁ――でもその前に、お友達とはぐれて迷子になっちゃだめでしょ?別の人を呼ぶからその人の案内に従ってお友達のところに帰ることよ?」
「「は~い」」
とにかく子供たちを捕まえておく必要ができた。あまり信じたくない話であるが、失速中のカルト団体がろくなことをやらないのは顕正会が起こした核融合発電所自爆未遂事件で明らかだった。子どもたちだって、信用できない。
けれど彼女の失態は、ただの子供と思って彼らから目を離したことだった。
耳にかけたインカムを操作して上官に繋ぐ間に子供たちは女性の死角を縫って区画の向こうに消えて行った。
この場で殺すことも考えていたかもしれなかったが、場を乱して痕跡を残すような愚を犯せばまず間違いなく身バレするのは確実だったために姉弟は足音を立てずに区画の陰になっている部分を縫って行く。何処ぞで身につけた技術は遺憾なく発揮されていた。
「子供たちがA一番区画の十三区画に――はい、おそらく帝國軍かと……って、あれ?さっきまで目の前にいたんですが……わかりました、申し訳ありません。見かけ次第捕獲します」
その後士官を百人動員しても子どもたちが基地内で見つかることはなかった。
□
暗い執務室、試験段階の空中投影ディスプレイには大量の写真が添付され執務机の上、頬杖をついている翁にそれを晒していた。
あの鉄の巨体が生まれ変わった、と言えば聞こえは良かったが、要するにパッチワークだ。日本武尊の艦体に大和改の艦橋を取り付けるだけのやっつけ仕事で、装備のほとんども鹵獲したものを流用しているに過ぎない。
近隣の小学校の基地見学と聞きつけ、それに乗じて情報を持ち帰らせたが無駄足だったようだ。
落胆すると同時に、これで男社会が復権されると考えると笑いが止まらなかった。
独裁者気取りの独裁主義一家の息子に利用される形となってはいるが、これで日本は正しい姿を取り戻すと考えれば瑣末なことに過ぎない。要するにどちらが支配者であるのか、というのさえ理解させられれば御することも容易いということ。
あの復讐を誓った日から男は死に物狂いで政治闘争を勝ち抜いていった。
仲の良かった友人を蹴落とし、気に入らない派閥のボンクラを暗殺し、解散総選挙では独裁主義一家を英雄のように囃し立て、時に対立派閥のリーダーの子供を誘拐して殺し、時には嗅ぎつけた警察に圧力をかけ、時には――
そうして数々の汚れ仕事をやってきて、ようやっとその成果が顕れる時が来た。日本を、いや世界を、偉大な雷火によって焼きつくさん。
偏差値教育に凝り固まった大学など燃やしてしまえ、人権尊重だの動物愛護だの謳う奴らなど燃やしてしまえ、女に人権をと騒ぐ愚昧どもを滅ぼしてやれ。跡形も残さず、殺菌するのだ――この山本英機が。
「その前に、君たちには褒美をやる約束だったな。どうにも年を取るといかん。ものを忘れやすくなってしまうでな」
一見して優しそうなその微笑みの先には傅き首を垂れる二人の子供。あの女性士官が出会った双子の姉弟だった。その瞳に映るものは何もなく、まるで人形のような虚無を感じさせる、薄ら寒い気配。
そう、帝國軍の諜報用の端末として利用するために、親に捨てられた子供たちを慈善事業という皮を被って拉致監禁し洗脳して調教した。
人格などは関係ない。そもそも間諜に自我など必要ない。ひたすらに機械であれ、ひたすらに任務を遂行するためだけの駒であれ。それ以外、貴様たちに存在する理由は必要ない。
古来より新たなことを成し遂げるには尊い犠牲が必要だった。医学の発展のため、死体を漁る芸術家もいれば生きた人間の脳味噌を開いた人間だっている。それが今回は子供だっただけ。何を戸惑う必要があることか。
そしてこともなげに翁、山本英機は言うのだろう
女に侵食された社会を、男が立て直すというのだ。これほど誇らしいことはないだろう。
「女に侵食された社会を、我々男が立て直すのだ。その犠牲の一柱となれることほど誇らしいことはないだろう?」
荒之皇の艦長、海崎 隼人准将が制止の声をかけようとするよりも前にそれは終わっていた。
子供たちの前に身を滑り込ませるよりも速く、とても老人とは思えない機敏な動作で執務机の二段目を開くと同時に黒光りするそれは翁の手に握られ、照星を合わせて二つ分、指の形に合わせて加工された樹脂の棒を引ききっていた。
防音加工が施された室内に確かに二発分の銃声が響いていた。それと同時に倒れる子供たちの矮躯。
やせ細った体はきっとろくに食事や休息を取ることすらできていなかったのだろうことを海崎准将にありありと見せつけていた。
虚ろな瞳の、窪んだ瞳孔よりももっと上、額から流れる赤くしたたり落ちるそれが、確実に死んだことを告げている。あれほど目をかけてきた命がこれほど簡単に、上官の無思慮な凶弾に倒れるなどと、見ていて到底信じられるものではなかった。
