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幕間 ~就役~

 皆様ここまでお付き合い頂きありがとうございます。これにて空想科学戦艦伊吹は真に完結いたしました。興味を持って見て頂かれました皆様方に関しましては、そしてここまで読み進めて来た猛者の方々に多大な感謝を。

 いろいろと突っ込みどころ満載な作品でしたが、これまでお付き合いいただきまして誠にありがとうございます。そしてこれからも作者こと魔弾の射手をよろしくお願いいたします。

追記:訂正

 今回投稿したものが何故か保存前のデータだったことが確認できたため加筆訂正し、何故か走り書きのように途中途中虫食いのように不足していた描写を書き足しました。特に婚約者君がチョロQすぎて書いた本人のくせに笑ってました。

 第二次日中戦争より数十年の未来。

 日本国の支配者へと躍り出た安部修三は、自らが犯した政治的判断の事実を隠匿し、一家の叶えたかった悲願である、自衛隊の事実上の国軍化を推し進めた。

 既に国民の大半は観戦ムードとなり、新しい支配者の失脚の時を今か今かと待っていた。

 一方で、第二次日中戦争以降より制御化から離れつつある勢力、日本国と日本国国防自衛軍は、その圧倒的な技術力の侵略に向けられるだろう西洋列強の(戦争の)共通認識(常識)より、国際社会から多大な危機感と第三次大戦の匂いから、海外遠征、社会奉仕の一層の強化を義務付けられた。

 今や、日本国の通常兵器は大昔に空想と吐き捨てられた科学技術にとって代わり、かつて戦場を支配した諸外国の兵器は、対策の取りようのない未知の兵器に対する無意味な演習に使いつぶされる存在となっていた。


 大昭二十年 某月某日 帰化アメリカ人の日記より







 遥か遠くから遠雷のように聞こえてくる砲撃の音を肴に、男は海の向こうにいる彼女のことを想いながら、彼女の母親からお酌を受けていた。


「――――あのは、大丈夫かしら……暁やアナタがいなくて、寂しくて泣いてないかしら…………」

「大丈夫ですよ。他ならぬ、僕の可愛いお姫様ですから」


 いつか聞いた懺悔から、元はこの人も悪い人ではないのだろうと思えど、その言葉はどこか彼の神経を逆なでする。

 それすらも押し隠して、けれど彼女の身を案じているのは全く同じだからか、彼は無意識のうちにこの人に返事していた。それすら意味もないものだとしても。


 義母の声がまるでフェードアウトするかのように遠く響いていき、目の前はシャッターが下りてくるかのように暗くなっていく。外界への認識は脆くも崩れ去り、今感じられるのは埋没していく己の意識だけだ。

 戦争が開幕して、そろそろ一カ月は経とうとしている。一か月前の、あの晩に至るまでが走馬灯のように繰り返されていくのだ。他ならぬ、己の目の前で。


 意識はすでに近くもなく遠くもない過去に飛び、天寿全うしかけのブラウン管テレビのように途切れ途切れに映像を映し出す。

 数か月にも満たない交わりと、堅固に結ばれた絆がなせる業か、それともあの日の痛恨がよぎるからか――そんなもの、男にはどうでも良かった。ただ、一重にもう一度彼女に会いたかった。彼女の儚い笑顔を、憂いを含んだ横顔を、もう一度、もう一度見たかった。







 彼女を一目見たとき、なんだか変な娘だというのが感想の大半を占めていた。

 一般の女子と言うのは大体こういうものなのだろうかと訝しみながらも、その時は防大(※防衛大学)の試験時刻に間に合わせるために道を急いでいた。

 おそらく、その時からだった。彼女を意識し始めたのは。


 結果的に、受験には成功したが卒業単位が足らなかった。普段からの行いが悪かったということだろうか。ただそう悔やむ気持ちがある一方、別段それを大して気にしてはいなかった。

 所詮は頭が良いふりしたがっているだけの担任が、嫌がらせのつもりで単位を操作したのは火を見るより明らかだった。

 別に悪いことをしたわけじゃあない。校内喫煙していたわけでもなければボイコットやサボタージュしていたわけでもない。全授業、必修科目、特殊免許所得過程など全てを受けてきてそれなりの点数を出してはいた。ならば何故と思われるかもしれないが、簡単なことだった。

 奴は俺たちを馬鹿だと常々言っていた。猿や路端の石っころのように扱っていた。だから職員会議で赤っ恥掻かせてやっただけのこと、何も悪いことしちゃあいない。


 そのおかげもあって見事に留年、来年に再受験する流れとなり、不幸中の幸いだったのは担任だった奴がここ(防衛高校)から居なくなったことだろうか、兎に角その時俺はそれを心底から安堵していた。

 それからだったか、時たま心配してくれる様子の教師は居るが、証拠を掴めなかったのか通り過ぎても小声に謝る奴が多くて、そんなのに嫌気がさしてきた中で俺はまた彼女に出会った。初めて話す瞬間としてはおよそ最低な部類の、だ。


「――――――――――」

「ちょっとぉ、せっかくおばちゃんたちが作ってくれたお料理零すとか信じらんない」

「所詮は七光りってことよ、お家でも我儘放題だったんじゃない?」

「あり得る~!」


 女子が女子を取り囲んで、罵詈雑言を浴びせかけている瞬間だった。

 授業の一環として生徒だけでの遠征を行うこともあって、佐官候補しか着られないはずの女子用の白いブレザーと改造可のスカート――彼女の場合はパンツルックだった――を着用したそれは紛うことなき佐官候補生だった。

 純白の眩しく、その面立ちに秘められたる神秘性は一目で釘づけにさせるのには容易かった。他のものがその場に迷い込んでしまった鶏とするなら、彼女は林の端っこに一輪咲く百合の花のようで、その制服には、おそらく盆に乗っていたのだろう物が滅茶苦茶な具合にかかっていた。


 足元に落ちた盆、誰もが見て見ぬふりするそれは誰の目にも虐めと映るだろう。無論、俺もその一人だった。

 だが誰も何もやらない。あんな甲高い声で食事の邪魔はおろか虐めまで起こっているというのにだ。憤りにも似た感情が湧きあがり、それ・・が原因で留年を起こしているというのに、俺はまた余計なおせっかいをしてしまった。




