ストーブ麵煙
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、懐かしい写真を持ってきたじゃないか。これ、僕たちが卒業したころの学校のものだろ?
いやあ、覚えているよ。この時は忘れ物が多くて、いつもいつも全教科を持ってきていたっけ。裁縫道具とかポスターカラーも合わせてさ。
置き勉が許されない学校だったから、持ち帰るのも毎度のこと。殻背負ったカタツムリみたいに、せっせこ行き帰りして、修行なんか称していたっけな。
そういえば、このころって暖房といえばストーブが主流だったっけ。
今でこそ冷暖房の完備している家庭がほとんどだけど、当時はまだまだ一般的じゃなくてね。せっかくあるのに、ストーブを使うには学校側からの許可が必要だった。
そして一日中、つけていることも難しい。せいぜい2コマ目くらいまでで、後は日差しの暖めてくるままに任せ、ストーブの電源を切ってしまっていたかな。
そしてやはりというか、普及し始めというのは何かと危ないトラブルが起こる時期でもある。
私の昔話なのだけど、聞いてみないかい?
私が初めて見るストーブは、部屋の隅に置く「反射式」のストーブだった。
その直方体のフォルムは、私にストーブの形を印象付けるに十分で、「対流式」の円筒型のストーブを見たときは、にわかにストーブと信じられなかったっけ。
当時の我が家だと、冬にものを暖める時なら、ほぼコンロではなくストーブが使われていた。電気代の消費を抑えるためでもあったのだろうけど。やはり手近にものがあった方が、何かと都合がいい。
網置いてもちを焼いたり、鍋置いて中身を煮込んだりが、テレビを見てこたつに入りながらできるのはありがたい。それも同じ部屋から一歩も出ることなく、だ。
やがて当時子供だった私も、お湯を暖めるためにストーブを活用する機会が増えた。
メインはカップヌードルだったね。件の事件によって急激に高まった知名度は、もはや一家に一箱のようなノリで、どんどんストックを増していた。
育ち盛りの時分なら、少しでも多くものを口に入れたい。けれどお菓子じゃなく、食い手のあるものが食べたい。
この需要を満たしてくれるのが、カップ麺という手の中におさまるごちそうだったのさ。
その日は、寒風吹きすさぶ休日の昼下がりだった。
家族は所用で、そろって家を空けることになり、私がひとり留守番で残される。
私は自炊をしないし、親が作り置いてくれたものだけだと、どうにも小腹が空く。すると、またカップヌードルの出番だった。
広々としたこたつを、一人で占領。適当にテレビを回しながら、やかんに水を入れに行く。
いつもかなり多めに水を入れている。余分なものは、これまたストーブ脇にポットがあって、余った分もすぐ中へ補充する手はずとなっていた。
ストーブの天板にヤカンを乗せ、こたつでまったりする私。
南寄りの窓から、じわじわ中へ差し込んでくる日差しの温かさも加わって、ついウトウトしかけてしまうも、「ピー!」というヤカンのけたたましさが、一気に意識を引き戻す。
振り返ると、すぼまったヤカンの狭い口から、「出たい、出たい」と必死に主張する湯気たちの姿。こたつの上に、畳んでおいたふきんを手に、そっと持ち上げてやる。
ひな鳥のように、半ば口を開けたカップヌードルは、私に湯を注がれるままじっとしている。以前のように、蓋を全部はがしてしまったせいで、熱を十分閉じ込められず、半端な柔さにしてしまったヘマは、もうしない。
じわじわ増していく、カップ内側のお湯。湯気越しに見る、水かさを確かめながら蓋を閉じ、シールを貼る段でようやく気づいた。
部屋の中が、やけに曇っている。
天井裏でドライアイスでも溶かしたんじゃないかと思うほど、部屋全体を覆いながら、床へ落ちていく湯気たちは、畳に触れてもなかなか消えない。
廊下に通じる戸。ベランダへ通じる網戸。それぞれを開けてやるも、煙たちはなお逃げようとはしてくれなかった。
いよいよ私は、夏以来しまいっぱなしのうちわを取り出す。窓も開放してしまい、自分のまわりを中心にせっせ、せっせとあおいでは、湯気を外へと追い出そうとする。
いくらかは去っていったが、まだまだ少ない。さすがに「妙だなあ」と思いつつも、なかばむきになってうちわをより、ばたつかせだしたとき。
ピー!
またあのヤカンの音が耳をつく。
そういえばカップヌードルを世話してより、ヤカンはストーブの上へ戻していた。だが、その中のお湯は、もうほとんど残っていなかったはずだ。
水から変化し、一気に膨張した水蒸気が勢いよく出る時、ヤカンの音が鳴る。そう聞いていたのに、今度のヤカンはこれっぽっちも湯気をはかない。
その上、ずっと鳴るのではなく、モールス信号のように途切れては響き、途切れたは響きを、優に10秒近く続けていたんだ。
音がおさまり、ヤカンを持ち上げて見たが、降っても中から音は聞こえない。重さだって、ヤカン分しかなかった。
ちょうど今ので、お湯が蒸発しきってしまったのか? 首をかしげながらも、台所へヤカンを戻した私は、いまだ湯気の消え切らぬ中、とっくに時間を過ぎたカップヌードルへ手をかける。
蓋を開けるや、香ばしい匂いと一緒に、飛びついてきたのは中身の麺だった。
えび、ネギ、卵、そして肉。数分前までともに乾ききっていたそれらが、一丸となって私の顔へ迫ってきたんだ。
思わず、のけぞった私の顔の前を、麺たちは汁を飛ばしながら、ほぼ直角にホップ。いまだ天井近くにとどまる湯気の中へと、飛び込んでいった。
見上げた時にはもう、麺の姿を捕らえることはできない。残っていた湯気たちが、我先にと私の頭の上へ集まり、濃いも濃い、雪玉のような塊と化して、視界を塞いでしまっていた。
そうして彼らは形を保ったまま、私が先ほど開けた、窓の先より抜け出ていってしまう。
そのピッチャーが投げた球を思わせる速さ。まるで私がこれまであおぎにあおいだ分を、一気に吐き出したかのようだったよ。
結局、私の手元へ残ったのはスープだけが残った容器と、それに汚れたこたつ布団たちだけ。お汚しはご法度だったから、家族が返ってくるまでの間、死ぬ気できれいにしたっけな。
ひょっとすると、あの湯気たちもカップヌードルを味わいたかったのかもしれない。
蓋をしてから3分。それでも絶えずくっついていれば、情が移るには十分だったのかな。
ストーブたちもそれを間近で何度も見てきたからこそ、あのときに力を貸したんじゃないかと、私には思うんだよ。