1話
この世は悪意に満ちている。その悪意の多くは他人に向けられ、時に人を傷付ける凶器となる。だから、悪意を向けられることは怖くて仕方ない。
「だけど、忘れないでほしい。悪意から君達を護る存在がいることを」
赤いヘルメットの下で白い歯が光る。太陽の光を背負い、胸を張って立つその姿はまさに「ヒーロー」。
「かっけぇな……」
事務所のパイプ椅子に浅く座り、膝に乗せ握り締めた拳には汗が滲む。テレビの向こうのヒーロー達はキラキラ輝く、さながら正義の象徴。憧れてやまない存在だ。
あらゆる犯罪が蔓延る現代社会に、数年前、救世主が現れた。赤、青、緑、ピンク、黄の五色の戦隊ヒーロー達を人々は「エンゼル」と呼ぶ。だが、本来は「エンゼル」というのは彼らが所属するヒーロー組織の名称なのである。つまり、「エンゼル」には一般人が思うより多くのヒーローが所属している。が、表で活躍できるのは五人。つまり、五色こそがレギュラーなのである。
時川実広も「エンゼル」に所属するヒーローである。ただし、三軍だが。
「地味男ー、お湯沸いたぞ」
一緒に事務所待機していた細井タクがヤカンを掲げる。
地味男って呼ぶな、と小さく文句を言いながら立ち上がり、机に置いていたカップ麺を掴む。沸いたばかりのヤカンでカップ麺にお湯を注ぐ。白い煙が蓋の隙間からもくもく昇る。
「いやぁ、すごいよなぁ一軍は」
煎餅をかじりながら細井が机に頬杖をついてテレビを眺める。まあな、と相槌を打ち、スマートフォンでタイマーを三分に設定する。
「俺ら三軍なんて引ったくり犯捕まえる程度で華なんて全くねーもんな」
「その引ったくり犯相手にすらお前はびびってたもんなぁ」
細井に痛いところを突かれ、うっと詰まる。あれは仕方なかった、と自分で言い訳する。だって、刃物を突き付けられたのだ。怖いに決まっている。結局、後から駆け付けた同僚が取り押さえたわけだ。
実広はため息をついてテレビに目をやる。ハイライト映像でレッドが爆弾魔を鮮やかに倒す様子が流れている。三軍がメディアに取り上げられることなどない。あんな風になれるまで、自分はどれだけの時間が必要なのだろう。もしかしたら一生辿り着けないのかもしれない。
そもそも、実広にはもう時間がなかった。中学卒業と同時に「エンゼル」に入ると母に告げた時、与えられた猶予は二十歳になるまでだった。気付けばタイムリミットまであと一年。きっとこのまま三軍で終わるんだろう。胃の辺りがもやっとする。
「いただきっ」
ひょい、と手の中のカップ麺を盗られ、「ああっ」と悲鳴を上げる。
「夕子!それ俺のなんだけど!」
「実広はお兄ちゃんと違って戦っていないんだから。一口くらい私にくれたっていいでしょ?」
同い年の夕子は、ペロッと舌を出し、カップ麺に割り箸を突き刺した。夕子は「エンゼル」の事務員で、レッド──赤城ヒロの妹である。
「つーか、まだ三分経ってないし……」
「私は硬めが好きだからいいの!細かいこと気にするから実広はダメなのよ」
あっさりダメと言われるとぐさりと刺さるからやめてほしい。悪びれもせずズルズルとラーメンをすすり出す夕子を見て、はぁ、と息を吐く。どこが一口なんだ。三分を告げるタイマーがピリピリ鳴る。
「実広ってさ、地味男ってあだ名は妥当よね。華もないし強くもないし」
「だろ?」
夕子の悪口に細井はニヤニヤしながら頷く。
「お前らなぁ……」
タイマーを止め、反論しようと口を開くが何も言葉が思い浮かばない。まったく情けないものだ。