 上官にボカスカ殴られて腫らした顔のまま、俺は彼女の後片付けを手伝っていた。

 あのあとあることないこと吹き込まれた上官は、俺から事情を聴くことなく殴ってきた。まぁ成績不振の生徒を集めて乱交パーティしていると専らの噂の上官兼任の教師だ。彼女たちもそれに参加していると考えれば、ありえないことでもないだろう。

 それよりも、すでにブレザーを脱ぎブラウス姿で片づけをしている彼女のほうを見ながら気になっていたことを言ってやった。


「なんであんな奴らにされるがままだったんだ?副官も連れずに……」

「――分からん」

「分からないってなぁ……」


 要領得ないにもほどがある。副官にしたってそうだ。確かにプライベートもあるだろうが、これは無いだろ。

 そういう俺の釈然としない顔から何を考えているのか悟ったのかは分からないが、床を拭いている手を止めて俺に目を合わせてきた。

 その瞳は深い思慮を持ち合わせていると思わせるある種の説得力があって、それは一部の老人の持つ炯眼けいがんのように俺の深くまでを見通されているかのような、そんな気味の悪さと同時にこの少女には全てが見透かされていると理解させた。


「そういうお前こそ、何故割って入った?自分が孤立するかも知れんのだぞ?」

「――さぁな。分からん」

「ほら見ろ――そういうものだよ。自分のことなのに、自分は分かったつもりでいても、自分が自分を分かり切ることなんて出来ない」


 兄の受け売りだがな、という彼女の言葉に『何だよそれ』と返しながら、その兄については良いこと言うやつだとも思っていた。

 なるほど。俺が俺らしくないことをやった以上、そして俺が俺らしくない行動の辻褄を合わせられないならそれは確かに言うとおりだろう。もともと正義感も強い方でもなし、チャランポランと生きてきたようなものだ。そういうものかと思えばそんなものかというのが感想だ。

 ただただ不快だった、というだけでは理由としては薄いだろう。そうだとしたら今頃俺は精神病院にいる。

 ではないとすれば――――

 答えが見えそうだというところで、俺はそれから目を逸らすために彼女に話題を振る。それに気がついてはいけない。あの糞ったれな母親の血を継ぐ俺は尚更と――。


「虐められてるんなら、教師に言えば良い。あんな奴らに好き勝手言われて、何とも思わなかったのか」

「――どう対応すれば良いか分からなかったんだ。こういうのは初めてではないが、以前は立ち向かう力がなかった。いや、今もそうか」


 自嘲する雰囲気の彼女に、焦点の定まらない瞳はいつかの俺を幻視させ、俺は一刻も早く立ち去りたいと本能が訴えているのに、理性のほうはそれに魅入られていた。


 深淵をのぞく時、自分もまた深淵に覗きこまれている。

Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.


 不意にいつか祖父が貸してくれたフリードリヒ・ニーチェの格言の一部が頭をよぎり、やがて魅入られていた意味が分かった。

 彼女もまた、似た嗅覚によって俺という存在を視認していたからだ。

 いつの間にか合わせられた瞳は、先ほどまでとは比べるべくもなくどこかを病んでいるのではと思わせる深くも昏い説得力があって、俺はそれから目を放すことが出来なくなった。

 なるほど、確かにこれは知っている人間でなければ相当に気持ち悪い物かもしれん。知っているが故に、彼女のそれを理解出来てしまって、お互いに魅入られていた。


「どうすればいいのか分からない。彼女たちは何を求めている?私は――確かに兄の力添えもあったが自分の力でここに入った。ここでの生活も、副官のおかげでどうにかなり立っている――負んぶに抱っこなんだ」


 勘違いされそうな言い回し。それは確かに兄貴の力で入学したと思われても仕方ないだろうが、佐官候補になれると言うことはそれにふさわしい力を持っていると言うことに他ならない。彼女は間違いなく、実力で入学したのだ。

 こうまでコミュニケーションの苦手な子が、これまで虐めにあって来た筈なのに、対処法を知らない?そんなふざけたことがあって堪るか。

 そう思う反面、その瞳の爛々たる深淵の輝きは雄弁に語るのだ。それが真実であると。


「なぁ、私はどうすれば良かったのだろうか――――」

「――――――――――」


 嘘をついているようには見えなくて……俺に投げかけられる彼女の問いに、ただ黙って答えるしか出来なかった。







 国家間における軍事力は、質と量と個体の代替性を第一の要件として、代替不能な個人にその戦力の殆どを依存することは厳に慎まれるべきである。

 第二次世界大戦(機械化の大津波)以降よりそれは各国家の共通認識となり、電気文明に依存し他を顧みることはなく、その結果として生まれたのがトライデントⅡを筆頭とする戦略核と自動戦闘補助イージスシステム、そして戦闘機である。

 代替不可能な個人ではなく機械が機械を制御し、代替可能な多数の凡人はそれらを整備運用するハードウェアとして極めて安定した戦力を約束する。

 上記こそ軍や国家、それを補助する企業にとって最大限望まれる最大のソリューションであり、事実としても『核の傘』や『国力と軍事力の優位性』や『戦勝国特権』と呼ばれる数々の連合軍にとって都合の良いそれらは2020年代に入るまでの大凡百年間、かりそめの平和を存続し続けた。

 物量()パワー(政治力)によって行われる戦争。多く海に沈みし戦艦たちにとって、大艦巨砲主義とは文字通り、奇跡の親戚にすぎなかったのである。

 いや、その筈だったのだ。


 大昭二十一年 某月某日 帰化アメリカ人の日記より







 突然の佐官の来訪に沸き立つ学校内で、校長どもと対面を終えたらしい渡辺暁一佐は『校内を案内しろ』と見え透いた呼び出しの口実を使い、気を良くした校長に背中を押されて、いつの間にか人払いの済まされた視聴覚室に連れ込まれてしまった。


