猫の弟子入り
あるところに化けるのがうまいキツネ先生とタヌキ師匠がおりました。
キツネ先生の変化之術はキツネの中でも天下一品。仲間のキツネの中でも飛びぬけてうまいのです。
タヌキ師匠の変化之術はタヌキの中でも当代第一。仲間のタヌキの中でも群を抜いてうまいのです。
仲の良い二匹は月夜になると峠の上の野原の真ん中、長生きの大きな木の根元で月を見ながら化け勝負をして楽しんでいました。
木の葉を頭に乗せて、クルンと宙返り。
二匹は物でも動物でも、大きいものでも小さなものでも化けることができます。
先生が人間にの男の人に化けたので、師匠も男の人に化けました。
「今夜は月が綺麗ね」
先生がいいました。姿は男の人なのに、女の人のようなしゃべり方。先生は慌てて言い直しました。
「今夜は月が綺麗だな」
「はっはっはっ」
師匠は笑いました。
二人は月明かりの下でお酒を飲んで上機嫌。
ガサガサ。
ふと、音がしました。
「風かな?」
と、師匠。
いいえ、風は穏やか、わずかに穂先を揺らすだけ。
ガサガサ……。
「あそこから聞こえるわね」
先生は草むらに目を向け、耳を澄ましました。
「誰かいるのか?」
師匠が尋ねました。
ガサガサ……。
ちょうど風もやんだ時、そのガサガサから黒い毛むくじゃらがおずおずと出てきました。
月明かりの下に出てのは、夜空のような黒い猫。満月のような瞳がキラキラとした目で先生と師匠を見上げています。
「お前さんは?」
師匠が尋ねます。
「私は猫でございます。故あって、急ぎの旅の途中なのですが、お二人の化ける術を見て、すっかり感心していまいました。どうか私にもその技を教えてくださいませんか」
そう言って猫はペコリと頭を下げました。
先生と師匠は顔を見合わせました。色々なものに化ける変化之術はキツネとタヌキができるもの。猫がいろいろなものに化けるとは聞いたことがありません。
「教えてやらんことはないが、できるようになるかどうか、わからんぞ?」
「そうそう、化けるのは難しいんだよ、猫にできるかわからないのよ」
「お願いします、どうしても化けたいんです。私はどうしても人間になりたいんです」
猫は一生懸命頭を下げてお願いしました。
これは変わった子だなぁ、猫が人間になりたいだなんて。と、先生は思いました。
「長く長く生きていれば、やがて猫にもそのような術を身に着けるものもおるはず。何も化ける術を私達に習わなくてもいいのではないのかね?」
「いいえ、すぐに覚えたいのです。できるだけ早く、本当なら今すぐにでも」
師匠の問いかけに猫は焦ったように早口で行っておでこを地面にこすり付けて頼みました。
先生と師匠は顔を見合わせてから考え込みました。
焦らずとも平安に暮らせば、猫には九つの命があるものだ。そのいくつか無くしたころには人間になるすべも覚えることもできよう。
とはいえ、ここまで必死に頼まれては、断わるに断われません。先生と師匠は頭を下げたままの猫に言いました。
「そこまで言うならば、やってみるかい?」
「はい!」
「そのかわり、私達の言うことは必ず守らなければならないよ」
「わかりました、約束します!」
それから、猫の修行が始まりました。
先生がお手本を見せ、師匠が見本を見せました。先生も師匠も、頭の上に木の葉を乗せて宙返り、これで色々なものに化けることができるのです。
猫も真似て頭に木の葉を乗せます。
「さあ、最初は山猫になってみようか」
「山猫ですか? ですが、私は人間に……」
猫はそこまで言いかけましたが、先生との約束があるので、先生の言うことは守らなければなりません。猫は黙って山猫に化けてみることにしました。
猫は何度か宙返りしてみましたがうまく化けることができません。
「もっと山猫を強くはっきりと思い描いて、自分が猫ではなく、山猫だと思うくらいに」
「はい!」
猫は強く強く自分がなろうとするものを想い描き、何度も休むことなく宙返りをしました。目が回って、フラフラになっても宙返りをしました。
するとどうでしょう。真っ黒だった猫の体の毛並みがまるで山猫のようになってきたではありませんか。
「そうそう、その調子」
師匠は手を叩いて猫を褒めました。猫も喜んで練習をくり返します。やがて日が昇り始めた頃、黒猫は山猫になることができました。
「毛並みも体の大きさも、鳴き声も匂いも山猫になったわね」
「はい、山猫は自分よりも大きな体をしているのでなってみると、とても不思議な感じです」
「そうだろう、そうだろう」
戸惑っている猫に師匠は満足気に頷きます。
