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情の洪水  作者: 野津
本編
1/4

永遠の翼

栞如視点。

エピソードタイトルは無視でお願いします。

 五つ年下の従弟は、嫌になる程出来がいい。

 彼への憧憬が憎悪へと変異するのに、そう時間は掛からなかった。







 この時期特有の薄い淫雨が長く降り注ぐ昼下がり、栞如は今日も静かに読書に耽る。

 彼女はこの世に生を受けて二十二年目にして、漸く自分だけの心落ち着く時間を得た。

 活字に毎日眼を通すことが既に日課となり、この上なく安らかで心静まるこのひとときは、最早栞如にとってなくてはならないものとなっている。


「平和、だな…」


 ぱらりとぺーじを捲りながら小さく欠伸を漏らす。

 皇帝である伯父から気紛れに与えられた、王宮で最も奥まった場所に位置する質素なこの部屋には元から多くの書物が散乱していて、読書家の栞如を喜ばせた。

 人と関わり、深く交わることを嫌う栞如にとって、この荒れ果てた部屋は恰好の避難場所でもあった。

 既に子のひとりや二人産んでいてもおかしくない年齢であるにも関わらず、少しも嫁ごうとしない栞如に業を煮やした母が、ここ最近引っ切りなしに縁談を持ってくる。

 そのことに更にうんざりして、この部屋に篭りっぱなしになることもしばしばだ。

 兎にも角にも、この平穏な時間が永遠に壊れないで欲しい。それが現在栞如が唯一望む切実な願いだった。

 だが、ある人物によって、この慎ましやかな聖域とそこで過ごす安らかな時間とが、徐々に、しかし確実に侵食され始めている。

 僅かな憂鬱さが生じ、小さく溜息を漏らす。

 生じる筈のない微風が頬を撫ぜ、何事かと顔を部屋の入口へと向けた時、栞如はいきなり背後から細い腕に抱き竦められ、耳元に熱い吐息を感じた。

 瞬時に全身に悪寒が奔り、その束縛から逃れようと懸命にからだを捩る。だが、己と余り変わらない太さの腕は執拗に絡み付き、幾ら抵抗しても微動だにしない。


「…千、離せ! 重い」

「いいじゃないか、従姉弟同士の触れ合いは大切だ」


 千――太子千、あざなを子治という皇帝の一人息子は、嫌がる栞如を更にきつく抱き締め、熱っぽい整った薄い唇を彼女の緩く結い上げたびんに押し付けてくる。

 この従弟、数多く――それこそ塵程の数も存在する従兄弟たちの中で、何故か栞如にだけ幼い頃からこうしてまつわり付いてくるのだ。

 頚筋を這い始めた千の唇に猛烈な気持ち悪さを覚え、栞如は手にしていた本で己の襟に顔を埋めている彼の頭を思い切りはたき、無理やり引き剥がした。

 千は不服そうに柳眉を顰めながらも、渋々栞如に回していた腕を解いた。

 あからさまに安堵の溜息を吐き、栞如は再び規則正しく並べられた活字の世界へと意識を戻す。

 まるで千の存在など忘れ去ったかのように読書に没頭する栞如に、若き皇太子は苛立たしげに舌打ちし、前髪を掻き揚げながら本棚の傍にある籐椅子に乱暴に腰を下ろした。

 恨めしげに睨んでくる千の視線を一切顧みることなく、栞如は本を読み続ける。





 栞如は、自分に対して勝手気ままに振る舞う出来の頗る良い年下の従弟が大嫌いだった。

 数多く存在する皇帝の腹違いの妹のひとりを母に持つ、皇族の中でも日陰者の部類に入る栞如にとって、唯一の跡継ぎとして周囲から常に篤く庇護され、大切にされている千は、羨ましくて堪らない存在だった。

 己が持っていないものを余すところなく全て所持している従弟を、栞如はいつも蔭からこっそりと羨望を以て眺めていた。

 己の如き日陰者が、いつも脚光を浴びている年下の従弟の傍に寄ることなど、到底出来なかった。気後れ故でもあったが、己の惨めさが際立つことを嫌ったからでもあった。

 だが、千はどこからか栞如の存在を知ると、何を気に入るところがあったのか、彼が三つ四つの歳の頃から栞如の後ろに付いてまわるようになった。

 無邪気に慕ってくる従弟は凶悪に可愛らしく、何故という思いを拭い切れぬままに、乞われるがまま、当時己の持っていた最大限の智識や教養を、拙いながら教えてやった。日の当たる場所に立つ者に日陰者の己が物を教えられるというめったにない僥倖に、栞如は内心喜びを感じていた。