「は、ぁ――お見合いでありますか……?」

「そうだ。まぁ別に無理強いするわけじゃあない。こっちにも準備ってもんがあるからな。猶予は、まぁざっと見積もって今日から数えて一週間ってところか。それまでに返事を聞かせてくれりゃあいいよ。ついでに、返答がない場合はイエスってとるからな」


 随分と横暴で、随分と急な話だと内心客観的に思いながらも、これでは脅しではないかと思いながら確認の意味合いを込めて聞き返した。

 異例の出世を果たした憧れの渡辺二佐が、まさかなぜこのような売春の仲介紛いのことを、と思わなくもなかったが、伝え聞く限りの人格とは大凡合致している。ある意味では噂通りの人格と言えなくもない。自己中心的で、ある種家族思いで、妹がどうであれ俺はこの結婚話に乗り気ではなかった。

 女はこりごりだと言うと遊んだ経験がある風に聞こえてしまうが、だがとにかく女は嫌いだった。権利権利と煩く、義務を果たそうとしない愚昧共の為に、何で俺が時間を割かなければいけないのか。それだったら俺は祖父の名誉回復の為に勉強する。


「独り身ってのは辛いぜぇ?特に防衛高校卒業したってなると世間の目ってのはかなり厳しいって聞くからなぁ…………彼女とかいんの?居ないんだったら卒業後に就職するにしたって一般の大学いくにしたって結構つらいぜ?」


 なるほど、確かに一般論で言えばそれは辛いだろう。一般に出るにしても出会いの少ない自衛軍に上がるにしたって、自分と苦労を分かち合える人間というのは欲しいと言うのが普通なのだろう――それは同僚で十分だろう?同級生でも十分に可能だろう?出会いが少ないのは確かだが、そんなにそういう付き合いをしたいのなら風俗や出会い系でも使えばいい。それを覚悟して来たのではないのなら、辞めてしまえ。

 自衛軍に好きで所属する癖に出会いが無いと言って騒ぐ女達と同レベルには落ちたくない。そんなことの為に国防の要職に就かれたくない。そんな体で、祖父の職場を汚されたくなかった。


「これじゃあなびかねぇか……」


 自分よりも圧倒的に身長の高い彼らに見られぬ様に顔を俯け、その下で渋面を作っていたせいで小さく呟かれた言葉は俺の耳を素通りしてしまった。

 超音波とか、蚊の鳴く様な、そういうにふさわしい声量のそれは副官の方に向かって放たれたようで、無言で頷く気配だけは伝わっていた。

 聞き返そうとした次の瞬間、渡辺明は壁に背を凭れて目を敢えて逸らす。独り言だと空嘯いて、司法取引を持ちかける裁判官か違法薬物の売人のように、それが誰にも、何者にも聞かれてはいけない内容なのだと理解させられ、俺もまたそのまま顔を俯ける。


「これは独り言だがよ、俺よりももっともっと上のやつのうち何人かは、ある生徒の卒業単位未修得を訝しんでるんだわ。どこの誰だか知らねぇが、まぁ運がなかったんだろうよ」


 それは俺だと言いだしたかった。情けない話だったが、理解してはいたし納得もしていたが祖父の顔に泥を塗る様な行為を恥じていた。誰にも言えなかった。

 いや、本来は自衛軍内部で揉み消さなければならない不祥事だ。運が無かったと言えば、確かに運が無かった。そう動かさせるに足る情報を流す誰かが情報を堰き止めていたと言うことがよくわかった。運が無いとは、言い得て妙か。

 本来だったら、今頃防衛大学で佐官への昇格試験を受けているところだったのだろう。エリート街道を突き進み、祖父が全て被ってくれた不名誉と汚名の数々を雪ぎたかった。社交の場で幾度も罵られた記憶から目を背けるためと理解していても、その機会は欲しかったのだ。それも、既に閉じられてしまったが。

 それにも拘らず渡辺暁は続ける。まるで祭囃子まつりばやしか巫女が祝詞を捧げる瞬間のような不思議な心地よさを伴い、俺の耳目を震わせるのだ。目を合わせてはならないが、聞き逃すことは許さないと言うように、耳が聞こうとしなくとも脳味噌の奥まで迫り、それを刻みこんで行く。いつか助けた彼女とは別のカリスマの様な物が感じられ、佐官とはこういう物かと漠然と理解していた。


「んで、とある海上自衛軍大将閣下からも頼まれててなぁ、どうにもこの学校おかしいことだらけだ。周辺住民に聞けば、買い物帰りに通りがかりゃあとっくに閉校時間過ぎてるってのに女の声が聞こえるっつぅし、なんだかどこぞの馬の骨とも知れん男らが出入りしとるとも聞くし、しまいにゃあ単位操作の疑いあり。どっからどう見てもおかしいことだらけだろ?――――もしかしたら九月をまたねぇで卒業させられるかもしれねぇんダわ」

「受けさせて頂きます!」


 疑われた所で何になる。証拠が無ければどうにもならない。仮に彼の妹と見合いをしたとして、どうしてくれると言う。どの道一年経たねばどうにもならない。そんな物掘り出されて今更何になると言うのが感想のほとんどを占めているが、だが次の言葉は予想外だった。

 一年かかる所が九月を待たずして、それを行うと言うことは事実その物をもみ消すと言うことに他ならない。経歴上は・・・・正当に・・・卒業した扱い・・・・・・になると言うことだ。

 いいだろう。乗ってやる。そして俺がそうされた様に、俺も同じようにしてやる。後で後悔されても、俺は知らん。


「そうかい。じゃぁ、これが俺のアドレスだ。見合いの日付が決まったら俺のほうから伝える。お前さんは座して待っとけ」


 にやりと笑う姿の良く似合うこと、その姿はまるでいたずらに成功した悪童のようでいて、だが同時に憎めない愛嬌も持ち合わせ、その上で彼は人を引っ張るのだろう。それはさながら馬小屋から荒々しい馬を引っ張るかのように。