「さて、今度は鳥になってみようか。そうだな、お前は黒いからカラスになってみようかね」
師匠はそう言って、自分の頭に木の葉を乗せて宙返りをするとカラスに化けてみせました。
師匠はスッと羽を広げ、空に飛びあがり、大きな木の枝に止まってみせました。
「すごい! でも、私は人間に……」
猫はそこまで言いかけましたが、師匠との約束があるので、師匠の言う事は守らなければなりません。
猫は黙ってカラスに化けてみることにしました。
「えいっ!」
山猫は大きさと毛並みが違いますが、同じ猫であることにはかわりありません。
しかし、カラスはいくら同じ色だからと言っても、まるで違う生き物です。猫にはくちばしがないし、羽もない、カラスには猫のようなしっぽもないのですから想像するのも難しい。
それでも、猫は頭に木の葉を乗せて何度も何度も宙返りをします。
太陽が昇って、沈んでいっても猫は宙返りを繰り返しました。
そのあいだ、先生と師匠はじっと猫のことを見守ります。
「今までの自分をすべて忘れるつもりで、新しい自分になるつもりで」
「強く強く思い描いて!」
「はい!」
猫は何度も繰り返し、日が暮れて夕方になる頃、ついにカラスになることができました。
「先生! 師匠! 私、カラスになることができました!」
そう言って、猫は先生と師匠に羽を広げて見せました。
しかし、先生は首を横に振りました。
「いいえ、それはカラスではないわ」
先生が言います。
「えっ?」
「おまえさん、確かにカラスにはなったが、その羽で空は飛べるのかい?」
師匠にそう言われ、猫はハッとしました。羽があっても飛ぶことができなかったらカラスとは、鳥とはいえないのです。
師匠がカラスに化けた時には、本物のカラスのように空を飛んで、この大きな木の枝に止まったではありませんか。
猫は一生懸命羽を動かし空を飛ぼうとしましたが、空を飛ぶことができません。飛び上がっても、猫が飛び上がるほどにしか飛ぶことができないのです。これではカラスの姿をした猫のようなもの。
「姿だけ化けているのよ」
「姿だけでなく、そのものにならないと化けたことにならないぞ」
「はい」
先生と師匠に言われ、猫は反省して、また猫が練習を始めようとしたそのとき、先生がそれを止めました。
「猫、少し休みなさい。そんなことでは体を壊してしまうわ」
「そうだな。お前さん、かなり無理をしている。休まないと、練習もうまくいかないぞ」
「でも、私、休んでいる暇は……」
猫はそこまで言いかけましたが、二人との約束があるので、二人の言う事は守らなければなりません。
「体を休めながら、頭の中で練習しなさい。さあ、ご飯を食べて」
「そうだぞ、眠りながら、夢の中で練習するんだ」
そう言って、先生と師匠は猫が練習してきている間にとってきた木の実を猫に食べさせました。
「ありがとうございます」
猫は木の実を食べながら、頭の中で宙返りを繰り返しました。
「ところで、猫よ。お前さんどうして、どうしてそんなに人間に化けたりしたのだね?」
「そうだよ、それに、急ぎの旅の途中だって言っていただろう? それなのにこんな修行などしていていいのかい?」
先生と師匠に聞かれ、猫はうつむきながらこういいました。
「はい。私は私の大切な人のもとへ、お見舞いに行く途中なのです」
「お見舞いに? それでわざわざ旅を? お前さんにとって相当大事な人なんだね」
「はい実は私は、小さな頃捨て猫だったのです。腹を空かし、寒さに倒れた所を、私は人間の子に拾われました」
「ほう」
「私の恩人であるその子と、その家族にお世話になり、ここから山を二つ越えた村で暮らしていたのです。しかし、ある日その子が両親の都合で引越しをしなければならなくなったのです。次の家では私と一緒に暮らすことができないということで、私はその子のおばあさんとおじいさんの家においていかれることになったのです」
「それは淋しい話だねぇ」
「いえ、私はたまにその子が会いに来てくれれば、それでも十分だとおもっていました。私がいて困るようであれば私はいなくてもかまわないし、たとえ離れていても、私があの子を忘れることはないのですから」
「そうかい。ということは、この旅ではその子のところへ?」
先生が聞きました。
「はい……先日、おばあさんが電話で話している内容を聞いてしまったのです。あの子が事故に遭ったと、それで……」
猫は首に巻いていた布の中からどんぐりほどの粒を一つ出してみせました。