あの日、田中徳太郎一等海佐が海上自衛軍女性参画反対連盟、帝國軍を離脱してから海崎隼人はずっと考えていた。
すでに成人した大人や老害どもを一掃するだけならばともかく、なぜ未来を担うはずの子どもたちまでを犠牲にしなければならないのかと。それは第三十六女子前線艦艇科決戦艦隊の少女たちにも同様のことが言えた。
矛盾している。最初こそ確かに『女性の権利』とやらの部分否定から始まった寄り合い所帯だった。酒場で飲み明かしながら好き勝手言い合っていたあの頃はこうなるなどとは少しも考えていなかった。
女性や意味不明な主義主張を捲くし立てる人間どもを否定してよりよい未来を切り開こうとしただけだったはずが、その大義名分もすでに効力はないのではないだろうか。
すでに大義は失われ増長し、儘ならないことに対して否を申し好き勝手なことをやっているだけなのではないか、我々は。
田中徳太郎の離脱後、山本英機に不信感を抱いてから海崎隼人は視界を広くしようと挑んだ。そうすれば中からもっと良い状態に戻せるのではないかと考えたからだ。
結果的に、また絶望した。
内部から腐敗が進み、資金の横領着服は今のところ存在しなかったが、それも時間の問題だった。
海水面が上昇したことによって人が住めなくなった横浜市。大丸山のふもと近くまでが水没あるいは浸食され、閑散としたそこを帝國軍は軍事基地利用として大丸山を買収。そこにあんなものを建造してしまった。
多くの身元も分らない子供たちが集められ洗脳され、抵抗すれば拷問によって心を奪われる。こんなものが理想の国家なんぞ作れるはずがない。悲嘆に暮れかけたとき、海崎隼人の眼に、それは飛び込んできた。
足元で何をするでもなく地面を見つめていた双子。そんなもの、いくらでもその部屋に存在していたが、双子はお互いの手をつなぎ合っていた。
それは一縷の希望だった。まだ完全に屈したわけではないのだ。
こんな問題が片付いたら退職金を手に、自然豊かな田舎で寝たきりの母親や子供たちを養い、田畑を耕し、そういう真っ当な第二の人生を歩もうとした矢先、すでに子どもたちは事切れ、柔らかくも不思議と温かくさせてくれたその体温は冷え切っていた。
こんな、子供の幸せを願えないオトナの集まりの何所に至誠があるのだろうか。そんなもの、存在しない。こんなものは正義ではない。これぞまさしく大逆無道。これぞまさしく悪逆無道。
いつの間にか、海崎隼人自身も悪逆を至福とする彼らと同じケダモノ、ヒトデナシになっていた。
「――さて海崎君、首相官邸に電話を繋いで戦略特殊警察の動員を要請してくれたまえ。それとそのゴミの処分もお願いしよう」
ゴミ?ゴミと言ったのかあの男は。
海崎隼人の中で何かが弾けた気がした。
ふざけるな。大人の勝手な都合で自由を奪い人格を奪い心を奪い、与えられてしかるべき権利全てを剥奪された子供たちにかける言葉がそれなのか?
普段ならばここまで感情的になることもなかっただろう。感傷的になることさえもなかっただろう。だが現実を知った以上、もう知らぬ存ぜぬで通す気は起きなかった。海崎隼人は、とっくの昔に鬼となっていたのだ。あのとき、あの艦橋での会話から。子を守る鬼として。
「あんたには――」
「ん?なんだね。謂いたいことがあるならはっきり云いたまえ。そんなことでは安倍のドラ息子に――」
「あんたは――あんたはヒトデナシだ!子供を、しかもまだ小学生の子供を拉致して洗脳して、その挙句に殺したんだぞ?なにも思わないのかよ!?ただあんたの無思慮な命令を遂行してきただけだってのに、何で殺される必要があるってんだ!」
「――――――」
眼前の山本英機は、組んだ手で口元を隠しながら眼光だけは鋭く海崎隼人をにらみ、続きを促していた。盾突くのなら、弓を引くのならば相応の覚悟と信念を見せろと、そう言っているのだ。
言われずとも、そんなもの最初から海崎隼人には存在している。いや、この集まりそのものが意志薄弱に過ぎるだけなのだ。
それは確かに、山本英機の掲げる思想は正しいだろう。こんな意志薄弱として流されるだけの世の中だったら、いっそ作り直した方がよほどましというものだ。だがそれで今度はどうなる?
気に入らないやつを殺し、体制に反発する者を後ろから撃ち殺す独裁国家の誕生か?そんなものは御免こうむる。結局のところ、今の状態が一番イビツで、けれど一番安定しているのだろう。壊さなければ治らない世界ならば、壊す必要はない。殺す必要もない。一回の革命ではなく、手順を踏んで少しずつ世界を変えていくしか出来ないのだ。
子供を抱く手に力がこもる。
どうかこの無力な男に力を分けてくれ。
「あんたは前に云ったよな、正しい世界を作ると。男が女の無思慮な行動で経歴はもちろん社会的に傷つくことも、大層なこと云う割にやることやれない政治家どもを是正すると――その結果がこれかよ?だとしたら平成や昭和の時代、ソ連や大日本帝国のやっていたことと大差ないだろうが!