 それがこの男の人徳であり、この男の特徴であり、この男をこの男たらしめるこの男の重大な要素なのだ。

 俺は渡辺暁の後ろを歩きながらそう悟った。







 第二次日中戦争の汚辱は雪がれた。中国軍の戦列艦艇の多くを葬り、自国の技術的優位性、戦争理由の正当性を主張した。

 世界で誰が告げるまでもなく優れた小さく巨大な国と、世界で二番目に大きく小さな国との小競り合いはただ一方だけが生き残って終わり、中国軍は戦力の大半を削ぎ取られる結果に終わった。

 日本国は安定期に入った。無言のうちに誰もがそう考え、各国家は来るべき『日本国による国家の侵略』という事実上の第三次世界大戦に備え始めた。

 だがまさにこの時、誇大妄想狂の計画は動き始めていたのだ。


 大昭二十二年 五月末日 帰化アメリカ人の日記より







 元から女との関係なんて得意な方ではない。それは俺の両親のせいと言えなくもない。


 女ってのは単純にコミュニストで、ちょっとでも自分が不利な状況に立つことに耐えられない生き物だと、俺は勝手にそう思っている。実際そうだった。子供だったから分からなかったが、父と母の言い争いは今でも覚えている。

 父は特に変なところのない普通に大学を出て普通に就職したサラリーマンで、母は海上自衛軍、それも将官クラスの血縁らしく、お局様根性のしみついた女だった……らしい。父親談だ。

 特に父が浮気したわけでもなく、横領したわけでもない。母親が問題だった。

 父が単身赴任で留守にしている間、とっかえひっかえ父親でもない男を連れ込んでいた。でもまぁ、その男たちはまだいい方なのかもしれない。少なくとも子供に聞かせるようなものではないと、俺が寝付くのを待ってからコトに及ぶ程度には中途半端に優しい連中だった。


 ある時、父親が険しい顔をして帰ってきた。普段柔和な笑顔を崩さない父が母方の父、東郷さんというどこかで聞いたことのある人に俺の世話を任せて、分厚い封筒を母の目の前に叩きつけたところまでは覚えていた。そのあとは――東郷のおじさんが持参したらしい新品のゲーム機で共に遊んでいて、幼い俺はそれに釣られてしまっていた。

 今思えば、あれは興信所の調査報告書というやつだったのだろう。無論、母親の不義理を証明する、報告書だ。

 ゲームで遊んでいた傍ら、聞こえていた言葉は今でも覚えている。

 曰く『一度きりの関係のつもりだった。事実、彼らには金を握らせて手を切っている。調査報告書にもそう書いてある』

 曰く『単身赴任で留守がちで寂しかった』

 子供の俺にも分かる都合のいい責任転嫁だった。しまいには単身赴任する父親が悪いと言ったあたりから、東郷のおじさんの握るコントローラから軋みが聞こえてきた。生まれて初めて見る父親の怒号と剣幕も、母親が責任を逃れるために垂れ流し続ける嘘も、俺はそんなもの気にならず、みるみる影を濃くしていく東郷のおじさんのほうが気になっていた。


 父が何とか話をもとの路線に戻したあたりから東郷のおじさんのコントローラから軋みは次第に聞こえなくなっていき、けれど母は一度も聞いたことのない猫撫で声で訳の分からん物体を吐きかけた。


 曰く、『子供には母親がいなくてはならない。父親を辞めたいのなら好きにすればいいが、親権は自分の手に渡してもらう』などといった、到底浮気した側が提示しているとは思わせない条件だった。それはまるで浮気していた事実などなかったかのように。

 そのうえ、裁判になれば上流階級の家出身の私が必ず勝訴する。損をしないうちに貰える物は貰っておけばいい、とまで吐き捨てた。


 直後に響いた音に驚いたのは、それに一番恐れ慄いたのは間違いなく俺だろう。先ほどまで俺を抱えて、表面上は好々爺を装ってまで俺に聞かせんとしていたそれを、東郷のおじさんは他の人を呼び、俺は一端自分の部屋に連れられて黒服のガタイの良い男たちとまたゲームをすることになった。

 奇声と罵声と泣き声と、人の肌を打ちつける音が響き、幼くとも複雑なものなのだと理解し、黒服の男たちも敢えて気にならないよう話す度に声を張り上げて遊び相手となってくれた。


 後で聞かされた話だった。俺は父親とは全く血が繋がっていないのだという。父親の子種はすでに力尽きており、母親とは血が繋がっているが、父親はどこぞの馬の骨とも知れぬ輩だと。

 その時、俺はどこかが壊れたのだと思う。あの時東郷のおじさんが二つに割ったコントローラの片方、力任せにゴミ箱に捨てられ顔を覗かせていたあぶれ者。俺はこの世に居場所をなくした気がした。


 父親との関係がぎくしゃくして、元から口下手なのを知っていて俺は父親に『俺なんか生まれてこなければよかった』と吐き捨てていた。

 父は無言だった。それに何を想っているかなど分からなかった俺は、否定してくれると信じていた存在に裏切られたような気がして、本格的にこの世界は俺の敵なのだと思って逃げ出した。




 逃げて逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げた。




 父親の言い付けで、暗くなる前には帰宅することになっていた俺は、半ば帰巣本能に任せて東郷のおじさんがくれた広すぎる一軒家に帰宅した。もう一度父と話し合うために。母親とのことと踏ん切りをつけるためにも必要なことだと分かっていたから。


 父が首を吊っていた。乾いて異臭を放つ糞尿と唾液がもう数時間も前に父が死んでいたことを教えていた。

 その冷たさを信じられなかった俺は父を布団に寝かせて三日間、父が起きてくれないかと待っていた。あの無精髭の目立つメガネ姿で、妙に塩っこいチャーハンを作ってくれないかと。

 俺の名前を呼んで、自分の忙しいことも気にかけずに働いてくれた姿が好きだったことに後から気がついて、やがて異臭に気がついた隣の家のおばさんが警察を呼んだことで、亡骸との同居生活は終わりを告げた。



 やがて東郷のおじさん、祖父の下で厄介になると、何処かで聞きつけた血がどうちゃらと煩い老害どもハイエナが殊更に俺という存在を批判し、非難し、やがて俺はその責任の全てを出張姫と動画女優を掛け持ちして薬中になった母に転嫁した。

