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情の洪水  作者: 野津
本編
2/4

睡蓮

千視点。

 いつからか、いつも遠くから彼女に見つめられていることに気付いた。

 その黒い眸に宿る色が何を意味していたのか、その時はまだ判らなかった。









 煩わしい執務を終え、千は王宮の奥まった一室に向かって長い回廊を歩いていた。

 その部屋では常に、彼の愛する従姉――郡主【⋆1】の栞如が静かに読書に勤しんでいる。

 中に一歩足を踏み入れると、外の雨音が少し遠く聞こえた。

 こちらに全く気付いていない様子にクスリと笑みを零し、千は読書に集中する栞如の背後に立つ。

 栞如が面を上げて今し方千が入って来た扉に視線を遣ると同時に、後ろから彼女を抱き締め、耳元に唇を寄せた。

 その行為に未だ慣れないらしい栞如は懸命にもがき、千の懐中から逃れようとする。

 露骨過ぎるあからさまな拒絶の態度にむっとした千は、更に栞如を抱く力を強め、絶対に逃すまいと固く己の腕に閉じ込める。

 耐えられなくなったのか、栞如が遂に悲鳴を上げた。


「…千、離せ! 重い」

「いいじゃないか、従姉弟同士の触れ合いは大切だ」


 くつりと笑い、千は微かに雨の匂いのする栞如のつややかな黒髪に口付ける。

 栞如の香りだけが、己を恍惚とさせうるのだと、うっとりと思う。

 千は髪と衣の間から僅かに覗く栞如のおとがいに顔を埋め、愛おしげに唇を這わせる。

 栞如はからだ中に鳥肌を立たせ、瞬時にしてその手に持っている本で千の後頭部を何の遠慮もなく張っ叩いた。余りの痛みに思わず顔を上げると、更にはたかれた。

 警戒を微塵も解こうとしない栞如のつれない態度に、千は内心酷く焦っていた。

 これ程露骨に接しているというのに、この鈍感な従姉は少しも己の想いに気付いてはくれない。弟としてしか見てくれない。近頃では、千の叔母に当たる彼女の母が引っ切りなしに縁談を持ち込んでいるらしい。それも気になる。

 再び本の世界へと戻ってしまった栞如に何をしても無駄だと熟知している千は、舌打ちしながらも大人しく栞如から離れ、本棚の傍にあった籐椅子に腰掛けた。

 読書に没頭する栞如の見慣れた横顔を眺めながら、千は暫しの時間潰しに、幼い頃の懐古へと意識を傾ける。






 初めて彼女と言葉を交わしたのは、己が三つの時だったか。

 その時既によわい八つを数えていた栞如は、いつも顔を隠すように俯いていた。

 年に一度、皇帝の名の下で催される立夏の宴などでは、華やかな皇族の面々に紛れて所存なさげに縮こまり、貝のように口を噤み、終始黙り込んだまま一言も発することはなかった。

 千はというと、好奇心旺盛な歳であったが故に、よく宴を抜け出してひとり宮廷内を徘徊していた。

 顔を青くして追い駆けてくる廷臣たちをいとも容易く撒き、夏の暑さに涼を求めて庭園の大池に行くと、そこには既に小さな先客がいた。それが、千の五つ年上の従姉――栞如だった。

 この時、千は栞如の名すら知らず、いつも己を眼で追っている数多の従兄弟たちのひとりという程度の浅い認識しかなく、いないものとして無視するか、邪魔になるようならこの場を離れろと命じてやろうと考えた。

 だが、水面みなもに浮かぶ睡蓮の白い花に手を伸ばし、何とか取ろうとしているその様子が余りにも必死そうで、気づけば千は吸い寄せられるように声を掛けていた。


「そなた、そのはながほしいのか?」


 舌足らずながらも何とか威厳を示そうと発した千の声に、年上の従姉は池に伸ばしていた腕を即座に引っ込め、はっと面を上げた。この時、千は初めてこの俯きがちな従姉の顔を正視した。

 青褪めた頬と完全に怯え切ったその黒目がちの双眸から、何故か視線が外せなかった。


「…あ……ご、御免、なさい…。わたしは、何も…」


 その怯えが己に対して向けられたものであると判ると、何故だか強い憤りを感じた。

 しかし同時に、肩までで綺麗に切り揃えられた黒髪を弱々しく何度も左右に振り、今にも泣き出しそうな顔で後退あとずさる従姉が己より幼く見えて、千は自分が護ってやらなければとも思った。

 彼は彼女が取ろうとしていた睡蓮のひとつに手を伸ばし――見事池に落下した。

 大音響と大量の水飛沫に呆気に取られていた従姉の顔が、徐々に柔らかく綻んだ。

 いつも俯いていた従姉が初めて見せた笑みに千は嬉しくなり、池の中、ずぶ濡れのまま、傍に浮かんでいた睡蓮を一輪そのまま鷲掴み、大池のほとりで声を上げて笑い転げている従姉に差し出した。


