【2】①
家に帰った時、ドアの脇に放り出したままだった濡れた傘。
あとから帰って来たお母さんに注意されて、仕方なく外に出る。玄関の前で傘を畳んでたあたしは、たまたま一哉が廊下を歩いて来たのに気づいた。
制服姿で、オレンジの花柄の可愛い傘を持って。
「今帰り? こんな時間までどこ行ってたの?」
「……なんでお前にそんなこと訊かれなきゃなんねーんだ? いちいち詮索すんなよ」
一歩近づいて何気なく訊いたあたしに向かって、眉をしかめた一哉が憮然として答える。
今までは何気なく聞き流してた尖った声が、今日は何故かはっきり胸に突き刺さった。
だからつい……。
「その傘、もしかして水島さんの?」
たった一人思い当たる女の子の名前を口にしたあたしに、目の前の彼が瞠目する。
「どうしてお前がその名前──。そもそもお前は俺の家族でも何でもないし、全然関係ないだろ? 彼女に何か言ったら許さねーからな!」
一哉の、まるで敵に対するような冷たい口調。
「何、って。あたしが何言うってのよ!」
「お前、うぜーんだよ。いっつも上から目線でえらそーに命令ばっかで。俺だけならまだ我慢するけど、水島さんには絶対に迷惑掛けんなよ!」
いい加減にしてくれ、って吐き捨てて、一哉は二つ手前の自分ちのドアを開けてあたしの視界から消えた。
──うぜーんだよ。命令ばっか。
一哉の言葉に背筋が冷えて行く気がした。まるで雨が降り注いで濡れたみたいに。
仲のいい幼馴染みへの、ごく普通の態度だと思ってた。
悪気なんかまるでなかったよ。
ちっちゃいころから気心知れてて、互いに踏み込める関係だって信じてた。でもそれはあたしだけだった……?
確かに、ただのクラスメイト程度には絶対こんな態度取らない。男の子だけじゃなくて女の子にだって。
それくらい親しい、何でも許せる、許される間柄のつもりでいた。それもあたしの単なる勘違いだったってこと?
そこまで嫌がられてるなんて、今の今まで知らなかったのよ。何も見えてなかったことにあたしは初めて気付いた。
ああ、そうか。「好感度マイナス」って、これがきっと夏穂の言いたかったこと、なんだ。
もう七月だって言うのに、指先から凍えて固まったみたいに、身体が動かない。
あたしたちは幼馴染みで、ずっと一緒にいるはずだったのに。『幼馴染み』って言葉を絶対視しすぎて、特別な存在だと思い込んでただけなのかな。
自分の無力さに涙が溢れそうになる。
廊下の向こう端で、エレベータの扉が開いて誰かが下りてくる気配がした。同時に、それまでもずっと降ってたはずの雨の音が突然耳に流れ込んで来る。
金縛りにあったみたいに一人廊下の真ん中に立ち尽くしていたあたしは、どうにか足を動かしてすぐ目の前の自宅のドアノブを掴んだ。