 父が死んだのも、俺がこんな状況なのも、全てあの女のせいだと思うことで心は一瞬だけ安らぎ、身体にかかる重力から一瞬だけ解き放たれる様な解放感が身を包み、やがて女その物を嫌うようになっていった。




「おい、どうしたんだ永次?」

「いや、何でもない――」

「?――変な奴だな……」


 それは俺の言葉だと思いながら、あの時の女子生徒らの言っていた『兄の七光り』とはこういうことだったのかと呆れ半分に理解した。確かに渡辺暁は嘘だけは・・・・吐いて・・・いなかった・・・・・事もあり、一概に騙されたとも言えない状況だ。

 妹とお見合いをしてほしいとは言われたが、とは言われていない。弁護士に依頼しても、誰かを聞かなかった俺の方に非があると判断されるだろう。


~数分前~


 あれから俺は平日にもかかわらず見合いの会場として指定された渡辺一家がよく訪れるというレストランにまでやってきて、正直見合いそっちのけで出されてくる料理に目移りし始めていた。

 男子寮の、男やもめのなか供される野獣味たっぷりの寮母ならぬ寮父の作る極道ヤクザ飯。勿論あっちも見た目の割にかなり美味いし毎日料理本片手に試行錯誤していることは公然の秘密だが、それに比べれば霞んでしまうほどのブランド力。金の亡者と自覚しつつも目の前の料理に目が釘付けになるのを必死でこらえていた。

 見合いを承諾すれば、俺はこの留年から解放されるという。婚約するしないは別問題として、たとえ婚約したとしてもすぐに解消すれば問題ない。そう思っていた俺は、直後にやってきた彼女の姿に目を奪われることになる。


 手首に巻かれた真新しい包帯を隠すようにリストバンドがされて、ちらりと垣間見える首筋の包帯はブラウスの襟に隠れていたが確かに俺はそれが見えていた。

 オシャレで少しばかり涼しげな印象を与えるブラウスと、下半身を覆うのは鮮やかと言い換えて良い趣味の黒いロングスカート。前々から粗野な言葉遣いの割に育ちは良さそうだと思っていたが、こういうカラクリかと己の至らなさにある種脱帽していた。


 あれ以来何かと話すことの増えた渡辺明野その人だった。


「おぉ東風谷君、今日はかなり洒落込んできたようじゃないか。色男っぷりに拍車がかかってるぜぇ」

「そういう渡辺一佐こそ、今日はいつになくラフな格好で――正直ここに来るまでに何度かすれ違ったDQNかと思ってしまいました」

「お、あいつらとすれ違ったのか?ダイジョーブダイジョーブ!あいつら見た目だけ厳ついだけで、地元のヤクザの部屋住みにもなれねぇでニートやってる様なヘタレどもだからよッ!」


 ハハハと快活に笑う姿に笑い事じゃないと言いたくなったが、見合いの場とはいえ上官であることには変わりなく、俺は激しくその能天気そうな頭をかち割りたい衝動を抑えた。

 泰然自若として、自衛軍の高官方(老害共)を相手に舌戦を繰り広げた揚句に辞職させたという噂まである、正直言って化け物のような人間だ。憧れでもあり、目指すべき目標(夢の先)でもある。

 渡辺という姓と兄という言葉からすぐに思い至らなかった事に後悔の念を覚えながらも、俺は少しめかし込んできたというのが分かる明野の方に目を向けた。

 正直普段からの印象があれだが、包帯を除いてもこういう姿を見るとまるで深層の令嬢のようでいて、あれだけ言っておいてなんだが、彼女から目を放せなくなってしまった。


 食事をしていても食事をしているという気分は無く、俺はいつになく――その包帯すらも美しい彼女に魅入られていた。

 十中八九自殺未遂リストカットだろう。それ以外にない。以前からもこのような物を付けていたのだろうか?疑問は次々とわき、けれどデリカシーに掛け過ぎた質問であることも容易に理解出来ているが故に声を掛けられず、只管ひたすら目の前の料理の味も分からぬままに掻きこんで行く。

 次第に出された料理が胃袋にその姿を隠し、やがて出てきた料理をほぼ完食すると渡辺一佐は俺の食いっぷりが気に入ったのか始終豪快に笑っていた。それも俺と渡辺一佐が完食すればお互いに話す事ってのは意外と少なく、やれ学校でのイメージはどうだとか、そういう他愛もない話題が次々と出て来ては過ぎ去っていく。

 だがそんな取り止めもない会話でも渡辺一佐の信用を得るには十分だったらしく、『後は若いもん同士でよろしくやれ』と言い残し、食事代を置いてレストランを後にしてしまい、俺は引き続きゆっくりと小さな口でいそいそと食事を続ける明野を眺めることにしていた。


「おい、どうしたんだ永次?」

「いや、何でもない――」

「?――変な奴だな……」


 それを言いたいのはこっちだと思いつつ、それでもリスが木の実を頬張っているかのような安らぐそれを見ていると何だか胸のつっかえが取れて行く様な気がしていた。

 どうやら自殺未遂(前科持ち)犯のようだが、それでも今はこれほど生きると言うことに執着している姿はまるで俺の母親や女という“生物学上はホモサピエンスに分類される別種族”に対するコンプレックスが些細な物とでも言うかのようにあっけらかんと、または輝かしい雰囲気を伴っている様な気にさせた。


 初めて女を見て美しいと思った。如何なる芸術家や音楽家、小説家や浮世絵師に描かせた所でこれに勝る様な物を作れるとは到底思えなかった。

 彼女は美という概念から取り残された美という概念に属する何者か、そういう表現することのできない高みにいる存在、すなわち言葉に出来ない――言葉にした時点でその美しさを地に落としてしまう――そういう優美さと麗美さを持ちつつも、深い耽美と醜美をもあわせもつ、如何なる形容詞でさえも言葉という概念を捨てて逃げ出してしまうまさしく女神のように俺の目に映っていた。

 随分と可愛らしい女神もいるものだと思いながら、俺の中にいる女や女のご機嫌取りする男を見下す官僚的意識が収束して行くのを理解した。彼女との出会いは、この時の為に会ったのかもしれないと柄にもなく思いながら、食べ終わった彼女の椅子を自然と引き、呉の市内に出かけた。


