1.納得がいかないので突撃してみる
「――ゆめゆめ勘違いしないように。この婚姻は、あくまで仮初めに過ぎないのだから」
ほんの少しの体温すら感じさせない、冷えきった声音で男が言い放つ。
二人きりの部屋の中、窓の隙間から吹き込む夜風にカーテンが揺れる。月明かりに照らされるのは、さらさらと柔らかそうな白金の髪と、まるで作り物のように端正な顔立ち。
初夜の寝衣を身にまとった私は、声もなく彼の深い青の瞳を見つめ返した。
「一年だ。一年経てば俺はお前と離縁して、正式な妻と婚姻を結び直す」
「…………」
「お前には充分な手切れ金を用意しよう。その金を元手にどう生計を立てていくのか、一年の間に考えておくがいい」
無機質な眼差しを私に向けると、男はさっさと踵を返した。扉に向かう男の背中に、私はとっさに手を伸ばす。
「お、お待ちください。旦那様……っ」
緊張で喉がからからになっていたせいか、ささやくような声しか出なかった。男はぴくりと反応すると、足を止めて振り返る。
「――アッシュ」
「え?」
間抜けな声を上げる私に、男は不快げに眉根を寄せた。
「アッシュ、だ。仮初めとはいえ、お前はもう使用人ではなく俺の妻なのだから、今後はきちんと名で呼ぶように」
「え、あ、わかりました。じゃあ、『アッシュ』様……?」
おずおずと彼の名を呼び、ためらいながらも歩み寄る。
アッシュ・フォード。
代替わりしてまだ数年の伯爵家の若き当主で、年は二十二歳。十八歳の私、セシリア・アデルは今日、彼の妻となった。
我ながら全く実感が湧かなくて、戸惑いのまま長身の彼をじっと見上げる。
傷ひとつないなめらかな頬は、月明かりを映して青白く輝いていた。本当に血の通っていない人形のようで、私は馬鹿みたいに呆けて彼の美しさに見惚れてしまう。
「…………」
「…………」
「……み、見すぎだっ」
ややあって、アッシュ様が怒ったように顔を背けた。
叱責されて、私ははっと我に返る。い、いけない。ちょっと無作法だったかも。
慌てる私を、アッシュ様はもう一顧だにしなかった。足を早めて一直線に扉に向かい、こちらを振り返りもせずに言い放つ。
「ここはお前の寝室で、鍵は俺も持っていない! 俺の部屋はこの隣だが、無論夜中に乱入したりなどしないから安心して休むがいいっ。戸締まりだけはしっかりしておけ何か質問は!?」
「あ、えと」
「ないなら俺はもう寝るっお休み良い夢を!」
「お、おや」
すみなさい、まで言えなかった。
激しく音を立てて扉が閉まり、部屋はしんと静まり返る。
なんだか力が抜けてしまって、私は崩れ落ちるようにしてベッドに腰掛けた。メイド長の着せてくれた、シルクの寝衣の裾がふわりと揺れる。ああ、なんて素敵な着心地……じゃなくって。
「……どゆこと?」
私はぽかんと虚空を見つめた。
仮初めの婚姻――は、別にいい。
だって、アッシュ様は私が好きで結婚したわけじゃないのだから。彼はただ、不遇な私を助けようとしてくれただけなのだ。
(没落貴族の私を、アッシュ様はお屋敷のメイドとして雇ってくださった)
借金がかさみ、みるみる落ちぶれていった我が家。助けたところで何の益もないはずなのに、ただ同じ学園の出身だというだけで手を差し伸べてくれた稀有なひと。
王都の学園を中退した私は、家族の元を離れてフォード伯爵領へと旅立った。
緑あふれて花々の咲き誇る、澄んだ空気の明るい領地。農作物が豊富で、領民も皆朗らかで心優しかった。
私はいっぺんでここが気に入って、この地に骨を埋める覚悟を決めた。私の一生をかけて、アッシュ様に恩返しすると決めたのだ。
(それなのに……)
王都に残った父が、やらかした。
起死回生を図ろうとしたのだろう、投機に手を出して借金を膨らませてしまった。そして金貸しに、返済の代わりに娘を差し出すと約束したのだ……。
借金取りと共に私を迎えに来た父は、涙ながらに私に謝罪した。
けれど、どれだけ謝られたところで許せるはずもなく。頭が真っ白になってただ震えるしかなかった私に、アッシュ様が再び手を差し伸べてくれたのだ。
『借金は俺が肩代わりしよう』
床に這いつくばる父に、そう静かに告げた。父は一瞬ぽかんとして、それからみるみる顔に喜色を浮かべた。
『あ、ありがっ』
『ただし、貴様には今すぐ娘と絶縁してもらう。彼女――……セシリアは俺が買い上げた。今日より彼女を俺の妻とする』
アッシュ様の突然の宣言に、私は声を失った。その内容はもちろんだが、何より彼が私の名を呼んだことに驚いたのだ。
(――旦那様、私の名前を覚えていたの!?)
アッシュ様の下で働き出して二年、彼が私を呼んだことなど一度もなかった。
私が茫然としている間に、事は一気におさまった。アッシュ様は契約書を用意して父にサインさせると、借金取りに金を渡し借用書を破り捨て、彼らを容赦なく屋敷から叩き出した。
ようやく落ち着きを取り戻した屋敷の中で、アッシュ様は静かに使用人一同を見渡した。
『そういう事だ。女主人の部屋や調度、衣装をただちに整えよ。届け出のみで婚儀は行わぬから、さして準備には手間取るまい。セシリア、異論はないな?』
『は、はい』
そう答えるのが精一杯だった。
アッシュ様の号令のもと、優秀な同僚達は一斉にてきぱきと働き出した。さすがにその日のうちに、とはいかなかったものの、一週間も経たずに新たな生活の基盤が出来上がった。
アッシュ様の宣言通り婚儀は行われず、私は現実感のないまま婚姻の誓約書にサインしただけ。そうして迎えたのが、今日の初夜だったわけなのだけれど――……
(いや、だからどゆこと!?)
私はベッドの上で盛大に頭を抱え込む。
借金の肩代わり……からの仮初めの婚姻。
からの一年後の離縁、そしてまさかの手切れ金っ!?
(――それじゃあアッシュ様は大損じゃない!)
慈善事業じゃないのだから、これは明らかにおかしい。
買い取った妻だと言うのなら、アッシュ様はきちんと私を役立てるべきだ。いいように利用してくれたって構わないのに!
(こんなの絶対絶対、納得いかないっ!)
自分で言うのもなんだが、私は元々負けん気の強い性格だ。
だからこそ一人で見知らぬ土地に越して来られたし、貴族という身分を捨ててメイドとしてあくせく働けた。あの日だってアッシュ様が助けてくれずとも、父をぶん殴って自分から絶縁宣言できたのだ……多分。
「……っ」
私は力いっぱいこぶしを握って立ち上がった。
ショールを肩にはおり、扉を静かに閉めて自室から忍び出る。息を殺し、抜き足差し足で隣の部屋へ。
コツコツと小さくノックをすれば、すぐに中から反応があった。どうやら私とは思っていないらしく、「デュークか? 構わんから入れ」と入室の許可をくれる。
鍵は……よし、開いている!
「――アッシュ様っ! たのもおおおおっ!!」
「ぎゃあああああっ!?」
扉を蹴破った私に、アッシュ様が戦慄の悲鳴を上げた。