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妄想論

共通点相違点は認識の問題

作者: とびうお君

 かなり大きな部分で紐解けた気がする。なろうの相違点を楽しんでる部分を抜き出してみようとするとその点は良く分からない。そもそも相違点なのだから作品ごとに違うんだ。それでも作品ごとに大まかに使う要素使わない要素ってのがある。または薄味になってるとかちょっと濃い目とか。


 分かりやすいのは蜘蛛と転スラの違いかと思う。初期ダンジョン洞窟からスタートするって流れは一緒捕食も同じ。転スラはすぐにここから強くなって出てしまう。蜘蛛はむしろこっちがメインぐらい濃厚。そして弱いをかなり意識してる。これは成長がスローテンポなのを明示してる。これは濃淡で示されるが01になる場合もある。


 なろう小説はなろうに存在するすべての要素を使って物語を作るわけじゃない。それゆえ同じ物語になるはずがないんだ。


 次になろうでアニメ関係者が理解してるか?良く分からない部分で、どうも雑な編集やアニオリが多いのは、そのポイントが見えてないからだと見てる。そこで一番重要な部分を触れると。なろうは俺TUEEEと言うのは氷山の一角で、水源さんがこのことに触れて私より良い言葉を発明してるが、思い通りにしたい制御欲求だと見ている。


 私もそうだと思う。以前水源さんは爽快感と言う話をしていたが、爽快感がなぜ起きるのか?がすっきりしなかった。その理由は爽快感を感じるシーンと言うのは千差万別だろう。ならその違いの方にむしろ感情のポイントがあるからだ。そこでこの言葉が出てきて納得できた。


 ここから私の話に移るが、なろうの主人公は自己投影と言うよりゲームのプレイヤーキャラに似ていると感じている。なろうは共感によって自己を投影してるというよりゲームをプレイヤーとして扱ってる感覚の方が近い。ただ物語の説明のために昔からある自己投影を私は使わせてもらったに過ぎない。本来この言葉ちょっと違和感を抱いていた。


 ただ客観性が有るのでとりあえず使わせてもらう。アニメ関係者がどうして雑な編集を繰り返すか?の部分で多くの物語は観客型として楽しむ形になってて、自己投影もあくまでこの中に組み込まれる。それに対してなろうはゲームのプレイヤーキャラに近いと書いた。自己投影、観客型と言う対比ぐらい視点が異なっている。観客型というのは私の造語。ただ自己投影はしっかりした創作に使われる用語なので対比させれば分かるかと使っている。


 造語なので分かりやすくすると、観客型は火事場の野次馬で、自己投影型は実際火事の被害にあってる家主である。全く楽しみが違うのが分かるだろう。これは人の不幸は蜜の味じゃない。これを勘違いしてる人が多いから紐解けないことが多い。蜜の味は積極的に人の不幸を楽しみにするもので、これはシンプルな脳の刺激の方が大きい。


 例えば視界に入る形で飛び降り自殺を見てしまったとする。ふつうこれでうひゃー自殺者だって転落人生見るのは楽しいー。ってならないでしょ?すぐ感じる感情は多分言葉にできないと思う。じゃこれはなんだ?とやるつもりはない。多分脳の機能で記憶するのが適応的だから残ったんだと思う。重要なものには感情が生じて記憶しやすくするので。


 キャラクターへの感情移入の話ばかり物語と言うのは語られるが、実際人間フィクションなんて基本他人事も最たるものである。だから他人ごとのまま楽しめたらそれはそれでシンプルな刺激なんだ。これを突き詰めたのが携帯小説だと思ってる。意外と携帯小説って物語の王道だと思うが、まあそれしかないから衰退したのだが。


 ネット小説と携帯小説、素人の小説が真逆の方向に行ったのは面白い部分だと思う。ただ言えるのは携帯小説の方がまだネット小説より理解される部分が強い。アニメの作り方は基本こっちが強い。自らもこれを自覚的に作っていたのが虚渕氏だと思う。創る土台が違いすぎるから、多分自分たちが理解やすい形だけを編集強めにしてしまうのだと見てる。


 火事場の家主にとって火事なんて苦痛以外の何物でもない。これでなろうのノーストレスも解ける。じゃ何故私拘ってるのか?でなろうは実際はこれかなり雑。それはなろうは観客としてみて楽しむ部分をすべて放棄したわけじゃないから。そのポイントは異世界や様々なネット小説に多い要素だと見ている。読者は大体自分の好みが反映されてる物語のめんどくさい流れは我慢して見れる。


 さてこれはこれまでのまとめにすぎない。個々は私が別エッセイで書いてる。ここからが本番。なろうは違う物語が同じ物語ばかりに見えてしまうのだが、これ考えてみるとハーレムがそうだと思う。ラブコメとしてみんな大好き選べないよENDとは思えない。そもそもこれ恋愛物として扱って良いのか?


 これをずっと別エッセイで書いてる。前も書いたが、じゃ恋愛カテゴリーに入れても問題ない?ならまず確実に異世界ファンタジーにしろと言われるだろう。雑多な要素の一つでも、恋愛を軸に書いてる物語と同様にハーレムラブコメとしてみてもらえるという事。追放系やザマァはおそらくタグ的な要素を物語ジャンルのようにとらえてしまってる誤謬だと思う。


 実際流れをしっかり作ってるし、ザマァが終わったらつまんなくなる物語が多い。だから違うのは知ってるが、他の要素が絡んだ複雑なも物語なのにその辺りすっかり無視されてる。


 私が何度も書いても違和感を抱かないのは、なろうファンタジーのハーレムを漫画アニメのラブコメの歴史で語ることに何の疑問もないって点である。これは多分脳がそうやって認識するんだろうと思う。中にいる人さえこうなんだから、なろうを楽しんでない批判的な人間ならもっとひどいだろう。


 以前から書いてるがなろうのハーレムが奇妙なのはファンタジーの伝統の竜と姫の物語、ドラゴンスレイヤー的だからだろうと見ている。竜を退治して捕らわれていた姫と結ばれる英雄。姫は同時に竜が隠しもっていた財宝の一つにすぎない。なろうの恋愛要素は女性のモノ化が根底にあると見ている。


 私はなろうが女性蔑視的であると批判したいわけじゃない。男の素直な欲望なんてそんなものだと見てて、特にそういった批判的なものが無い。それを現実と混同する馬鹿は間違いなく困るけど…。後実際はハーレムパーティーが多いのでモノ化はあくまで究極的なものにすぎず。恋愛物語の要素化こそがキーだと見ている。


 なろうは偉く複雑なことしてるならそれは違う。作者の技量の前に複雑な物語なんて読者は求めてない。物語として一部の要素を軸で作ったものとかなり違う。ただ全く別物ならラブコメの流れでなろうを扱う人がいるのがおかしい。ここが多分ザマァ追放系の最大のポイントになる。


 雑多な要素にひきづられたザマァ追放系の物語はちゃんとザマァ追放系として感じられるように作られている。ただそれらは過程が違うなんてレベルの違いじゃない。認識する方が似たものとしてとらえてくれてるだけ。ただそれはバランスを整える高度な技術とかじゃない。一番はリアリティが求められてるわけじゃないって点の整合性の点が軽い点だが、それだけではない。


 何かしらの決定的手抜きがあるが、それは分からない。


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