 やはりこいつ、馬鹿なんじゃないかと思いながらも副官がいじめの現場にいなかった理由に何となく合点が言った。

 こいつは単純に世間知らずなのだ。深層の令嬢というのもあながち間違っていない。深層すぎて逆にこっちのほうがこいつの将来を心配する。そのレベルで何かの危うさを感じさせられた。

 このくらいの年で普通のガキなら知ってそうなモノとか興味を持ちそうな物に一切の興味がないと言った方が正しいのだろうか、服飾や宝飾品に無頓着なのだ。

 その代わりなのか、動物や書籍やアクションゲームなどに興味を示していて、ある程度趣味が合っていたのもあるのか、連れて行く場所に困らなかったのは僥倖と言えるだろうか。そんなのもあり、しばらく時間を潰している間、俺は渡辺一佐が何故急に見合い話を持ち出したのかを考えていた。

 よくよく考えてみれば、祖父も知っているような口ぶりだった。新幹線代と思しきお小遣いをもらえたのも、もしかしたらこのためか?つまるところ、最初からこの見合い話を受けると予想して?

 そりゃあそうか、天下の東郷大将だからな。あらかじめ話が行くか。

 確かに、渡辺明野海曹じゃあ嫁の貰い手どころか見合いすら困難を極めるだろう。性格にも何があればいろいろ世間知らずだから誰かが手綱を引かなきゃならない。

 一時の付き合いであればそれこそそこらの不良でも務まるだろうが、一生を任せるとなるならば、何らかの選考基準があるのだろう。俺は、そのお眼鏡に適ったということか……。


「どうしたのだ、永次。またぞろ妙ちきりんな顔をして」

「――いや、よく考えれば俺、お前のこと何にも知らないなって思ってな」

「そうか?噂くらい聞いたことあるだろう“渡辺二佐の七光り”と――いや、今は一佐か」

「いや、全く」

「そうだったな、お前あれからボッチになったのだったか」

「元からボッチだよ。別にいいだろ、そんなこと」


 変なところは覚えている奴だ。そう思いながらも、以前のように暗い笑顔だけでなく朗らかな笑顔が垣間見える彼女は、もしかしたら俺の知らないところで何か変わったのかもしれなかった。

 以前は無表情に程近い影の射した笑顔だったのが、見違えるほどだ。あれ以来絡んでくる奴がいない以上、もしかしたら何か制裁でも加えたのだろうか。俺の知ることではないし、知らないなら知らないで別に良かった。ただ奴の、初めて会った時から変わらないどこまでも見通す瞳は健在で――俺は知らずのうちに彼女から目を逸らしていた。


「本当のところを言って見てはどうだ?この包帯が気になるのだろ」

「――まぁ、それもあるっちゃある」

「単純なことさ、見合いが嫌だっただけの話だよ」


 本当に嫌そうに答える彼女に、こういうのはいつものことなのかと無粋なことを聞きそうになって、拒否して自殺未遂するなら相当のものだろうと理解し地雷を踏もうとする足を退けた。


 正直彼女の包帯というのは嫌でも目立つ。雑踏の中だったら誰も気にしないだろうが、ショッピングモールや人通りの少ない場所を歩いていればいやでも目につく。彼女が身動ぎするたびに首に巻かれたそれは彼女を縛りつける鎖のようでいて、そこに交わる彼女の人ならざる気配と人の気配の混じり合うそれはまるで魔性の色香のようでいて、どうしても目を離すことを許されなかった。

 手首のそれもリストバンドというにはどうにも大きさと幅が一致していないことから、下にもぎちぎちに包帯が巻かれていることが分かる。傷に障らないとはいっても、そんな状態の女を連れ歩いてきたのかと思えば、俺は逆に渡辺一佐のことを軽蔑しかけた。


「うちに来る見合いの相手、あぁ、兄の見合い相手だ。そいつらと同じようなのが相手かと思うとやってられなくてな……気が付いたら昔の癖で――結果的に違ったようで安心したよ」

「――前に、あれ・・には慣れてるとか言ってたな」

「――そこら辺は兄が話してくれるだろうよ。あの時も、そして今も、どうかしているのはきっと、私の方なんだ」


 無理した風に笑う彼女には悪いとは思ったが、この兄妹は業が深いと思った俺は間違っているのだろうかと誰かに無性に相談したくなっていた。

 憔悴しているわけではないが、けれどどこか弱った印象の彼女はそのままにしておけずに寂れてしまったバス停のひさしの中に匿った。なんだか、このまま放っておくとこのまるで真夏のような日差しにやられて溶けてしまうのではないだろうかと、その儚い雰囲気に飲まれたのが大きな理由だ。

 力のない四肢は容易く俺の誘導に従って動き出し、ヒサシの中にある金具のところどころ錆び付いた某飲料会社のベンチに座らせるのとともに、自嘲を含んだ、またはあの時と同じ濃厚な深淵を宿した瞳が俺を射抜く。


「幻滅したろ?普段偉ぶった口振りのやつが、リストカットの常習犯だなんて――悪いことは言わない。やめておけ。きっと御父上も御母上も、反対なされることだろう」


 今回はカッターに触れようとしたあたりで止められたがな、と冗談めかして笑う姿はまさしくあの兄にしてこの妹ありと言えて、やはり兄妹けいまいかと思わされた。

 重傷だと思いながらも、けれど俺も似たようなものかと思えばそれも何だか馬鹿らしく感じられて……その上これに反対するような両親なんてとっくにいなくなっている。二重の意味で馬鹿らしかった。

 それすら見透かされている風なのが嫌で、俺はその深淵の井戸の中に自ら飛び込むつもりで先手を取ることにした。


「いねぇよ」

「――ん?」

「だから、いねぇってんだよ……!母親はどっかでみっともない顔晒してるだろうし、父親はもう石の下だ。俺にとって家族は、小父おじさんだけだ……」


 なんだか羽化登仙うかとうせんしているかのような、そんな酩酊感はこの猛暑のせいだろうか。いや、それだけではないだろう。ずっと、ずっと、おじさんにも言えなかったことを言ってしまって不覚にもすっきりしたような感慨と後には引けないという背筋の凍り冷や汗の噴き出すような恐怖も合わさって、だから俺はどっかりと明野の隣に腰をおろして一歩も引かないというように、この情けない顔を見られたくなくて顔を背けた。

