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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

月光のサンクチュアリ

作者: 白銀海斗

<第1夜 -三日月->


今夜もいつもの場所に向っている。


隅田川に架かる大きな橋のちょうど真ん中

川面に広く張りだしたデッキのようなスペースだ。

そこで僕は深夜にサックスの練習をする。


その日の足どりはいつもより重かった。

大学の演奏会が近付いて少し憂鬱だったからだ。


一歩一歩と橋に近づくたび

両側の水銀灯は長い影をアスファルトに落とす。

川が近くなると水面を吹きわたる風が涼しく通り抜けた。


振り返ると西の空には夏の星座が煌めいている。

そして、どこか物憂げな細い三日月が

その優しい光を川面に落としていた。


きょうのその場所はいつもと違っていた。

見慣れない人影がそこに立っていた。


スーツを着た若い男性が欄干にもたれて

煙草を吸いながら川面に映る街の灯を眺めていた。

年は30才手前ぐらいだろうか。


僕がそこに来たことに気付いたのか

彼はこちらを振り返って軽く僕に会釈した。


「ここで練習?」

僕が手にしているサックスを見ながらそう言った。


「すいません。ちょっとうるさくしてもいいですか?」


「全然構わないよ。俺の事は気にしないで」


彼はそう言うと、川面の方にまた向き直って

煙草をふかしはじめた。


僕は彼から少し離れたところで、

彼に背を向けてサックスの練習を始めた。


しばらく練習を続けているうちに

僕はすっかりそこに彼がいることを忘れてしまっていた。


どれくらい経っただろう。

ふと振り返ると、彼はじっと僕が練習するのを眺めていた。

僕は急に恥ずかしくなった。


「サックス、上手だね。」

彼はそう言った。


水銀灯に照らされた彼の顔は

日に焼けた端正な顔立ちだった。

背は僕よりも高くて

引き締まったスーツ姿が凛としてカッコいい。


なんか僕は急に照れて赤くなってしまった。

「下手な演奏ですいません。」

そう答えるのがやっとだった。


「よかったら。またサックス聞かせてくれるかな?

長期出張でこの近くにしばらく泊まってるんだけど

俺はこっちに知り合いもいないし・・・

時々ここに来ると思うから、また会ったらよろしく。」


彼はそう言って僕に微笑んだ。


思えば、それが彼との最初の出会いだったんだ。



<第2夜 -上弦->


その日の足どりは軽かった。

あの夜会った彼は今日もそこにいるだろうか。


今夜は特別に静かな夜だ。

ひんやりとした夜霧がうっすら川面を包んでいる。


僕以外の全ての人が眠りについて

街全体が霧の中に沈んでしまっているような

そんな静けさに包まれていた。


その場所に彼は居た。

この前と同じように欄干にもたれながら

彼は川面をじっと見つめていた。


なぜだろう。

その横顔は悲しそうに見えた。

彼の背中はどこか脆くて壊れそうで切なかった。


彼は僕に気付いて微笑んでくれた。

「この前はどうも。また会えたね。」


「こんばんは。」

なんだか照れてしまって

そう答えるのがやっとだった。


その日も、彼の横に立って

しばらくサックスの練習をした。


静かな川面にサックスの音だけが反射して

淡いさざ波を奏でては流れていった。


夜の霧は 僕たちの周りを包んで

まるで僕ら2人だけが 世界から切り離されて

ここに人知れず封じられているみたいに思えた。


サックスの音を聴いている彼の横顔は

どこか悲しそうで

僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。


「俺みたいな下手な演奏を聞かせてすみません。

もしかしてサックス好きなんですか?」


僕は練習の手を止めて、そう彼に話かけた。


「昔は・・好きだったかな。」

彼はポツリと答えた。


「昔サックスやってたんですね。」


「兄貴がサックス上手でね。俺によく教えてくれたんだ。」

彼は遠くを見つめながらそう呟いた。


「もしかして、お兄さんってサックス奏者なんですか?

