だから僕は、犬が飼えない。
夏の夜。
風呂上がりにベランダで、煙草で一服するのがここ最近の習慣だ。
と言っても、タワーマンションの林の中、地上4階から見える景色なんて無機質で物悲しいけれど、夜風だけは立派なものだ。火照った体がゆるく冷めていくのがいい。
今日もベランダに出て、そして、言葉を失った。
その直後、歓喜が沸き起こる。
シベリアンハスキーだ!
僕の腹に頭が届くほど大きな、シベリアンハスキー。それが、4階の我がベランダで尻尾を振っている。
しかしおかしい。隣人のベランダまでは、飛び移るには少し距離がある。鍵もオートロックで、外出時は窓も開けない。
どこから入ってきたのだろう。人間が玄関から入れたのでなければ、どこかのベランダから飛び移ってきたのだろうか。しかし容易なことではない。
などと考えていると、そいつは水色と黄色のオッドアイでもって、こちらを見てくる。赤い首輪がついているけれど、連絡先などの情報は見当たらない。
「どこから来たの、きみ」
とりあえず撫でさせてもらうと、僕の手を食べようと、口をわうわう動かした。試しに食べさせてみると、甘噛で食い込む歯が愛しい。
このところ、犬病の発作が酷かった。犬が飼いたくて仕方がないのだ。ショップを覗いては指を噛み、散歩中の後ろ姿を眺めては泪を飲んだ。そんな日常に突如この僥倖である。
「おいで、シロ」
ひとまず部屋にあげようとするも、ハスキーは動かない。
「……どうしたんだ?」
尻尾を振りながら前足でタックルしてくる様子からも、警戒しているようには見えない。おやつで釣ってみようかとも考えたが、他人様の犬にむやみやたらと餌付けするのもどうかと思い、やめた。そもそも、餌という利害関係で仲良くなっても嬉しくない。
僕は心の底からシロの天真爛漫さを愛しく思い、シロはそれを匂いで受け取った。僕たちは仲良くなった。お腹まで見せてくれた。一瞬、顔を埋めてしまいたい欲求に目眩がしたが、まだ見ぬ飼い主の存在が頭をよぎった。僕だったら、嫉妬に怒り狂うだろうから自重しておこう。
とりあえず今日は眠る。自分でここにやって来たということは、自分で帰ることもできるのかもしれない。それに、明日になれば電柱に、『この子を探しています』なんて貼り紙が出るかもしれない。
翌朝。ベランダにシロ……あのシベリアンハスキーはいなかった。
その代わり、自分の怠惰と無頓着を突きつけられる。ベランダは、泥やら何やらがこびりついており、酷く汚れていた。今まで気にしたことも無かったけれど、またシロが来た時、綺麗な方がいい。
重曹がいいらしい、と聞いて買って、新品未開封のままのやつがある。それを新調したタワシで磨いてみる。が、なかなか手ごわい。シミになって残っているようで、色素が薄まる気配もない。仕方なく段ボールを敷いてみた。気持ちの問題だ、こういうのは。歓迎の気持ちを、あの素晴らしい嗅覚で汲み取ってくれるだろう。
タワシを買うついでに近所の電柱を確認してみたけれど、貼り紙は無かった。
野生のハスキーだろうか。そんなわけあるだろうか。悶々としながら、シャンプーですっきりしたあと。 恐る恐るベランダを覗くと、きちんとおすわりした巨体が見えた。
「シロ。お前、どこにいたんだ?」
彼は家の中に入らないので、ベランダでの長期戦を覚悟して僕は、クローゼットを開く。タワマン林の四階。景色は悪いが、ビル風なら一丁前だ。夏とはいえ湯冷めする。
ハンガーにかけた服が、クローゼットの中に壁を作っている。クリーニングのカバーがかかったままのコート。たたむのが面倒だったtシャツ。ジャケットや、薄手のパーカー、ヒト。
……首に太い縄が食い込んで、体中のあらゆる場所から体液が流れ出ている。皮膚は変色し、腐敗が進んでいることが分かる。
僕は、またもや言葉を失った。
だって、服に紛れて、ヒトがぶら下がっているのだ。
真っ白な頭が少し色を取り戻して、まず、救急車を呼ぶべきだと思った。この状態から助かるのかわからないが、それでも、できることをするべきだと思った。
しかし、ふと目が覚めた。
どれだけ深く息をしても、嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いしかしないのだ。
そこで納得した。この遺体と、シロについて。
僕は、心霊の類を信じない。
信じていなかった。そのせいで、家賃格安の事故物件に住んでいる。恐らくそれが答えだろう。俺はこの瞬間をもって、信じる派に編入する。
この人がどんな思いで命を絶ったか知らないが、遊びたがりのシロをああやって置いていくのは許せない。お腹が減っていただろう。寒く、暑く、そして寂しかっただろう。
だから僕は、犬が飼えないのだ。
遺体の隣にかかっているパーカーを着て、シロの元へ向かう。せめてあの子が成仏するまでは、ここにいよう。
命には責任が伴う