遠くの空へ飛び立つ小鳥
緑深い山に囲まれた高台の神社。
本殿から見下ろす村は、まるで手のひらに収まる箱庭のよう。瓦屋根が連なる家々、田んぼに映る空の青、細い川筋がくねくねと蛇のように村を貫いている。
紫は巫女装束の裾を風になびかせながら、遥か遠くの空を見つめていた。山の稜線の向こうに広がる青い空。雲がゆっくりと流れて、まるで大きな生き物のように形を変えながら消えていく。
あの遠くの空の向こうへ飛び立ってしまった、私の可愛い小鳥——。胸の奥で、彼女の名前をそっと呟く。
小鳥との思い出は、まるで南京玉のように紫の心の中でひとつひとつ美しく輝いていた。透明で色とりどりで、光が当たるたびにきらめいて。
二人でお手玉を投げ上げて笑い合った午後。「むすんでひらいて」を歌いながらあやとりで作った橋やほうき。夏の暑い日には川原まで手を引いて、浅瀬で水しぶきを上げながらはしゃいだ小鳥。素手で鮎を捕まえて「見て見て、紫ちゃん!」と目を輝かせていた姿。薪で火を起こして、串に刺した鮎を焼き、塩をぱらぱらと振りかけて、豪快にかぶりつく横顔。煙が目に染みて涙を浮かべながらも、嬉しそうに笑っていた。
夕方になると、赤とんぼが群れをなして舞い、ヒグラシの声が山間にこだまする。茜色に染まった空の下、歌いながら手を繋いで村まで歩いた帰り道。小鳥の小さな手は汗ばんでいて、それがなぜか愛おしかった。
「紫ちゃん、紫ちゃん」
一生懸命自分を追いかけてくる姿。人懐っこい笑顔。袖を引っ張って甘える仕草。すべてが愛しくて、胸が締め付けられるほど可愛かった。
昔から小鳥は風のような子だった。じっとしていることができなくて、いつも何かに興味を持って駆け回っている。蝶々を追いかけて転んで膝を擦りむいても、すぐに立ち上がって笑う、そんな自由で生命力にあふれた小鳥。
きっとこの村は、彼女にとって狭い鳥かごのようなものだったのだろう。古い慣習、決められた道筋、女は家を守るものという価値観。成長するにつれて、小鳥の瞳は遠くを見つめるようになった。
そして、ついにその日が訪れた。
彼女が、この村を出て都会へ行くと――。
麦わら帽子を被り、檸檬色のワンピースを着た小鳥は、夏の陽射しを浴びて、まるで向日葵のように輝いて見えた。
「行ってきます、紫ちゃん。お盆には必ず帰ってくるからね」
最後に、小鳥はいつものように紫の胸に飛び込んできた。彼女の華奢で柔らかい感触、温もり、甘く心地よい匂い、頬に当たる吐息。瞳に映る自分の姿を見つめながら、紫は心の中で叫んでいた。
行かないで。ここにいて。私のそばにいて。
でも、口から出たのは違う言葉だった。
「気をつけて行ってらっしゃい」
素直に応援していると言えたらよかったのに。
でも、できなかった。私は、この村から出ることができない存在だから。神として、この地に根ざした存在だから。小鳥のように自由に空を飛ぶことはできない。
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遠くの空を見つめていると、神社の両脇に鎮座する狐の石像がぴくりと動いた。右の狐がゆっくりと頭を持ち上げ、左の狐が尻尾を振る。そして台座から飛び降りると、
紫の傍らまでやってきた。
「紫様、また小鳥のことを考えてるんでしょう?」
「そんなに恋しいなら、仲間にしちゃえばいいじゃない」
「そしたらずーっと一緒にいられるよ」
右の狐が高い声で囁き、左の狐が低い声で続ける。
その提案に、紫の心は激しく動いた。
確かに、神としての力を使えば可能だろう。
夫婦の契りを交わし、子を授かることで、相手を己の元に縛りつけることもできる。でも、それには互いの同意が必要。相手の心からの愛が必要。
小鳥が紫に抱いているのは、憧れや慕情。
子供の頃からの純粋な愛着――。
「だめよ」
紫は小さく首を振った。
「小鳥ちゃんの気持ちを無視して、私の都合だけで彼女を縛ることはできない」
「でも、このまま指をくわえて見てるだけ?」
「都会で誰か他の人と恋に落ちちゃうかもしれないよ?」
狐たちの言葉が、心の奥の暗い部分に響く。
それでも、紫は目を閉じて首を振った。
愛しているからこそ、彼女の自由を奪いたくない。
たとえ私の心が引き裂かれても。
「もういいの。放っておいてちょうだい」
あれこれ言ってくる狐たちを手で制して、紫は静かに立ち上がった。そして袖の中から小さな沈丁花の花を取り出す。紫色の花びらは香り高く、上品で控えめで、心に深く染み入るように美しい。
手のひらの上の小さな花を見つめて、そっと息を吹きかけた。花びらがひらひらと舞い上がり、風に乗って遠くの空へと舞っていく。まるで小さな蝶のように、山の向こうへ、雲の彼方へと消えていく。
どうか、この香りがあの子の元へ届いてくれますように。そして、いつかまた――私のもとに、帰ってきてくれますように。
紫の祈りは、遠くの空へ溶けていった。