奈良時代の坂上氏の興隆について、考察という名の妄想。
平城遷都1300年の年にふと思った「平城遷都以前の奈良盆地に住んでいたのは誰だったのだろう」。
「六月」を書きながらあれこれと妄想を巡らしているうちに漠然とできた思いつきが、この夏、高橋崇先生の条里制に基づいた一文で形になりました。
ちょうど与楽古墳群学術調査のニュースを見かけたので、試みに文章にしてみました。
随筆とまでもいかない雑文ですが、古代史への興味の誘いにでもなれば幸いです。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、興隆と盛衰を繰り返したのは、古くからの在地の豪族だけではありませんでした。
坂上氏の祖である東漢氏は、大和国高市郡檜前里(現在の奈良県高市郡)に勢力を持つ渡来系氏族でした。
この一帯で発見された寺社や集落の遺構から、古墳時代から奈良時代末期にかけて、高市郡には多くの渡来系氏族が住んでいたことが判明しています。
今来才伎、今来漢人と呼ばれたその人々は、大陸の技術や文化で、古くからの豪族と密接な関係を築いて共に栄えていました。
東漢氏とは単一氏族の名称ではなく、多くの氏族の集まりです。
おそらく最も後世多くの人に知られる東漢氏の人物、東漢坂上直駒の名に見える「東漢坂上直」という呼称からもそのことが窺えます。
駒が時の権力者、嶋大臣蘇我馬子に仕えていたことからも、東漢氏の中でも坂上氏は宗流であったと考えられており、高市郡高取町の観覚寺遺跡で見つかった大壁建物の遺構は東漢坂上直磐井、或いは志努(駒の父)の邸宅跡ではないかとも考えられています。
付近には小字に坂上の地名も残るそうですが、東漢坂上の一族がいつまでこの飛鳥の南で暮らしていたか定かではありません。
というのも、奈良時代に入ると、坂上氏の本貫地は奈良盆地北端の大和国添上郡坂上里とされているからです。
もしかしたら駒の所業に起因して、東漢坂上の一族は飛鳥を去ったか、追われたのかもしれません。
(東漢坂上直駒について、ご存じない方は補記をどうぞ)
壬申の乱以降、東漢氏という括りは薄れ、それぞれの氏族が名乗られるようになります。
これには天武六年六月に、天武が東漢直に対して出した勅の影響があるかと思われます。
曰く「汝東漢等は小墾田の御世(推古代)から近江朝までに七つの大罪を犯した。朕の世に当たり罪に処そうと思ったが、漢直の血筋を絶やさないために大恩を下してこれを赦す。」
文武代に入ると、壬申の乱で大海人側に就いて戦った坂上老の死にあたって、直広壱が追贈され、これを振り出しに坂上氏の躍進が始まります。
私はもうひとつ、大きな理由があったのではないかと想像しています。
奈良時代の坂上氏の本貫地、大和国添上郡坂上里は、現在の法華寺町西北付近、つまり京内の一等地だった藤原不比等邸や平城宮の一部も含む一帯だったと思われます。
宮の造営地ですから、もともと開けた土地で、造営に取りかかりやすかったものか、あるいは坂上氏の首長の邸宅があったかもしれないなどとこっそり想像しています。
不比等邸の敷地の形状は都や宮同様に東に凸部をもつ複合方形で、平城京の東二坊大路はこの一角を避けるように一条南大路をやや東へ入ってから北に向かっています。
発掘調査によれば、不比等邸が造られる以前からこの辺りに建築物があり、大路もあえてその建築物を避けて造営されたことがうかがえるそうです。
不比等邸敷地の艮(北東角)にあたるこの一画が、不比等の娘で聖武帝の母である宮子大夫人が心を病んで住んでいた一画であることも興味深いところです。(現在の海龍王寺付近)
不比等は東漢氏を重用しなかったようですが、もし、自身の邸宅をあえてその宗家の邸宅跡に建てたのであれば、何か理由があったのかと勘ぐりたくなるところです。
(単純に版築路面や礎石を再利用できて便利だったからかもしれませんがw。)
また、平城京の左京四条二坊、五条二坊(現在の尼辻町付近)が田村里、あるいは田村邑という地名だったと考えられています。
有名な藤原仲麻呂の田村第は四条二坊東ですし、他にもこの辺りには東大寺の荘園があり、やはり田村庄と呼ばれていたようです。
奈良の都では大寺の伽藍や塔、大貴族の邸宅が田園風景の中で見られたのかもしれません。
高橋崇さんは、坂上田村麻呂の名は、この田村里での誕生に因んで名付けられたのではないかと推測されていますが、もしそうであれば、法華寺町からやや南に下ったこの辺りにも平城遷都以前は坂上氏の一族が住んでいたのかもしれません。
