神社に暮らす少女
茜色に染まった空の下、母娘の影が長く伸び、踊るように揺れている。
「夕焼け小焼けで日が暮れて〜」
夏の夕暮れに響く澄んだ歌声。
ふいに、歌声が途切れた。母が立ち止まって、遥か遠くの空を見つめた。雲間から差し込む鮮やかな夕日が、母の頬を橙色に染める。
「お母さん、どうしたの?」
娘が見上げると、母はハッとしたような表情を見せ、いつものように優しく微笑みかけた。けれど、その瞳はどこか遠くを映しているようで、うっすらと涙の膜で潤んでいるような気がした。
「ううん、なんでもないの」
母は空いた手を丸く膨らんだお腹にそっと当て、中にいる小さな命に語りかけるように、ゆっくりと撫でる。
そして何も言わずに、また歩き出した。
娘の小さな手を、今度はより強く握りしめて。
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オフィス街の屋上庭園。
小鳥はペットボトルを手に、遠くに霞む山並みを眺めていた。空は高く青く、雲がゆっくりと流れている。そんな時、不意に吹いた風に乗って、懐かしい香りが頬を撫でていった。
紫ちゃん——。
胸の奥で、小さく呟く。
実家の村の小さな神社。朱色の鳥居の奥、苔むした石段の先にある古いお社。そこに暮らしていた少女の名前。
いつも巫女装束に身を包み、長い黒髪を丁寧に結い上げて。その微笑みは春の陽だまりのように温かく、その手は夏の小川のように冷たく、その香りは沈丁花のように上品だった。
小鳥は胸ポケットから匂い袋を取り出した。
薄紫色の絹で作られた、手のひらに収まるほど小さなお守り。村を出る日、紫ちゃんが「小鳥ちゃんが迷子にならないように」と言って手渡してくれたもの。
鼻先に近づけて、そっと息を吸い込むと、優しい香りが胸の奥まで染み渡っていく。
(紫ちゃん、元気にしてるかな。お盆になったら、久しぶりに実家に帰ってみようか)
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ミンミンゼミの声が耳をつんざくように響き、緑豊かな田んぼ道に陽炎がゆらゆらと立ち上っている。懐かしい風景が目の前に広がっていた。
「おかえり!」
実家の玄関先で、両親と祖父母が手を振って出迎えてくれた。みんな少し年を重ねたけれど、笑顔は変わらず温かい。
「エアコンがまた壊れちゃってね」と母が苦笑いしながら言った。扇風機が首を振りながら回っているが、熱い空気をかき混ぜているだけで、汗が頬を伝い落ちる。
「小鳥も年頃だし、そろそろ結婚は考えないのかい?孫の顔も見てみたいしねぇ」
帰ってくる度に祖母が決まって口にする話題を、小鳥は曖昧に笑いながら受け流していた。
夕方、小鳥は一人で神社へ向かった。
昔と変わらない石段を一段ずつ踏みしめながら。セミの声が次第に遠ざかり、代わりに風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。朱色の鳥居をくぐると、ずっと会いたかったあの人がいた。
「紫ちゃん!」
小鳥は子供の頃のように駆け寄り、勢いよく抱きく。紫は少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しい笑顔を浮かべ、小鳥を受け止めてくれた。
「おかえりなさい、小鳥ちゃん」
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神社の奥の縁側で、二人は横に並んで座っていた。紫が用意してくれた白玉団子は上品な甘さで、番茶の香りと相まって心を落ち着かせてくれる。
この神社は外から見るよりもずっと奥行きがあり、薄暗い廊下の先は見通せないほど続いている。不思議な造りだなと子どもの頃から思っていた。
「前より少し痩せたかな?ちゃんと食べてる?」
紫の手が小鳥の頬に触れる。ひんやりとしていて気持ちいい――小鳥は思わず紫の手に顔を擦り付けた。小鳥のそのしぐさに、紫もまた目を細める。
「それでさ、おばあちゃんったら結婚結婚って。全然その気ないのに」
愚痴をこぼす小鳥を微笑みながら見つめる紫。
昔と変わらない慈愛に満ちた優しい眼差し。
「でも」と小鳥は冗談めかして言った。
「紫ちゃんがお嫁さんだったら嬉しいかも」
「えっ」
一人暮らしは気楽だけれど、時々無性に寂しくなる。帰宅した時に「おかえりなさい」と言ってくれる人がいたら。それが紫だったら。そんなことを考えながら、小鳥は紫の白い手をそっと取った。
「私と結婚してくれませんか?……なーんてね!」
冗談だと笑って見せたのに、紫は急に俯いてしまった。長い沈黙が流れる。何か変なことを言ってしまったのだろうか。心配になって紫の顔を覗き込もうとした時、
「小鳥ちゃん、夕立が来るからもう帰った方がいいかも」
見上げると、先ほどまで晴れていた空に黒い雲が立ち込めていた。
「――それに、準備をしないといけないの」
準備? お祭りでもあるのだろうか。
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深夜、小鳥は母と祖母に起こされた。まだ眠い頭のまま、鏡の前に座らされ、いつもと違う丁寧な化粧を施される。それから真っ白な着物を着せられ、髪を結い上げられ、気がつくと自分は花嫁のような姿になっていた。
(これ……白無垢だよね?)
「お母さん、今から何かあるの?」
小鳥が振り向いて尋ねるが、母は何も答えずただ優しく微笑むだけ。それが何故だか酷く不気味に思えた。
外に出ると、村中の人たちが白い装束を着て道の両脇に並んでいた。みんな表情がぼんやりとしていてどこか様子がおかしい。月明かりに照らされた列は、神社まで続いている。
神社に辿り着くと、そこには同じように白無垢を着た紫が立っていた。月光の下、彼女の姿は幻想的なほど美しく、まるで天女のようだった。
「紫ちゃん、これって何かのお祭り?」
「うん」紫は目を伏せ、頬を薄紅色に染めながら答えた。「夫婦の契りを結ぶお祭り」
そして深く頭を下げる。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
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「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、紫ちゃん」
「お母様、ただいまー!」
石段を一段ずつ上がっていくと、神社の境内で巫女装束を着た美しい少女が笑顔で出迎えてくれた。二人の元まで来ると、紫はその白い手で小鳥の膨らんだお腹をそっと撫でた。
「身重なのに、階段はきつかったでしょう?」
「ううん、大丈夫。たまには運動もしないとね」
「お腹すいたー!」
「うふふ、ご飯の支度はできていますよ」
無邪気に声を上げる娘に紫は優しく微笑みかけ、三人は神社の奥へと吸い込まれるように入っていった。