 だが、その優越感はある時突然、脆くも崩れ去った。栞如が十五年の間培ってきた全てを、未だ十の歳にも満たぬ千に易々と越されてしまったからだ。

 年端もいかぬ子どもの問いに満足に答えられず、弁論で散々に言い負かされた栞如は、この時程己の身の上を恨み、恵まれた環境にある従弟を憎く思ったことはなかった。

 元々英邁だった従弟にいつか絶対に抜かれることは眼に見えていたが、これ程早く越されるとは思っていなかった。五年という決して短くない年月の差があったにも関わらず、こうも容易く追い抜かれるとは。

 また、『女だてらに学問を身に付けようなどと、恥知らずな』と莫迦にされながらも懸命に学んできたこと全て――それどころか、その努力の過程までも悉く否定されたも同然だった。

 このことが国中に知れ渡ったことで、千はその聡明さを褒めそやされ、栞如は身の程知らずの愚か者としてあらゆる者たちから嘲り罵られ、その醜態を面白可笑しく、広く語られた。

 余りの惨めさと屈辱に打ち拉がれ、栞如は数日の間碌に食事も摂らずに延々と嘆き、泣き続け、暫く床に臥したまま起き上がることが出来なかった。

 栞如が千に対して明確に激しい憎悪の念を抱くようになったのはそれからだ。

 だが、それだけが、栞如が千を嫌う理由ではない。

 全くのひがみでしかないと重々承知していても、拭い去ることが出来ないその理不尽且つ身勝手な理由――それは、男の身でありながら、絶世の美女と謳われる月の女神・嫦娥にも形容される程の類稀なる彼の美貌だった。

 何故なにゆえ、天は彼に二物も三物もお与えになったのか。それも、当て付けの如く、栞如が一生掛かっても決してることが叶わないものばかり。

 栞如は決して人に誇れるような面立ちではない。それは百も承知だ。それでも、千と共にあればある程、己の醜悪さが際立つ。それが堪らなく腹立たしく、厭わしかった。

 以来、栞如は極力千を避け、顔を合わせないようただ只管ひたすら隠れる場所を探した。

 以前にも増して地味に徹するようになり、今では存在するのかしないのかすら判らない、あやふやな皇室の一要員としての地位を手に入れた。

 それで十分だった。

 身の程知らずな望みを抱き、再び千々に矜持を引き裂かれるなど、二度と御免だった。

 だが、それでも千は栞如の傍らから離れようとはしなかった。

 どれ程冷淡に扱おうと、彼は気にする風もなく飄々と涼しい顔をしていた。

 現に、今でも千は栞如の領域に暇さえあれば入り浸り、すぐ傍で頬杖を突いて面白くもなさそうに本の頁を捲っている。

 栞如にとって千は幼少から可愛がってきた弟分でもあるが故、どれ程毛嫌いしようとも結局最後まで冷たくはし切れない。そんな己が歯痒くもあり、又不本意でもあった。





 漸く最後まで読み終わり、栞如は眼を通していた本を棚に直す為に立ち上がる。ふと本棚の傍の籐椅子に掛けていた千を顧みると、彼は膝に頬杖を突いたまま、瞼を閉じていた。

 そのあどけない寝顔に歳相応の幼さを認め、栞如は知らず眼を細める。

 このまま起こすまいと静かに歩を進め、棚に手を掛けた時――


「!」


 眠っているとばかり思っていた千に突如腕を引かれ、その拍子で栞如は彼の胸の中に倒れ込んだ。唐突なことに抵抗する出来ないでいる栞如の顎を掴んで顔を上向かせ、千が栞如の唇を己のそれに強く押し付けてきた。

 その感覚にハッと意識を取り戻した栞如は千の躰を押し返そうともがくが、その細身のどこにそのような力があるのか、彼は更に栞如を抱く腕に力を篭めてきた。

 その状態が何秒程続いただろうか。

 為すがままに口腔を蹂躙された後、漸く解放された栞如は、今し方己の身に起こった余りに衝撃的な出来事を受け入れられず、放心したまま、ぐったりと力なく千の胸に寄り掛かった。

 茫然として声も出ない栞如の耳元に唇を寄せ、千が囁く。


「栞如、愛している。弟としてではなく男として、幼い頃からずっと」


 顕わになった栞如の額に音を立てて唇を落とすと、千は部屋を後にした。

 暫く籐椅子に手を突いたまま震えていた栞如は、戦慄わななく己の唇を手の平で隠すように覆い、緊張の糸が一気に断ち切れ、その場に崩れ落ちた。







 日陰者にとって、日の当たる場所に住まう、優れた翼を有する者は忌むべき敵。

 だが、相手が己と全く逆の感情を抱いていたと知った時、どうすれば良いのか。

 憎み、嫌ってばかりいた者には対処の仕様がない。

 従弟の思いも寄らぬ言動に翻弄される栞如に、安寧は当分訪れそうもなかった。

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