遷都に当たっては、予定地に住んでいる公民には移転先として新たな土地と、布などの立ち退き料が払い出され、改めて種籾が貸し付けられて移住することになりますが、あるいは造営に協力するなどしてそのまま京戸(都の住人。良民であれば、希望すれば誰でも都に住んで土地が与えられ、種籾が貸し付けられた)となった者もいたかも知れません。
平城京造営の大匠の任に着いたのは坂上忌寸忍熊。
忍熊は田村麻呂流の坂上氏系図には名前が残されていませんが、住民と同氏族が造営司の一員として現場監督的な仕事を勤めるのは平安遷都でも見られます。
速やかに移住を進めて、都の造営という大事業をスムーズに行うために、その土地の有力者が造営の責任者となるのは遷都のお約束のようです。
坂上氏の住む土地へ遷都が行われたと考えると、平城京造営が坂上氏にもたらしたものはとても大きかったでしょう。
さらに老の孫にあたる坂上忌寸犬養が壮年を過ぎた天平八年に、聖武帝にその武才を重んじられて右衛士大尉となったのも、聖武のための都だった平城京造営に氏族が貢献したことの顕彰だったのではないかと想像します。
坂上田村麻呂の別郷が粟田にあったのは、あるいは遷都による移転先に山城国粟田があてられたものかもしれません。
自称ではありますが、後漢霊帝の末裔が百済を経て、大海を渡ってこの国に移り住み、安住の地を得たのもつかの間、宗主の血筋を謀略に使われ、中央(飛鳥)から北の地(添上)に逐われ、更に遷都でその地を離れざるを得なかったとすると、田村麻呂がまつろわぬ民、蝦夷に高圧的に対しなかったという説が腑に落ちるように思います。
余談ですが、添上郡の語源は佐保川にちなむという説もあり、大まかには、添上郡の奈良山丘陵の南東が佐保、南西が佐紀と呼ばれていたようです。
不比等邸、平城宮、平城京は共に東に方形の凸部のある複合方形を成していますが、平城京の東の凸部は外京と呼ばれています。
平城京造営以前、奈良山丘陵の東にある御蓋山、春日山から続く丘陵の尾根や谷は、現在よりずっと南西方向へと伸びていたものを、平城京造営時に藤原不比等によって、その尾根を削り、谷を埋めて大規模に造成されたと考えられています。
不比等はこの複合方形地割りに何か特別な意味を見いだしていたのか、ちょっと不思議なところです。
補記 東漢坂上直駒について
『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に、在位中の大王を臣下が弑したという他に類をみない大きな事件が記されています。
嶋大臣蘇我馬子の命により、東漢直駒が在位中の崇峻天皇を弑して、嬪(大王夫人、妃より地位が低いと考えられています)であった馬子の娘河上娘を宮から略奪し、ついには首謀者であるはずの馬子の手で捕らえられ殺害されたというこの事件。
(日本書紀に見られる蘇我本宗家についての記述は後代の潤色が強いと考えられていますが、その事についてはいつかまた筆を改めて書けたらと思います。)
皇太子本紀には東漢直駒の最期が語られています。
捕らえられた駒は髪を枝に掛けて木に吊るされ、馬子自らが弓を引いてその罪を数えあげながら矢を射ました。
三度矢が射られ、駒は「吾は大臣が権力者であると知っていたが、大王が尊いとは知らなかった。それを今さら弁解はしない」と答え、馬子は更に怒り、剣を抜いて駒の腹を裂き、首を斬ったとされています。
この逸話で私が思い起こすのは、雄略即位の起因となった眉輪王の事件と、丁未の変で非業の最期を遂げた鳥取部万です。
大臣という地位を捨て、眉輪王を庇って殉じた葛城円、大王の楯であったはずの物部にありながら大王に弓引く立場に陥ってしまった鳥取部万と、駒の姿が重なるのです。
「賤しき奴富夫美(おおみ=大臣)は、力を竭して戦ふとも、更に勝つべきこと無けむ。然れども己れを恃みて、随の家に入り坐しし王子は、死にても棄てじ」
「万は天皇の楯として、其の勇を効さむとすれども、推問ひたまはず。翻りて此の窮に逼迫めらるることを致しつ」
「吾は時に当たり、ただ大臣の権あるを知り、未だ天皇の尊しを知らず。その余、敢えて弁解はせず」
三人の叫びは、時代の流れに翻弄されて本意ではない最期を遂げた多くの人々の無念を、史書の中で千数百年、替わって叫び続けているように思えます。