 かなり遅めの反抗期だと自覚しながらも、逆に俺はこの情けなさを曝け出した、曝け出せた・・・・・ことに何よりの驚愕と何よりも楽になったような気がしていたのだ。それこそ、隣の彼女の表情を見る暇などないくらいに。


 普通の女なら逆上する名だとか何とか言うのだろうかとか脳裏を打算が奔りかけていたが、それすら彼女は裏切った。

 まるで何か面白いもので揉みつけたかのように、クスクスと笑い出して、けれど相も変わらずその深い瞳は光が差し込まず、いや、でも先ほどまでとは違い視線はいっそ明白なまでに合っていた。彼女は、ようやっと俺を知覚した。あの時の出会い以来、初めて。


「――ふふっ」

「何がおかしい。お前だって、訳ありみたいじゃないか」

「いやなに、私もお前も、所詮は言葉が足らなかっただけかと――な」

「――――――」


 悪態を吐きたくてもこんなことは生まれてから初めてで何を言えばいいのか一瞬分からなくなり、俺は結局こいつ(明野)と田舎道を歩きながらお互いの話をしていた。なんだか、お互いに面倒くさい奴だというのが分かって、けど居心地は悪くなくて、こいつ(明野)も俺もこれ(婚約)に同意することが決まった。




 防衛高校で多数の離職者や退学者を出しながらも、俺はその混乱に乗じて書類の不備で卒業していない扱いになっていた男子生徒という立場を得ながら市井に解き放たれることとなった。

 既に防衛高校では明野に婚約者が出来たことは公然の秘密となっていたし、その相手が俺である事もまた、彼らにとっては至極当然のことのようだった。

 それでも俺はあの一件以来、市井で働きたくなってしまった。以前のまま防大に上がっていたなら間違いなくあいつ(明野)の嫌いな官僚主義者になっていただろうし、俺は俺の嫌いな頭の良い馬鹿共(老害共)と同じ穴を住処に移していただろう。それは嫌だ。

 たとえ馬鹿にされても、俺はあの文句垂れるしか能のない連中とは違う。祖父もそれを応援してくれた。なら、少しでもましな人間になりたかった。幸い俺はまだ若い。まだまだ時間はあるのだから。







 七月、多くにとって突然にそれは起こった。

 ドナルド・トランプの孫を名乗るマルティン・トランプとその一派によってアメリカ合衆国は再度の対日戦線ムードとなり、爆発することはないだろうと予測されたそれは見事に裏切られる結果となる。


 正体不明の特殊部隊による核融合発電所への一斉攻撃。そのほとんどは成功し、緊急停止装置によって炉心は急速停止。日本は寄って立つそのエネルギー基盤のほとんどを揺るがされた。

 危機的状況下にあっても日本は、ライフラインの多くを麻痺させられながらも、狂気の為政者が率いる、最早西も東もない軍団に対処するほか無かった。

 この時人々は、民族の隷属と民族の自立の二つしか選択肢の与えられない事実に、そして盤石であった筈の足元が薄氷のように覚束ない足元にとって代わってしまったことを恐怖するしかなかった。


 大昭二十年 某月某日~大昭二十二年 七月十八日 帰化アメリカ人の日記より







 文明の利器を動かすことすらままならないなか、俺はバイトのしばらく休暇扱いなのを知り、ただただ熱いだけの、とてもこれから戦争に入るとは思えない岬の向こうを見据えていた。

 水平線の向こう、水面に浮かぶ空の何と美しいことか、それはあの時の明野の儚い笑顔を想起させ、しばらくすれば明野も徴兵されていくだろうことに何とも言えない不快感を胸に抱きながら、それから目を逸らしていた。



 しばらくじりじりと赤外線によってじっくりと丸焼きにされる感触を覚えながら、俺は溶けてしまった脳味噌で『太陽(神様)も焼き肉パーティするんだろうか』などと考えていた。

 普通じゃないと感じつつも、誰もが普通じゃない事態に直面して普通じゃない普通の生活を普通に送らざるを得ない現実を再認識させられる。

 遠くから聞こえる反戦団体(左翼ども)の怒鳴り声にも、まるで返そうと言う気も起きずにだらだらと蒸し焼きになるのを待つだけだ。この期に及んで、既に対話の道は閉ざされたと言うのに対話をしろなどと叫ぶ馬鹿共なんぞにかかずらうのが億劫だったと言うのも多分にあった。

 そう、誰もが普通じゃない事態において普通に生活しようとした結果、誰も彼もが普通じゃない行動に出てしまっているだけという話だ。俺にそれを非難する権利はないし、そうするつもりもない。必要ない。


 幾度となく同期たちが乗っているかもしれない駆逐艦や巡洋艦、戦艦たちの背を見送りながらも、俺はどうにもやりきれない虚脱感に突き動かされてだらだらと己の壊死する感覚に酔うほかないという矛盾の中で生きていた。

 そういう矛盾の中で、誰が加害者であり誰が被害者かという水掛け論を展開しながらも、結果的に己と民族を生き残らせるために戦うほかない彼らに同情していたのかもしれない。

 絶望ともまた違う。巻けることは万に一つとしてあり得ないかもしれない。だが其処に、己が好いた女性が己の手の届かない場所で戦うと言うそれに耐えられないだけだ。

 あれだけ女が嫌いだった俺を、たった数時間の付き合いで劇的に変えさせた彼女に、その彼女がいなくなることに俺は耐えられない。いなくなれば、俺は以前彼女から聞いた様な、その仄暗い地平に墜ちてしまうのではないかと考えれば怖気と恐怖が心を満たして行くのだ。