「レギュラー帰ってきたぞー」と声が聞こえ、実広と細井は慌てて立ち上がる。ほどなくしてドアが開き、ぞろぞろと五人が入ってきた。
ヒロの姿を見付けた夕子が「お兄ちゃん!」と目を輝かせて駆け寄る。ヒロはニカッと歯を見せて笑い、夕子の頭に手を乗せた。
「お兄ちゃんおかえり!今日も大活躍だったね!」
「ははっ、たまたまさ!」
けっ、ブラコンめ、と胸の内で毒づく。夕子の変わりようにはついていけないが、ヒロを尊敬するのは実広も同じだ。机に並べてあった缶コーヒーを一つ掴む。
「お疲れ様です、ヒロさん」
ヒロに缶コーヒーを渡す。ヒロは「ありがとう!」と爽やかな笑顔で缶コーヒーを受け取り、プルタブを引いた。
「あ、そういえば実広。引ったくり犯に刃物突き付けられて腰が抜けたんだって?」
バッと夕子を睨み付ける。夕子は舌を出しておどけた。ヒロにそういうことを告げ口するのはやめてほしい、あと腰は抜けていない。足がすくんで動けなくなっただけで……まあ一緒か。
「ダサいよねー」
夕子にケラケラ笑われ、若干涙が浮かびそうになる。ダサくて情けないことくらい自覚している。だから、悔しいのだ。どうしようもない自らの苛立ちに胸だけがジリジリ焦げていく。
「怖くて当たり前さ。正真正銘の悪意を向けられているんだからな」
ぽん、とヒロの手が肩に乗る。ヒロを見ると、さっきまでの力強い笑顔とはまた違った、優しい顔がそこにあった。
「なんせそいつは刃物で実広を刺してやろう、もしくは殺してやろうとしているんだからな。でも、怖いと感じることを恥じる必要はないぞ」
「なんで?お兄ちゃんも怖いの?」
夕子の問いに、「怖いさ」とヒロは大きく頷く。
「悪意が怖いものだと気付かなくなった時、自分も犯罪者になりうるかもしれないんだからな。だから、悪意を恐ることを忘れてはいけないぞ、実広」
トン、と拳を胸に当てられる。不思議とそこがポカポカ温かくなる。やはり、ヒロは憧れのヒーローだ。
妬みとか劣等感とか焦燥とか、ぐるぐるした醜い感情が一気にどこかへ飛んでいってしまう。本物のヒーローとはヒロのことをいうのだろう。
はい、と力強く頷き、背筋を伸ばす。──まあ、ヒロの科白の意味をすべて理解はできてはいないが。とりあえず、悪意を恐ることを忘れるなという部分だけを耳に焼き付ける。
「実広」
レギュラーのブルーであり同期の青山晴斗が声を掛けてきた。帰る身支度を済ませたのか、カバンを肩から提げている。
「帰りに一緒に飯に行かないか?」
「ああ。いいよ」
こくんと頷き、自分も帰宅準備に取り掛かる。三軍にはヒーローのスーツなんてものはなくジャージなので、最近はもう着替えも億劫でジャージ出勤している。リュックサックを背負い、タイムカードを機械に通す。
「細井は行かないのか?」と細井を見るが、あっさり首を横に振られた。
「今日は彼女がうちに来るから」
……彼女のいない自分への嫌味だろうか。
晴斗と事務所を出て、マスコミの目を避けるように人通りの少ない路地へ滑り込む。クールなイケメンと持て囃される晴斗はレギュラーでも人気が高い。特に女子。アイドルと同じ扱いなのだ。──困ったことに本人はまったく気にしないので、実広が気配りをしてあげなければならない。
寂れかけた商店街に抜け、小さなお好み焼き屋に入る。店をおじいちゃんと二人で切り盛りしているおばあちゃんに注文をして、お冷やに口をつける。
収入に天と地ほどの差がある自分に気遣って庶民的な店を選んでいるわけではなく、晴斗は高いものが食えない。そういうところが憎めなくて、同期で活躍する晴斗を妬むことができないのかもしれない。ヒロと同じタイプの生まれながらのスターだ。
