序の一
「おい ケン坊、ついたぞ。」憲司の伯父は肩を揺すりながらいった。
憲司は親元を離れ八尾に住む親戚の家へ下宿することになったのである。だが、憲司は内心あまりここでの下宿には乗り気でなかったのだった。「はぁい」煮えきらぬ返事をしながら汽車を降りると、河内商人たちの威勢のいいかけ声がそこらじゅうから聞こえてくる。「毎度、おおきに!」憲司にとっては里帰りの風物詩でもあった。いつもなら、心弾む声である。しかし、今日に限ってはなんとも荒々しく単に無作法な音にしか聞こえなかった。
伯父さんの家は市街地からは少し離れた山際の村にあった。河内といえば世間では柄の悪さで通っている。憲司もまたこの一般の認識であった。伯父は決して裕福とは言えぬ農家であった。しかし、その家風は堂々たるもので所々亀裂の生じた白壁の塀は母屋の周りを蔵を囲い込みながら巡っていた。戦前までは見渡す限りの山林田畑を持つ大地主でありその村の庄屋とは親戚筋にあたる豪農として多くの小作たちに田畑を貸し与えていたのであったが、戦後の農地解放によってその多くが小作たちのものとなったからである。
家に着いた二人は、門屋を通り庭を横目に玄関へと歩いた。憲司は毎年のように盆と正月にはこのお屋敷で過ごし、普段は会えぬいとこたちと遊んだりしていた。しかし、その場合の憲司は客人としてそれなりのもてなしを受け、短い間を何の苦労もすることなく優雅にただ無邪気に遊んでさえいればよかったのだ。
玄関で二人を出迎えたのは偶然にも小学校から帰宅した従兄の信次であった。彼は本名を坂村信次郎というが、そのどこか古めかしい名を好まず自らを信次と名乗りこれが今では彼の名として世間で通用するようになった。
「こんにちは」憲司の挨拶は玄関を通り奥の間まで響き渡った。「こらシンジ、挨拶せんかい」伯父の催促で小さく「よろしく」と呟くと信次は家の中へと消えていった。それと入れ替わるようにして奥から向かってきたのは伯父の妻のシズ江である。「いらっしゃい。遠いとこからよぉ来たねぇ」彼女はまことに品のある声で憲司を迎え入れた。そして憲司はこれから自分の生活の場となる部屋へと案内された。さすが元豪農であっただけあって二階にも余るほどの部屋がある。客人たちの泊まる部屋の一つが憲司に与えられることになったのだ。ここが信次の部屋の襖を隔てた隣であることにふと気が付いたが特に気にもとめず、荷作りの紐を解きはじめた。
一人になるとまた、汽車での不安が次第によみがえってきたのである。明日からの学校生活は憲司にとっては想像の出来ない世界であった。なんせ、ここは河内なのである。よそ者がそう簡単に受容れられるはずも無い、憲司はそう自分に言い聞かせ河内という風土を相手に自己の正当化を試み、その不安を少しでも和らげようと努力した。「入るよ」障子の向こうからあの品のある声が耳に入った、憲司がはっとしてそちらを向くとシズ江が湯気のあがった湯呑を丸盆の上にのせ部屋に入ろうとするところであった。お茶を憲司の前に差し出すと、シズ江は憲司の前に座り込み「お父さん、どない」顔を近づけて尋ねた。「よく分からないけど…元気ってお母さんが言ってた」シズ江は溢れ出す涙を堪えつつ、「そう」とうなずき顔を見せぬように部屋を出ると障子をすっと閉めた。憲司はシズ江の行動を不思議そうに眺めつつ、前に出されたお茶をすすった。
シズ江は足早に階段を下り、囲炉裏端で胡坐をかく松造に近づくとさっきの出来事を耳打ちした。「そうか、絶対にほんまの事ケン坊には言ぅなよ」そう念押しするとまた、火箸で灰をいじり始めた。松造は妻とは違って少し楽天的である。憲司が何も知らないでいる方が寧ろこれからの生活はやりやすい、暗い翳をもっての慣れない生活よりは幾分ましであろうと考えたのだ。
日が暮れかかり、とんとんと階段を駆け上がる音がする。遊びに出ていた信次の兄勇一郎が帰ってきたのである。勇一郎は憲司の部屋の前を通り過ぎ自分の部屋へ向かうと直ぐにまた憲司の部屋の前を通って階段を下りていってしまった。何かを置きに来たのだろう、と憲司は思いつつ窓の外に見える夕陽をぼんやりと眺めていた。西の空が一面にオレンジ色に染まり、山から迫る闇の濃紺との階調は美しき天然の描き出す絵画のようであった。都会では見ることの出来ないこの一眸の景色に見惚れながら、ふとシズ江の不可解な行動を思い出した。お父さん今頃どうしているんだろう、そんなことを考えていると、すたすたと今度は信次が部屋の前を通った。そろそろ夕飯の頃合である。憲司も後をつけるかのように階段を下りた。
