雪月の守護者
月は、俺を決して許さない。
俺が、自分を許せないように。
五年前の雪の夜、イヴェンの温かい血が俺の手首を伝い、雪の上に赤い穴を開けた。
「エイン……どうして?」
彼女の声は確かにそう響いた。剣を握る右手が今も疼く。あの感触は、俺のものだったのか。それとも吹雪が俺の目を狂わせたのか。俺はもう、どちらだったのかすら思い出せない。ただ、彼女の身体が冷えていく感触だけが、骨の髄に刻まれている。
エインは馬を進めた。
ウィックロウの山奥、吹雪の奥に古い洋館が浮かび上がる。黒い石壁と尖塔は、まるで雪原に突き立った墓標のよう。
酒場で聞いた言い伝えが脳裏をよぎる。
“月の女神ルナサは、罪深い者を守護者に選ぶ。
選ばれた者は永遠に月から逃れられず……そして最後には、自らも影となって消える——。”
老人たちは皆、最後に同じ言葉を付け加えるのだ。
‘’あそこへ行った者は、二度と月から逃げられない‘’と──
重い扉を叩くと、しばらくして金縁の眼鏡をかけた男が現れた。灰色の瞳、疲れ果てた顔。左手首には皮膚に食い込むほど強く巻かれた古びた銀鎖。
男はエインを見るなり、乾いた笑いを浮かべた。
「また来たか」
「また……?」
洋館の主リアムは答えず、ただ扉を広く開ける。
「入りなさい。雪の中で死なれても困る」
館内は暖かかったが、なんだか異様だ。
壁一面に刻まれたオガム文字。暖炉の上には銀の指輪が37個並んでおり、全て同じ形、全てに月石が埋め込まれている。
「これは?」
「失敗作だ」
リアムは葡萄酒を注ぎながら、静かに呟く。
「俺も含めて、な」
「どういう意味だ」
「さあな。月にでも聞いてみろ」
夜が深まるにつれ、暖炉の向こうに人影が揺れた。
血に濡れた白いドレス、長い黒髪のイヴェン。
エインの杯が床に落ちる音が響く。次の瞬間、影は消えていた。
「見えたか」
リアムが静かに言う。
「最初は皆そうだ」
その時、館の外から何かが聞こえた。
遠吠えだ。長い、悲鳴のような咆哮。
「来たな」
エインとリアムは即座に立ち上がり、扉の外へ向かった。表情から感情が消えている。
「待っていたぜ、この時を」
雪原に出ると、吹雪の中に巨大な異形が待ち構えていた。
白い背景に目立つ黒い狼。だがその顔は人間のものだ。凍りついた男の顔、苦痛に歪んだ顔をしている。
その口が動き続ける。
「たすけて……もう、月から降ろしてくれ……」
戦いは苛烈だった。
牙が肩を裂き、血が雪を赤く染める。その瞬間、記憶が鮮明に蘇った。
雪。悲鳴。剣。イヴェン。そして彼女の血を纏った、自らの手。
エインは怯んだ隙に狼に捕らえられ、雪に叩きつけられた。あたりの雪が赤く染まる。
「世界樹よ、根を張れ——騎士エインにケルトの力を!」
リアムが上擦った声で左手の銀鎖を強く握りしめながら詠唱する。左頬に銀の紋様が浮かび上がり、エインの頬にも同じ紋様が刻まれていく。腕に熱が奔り、狼の動きがわずかに鈍る。
エインは奥歯を噛み締め、ただ黙って剣を振り上げ続けた。
一度、二度、三度。
何度刺したか分からない最後の一閃、ついに狼は倒れた。黒い身体が崩れ、一つの闇と化していく。
崩れゆく闇の中から無数の人影が浮かび上がった。老人、子供、女、騎士。皆が絶望した顔で月を見上げ、やがて光となって消えていく。
「何なんだ……」
「月に選ばれた者たちだ」
リアムが答えた瞬間、世界が止まった。
吹雪が空へ逆落ちし、吐息が凍ったまま宙に浮かぶ。音が消え、心臓の鼓動さえ凍りついていくのがわかる。
月光が一つの形を取っていく。
現れたのは、銀の衣をまとった女。白い肌、完璧な美貌。
月の女神ルナサである。
刃物のように冷たく人の心を削るその威圧感に、見る者の本能が原始的な恐怖を叫び続ける。
──逃げろ。この存在に触れられたら、二度と人間ではいられない。
女神ルナサはまずリアムを見下ろした。
「まだ生きていたのか」
慈愛に満ちた声色。だがその目は、虫を眺めるように冷ややかだ。
リアムの拳が震え、それでも膝をつく。
「お前の執念には感心する」
ルナサは次にエインへと視線を移した。ゆっくりと、品定めするように。
「覚えているぞ」
エインの心臓が凍る。
「お前は最後まで妻の名を呼ばなかった」
その言葉は剣より深く胸を刺した。本当だったのか。違ったのか。思い出せない。だが、罪の重さが一気にのしかかってくる。
陶器のように冷たい女神の指がエインの掌に触れる。
銀の指輪が皮膚に沈み込み、骨の中を灼熱が這っていくのを感じた。
すると、エインの頭の中に最期のイヴェンの声が。
──エイン、どうして?
膝が崩れ、吐き気が込み上げる。視界の端でルナサが微笑んでいる。まるでその苦痛を楽しむように。
そして女神は甘く、残酷に囁くのだった。
‘’歓迎しよう。新たな守護者よ──新月の闇がお前を待っている‘’
翌朝。
雪は静まり、エインは左手の月石が脈打つのを感じながら館を後にした。まるで第二の心臓のように。
空を見上げると、月はいつもより不気味に笑っているように見えた。
窓辺でリアムはそれを静かに見送る。
やがて暖炉の前へ戻り、壁の指輪の列に一つを加えた。
38個。
リアムは新しい空白を空けながらほくそ笑んだ。
「今度は何年持つかな……五年か、それとも十年私のように月を恨み続けるか?」
暖炉の炎が静かに揺れて笑っている。
知り合いの方々から題材をいただいて出来上がった作品、『雪月の守護者』。
ケルト、メガネ、雪、洋館、月、騎士。
初めての試みだったので、これらを用いてどんな物語を書こうか不安でいっぱいでしたが、おかげさまでなんとか書き上げることができました。ご協力ありがとうございました。
この物語を執筆中、自分を許すってなんだろう?と自身に問いかけていました。
逆に自分を許さないとは、エインのように過去の自らの過ちに対して自身を責め続け、自分を認めず見失うことだと私は思いますが…まだ明確な答えは出ていません。
あなたは、自分を許すとはなんだと思いますか?
最後に、ここまでこの短編小説を読んでくださったあなたに感謝を。
この作品はこれまでと違って全く救いのない話なので、びっくりされたことと思います。作風が違いすぎやしませんか、と。でも、いつかダークファンタジーを書いてみたかったんです。
次作はまたまったりとした作品を書きたいと思います。
それでは、またどこかでお会いしましょう。
2026年 Blood□orneの実況動画を見ながら
作者より