俺は降りる!もう付き合いきれない!」
「良いのかね?全てを失うことになるぞ」
「子供のことも考えられないで、目先の欲にばかり目が眩んだ大人になるよりはよっぽどましだ!」
子供たちの亡骸を抱えながら、執務室を後にしようと立ち上がった。
もう云うこともやることも終えた。この老害が素直に自分の言うことを聞き入れるなどと思ってもいないし、聞き入れさせることも不可能だ。
階級なんてもうどうでもいい。退職金が入らなくたって関係ない。やることは決まっていた。自分の責任の負える範囲内でなら、人間は自由に生きていくことができる。
だから人間、やろうと思えば何だって出来る。田中徳太郎が信じたものと同じ、可能性というものが人間にはあるのだから。
「好きにするといい。だがきっと後悔するぞ?我々が勝利し日本の新たな未来を築く間、君は田舎の山や林の中で田畑を耕し子供たちを育てるだけ、日本を育てることは今後一切不可能だ。それでも良いのならば、行くと良い」
「言われずとも……」
こういうときには潔い。高潔な紳士のような笑顔を湛えて見送る。まるで父親のように。こんな邪気あふれる笑顔に騙されていたのかと思えば泣けてくる。こんな狂った人間のために子供たちが犠牲になったのかと思えば。
だが最後に言っておくべき言葉はあった。ある意味で海崎隼人にとってはけじめなのだろう。言わなければ、きっと新しい道を踏み出すこともできないだろうから。
「あんたに一つ、礼を云うよ」
「ほぉ、何かね?」
「――あんたのおかげで、決定的に道を踏み外さずに済んだ。それだけだ」
ばたりと乱雑に閉じられたドアの向こうを窺い知ることは出来なかったが、けれど山本英機はその言葉にしばし呆然としていた。
そうとも、こんなことは間違っているとも。子供を殺す社会の何所に至誠があることか。けれどいつの時代であれ、改革には痛みを伴う。その痛みを減らすために今痛みを受けなければならない。身も蓋もなければ矛盾してすらいるが、革命とはそういうものだ。無血で為し得ることなど何一つとしてないからこそ、ここで血を流す必要があるのだ。
だがそれであっても海崎准将の言葉は山本英機の中に波紋を起こした。もう揺らがせることはないと決めた老人の、堅い巨木のような心の芯を揺らがせたのだ。礼には礼を持って返さなければ非礼にあたる。
「本来ならば事故に偽装して殺すところだが、君の勇敢さとその勇気に、そして私を揺らがせた二人目として、礼には礼で返させてもらうとしよう」
呟くと組んでいた手をほどき、拳銃を元の引き出しに戻すと穏やかな気持ちで電話をかける気にさせた。それもこれも、目の前で反論した二人の存在あってこそだろう。一人は田中徳太郎、もう一人は先ほど出て行った海崎隼人。二人してまったく同じ結論に行きつくとは――だからこそ面白い、若者というのは。
空中投影ディスプレイの操作画面から受話器のボタンを押すと、ある番号に電話をかけた。それは一部の者しか知らない特殊部隊のもので――
「あぁ、戦略特殊警察隊長の小此木君かね?さっきの命令は取り消しだ。裏切り者、海崎隼人の事故に偽装した暗殺を取り消す。彼が何人か子供を連れて行方をくらますだろうが、放っておいてやりなさい」
『よろしいんですかい?一般に帝國軍の存在がばれでもした日にゃ――』
「――彼のような誠実な人間こそ、私の守りたい人間だ。だが彼はきっとばらすようなことはしないだろう。退職金を片手に田舎で子供たちと穏やかに暮らす、それをわざわざ溝に捨てるほど、彼は愚かではないよ」
『――了解。じゃあ自分らはまた待機しますね』
それを皮切りに通信は終了し、監視カメラの映し出す映像に切り替わる。
海自の制服ではなく私服に着替えた彼が、二つ分の死体袋を車に詰め込み、三人ほどの子供たちを伴って海自の敷地から出ていくまで、山本英機はその姿をずっと見つめていた。
もう取り返しのつかないところまで計画は推移している。抜けるにはこれが最後のチャンスだった。その意味で、海崎隼人は非常に良いタイミングで抜けられたことになるだろう。その決断を、元上司として讃えよう。己の意思で決め、己の意思で行動する。君こそまさしく人間だ、と。
願わくば――
「願わくば、彼らのような人間がより一層増えてくれることを――」
翁の言葉は沈黙の中にかき消えた。
そして再び受話器のボタンを押すとある番号に電話をかけた。
「君が少佐かね?実は折り入って頼みたい用件があるんだ。聞いてくれるね?」
一人の老人の引き起こした凶行は、すでに取り返しつかない分岐点に差し掛かっていた。
□
小学校の社会科見学から五日後の早朝、佐世保メガフロートは警告音と銃声に包まれていた。