出てきたお好み焼きのタネを鉄板に二つジュワっと広げる。頼めばおばあちゃんが焼いてくれるが、晴斗はいつも実広に焼いてほしいと頼んでくる。誰が焼いても同じだと思うが、晴斗曰く「実広のは美味い」らしい。もっとも、不器用な晴斗は自分でお好み焼きを焼くことができないのだが。
ソースを塗り、マヨネーズを網目にかける。青のりと鰹節を降り、「できたぞ」と晴斗を促す。無表情がテンプレートの晴斗の頬が紅潮する。喜んでいるようだ。ある程度付き合いが長くなると、この程度の感情の変化は読み取れるようになった。
「そういえば、この前雑誌のインタビューで何でエンゼルに入ったのかって聞かれた」
ほお、と相槌を打ちながら、割り箸で自分のお好み焼きを切り分ける。焦げたソースの匂いが空腹を呼び起こす。さっき事務所でカップ麺食べたばかりなのだが、お好み焼きのこの誘惑には勝てそうにない。
「勉強できないし、体育しか得意なことがなかったからって答えたら、違う答えでお願いしますって言われた」
「そりゃ……そうなるよ」
馬鹿正直なところが晴斗のいいところだが、メディアやファンはそんな答えを求めていない。正義を掲げてほしいのだ。たとえ嘘臭い言葉の羅列だとしても、それこそが世間の理想である。ヒロが口にすれば、それは嘘臭いものにならないのだろうが。ある意味それも才能だ。
「実広は?」
「ん?」
「実広はなんでエンゼルに入ったんだ?」
あー、と苦い顔をする。晴斗よりはマシな理由だが、たかが三軍の地味男がこれを言えば寒いものにしかならない。
「夕子っているだろ。ヒロさんの妹の。アイツとは小学生の時からの付き合いでな」
特別に仲良しというわけではなかったが、まったく関わりを持たないというわけでもなく、微妙な距離のまま中学生になった。この年頃になると、女子と話すこともなくなり、夕子も例外ではなかった。
今と変わらず、平凡で地味な男子中学生だった実広は、ぼんやりと日々を過ごしていた。この時はまだ「エンゼル」に入りたいなんて微塵も思っていなかった。
でも、夕子は違った。原因は分からない。女子の考えなんて実広には計り知れない。しかし、女子達から苛められているのは実広にも分かった。
「何を思ったのか、バケツで水を掛けられそうになってる夕子の前に立ってたんだよな」
助けようと思ったのか、今となっては分からないが、勝手に身体が動いていた。女子達も意外な人物が出てきたことに驚いたのだろう。呆気に取られて動けなくなっていた。
そして更に意外だったのが、冷たい水が滴り落ちる実広を見た夕子が、今までまったくそんな素振りを見せたことがなかったのに初めて女子達に噛み付いたのだ。実広に何てことをするのよ!とよく回る口で女子達をまくし立て、あっという間に追っ払ってしまった。それができるならどうして今までしなかったのか、謎である。つくづく女子とはよく分からない生き物だ。
ハンカチで唖然とする実広を拭きながら、夕子はふにゃりと微笑んだ。
「助けてくれてありがとう」
結果的に助けられたのは実広のような形になってしまったが、夕子だけはそう思わなかったらしい。そんな夕子の科白と涙を目尻に溜めた微笑みが今も胸に焼き付いている。
「──あの時みたいにまた誰かを助けられたらって……まあ、俺なんかが言うとおこがましいけど」
照れ臭くて晴斗から目を逸らす。無力な自分にはそんな力はないのは分かっている。それでも、助けたい。
「かっこいいよ、実広は」
ふっと微笑んだ晴斗がぽつりと呟き、お好み焼きを口に運んだ。