「…わたし、に?」

「そうだ。そなたにやる、うけとれ」


 半ば押し付けるように従姉の手に睡蓮を渡し、千は池から這い出して笑った。

 この後、巨大な水音を聞き付けた廷臣たちが二人を見つけ、共に皇帝から苦笑混じりに叱られた。





 それから、千は常に栞如の後を付いてまわり、文字の読み書きや政治学についての手解きなどをねだった。

 片時も栞如の傍を離れようとせず、眠る時ですら一緒だった。

 周りの者も、二人の幼さと仲の良さを実の姉弟のようだと微笑ましく眺めていた。

 だが、その幼くも愛らしい関係は、千が十の歳を数えた時に終わりを告げた。

 千の頭脳が栞如を抜き、最早彼女の教えを必要としなくなったからだ。

 ある弁論で栞如を打ち負かしたことで得意の絶頂となった千は、誰彼憚ることなく己の勝利を語って回った。それが、栞如の誇りを踏み躙る最低の行為であるとも知らず。

 国中に不名誉な噂が流れ、怒りと屈辱に栞如が臥したとしらせを受けた時、千は漸く己の重大な過失に気付いた。だが、一度零れてしまった水を元の容器に戻すことは出来ないように、もう取り返しはつかない。

 慌てて栞如の許を訪れると、彼女は数日間飲まず食わずで泣き臥している状態だった。

 泣き腫らした痛々しい虚ろな眼に宿っていた、今やはっきりと己に向けられた歪んだ光に、千は顔色を失くした。幼い頃から己を見つめる眼に宿っていたのはこれだったのだ――と、茫然と気付いた。

 憎悪に滾る澱んだ双眸を千に向け、栞如は感情を押し殺した低い声で鋭く言い放った。


「――よくも、恥を掻かせてくれたな、千。わたしはお前を絶対に許さない」


 それから栞如は前にも増して対人することを厭い、只管地味に徹し、千を見ただけで逃げるように姿を隠すようになった。






 ひとり、宮殿の隅の部屋でひっそりと読書に耽る栞如を見つけた時は、そのまま何もせずに立ち去ろうと思った。彼女が二度と自分と関わりたくないことは十二分に判っていたから。

 だが、その姿を見た途端、千は彼女に向かって駆け出していた。

 決して離れることは出来ないのだと、その時骨身にみて判った。

 纏わり付けば、栞如は苦虫を噛み潰したような顔で煙たがったが、断固として拒むこともなかった。そんな栞如の、お人よしとも言える優しさに、これまでに何度安堵の息を吐いたことか。

 しかし、その優しさは幼い頃から親しんできた『弟』という対象に対して与えられるものに過ぎず、決して千の望むたぐいのものではなかった。

 早く、自分の想いを伝え、自分を『男』だと認識させなければ。それも、二度と忘れられないような、強烈な印象を伴う形で。






 頬杖を突いたまま俯きがちに考えていると、こちらに近付いてくる栞如の下裾が見えた。

 どうやら千の傍にある本棚に、読み終えた書物を戻しに来たらしい。

 極力足音を殺して栞如がそっと身を屈ませた瞬間、千は素早く彼女の腕を掴んだ。

 他愛もなく倒れ込んできた栞如の躰を掻き抱き、顎を持ち上げて彼女の唇に噛み付いた。

 全くの無抵抗だった栞如が、一呼吸置いて激しく踠き始める。だが、そんな抵抗すら封じ込めるように、千は栞如を抱く腕に力を篭めた。

 やがて、栞如の躰がぐったりと脱力していくのを感じ、漸く唇を離す。

 自分の胸に力なく寄り掛かる栞如は、ほうけたように茫然と眼を見開いたままだ。

 その表情が余りに愛らしくて、千は思わず小さく吹き出してしまった。


「栞如、愛している。弟としてではなく男として、幼い頃からずっと」


 耳元でそう囁き、千は部屋を後にした。

 このまま栞如の傍にいれば、自分が何を仕出かすか判らなかった。

 そして何より、栞如に暫しの猶予を与える為に、千は渋々ながらもその場を引き下がった。

 恐らく彼女は、これまで忌まわしく思っていた自分からこのような感情を持たれていたとは夢にも思っていなかったであろうから。








 若き有能なる美貌の皇太子は、数多存在する麗しい姫君ではなく、冴えない年上の従姉を愛し、その心を望んだ。

 彼は、そう、あの怯えた黒い双眸から初めて直視されたあの時、既に彼女に心奪われていた。


 己の内なる渇望に促されるまま、やがて千は彼女を得る為に本格的に動き始めることになる。

【⋆1】公子、もしくは公主の娘を指す語。

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