囲炉裏端には一家が既に勢揃いして、憲司の来るのを待っている様子であった。「よぉ来たなぁ」憲司の知らぬ間に畑から帰った祖父母は口を揃えてにっこと言った。しかし、いつもの笑顔でないことを憲司は感じとった。勇一郎は目の前の御馳走に手が出そうになるのを懸命に堪えていた、今日は憲司をもてなす為の贅沢な品が並んでいるようである。「いただきます」伯父の言葉を号令に二人は憲司の目の前で物凄い勢いでご飯を口へとほおばり始めた。憲司にとってこの光景はこの家での日常なのだと思い、ゆっくり箸を持ち上げると茶碗を片手に白米を口へと運んだ。
やはりこの空間での食事というものは都会では味わうことの出来ない活気があった。農作物はどこを流通することも無く、採りたてが直接に台所へ、そして食卓へと運ばれる。その分、一層の感謝が料理には込められているのである。「おい、シンジお前明日ケン坊と一緒に学校行ったってくれよ」松造は黙々と料理を口に運ぶ信次に声をかけた。信次は一瞬食べるのを止め頷くとまた箸を動かし始めた。少し不安げな憲司に勇一郎は「大丈夫。みんな仲良うしてくれるから心配せんでもええ」と慰めの言葉をかけた。しかし、憲司には少しも慰められぬ言葉であった。まるで他人事のようにしか聞こえなかったのである。そんなことあるはずない、憲司は心の中で呟いた。
信次は早々に食事を終え、〆の番茶をすすり始めた。兄勇一郎は二杯目の飯碗を片手に未だその勢いの衰えることなく箸を動かしている、旅の疲れからか明日の不安からなのか憲司の箸はまだ一杯目の茶碗の飯を探っていた。伯父は箸を置き、炉辺に横になると普段の通りに新聞を広げ、シズ江はすかさず夫の茶椀と箸とを持つと立ち上がって台所へとさがって行った。湯呑に一杯のお茶を入れ来て新聞の脇にそっと置くと、また洗い場へと戻り水を張った桶の中で食器をがしゃがしゃと洗い始めた。祖父は風呂焚きへと向かい、祖母はすりきれたモンペに当て布をしている様であった。それぞれに事を為し言葉の無い中にあって温かい時がゆっくりと流れている。新聞の擦れ合う音、食器の洗われる音、囲炉裏にいこる炭の音、針は静かに布を突きひとつ屋根の下に生まれる生の音はいつもと変わらぬ調を奏でて、人の営みを湛えていた。
憲司の胸は言葉にはならぬものの何かで一杯にふくれあがっている。兄弟は共に明日の宿題があるからとそれぞれの部屋に戻って行った。今以上に静かになった中に一人、憲司は明日起こるであろう様々な展開について考えをめぐらし、何か希望の光の射す方向は無いものかと無限の組み合わせの一つ一つを見極めようとしていた。展開の無限である以上この絶えることのない作業によって明日まで続く闇の不安を紛らわせようと考えたのだ。学校までの道のこと、校庭でのこと、教壇で紹介されている自分のこと、それを見つめる同級生の一人一人の眼精までも…。
最後の一面を読み終えた松造は手際よく新聞の乱れを整え折りたたむと、脇にある湯呑の液体を一気に流し込み、柱に懸けられた年季の入った時計を眺めおもむろに立ち上がると風呂へ行くことを台所に告げ、この場を去っていった。祖母は老眼鏡を鼻にのせたまま、繕いの出来たモンペを脇に置き今読まれ終えた新聞を丁寧に広げ静かに目を通し始めた。都会では感じることの出来ない静けさである。空気さえ囲炉裏に集まり動こうとしない。知らぬ間に憲司は明日の不安をも忘れ、安らかによどむ空気に包まれてウトウトと寝息をたてていた。
暗闇の中にあって夢は途端に現れるものである。両親は微笑み何かを話しかけている、友だちは冗談まじりに追いかけてきた。周りの景色もまだ昨日のままである。忘れがたい人々との別れは夢に無い。まだ夢の中では父母とも友人ともいつもの生活をしている。祖母は憲司の寝顔の安らかであることを老眼鏡をよけるようにして上目で見止めると硬くなっていた表情を緩め目じりのシワを一段とよせた。新聞は社会に増えようとしている凶悪事件を生々しく伝えていた。