「本当はもっとあったのですが……ここまでの道中で、いくつか落としてしまい、最後の一つになってしまいました。この薬をあの子にあげたくて、お見舞いにいく旅の途中なのです」
猫の見せた薬に先生と師匠は顔を見合わせました。
「しかし、それは……」
「そうだよ。それにおそらく、その薬は人間には見えないだろうよ」
「はい。でも、私はあの子にとってこれが必要だったら、これを飲んでほしいのです」
猫の言葉に先生と師匠はまた顔を見合わせてからいいました。
「そうかい、なら、早く術ができるようにならなきゃいけないね」
「そうね、猫よ、今日はもうお休み。練習は夢の中で続けなさい。そしてまた朝から練習するのよ」
「はい」
猫は旅の疲れもあって丸くなるとすぐにスゥスゥと眠ってしまいました。そして夢の中で木の葉を頭に乗せて宙返りしました。
猫から山猫、猫からカラス。カラスの羽、カラスのくちばし、自分にはないものばかり。空を羽ばたき、滑空。自分が経験したことないものばかり。それでも猫からカラス。猫からカラス。
今より、少しでも、今はカラスにならなくちゃ……。
次の日。猫は夢の中の練習を終え、目覚めての練習を始めました。朝が昼になる頃、猫は見事に空が飛べるカラスになることができました。
「先生! 師匠! カラスになりました! 飛ぶことが出来ました!」
「おお、見事なカラスだな、猫よ」
「立派に飛んでいるわね」
「はい、ありがとうございます!」
猫は空中でカラスから猫に戻るとクルッと回転しながら着地しまして頭を下げました。
「さて、猫よ、次は……」
「はい!」
「本当なら物に化ける練習をするのだけれど……」
「物ですか」
先生と師匠に言われ、猫は先生の言葉を繰り返しました。猫はもう何を言われても、それをやりとげようと覚悟をしていました。
「でも、お前は急ぎの旅の途中。次は人間になってみなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
まずは師匠がお手本を見せます。ランドセルを背負った小学生の男の子、スーツを着た青年、最後に着物を着た恰幅のいいおじさんです。師匠お得意の三変化。
続いて先生も見本を見せます。制服を着た中学生の女の子、白いワンピースのお嬢さん、最後に豪華な着物のお姉さん。先生十八番の三変化。
「すごいです!」
猫はあらためて感心してしまいました。
「さあ、やってみなさい」
師匠に促され、猫も人間に化けてみることにしました。しかし、人間になるのは山猫よりもカラスよりも難しいのです。
猫にはその理由がよくわかりません。人間はカラスのように飛ぶわけではありません。山猫ほど俊敏に動くこともありません。
それに猫は人間と共に住んでいたのです。人間にことはよくわかっているつもりなのですが。
「猫よ、人間というのはわれらよりも姿形がたくさんある。上手になれば、自分の姿をそのまま人間に変えることができるが、お前はまだまだだ」
「はい」
「だから、本当にいる誰かになるのよ。つまり、誰かの真似をするってことね」
「誰かの真似?」
「そう、人間に化けるのではなく、人間の誰かに化けるのだ」
「はい」
「お前が一番頭に浮かんでくる人間のことを強く強く思い描いて」
「その誰かになるつもりで」
「はい……!」
猫は先生と師匠に言われて、人間を思い浮かべました。
「えいっ!」
猫は気合いをいれて宙返りをしました。するとどうでしょう、猫は女の子になっていました。
「人間になれました!」
そう言った言葉も人間の言葉を話しています。ただ、猫は人間になりましたが、何も着ていませんでした。つまり裸だったのです。
猫は首を傾げました。先生と師匠が人間に化けたときには、確か服を着ていたと思ったからです。
「お前は物に化けるのを省いているから、服を作ることができなかったのだ」
「そうだったのですか」
「人間になるだけなら、もう大丈夫だろう。修行はここまでにして旅を急ぎなさい」
「これは私達からの餞別よ」
先生は木の葉を三枚、猫に手渡しました。
「これは?」
「町に行って、その姿になったなら使いなさい」
猫はありがたく受け取ると先生と師匠に何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「無理はしてはいけないぞ」
師匠が言ったあとに師匠は少し厳しい顔になったこう言いました。
「猫よ、お前はわしらの弟子だが、
術はまだまだだ。お見舞いがすんだら、必ず戻ってきて修行を再開するように」
