22.天使が舞い降りた
『なんという危ない真似を。俺だったからよかったものの、危うく下にいる人間まで大怪我するところだぞ』
憤ったように吐き捨てる彼に、私はようやく我に返った。
『も、申し訳ありませんっ! 助けてくださってありがとうございます。お怪我はございませんでしたか?』
真っ赤になって頭を下げれば、先生が朗らかな笑い声を立てた。ぽんと私の背中を叩き、「大丈夫だとも」といたずらっぽく片目をつぶってみせる。
『彼は腕の立つ武芸者だから、受け身ぐらい何ともないさ。――紹介しよう。彼はアッシュ・フォード伯爵、この学園の卒業生だよ』
そしてアッシュ様にも私を紹介してくれる。アッシュ様はにこりともせず、申し訳程度に私に会釈した。
『……実はね、アッシュ君にセシリア君を雇えないかと頼んでみたのだが』
声をひそめた先生が、私とアッシュ様を見比べて困ったように白い眉を下げる。
『あいにく領地での人手は足りているそうだ。けれど心当たりを探してみると約束してくれたから、もしかすると良い縁が』
『――セシリア・アデルッ!!』
階上から突然怒声が降ってきて、私達は一斉に顔を上げた。肩で息をした副学長が、荒々しい足音を立ててこちらに向かってくる。
『今すぐ部屋に戻り、学長に許しを乞いなさいッ! 退学当日に暴力事件を、まして学長を殴り倒すとは何たる恐ろしい女だ!』
ぎょっとするアッシュ様と先生を横目に、私は震える足を叱咤して前に出た。ぶくぶくと肥えた副学長に、せいぜい優雅にお辞儀してみせる。
『大変申し訳ありませんでした。ですが、私は』
『なんとなんと、セシリア君。本当に学長を殴り殺してしまったのかね?』
なぜか先生がうきうきと声を弾ませた。
アッシュ様がのけ反ったので、私は両手を振り回して大慌てで否定する。
『違います! 殴り倒したのではなく蹴り倒したのであって、あっ、最後に叩き潰しはしましたけど。でも誓って殺してはいないです!』
一生懸命に言い募ると、アッシュ様はほっとしたように息をついた。けれど先生はしょんぼりと肩を落とす。
『なぁんだ。生きておるのか』
『えぇい何をごちゃごちゃとっ! セシリア・アデル! 今すぐ命令に従いなさい!!』
『お断りいたします』
怒り狂う副学長に、私はこれ見よがしに長い髪を払った。ツンと高慢に顎を反らしてみせる。
『私はもうこの学園の生徒ではありませんので、命令に従う義務はございません。ついでに学長の愛人になる気も微塵もございません。どれだけ大金を積まれたってお断りだわ、おととい来やがれです』
イーッと歯を見せ、アッシュ様と先生に目を合わせないまま一礼した。踵を返し、下を向いて一人きりで歩き出す。
ああ最悪だ、きっとアッシュ様の私への心象は最悪だろう。就職先の紹介なんかしてくれっこない。
唇を噛み、学園の正門を睨み据えた。長年慣れ親しんだこの学校を、こんな形で去ることになるなんて夢にも思わなかった――……
◇
久しぶりにあの日のことを思い出して、私はくすくすと笑い出してしまう。
虎の巻から顔を上げアッシュ様を窺うと、アッシュ様もおかしそうに頬をゆるめていた。
しばし見つめ合ってから虎の巻に視線を戻し、ぱらりとめくってみる。
『正門の前で、ようやく彼女に追いついた。待ってくれ、と叫んだ俺を、彼女が驚いたように振り返る』
『亜麻色の髪が揺れて、はっとする。落ちてきた彼女と目が合った時と全く同じ。うるさいほどに心臓の鼓動が速まる』
――俺は明日、領地に戻る。下働きで構わないなら、お前も付いてくるがいい
『ああ、なぜ俺はこんな素っ気ない物言いしかできないのだ! 本音は彼女を連れていきたいだけのくせに。素直じゃない自分を、ぶん殴って痛めつけてやりたくなる。けれど俺の言葉に、彼女はみるみる顔を輝かせた』
――よろしいのですか!? 嬉しいっ。私、一生懸命に働きます!
――ふ、ふん。せいぜい首にならないよう努力することだな
『俺の阿呆! 馬鹿者! 大間抜け!』
「あははははっ」
「わ、笑うなセシリア!」
声を上げて笑い出した私に、アッシュ様が虎の巻・二巻を書く手を止める。私はにじんだ涙をぬぐい、弾むようにアッシュ様に歩み寄った。
「ごめんなさい。でも私、本当に嬉しかったんですよ。あの日のアッシュ様は、紛れもなく私の救いの神でした」
「そ、そうか? だが俺は所詮、先生にはかなわなかった。結局あの学長を処理してくれたのは先生なのだから、感謝してもしきれない」
アッシュ様が照れくさそうに微笑む。
アッシュ様の言う通り、事後処理は全部先生がしてくれた。
どうやら学長は婿養子だったらしく、先生は意気揚々と奥様に愛人の件を告げ口したのだそうな。当然奥様は烈火のごとく怒り狂い、学長は土下座して謝ったものの許してもらえず、ついでに学園での不正も続々発覚して、腰巾着の副学長ともども失脚したらしい。
予算を厳しく制限されていた先生は、これで研究費がいっぱい手に入るぅ〜と小躍りして喜んでいた。お役に立てて何よりです。
「懐かしいなぁ。次に王都に行く時は、私も連れて行ってくださいね? 先生に結婚のご報告をしなくっちゃ」
「……ああ。そうだな」
アッシュ様が少しだけ寂しそうに目を伏せる。私は黙って彼の手に自分の手を重ねた。
(……大丈夫)
次に先生に会う時までに、きっと呪いを解いてみせるから。
心の中で力強く宣言して、アッシュ様の椅子に寄りかかるように座り込んだ。ぱらぱらとページを戻し、もう一度あの日の出来事を読み返す。
『ぎゃああっ、という野太い叫び声が聞こえて足を止めた』
『影が落ち、あっと思う間もなく誰かが降ってくる。俺はとっさに高齢の先生をかばって前に出た』
『衝撃は強かったものの、なんとか受け止めきれた。制服を着ている。どうやらこの学園の生徒らしい。怪我はないかと彼女の顔を覗き込んだ瞬間、心臓がひっくり返るような心地がした』
きつく閉じた目、長いまつ毛。
触れた腕をくすぐる、やわらかな亜麻色の髪。
――天使がこの手に、舞い降りた




