見えない壁と知らない過去
向けられた背中はあっという間に遠ざかり、今は人混みに掻き消されようとしていた。
「行っちゃった」
「オルガちゃん?」
オルガを見つけたバルトロがのそのそと近付いてくる。
バルトロはオルガの視線の先をたどり、黒を見つけ納得したような顔になった。
「ああ、あいつ……」
「マーティが行っちゃった」
「マーティって誰のこと!?」
ありえない角度から言葉の不意打ちをくらい、その衝撃にバルトロは手で顔を覆いよろめいた。
暫くして立ち直ったバルトロは感心したように言った。
「あいつにそんなあだ名を付けた奴は初めてだよ」
愛称、いや異名か、と呟きながらバルトロは腕を組む。
その口調にマティアスへの気安さを感じ、オルガは湧いてきた素直に疑問をぶつける。
「バル兄はマーティと知り合いなの?」
「んー」
バルトロは顎に手を当て、どう言おうか言いあぐねているようだった。
「……まあ、昔の知り合いかな」
「でもマーティ、バル兄のことを避けてるよね」
聞きにくい気持ちもあったのだが、好奇心に勝てず聞いた。あれだけあからさまな態度だったら誰でも分かるだろう。
マティアスはバルトロを見るとまるで嫌なことから目を逸らすようにバルトロを避ける。
いつもは背筋を伸ばし、堂々としているマティアスに似合わぬその態度を常々不思議に思っていた。
「まあね」
バルトロは既に見えなくなったマティアスの背を追うように人混みへと視線を向けた。
バルトロは暫く無言だった。
そして睨むように見据えていた目をふっと細める。
「俺を見ると……」
遠くを見るような眼差しにオルガの心はざわめいた。
その眼差しが自分の知らないことを見ていることに気付き、オルガはきゅっと何かに胸を掴まれたかのように痛む。
見えない何かがオルガと二人の間に横たわっているよう。
「悲しいことを思い出すんだよ」
感情の籠らない、いや感情を込めないようにした平淡な声が賑やかな街の地面に落ちた。