 そんな真の絶望をもう一度味わいたくない。もう一度、もう一度、最後でも構わないから彼女に会いたい。

 まるで魂だけが浮遊する様なふわふわとした感触を全身に受けながら部屋を飛び出し、乱雑に鍵を閉めながらその魂は既に別の場所にあった。


 彼女の儚く佇む、渡辺邸のあの桜の木の下で、俺は彼女と心を通わせている様な気になっていた。どうにも出来ない激しい情動は止め度を知らずに突っ走り、身体が渡辺邸に辿りつくよりも先に桜の木の下の彼女のところに辿りついてしまっていたのだ。

 何かに気が付いたかのようにブレザーの裾が翻りながら、彼女と俺の交わることの・・・・・・ない視線・・・・は交わり、お互いがお互いを知覚し存在を視認した。


「永次……其処にいるのか?」


 自転車から転がり落ちながらも、俺は彼女との交わらない筈の視線を外すことなく、彼女の元へ急いだ。一分一秒でも短く、この逢瀬を、この感情を、余すところなく彼女に伝えたかった。

 この情熱を、冷めてしまっては熱しにくいこの複雑な情動の冷めきらぬうちに、彼女を俺の、俺だけの、他の余人が触れる余地のない存在に昇華させたかった。それは女性をモノとして扱っていると非難されてしようの無いものだったが、もう裏切られることも裏切ることもしたくなかった。もう俺の知らない場所で傷ついて欲しくなかったからだ。


「俺は――――っ!」


 息切れが酷い。筋肉がパンパンに張っている。顔の筋肉が疲労でひくひくと動いている癖に感覚が無い。酸欠だと分かっていても足を止める気にはなれず、逆に今ある力を振り絞ってでも彼女の下に駆け付けたかった。


 最初は婚約でも何でも破棄してしまえばいいと思っていた。でもそうではなかった。父が母と結婚して俺が生まれ、祖父が祖母と結婚して母が生まれたという生命の連続性は何物にも代えがたく尊いものであったのだと、彼女との長いようで短かった交じらいで深く理解した。その連続性の最先端に俺がいて、俺がそれをまた連綿と続けて行く。

 その横には、明野がいなければ始まらないのだ。漠然とした理解は論理的解釈を伴わずに、そのような体たらくでも俺はただこの感情を彼女に伝えたかった。




『なぁ永次、何で人は言葉を覚えたのだろうな』

『――明確に意思表示したかったから、か?』

『それなら鳴き声でも充分だろ?――私は夢想家ロマンチストではないのだが、こう思っている。それはね――――』




 今なら分かる。彼女の伝えたかった真実が。彼女の心が。

 喋ることの苦手な彼女が、唯一正しく伝えられた、彼女の持論。だがそれは何者よりも真実で、何者よりも破綻していなくて、そして何者よりも正しかった。


 渡辺邸の外壁に沿って、既に棒のようになってしまった足を必死に動かし、庭に面している裏口の戸を破る様にして彼女の目の前に躍り出た


「――――俺はッ」


 彼女の小さな体が、驚きに開かれる瞳の何と愛らしいことか。それだけで走ってきた甲斐のあると言うもの。

 先に飛び出してしまったせっかちな魂と混ざり合う感覚を伴いながら、それでも俺と彼女の間は徐々に縮まり、やがて一つになった。




『――――心を、伝えたかったのだと思う』




 掌に感じる、彼女の小さな温もりは、俺のこの空っぽな体の中を巡り巡って充足感と安息を与え、やはり彼女こそ、俺の波止場なのだとつくづく思い知らされながらも不快ではなかった。

 どちらからともなく近づく唇が重なると、彼女の命を、彼女の人生を託された様な気がして、彼女の運命と共に彼女の命の行方を何処に持って行けばよいのかを理解した。




「明野、お前のこと、愛してる。結婚してくれ」

「あぁ私も、お前のことを愛してるよ」










 第八艦隊を太平洋に、空母打撃軍を真珠湾に失い、連合軍は急速に瓦解して行く。

 政治屋は二つの決戦艦隊に煌びやかな賛辞で迎えると、調和を乱す者たちを排斥し、国の技術力、国力を世界に知らしめる。

 対話のテーブルを閉ざし、また一つ、濁り水は浸食を進めて行く。

 人々は悠々と波に揺られていく。全てを忘れることのできる、幸せな船の上で。


 大昭二十二年 八月十五日 帰化アメリカ人の日記より







 勲章の授与式の映像がテレビのモニターに流れている。

 戦争は終わり、尊い平和は守られたと言う政治屋得意の方便により英雄に祭り上げられた、男女二人の年若い指揮官。その姿は後世の子供たちに多くの物を残して行くのだろうと思いながら、俺は、いや、僕は彼女を正しい場所に連れて行こうと決意した。


「――――あのは、大丈夫かしら……私たちのせいだけど、あの娘は世間知らずなところがあるから…………」


 相変わらずなお人だと思いながら素直に酌を受けて、御猪口の中身を飲み切ってから決然と、明野の母親に言い放ってやった。


「大丈夫ですよ。他ならぬ、僕の可愛いお姫様ですから」




 その祝砲は、ただ単純に英雄を褒め称えているだけではないだろう。もっと多くの人間の私利私欲、もしかしたらもっと大きな陰謀の前触れなのやも知れない。

 ただ一つだけ言えるのは、彼女が理不尽に傷つくことのないように、自分自身の打てる手立ての全てを以て、彼女を守っていくこと。それが、今のところ決まっている方針であり、生涯変わることはないだろうと断言できた。




 僕は悲しみも苦しみも覆い隠す青空の向こうに思いを馳せていた。変わることも曇る事もない美しい青空の向こうに。











 婚約者君の視点でしたが、最後までグダグダでしたね。

 次回は設定資料集を投下します。本編では一切描写しなかった設定盛りだくさんですので、期待してください。意外なところと意外なところが意外な関係を築いていたりしますので。

 結局これの主題はなんだったのかということですが、そこは御自分の頭で考えて頂きたく思います。少なくとも、私の考え方は全て作中にて明言してきましたし、中には共感を得られる方も少なくは無かったのではないでしょうか?そしてそれが分かったとき、その時こそ、皆さんは皆さんの至誠に基づいて行動してください。私にとってはそれが一番の喜びです。

 ご意見ご感想お待ちしております。

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