戦略特殊警察、通称『特警』が佐世保メガフロートに一斉攻撃を仕掛けたのだ。
佐世保メガフロート周辺海域には帝國軍の無人艦艇十隻が包囲し逃げ場をなくし、内部からは特殊部隊の強襲。これによって佐世保メガフロート内は混乱して――いなかった。
『繰り返す、三十六艦隊構成員は速やかに元の配置場所につくこと。一人の欠員も許さない。足を撃たれたものがいるなら肩を貸せ。辱め殺されようとする者がいるなら皆で取り囲め――最後まで生きることを諦めるな!』
基地司令官の執務室から、明野はメガフロートの職員、そして三十六艦隊の全てに声をかけていた。
一人の欠員も許さない。全員で生きて帰ると決めたのだから、最後まで全員を生き残らせる。諦めさせなどしない。それこそ明野が示すことのできる最大の正義だった。己の行うことに、もう迷いなどはしないと、明野はあの日に固く決意したのだ。今発揮しないで、何が指揮官か。
ゆえに日本国国防自衛軍国立防衛高等学校における第三十六女子前線艦艇科決戦艦隊の名を棄てた。この名こそ、今の艦隊にはふさわしい。
『現時刻を以て第三十六女子前線艦艇科決戦艦隊は国防自衛軍、ひいては日本国の国防という職務に復帰する!――総員、出港準備にかかれ!』
その声は間違いなく、屍を晒すかもしれなかった彼女たちを生かしていた。
指揮官の鼓舞によってメガフロート内の銃撃戦は苛烈を極め、次第に彼女たちが形勢を逆転させていく。
天井裏から進撃していた者は突如投げ込まれたスングレネードに目と耳を焼かれ、食堂では料理長らが調理器具で一人一人丁寧に拘束・制圧し、長い廊下での銃撃戦では退路をなくしスタンライフルで武器を無効化・降伏させ、工廠前では工兵達がスパナや金づちで応戦し一人も中に侵入させていない。
一人一人が一騎当千。指揮官としては夢物語なことしか言っていないが、そうでなければ明野ではない。その明野の無茶を叶えるためにも、生きて母港に帰るためにもここで死んでしまうわけにはいかない。名誉の戦死など願い下げだ。彼、彼女らが望むのはただ一つ。明野の命令を遂行し成功させること。そのためなら生きることくらい楽勝だった。
「それじゃあ明野君と由佳君、私の後ろについてきなさい。なぁに、私だって昔は海外のクレー射撃大会で毎年一位を取っていたんだ。的がクレーから人に代わるだけさ、心配はいらないよ」
「そ、そうですか。――では、ありがたくそのご厚意頂戴いたします」
「ククッ、たまに変な敬語はいるね。そこも明野君の可愛いところなんだが、っと言っている間に敵さんがお見えになったようだ。お嬢さん方、後ろに隠れていなさい」
轟音とともにラミネート加工された扉がC4爆弾で破られたのは同時だった。
煙とともに突入、よく訓練されているなら当然視界が遮られている瞬間を狙うはずだが、それを許さずに加藤三郎は両手に持つSAIGA-12を改造して8ゲージまでを利用可能にした魔改造散弾銃を一斉に発射した。
セミオートショットガンであるためにいちいち引き金を引く必要があったが、ポンプアクションやレバーアクションで余計な時間をかけるよりはよほど効率的という判断と、本人がトリガーフィーバーなのも相まって特警は地獄絵図の様相を呈して潰走。ゆったりとした足取りで工廠の区画へ向けて歩き出した。
このとき明野と由佳が思っていたことは完全に一致していた。加藤一佐に銃を握らせてはならない――怪しい笑顔で模擬フレシェット弾を乱射して死屍累々とした山を築きあげる中年男を表現するならそれ以外にはない。
その中年男の後ろほど安全なものはなく、一時間もしないうちにメガフロート内は全区画が制圧され気絶した特警は全員が拘束されていた。残存だけでも1000人を軽く超えるというのを中年男が、それも模擬フレシェット弾だけでである。これには戦略特殊警察の面々も戦意を喪失し降服者多数。工廠前で一塊にされた。
メガフロート内に異常がないことが確認されると三十六艦隊乗組員は出港準備に取り掛かり、メガフロート職員によって特警一人一人のドックタグが回収され、隊長と思しい人相の悪い男の前に明野が立っていた。
「貴様が、小此木 鶯だな」
「如何にも、お若い艦隊指揮官さんよ。戦略特殊警察鳳部隊隊長小此木鶯。――まぁ、アインザッツグルッペンみてえなもんだと言えば分かりやすいんじゃないですかね?」
要するに、暗殺部隊。相手が模擬弾を使用していたことから捕獲や防諜、諜報もその任務に入っているのだろうが、その任務の大多数は暗殺が占めているということだろうと明野は理解する。
だがそんな部隊を動かすには金のつながりと何より重要なのはそれを組織できる組織力。誰の目に触れることもなく特殊部隊を設置することができる存在となれば明野にも大体は予想できたが、本人の口から確認することにした。虚偽かどうかは度外視するとして。