「そうよ、必ず戻りなさい」
「はいっ」
先生は豪華な着物のお姉さんの姿のまま笑いかけると、小さな猫の頭を撫でて言いました。
「あなたの会いに行く子が元気になっていて薬も使わないで済むなら一番いいのだけどね」
「……先生、師匠、ありがとうございました。私行きます」
日は落ちかけ、もうすぐ夕暮れ。猫は山猫に化けました。山猫なら、体は大きし、夜目も効く。このまま山を抜けてしまおう。
猫は先生と師匠に別れをつげ、大きな木から走り出しました。
日が暮れ、夜になっても猫は眠らずに走りました。山を抜け、森を抜け、やがて町が見えました。
日が昇れば、カラスに、暗くなれば山猫に、猫はあの子が入院している病院を目指して走って、飛びました。
町の病院のそばについた時には、何度目かの夜になっていました。
先生と師匠に教わった化ける術のおかげで、ここまで無事にくることができたのです。
猫は女の子の病室の窓辺に降り立つと、人間の姿に化けました。
先生と師匠にもらったこの葉を使ったので、裸ではなく、着物を着ています。
その部屋には窓辺に立つ女の子になった猫と同じ顔の女の子がベッドで横になっていました。
たくさんの機械が寝ている女の子のそばで彼女の見張りをしています。
猫はうれしくなって女の子に抱きつきました。
女の子の意識はありません。見張りをしている機械が女の子の命を見張っているのだと猫にもわかりました。
そして機械ではない猫にも女の子の命が小さく小さくなっていっているのがわかりました。
「よかった、よかった。間に合った。私ね、薬を持ってきたんだよ、これできっとよくなるから」
猫は薬を取り出しながら、意識のないままの女の子に話かけます。
「あかねちゃん。ありがとう、私を拾ってくれて、仲良くしてくれて、名前をつけてくれて、ありがとう。私、ずっと言いたかったの。伝わったかな? 人間の言葉だもん、伝わったよね。この薬できっと良くなるからね」
「待ちなさい」
「!?、その声は先生!?」
猫が振り返ると先生と師匠が病室に立っていました。
「師匠も、どうしてここに?」
「猫よ、お前の薬、それをその子にあげたらどうなるのか、わかっているのか?」
「……」
師匠に言われ、猫は言葉を詰まらせました。
「その薬、それはあなたの命でしょう? 九つあるという猫の命の最後の一つ。それをその子にやれば、お前は死んでしまう」
猫は黙ったままうつむきます。
「猫よ、お見舞いのあとの私達との約束はどうするつもり?」
師匠と先生に言われ、猫はハッとしました。
先生と師匠の約束は守らねばなりません。
ここまで来られたのも、先生と師匠のおかげ。ありがとうを言えたのも、先生と師匠のおかげ。
猫は薬を握り締め先生と師匠に頭を下げました。あの夜のように。
2
ハッ、として彼女は目を覚ましました。辺りが暗かったけれど、彼女はそこが自分の部屋ではないとすぐに気がつきました。
彼女の記憶は学校からの帰り道、車がそばまでやってきて……。
そこから、気がつくと自分はここにいたのです。
彼女はベッドから体を起こすと、暗い病室の中に立つ人影があるのに気がつきました。
「気がついたか……」
彼女は不思議なことに、こんな暗い部屋に、自分が寝ている所に見知らぬ人が立っていたということに少しも驚きを感じたりしませんでした。
立っていた人影は二人。着物を着た恰幅のいいおじさんと豪華な着物を着たお姉さん。お姉さんは腕に何か黒いものを抱きかかえていました。
「あ、あの……」
彼女は何か言わねばならないような気がして口を開きましたが、何を言ったらいいのかわかりません。すると、恰幅のいいおじさんがいいました。
「夜分にすまんな。ただ、わしらの弟子が君に伝えたいことがあると言ってな」
「……? 伝えたいこと?」
「ええ、あなたにありがとうってね」
着物のお姉さんがいいました。
「……」
彼女のほほを涙が伝いました。しかし、それがなぜなのか、彼女にはわかりませんでした。
「あの……お二人のお弟子さんって」
「出来の悪い、真面目な弟子だ」
「約束も守れない、義理堅い子だったわ」
「……私もその子にありがとうって言いたいんです。伝わりますか?」
「ああ、きっと喜ぶだろう」
「きっと、喜んでいると思うわ」
二人はうれしそうに言いました。
その時、ふぅ、と風が窓から吹き込みました。
その風で彼女が少し目を離し、視線を戻した時には、二人の姿はもうありませんでした。
彼女は泣きながら猫の名前を呼びながら、ありがとうと繰り返したのでした。
おわり