16.捜索
香苗は悲鳴を上げたり嘔吐したりこそしなかったが、流石にショックを受けた様子だった。
「なにこれ……大変、警察に電話しなきゃ――」
そう言ってスマホを取り出す。だが、僕はとっさにそれを止めた。
「――ちょっと待って」
「え、なんで」
「うまく説明できないけど……少しだけ待って」
本来なら香苗が正しい。目の前の惨状は殺人か、少なくとも傷害事件の痕跡ということになる。
直ぐに警察を呼ぶべきだ――常識は僕の脳内でも声高にそう主張しているが、どうしたことか、そんなまともな対応がなぜかひどくためらわれた。
ここに至るまでの曖昧で怪しげな経緯のせいか、それとも――
そこまで自問したところで、僕はその場で感じていた違和感の原因の一つを捉えていた。
玉砂利を荒らさぬよう、辺りを浸して半ば乾きかけた血液らしきものを踏まないよう、注意を払いながら、犬走りの上に投げ出された肉塊に近づく。
血管の浮いた、色白の太い腕だ。皮膚にはシミの類も見当たらず、比較的に若く見えた。手首から先は引き攣って何かを掴むような形をとり、肩に近いほうはひどく乱暴にちぎり取られているように見えた。
(……おかしいな)
腕の切断部には出血の痕跡がない。傷の形も異様だった。
不規則に並んだ、指くらいの太さの丸ノミのような物でえぐったら、ちょうどこんな痕がつくだろうか?
そして、その部分の肉は何かで灼いたように黒く変色し、表面が乾いていた。熱して焼き固めながら食いちぎったとでもいうのか?
「父さん。これどう思う……?」
父を手招きして、その腕を見せる。父は老眼鏡を額に跳ね上げて、その腕に顔を近づけた。一瞬息をのみ、ゆっくり吐き出しながら首をひねる。
「どう、と言われてもちょっとな。何か獣に食いちぎられでもしたようだが、こんな噛み痕を残す生物には――まるで心当たりがない」
「あー、やっぱりか。これ、警察の鑑識とかで解明できるかな……?」
そう言いながら父の表情をうかがってみる。驚きと困惑が貼りついているが、その奥に抑えようのない好奇心も覗いているように思えた。
「たぶん無理だな。だが、何でそんなことを?」
「うん。警察を呼ぶのは仕方ないんだけど、その前に――伯父さんの遺品とかについて、この現場内で手に入る手掛かりは確保しとくべきじゃないかって」
「……分からないじゃないが、そりゃあ、証拠隠滅になりゃせんか」
「もちろん、それは気をつけなきゃだけど」
頭を巡らす――
吉野氏は今ここにいない。あの腕の主は不明だが、皮膚の感じからして六十を超えている吉野氏のものではなさそうだ。とすると、ここには。
「ここには……血液の主と腕の主と、吉野さんと、腕を食いちぎった何かと、吉野さんを連れ出した誰かがいた」
「少なくとも五体以上の人か何か、か?」
「……いくつかは重複してるかもしれないし、役割一つに複数の人間がいたかもしれないけどね」
先ほどすれ違った応現雷天院の軽ワゴンを思い返す。詰めこんで恐らく七人かそこら。それはそうとして。
「吉野さんは、明日僕たちと――当初の予定では僕一人とだけど――会うつもりだった。それが急な来訪者のせいで実行できないとなったら……なにか、そう。パッと見ただけじゃわからないような手掛かり、とかを……」
残したはずだ。
(僕が電話を受けて、その後音信不通になったのが昨日……)
血液の乾き具合からするとここで何かあったのは今日になってから、という気がする。もしかすると軽ワゴンには吉野氏も乗っていたのかも。
であれば、身に迫る危険を予測して、なにかメッセージくらいは残せたのではないか?
「おや。見覚えのあるような花瓶だと思ったら、これは……」
僕につられたように辺りを睨みまわしていた父が、ふと濡れ縁の片隅に目を止めたらしかった。その視線を追って僕もそちらを見る。素焼きのひょろ長い花瓶が、無造作に横倒しにされて転がっていた。
「あ、うちにあるのと同じ奴……?」
「だなぁ。普通はこの手の焼き物は、釉をかけてきっちり焼くか、撃ち割って廃棄するかだから……未完成品の素焼き物があるのは珍しいな……しかも、ほとんど同じ形だ。たぶん――」
制作年代もほぼ同じだろう、と父は続けた。僕はうなずきながらも、その花瓶をさらに凝視して――そして、気づいた。
「これ、つい最近どっかから引っ張り出したみたいだ」
素焼きの地肌に、細かい綿埃が皮膜のように付着している。濡れ縁まで出した時についたらしい指の痕も見て取れた。そしてその花瓶の陰に、もう一つ。
小さな、銀色の金属片。部分的にメッキの禿げた、真鍮製の小さな鍵だ。
「隆弘。だめだ」
思わず手を伸ばしかけて父に制止された。ああそうだ、これを持っていったら証拠隠滅になる。それに。
「うん。この鍵は多分持って行っても役に立たないよね。どこの鍵か特定できないし、大きさからすると多分、机の鍵とか古い車のキーとかだから……」
頭の中でピン、と何かがつながった気がした。この花瓶と古い鍵は、これ自体が。
僕らが吉野氏抜きで向かうべき場所を伝える為の、巧妙なメッセージなのだ。素焼きの花瓶――未完成品。そして鍵。
「……父さん。よしの窯の、窯そのものがある場所は分かる?」
「あ、ああ。確か、ここからそう遠くない所だな……隣の中関町の、川沿いにある」
「OK。長引くけど仕方ない……香苗、警察に連絡して。事情聴取受けて、それが済んでから窯に行ってみよう」
吉野邸についてからおよそ十分後、香苗がやや上ずった声で、たどたどしく110番通報。
それからさらにおよそ七分ほどで、県警のパトカーがサイレンを響かせながら現場に現れた。