「――誰の、誰からの命令だ」
「そいつぁお答えしかねますなぁ。答えられる範囲で答えるとしたら、あんたが想像しているよりもずっと上からの命令、って言ったところですかね」
「国か……」
「物分かりがいいようで。政治家もそんぐらい物分かりがよけりゃあ、ちっとはこの国もまともになったかもしれんとゆぅのに」
「――もう用はない。加藤一佐、申し訳ありませんが、しばらく彼らをお願いします」
毒づく男からこれ以上の協力の意思は見えない。協力しようにも子飼いである以上知らされていない情報の方が多いことは想定済みであり、狙ってきた経緯さえ理解できればそれで明野の目的としては十分だった。
ここで返答を強いるというのも一つの手ではあった。だがそんな事をしたところで知りもしない情報を聞き出そうと躍起になるよりは潔く引いた方が作戦行動を取るには最適だった、というだけだ。
付け加えるとするなら、加藤一佐たちの動きに使えるからという意味もある。
明野には何に使うかは全くわからなかったが、加藤一佐なりの考えがあるのだろうと考え深く突っ込んで聞こうとはしなかった。
明野は背中を向けて指揮を飛ばそうとした――ところに男、小此木鶯は今思い出したとばかりに声をかけた。
演技だというのは明野にも分かっていたが、その内容は至極真面目な内容だった。
明野が見るに、小此木という男はこの時点で戯れに嘘を云うような男ではない。飼い主には忠実であるが、一度負けを認めた以上己の寿命を不用意に縮めるようなことは絶対にやらない狡猾さがあった。
「――あぁ、そういえばタジキスタンのPMCにオペレーター業で参加していた古畑 智って男性、MIAらしいですぜ」
「……そうか」
「顔色一つ変えねえんですね――確か二年までは同期だったと聞いていたんですがね?」
「奴が選び、決めた道だ。ならば後悔などあるまい。問題は納得して逝ったか否かだ。個人的な意見であるが、おそらく奴は納得しているだろう。無用に悲しんだり泣いたりするのは奴に対する侮辱だ」
「へぇ、随分と信頼しているようで」
「東風谷 永次の友人だ。然らば婚約者の友人は私の友人も同然。信用するし信頼する。それだけだ」
「テロリスト認定されているんに、特殊部隊の長の言葉を信用するんですかい?」
「だからこそだ。今現在我々は確かにテロリストという扱いをされている。激昂して殺すことは簡単だろうが、一時の感情に流されて人死にを出すならば、私は最後まで闘う。貴様の言葉が本当であろうが嘘であろうが、確認する力がないのであれば信じるよりほかにない。それで騙されたのなら他の解決策を探せばいい。それが指揮官としての私の務めだ」
簡単に言ってのける。それが小此木の感想だった。
どこの指揮官も、そこまで割り切ってそこまで潔く、そしてそこまで愚直であれば陸海空で軋轢が生まれることもない。言ってしまえば前線勤務者としての答えであるが、小此木は明野に対して希望にも似た感情を覚えてしまった。
もしも――もしも本当にそれを貫けるのなら貫いて見せてほしい。本当にやりぬけるのなら、やりぬいて見せてほしい。
別に総理大臣はもちろん山本英機の考え方が悪いわけではないが、賛同しているわけでもない。それならこんなバカの考える世界とやらを見せてみてほしい。馬鹿すぎるのは考え物だが、馬鹿と分かっていて戦うやつのほうがよほど気持が好くものはない。
ソクラテス的なセリフ回しだが、頭いい風を装って報告書はもちろん論文の中身さえまともに読めないで堕落していく政治家よりも、中身を理解して共に考えてくれる指揮官のほうが百倍は有能だということだ。
「はっはは――。アンタ、バカって言われねえか?」
「言われるよ。だが愚かでいるわけではない。自分が無知であることを知らないほど愚かでもなければ頭が良いふりをしているような馬鹿でもない。自分がやるべきこと、為すべきことは理解している」
「――そうかい。言いたいことはそれだけだ。悪かったな、足ィ止めさせちまってよ」
「――――」
小此木にどう返そうかと悩む暇もなく物資搬入などの出航準備が整ったとインカム越しに告げられ、最後まで明野は振り向くことなく目の前の超戦艦『伊吹』のタラップを上って行った。
包囲されているならすべて退けるだけ。無人戦闘機がひしめき合っているならこちらも無人戦闘機で応戦する。戦い、そして勝つ。たとえ国賊というレッテルを剥がせずともやるべきだと、為すべきだと思ったことをやりぬくのみ。それをかなえてくれる乗員と副官がいる。何を恐れることがあろうか。
以前よりも一回り以上高くなったように感じられる艦橋から見える景色は壮観で、以前はモニターを監視する風だった戦闘艦橋や第一艦橋は立体投影ディスプレイや空中投影ディスプレイによって機器の簡略化・簡便化が図られた。
また、ミツヤ式国産イージスシステム『鵺汰之御鏡システム』によって国産iイルミネーターモドキやFCSなどと直結、ミサイル発射から主砲発射までのほぼすべての命令を砲術手と掌砲長などが設定、機械が追従する形をとっている。
これによって海上戦闘でありながら三次元戦闘を可能としており、潜水艦などとデータリンク、地形表示などを行い連携をとることが可能になっている。つまるところローレライ。
なれないシステムを訓練半ばの状態のまま出撃することになったため、戦闘海域を離脱後は一週間ほど訓練に充てなければならないかもしれないが、ここまで大幅に改装されて負けたなどとは加藤一佐はもちろん佐世保メガフロートの職員方に顔向けできない。勝たなくてはならない。それだけの期待を背負っているのだ。
「両舷微速、格納庫を出ると同時に正面に位置する敵艦に主砲斉射。敵の隊列が乱れるとともに全艦両舷全速、排他的経済水域を出ないよう注意しながら沖ノ鳥島を迂回して小笠原諸島沖に出て訓練を行う」
「了解!」
復唱された命令が各艦艇に伝わり全艦艇からの了解の合図とともに佐世保メガフロートの出入港口が開放される。
のちの教科書に佐世保沖海戦と乗せられるわずか一分で終了した戦闘の開始だった。
□
真昼の太陽の照りつけが激しい中、敵の無人艦隊は艦砲を佐世保メガフロートの各出入港口に向け応戦体制は整えられていたが、それよりも早くに飛来するものがあった。
可動式両翼に大量の取り外し式ミサイル弾倉を装備した異形の戦闘機。エンジンは直列超小型単純核融合炉を利用した次世代戦闘機開発計画によって形作られた現時点で最強の戦闘機。その速度は優にマッハ5に到達していた。
次世代戦闘機開発計画第一号機、対対消滅機関用振動弾頭搭載型超音速重爆撃戦闘機“ダインスレイブ”が見た目からは考えられない機動性で制空権を握り、そして戦闘空域に入ってからずっとCIWSの直撃を避けている。いや、CIWSが直撃を避けている。
パイロットである“少佐”の操縦技術が一歩抜きんでているとかそういったレベルの問題ではない。まさしく圧倒的。
この男はまさしく地獄そのものと言っていい。中国への報復攻撃の際には主要軍基地を単独全撃破の偉業を成し遂げ中国大陸を文字通りの火の海に沈め、アメリカ正規空母艦隊との戦闘時には航空機からの被弾ゼロで敵艦隊の半数以上を轟沈、ロシア艦隊に至っては頭から巡航焼夷ミサイルを被せて潰走させるなど、この男の関わった戦闘はすべて圧勝。
戦争という概念そのものが味方しているかのような出鱈目の塊であり、この男こそ戦争そのものの具現。敵がいるなら地の果て海の果てまで追いすがり、三千大千世界の悉くを燃やしつくしてしまう。悪魔とは、この男のことを言うのだろう。
「へっへへ、もう一足遅くてもよかったかな、なぁ八雲君?」
『伊吹の実力を確かめる意味でもそれでよかったかもしれませんが、いいんじゃないですかね?』
「ははは、ずいぶん毒されてきたじゃない?――いいぜ、そうゆう適当なのは大好物だ!」
『まぁ、慣れですよ。慣れ』
けれどコックピットの中では外の光景がうそのように和やかな会話が繰り広げられ、もしもこれを近くで聞く人間がいたならばまず間違いなく彼らの頭を疑っただろうことは想像に難くない。
それほどまでに異常。まるでなって当然とでも言うように目の前の光景をかけらほども気にしていない。乗組員が乗っていたならば、そういった言葉すら出されることなく会話は自然で、かつ不自然だった。
そう、あたりまえなのだ。
この男をして敵は殲滅するものであり、出動を要請された時点で結果はすでに決まっている。そういう戦闘勘と長年の戦闘論理が構築されており、だからこそ無駄なく効率的にそして最大効果の一点を狙った一撃によって作戦を成功させる。一撃必殺、一撃離脱の究極系であり、こういう男こそ戦争屋というのが相応しいだろう。
血を吸うまで鞘に戻らない。昔からそうだった。
この男も最初からこうだったわけではない。昔はごく平凡な少年時代を過ごして、やがては社会人になるのだろうと漠然と思い描いていたような凡庸な人間だった。
それが変わったのは、度重なる中国の領海侵犯によって痺れを切らした当時の政府が戦闘支援機や民間などから増員した歩兵大隊を持って海兵隊よろしく中国の港湾設備を強襲、破壊したことからだ。
いわゆる電撃戦と呼ばれるもので、そこにこの男は歩兵として参加していた。
苛烈なカラシニコフのばらまきは、戦場慣れしていない彼にはとても恐ろしく見えた。本来は機銃掃射などよりも動きの止まった兵一人一人を狙撃できる狙撃手が一番怖いことも知らない素人だった彼は手近な建物の陰に潜み手榴弾を手にしていた。
「――なんで、何でこんなことになっちまったんだよ。おれは、オレたちはただ普通に生きて居たかっただけだってのに……!」
「おい坊主!そんなところにいたらいい的だぞ!そこの物陰からあっちの物陰に移れ!早くしろ!」
「は、はい!」
言われたとおりに物陰から物陰へ、機銃掃射の合間をぬっての移動はひどく神経を衰弱させ正常な判断を奪っていく。
ここは死で満ち満ちている。先ほどまで中国軍なんて怖くないと言っていた同級生は上半身だけになって転がされ、正規の自衛隊以外の人員の中で生き残っているのはもしかしたら彼だけなのではないだろうか。
そもそもろくに訓練されていない民間人を戦闘に連れ込むなど下作中の下作。人手不足を補うためと言いながら、結局のところ正当に軍備を整えるお膳立てがほしいだけだ。
それから彼を含めた生き残りの一個連隊はゲリラ戦を展開、だんだんと揚陸艇の方向から離れざるを得なくなり、最初に糧食が尽きた。次に手榴弾を除く弾薬が底を尽きた。どこかもわからない省の洞窟で、生き残った人間数名での最後の晩餐、サバイバルをしながらのゲリラ戦は彼の中で何かを決定的に変えた。
戦闘がないときは食料を探し、時には食べられる野草を集め、集まらなければ虫やネズミだって食べた。とにかく腹を満たせるのであれば何でもよかった。
手に持っている銃は国産の三菱重工のものではなく中国人の大好きなAKやトカレフといった東側の銃。生き残るために鹵獲し、生き残るために死体だって漁り、生き残るために死体を干し肉にした。水は朝露が集められればそれだけで万歳三唱もので、ひどい時には血混じりの泥水を啜ったことだってある。
そうまでして生き残って、それでも彼が少なくともまだ一般的な思考を保っていられたのは一重に上官が生き残りサバイバルの仕方、ゲリラ戦の展開の仕方を教えてくれたからに他ならないだろう。
人は自分のほかに他人が一人でもいれば意識を保つことができるという論を証明して見せた。
やがて拠点である洞窟の場所が中国軍に割れて、決死の抵抗の末に生き残ったのは彼だけだった。
「なぁ、坊主――名前、もう一度教えてはくれねぇか……?」
「そんなことより少佐、傷口を手当てしますから」
「どの道……たすからねぇよ、この怪我じゃあ――それより、教えてくれよ」
「■■■ ■■■です。それがオレの、オレが親からもらった名前です」
「そうか……いい名前じゃねぇか――名は体を表すってなぁ、こういうこと言うんだろうよ」
息も絶え絶え、無駄と知りながら彼は止血の手を緩めなかった。絶対に助かる、絶対に助けると信じて一心不乱に止血を続ける。
血は止まらない。死が決定づけられた上官の体は、その温かな体温は少しずつ氷に近づいていくかのようで、もしか本当に凍っているのかもしれない。医学的知識に明るくない彼でもわかる事実、少佐は確実に死の断崖から足を踏み外そうとしていることだけだった。
「お前に最後の……命令だ」
「最後なんて言わないでください!生きて帰りましょう!生きて帰って、奥さんと娘さんに会うんでしょう!?」
「――聞き分けのないこと、いうなよぉ……本当に最後かもしれねぇんだからよ」
「――――――ぅっ……くっ!」
「命令だ……生きろ。生きて生きて生きて、生きて生きて生きて生きて――日本に帰るんだ」
「少佐を置いてなんて帰れません!絶対に、絶対に連れて帰ります!だから――」
「命令だっつったろ!――なぁ、頼むよ。俺がここまで生きてこれたのは、お前のおかげなんだよ。年下がいるから、格好悪いところ見せられねぇって――なぁ?……だから、お前だけは……絶対に、生きて帰るんだ…………ぞ――――」
「少佐?少佐!起きてください、少佐!」
迫撃砲の音が鳴りやみ、周囲を暗黒が支配し始めたころになって彼は決断した。ハエがたかり始めた少佐の体だけでも、何としても日本へ持ち帰ること。そのために――生き残るために――
彼は少佐の亡骸を食べた
もはや彼自身でさえ何を考えているかわからない。わかるのは少佐の体が日持ちしないことだけ。ならば日持ちする容器に詰め込めばいい。そうすれば、少佐の身体を日本に持ち帰ることができる。
濃い鉄のにおいと筋肉を千切って咀嚼し嚥下する音が洞窟を飛び出て森にまで響き渡る。
野生動物のそれよりもっと獰猛で、遠慮のない食事。中国軍はノイローゼを起こしその時ばかりは退却した。
やがて洞窟から出てきた彼は全身を血に濡れさせ目は充血し爪は所々剥がれた状態で発見され、銃を向ける人民解放軍兵士を嘲るように吠えた。
「なんだよ、トチ狂ってオトモダチにでもなりにきやがったかぁ?
ハッハハハハ……アハハ――アーーーーハハハハハッハ!」
カラシニコフとは別に手に入れたモーゼルC96クローンで、とても精神崩壊した狂人とは思わせないエイムを持って一個小隊を一網打尽にした。彼が戦争となったのはおそらくこのときからだろう。
そう、彼こそ戦争の具現。泥沼の中、汚泥を被ってでも上官の血肉を食らい尽くしてでも生き残り日本へ帰還した。それほどまでの苛烈な戦場を生き残った彼だからこそ、戦争の神は彼の頭上を照らしあげる。
『聞こえているかね、少佐』
「――中将ぉぉ、情報の秘匿は良くないなぁ、俺も入れてくれないと」
『――こちらに落ち度があったことは認めよう。だが――いや少し待ちたまえ、君は一体何をするつもりだね?』
「いやいや、ちょっとお手伝いをね!ナハハハッ!」
少佐、彼からしてみてもこの山本英機という中将は気に食わなかった。指揮能力は確かに問題なかったが、部下を洗脳し扇動するその考え方、未来への展望のないその場しのぎの勢いで動く短絡的思考、どれをとっても中国戦線を思い出してしまう。
役に立たない後方で怒鳴り散らすだけの指揮官、全く役に立たない戦術予報士。それによって与えられたもっとも死の近かった戦線。少なくとも国家を運営するには向かない人間だということは明白だった。
息をのむ音がウェアラブル端末とつなげられたインカムから聞こえ、少佐の嗜虐心を煽り満たしていく。
そうだ、それでいい。恐れろ、身勝手な為政者ども。これがお前たちが作り出した現実なのだということを国会の最奥、その頂上に位置するお前たちの心に刻み込め。それがお前たちに与えられた時間なのだ。懺悔という名の告解の時間だ。
『少佐、まさか君は最初から――』
今更気がついたところで遅い。出撃前のブリーフィングの時点ですでに見切りはつけた。篝火八雲が取られないよう今現在世界で一番安全なところに送り込んだ。
どうせ昇進にも興味はない。あの中国の戦線で決めたのだ。歩兵が無駄に死んでしまわないよう、空の魔王として世界中の空を席巻してやるのだと。あの戦線はそもそも空爆などの戦闘機による支援が薄かったからこそ起こったものである以上、最大限の勝利を掴むためにも、無駄な人死にを出さないためにもここまで上り詰めたのだから――後悔など一遍足りとてない。
ダインスレイブの両翼に存在するミサイルの弾倉の爆砕ボルトが弾け飛び、自由落下を始めた十本のミサイルは内部に取り付けられたセンサーの起動とともに姿勢制御スラスターを吹いて海面と水平になると、ミサイルの尾部、翼兼舵が細かく軌道修正、弾頭が振動を始めると一瞬ののちにそれぞれの艦艇の方向に向けて弾け飛んだ。
なぁ、見ているか少佐殿。オレは今こんなにも――
『いいんですか少佐?あれ大和型超弩級戦艦空母“信濃”ですよ』
「はははっそうだっけ!?でもまぁいいんじゃないの、あっちのオニャノコたちと一緒にいるほうが面白いって!――それに八雲君が乗ってるの、国産イージスシステム搭載型超大和型超弩級戦艦“伊吹”じゃない」
センチメンタルな思考など自分らしくない。切なく儚い考え事を忘れるように頭を振ると、ダインスレイブ用に特注された操縦桿を操作して三十六艦隊、彼が“オニャノコ”と呼ぶ彼女らのところに進路をとった。
『愚問でしたね――こっちのほうで渡辺明野艦長には話を通しますので、少佐は伊吹の直近の戦艦空母比叡にでも降りてください。それとしっかりと信号弾をあげてくださいね』
「了解了解、まあそうかっかしなさんな楽しい楽しいクルージングじゃないの」
『これをクルージングなんて言えるの、少佐ぐらいなものでしょうね。まあそれぐらいでもなければ生き残れなかったのは以前お聞きしましたが』
「そう辛気臭いこと言うなって!――それじゃあ交渉、頑張ってねぇ!」
ダインスレイブと呼ばれた凶鳥は高く羽音を響かせながら可動式ウィングを器用に使い、戦艦空母比叡に垂直着艦を果たして見せた。
未登場キャラクターを含めてキャラクターの数を数えたところ余裕で20人を超えましたwwまさか一話だけ登場して後はほとんど登場しない準モブキャラクター一人一人にまで名前を付けていたからだというのは気が付いていましたが、やっぱり名前がないと日常回におけるコミュニケーションシーンなどがつまりやすいと考えてのことだったのですが、失敗したかなぁと思っておりますww正直言って設定資料集でネタ混じりにキャラクター紹介文を書くのが面倒くさいです(爆笑)
というか伊吹出航したのに全然動いてないじゃん、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、操作系統が一新されたことから防御フィールドがあるとはいえ本格戦闘は時期尚早かと考え最初のプロットが二つに枝分かれしていた『少佐は死亡している、自分たちでどうにかするしかないルート』『少佐は実は生きている、加藤一佐の声かけでちょうどいいところに登場するルート』のうち後者のほうを採用することになりました。
さすがにご都合すぎるなぁと思ったのですが、まぁ一話と二話の時点では不殺生が徹底されていたしいいかと考え採用しました。
伊吹の艤装や艦体に施された黒い線というのは、鉄のラインバレルのファクターマウス(あの口裂け女みたいなやつ)をイメージしてくださると描写が楽になりますwwそしてこれで大体何が隠されているか予想がついた方、多分その予想であっていると思います。
ついでに、一応『空想科学世界』というくくりでシリーズも何個か考えていまして、“未来への懸け橋”はこれの前日譚に当たる設定となっています。玄武とか新しい名前をポンポン出してしまったので予想ができていたという方も中にはいらっしゃるかもしれませんが。
これからも今作はもちろんのこと、これまでに書き上げてきた作品もよろしくお願いします。
追記:
Twitterの募集にて当選しいただいた少佐のサムネ絵です。中々かっこよくて良いと思います。実は少佐だけは人物像は固まっていても容姿に関しては全く考えてこなかったキャラクターなので。ブログの方でも別の方から頂いた少佐の絵を投稿しております。