いいなぁ。僕も習いたいな。」僕は無邪気に答えた。


「・・兄貴はもういないよ。3年前に死んだんだ。」

彼は静かにそう言って。黙り込んだ。


「そうなんだ。・・・ごめんなさい。」

しまったと思った。


「俺さ。兄貴のことがホント好きだったんだ。

何でもできる自慢の兄貴でさ。俺の憧れだった。

だから兄貴がサックス教えてくれてすごく嬉しかった。


でも、あの年、兄貴が急に結婚して

ずっと遠くに行っちゃったように感じた。


たぶん、兄貴はそんな俺の気持ち分かってたんだと思う。

久しぶりに2人だけで旅行に出かけようって

兄貴の方から俺を誘ってくれたんだ。


俺はホントは嬉しかったんだ。

でも素直じゃないから


『兄貴にはもう奥さんがいるんだろ?

なんで俺なんか構うんだよ。ほっといてくれよ』って言ったんだ。

子供みたいに突っぱねてさ。ホント笑えるよな?


迎えに来た兄貴の車に、あの日俺は乗らなかった。

結局、兄貴だけが旅行先に行ったんだ。


その帰り道、兄貴の車が事故を起こしてさ。

大っきなトラックと正面衝突して、車は大破した。

兄貴は即死だった。

後から聞いた話だと、かなりの量の酒を飲んでたらしい」


彼はそう言ってから、ずっと黙りこんだ。


「俺があの日一緒に行ってれば、兄貴は死ななかった。

俺が・・・兄貴を殺したんだ・・」


震える声を絞り出して、彼はそう言った。

彼の瞳には涙が溢れていた。


どうしてそんなことをしたのか分からない。

僕は気が付くと、彼の背中をぎゅっと抱きしめていた。


「絶対そんなことないから。きっと誰も悪くないから・・」

彼の背中に顔を当てて、僕は泣いていた。


「なんでお前が泣くんだよ・・バカだな。」

彼は振り返って、小さく嗚咽する僕を優しく抱きしめてくれた。


川岸に高く立ち並んだ街の灯は

青い燐光となって ぼうっと煙るように

夜霧の中で付いたり消えたりを繰り返している。

虚ろな川面には 上弦の半弧がその輪郭を浮かべている。



<第3夜 -満月->


僕は今夜もあの橋へ向かっている。

今夜は満月だ。

月はその優しい光で街全体を照らしていた。


挿絵(By みてみん)


その日、橋の真ん中にやって来てみると

彼の姿はそこには無かった。


「今日は来ないのかな。」

少し残念な気持ちのままで

いつものようにサックスの練習を始めることにした。


演奏会までもう日が無いんだけど

この課題曲はどうしても途中で間違えてしまって

なかなか上手くいかない。


でも、そうやって時間が無いと思うと、

ますます焦ってしまって上手くいかない。


どのぐらいの時間

そうやって練習していたのか覚えてないけど

気が付くと、練習している僕を、

彼が少し横でじっと眺めていた。


「こんばんは。いつからそこにいたんですか?」

僕はちょっとビックリして、そう訊いた。


「ずっと前からいたよ」

彼は少し微笑みながら、僕を見つめている。


明るい満月に照らされているからか、

今夜は、彼の顔や表情がこの前よりもはっきりと見える。


少し日焼けした精悍な顔立ち、長くて端正な睫毛、

涼しげな澄んだ彼の瞳に、僕は釘付けになった。


そうやって、僕がまじまじと見つめたせいか

ちょっと照れくさそうに、彼は僕から目線をそらしながら言った。


「サックスの練習やらないの?」

彼の存在に気を取られてて、

僕はすっかりサックスを持ってたことすら忘れていた。


「あっそうだ。練習しないと。

この課題曲難しくて、いつも上手く吹けないんです」


「曲を上手く吹こうとして、意識しすぎてるからじゃないかな。

自然に息を伸ばして、遠くに音が届くようにって考えてみたらどう?」

彼はそうアドバイスしてくれた。


「音が自然に遠くまで届くように、ですか?」


「うん。たとえば、向こうの遠くの水面に月が映ってるだろ。

あの遠くの水面の月まで、音を届けようって

イメージしながら吹いてみたらどうかな。」


彼にそう言われて、

反対側の川面の方を向いて、僕は練習を始めた。


手元にあるサックスとか楽譜じゃなくて

遠くの川面の月まで、音を届けるようにって意識したら

何だかぎこちない感じが消えたような気がした。


でも、やっぱり同じところで間違えてしまう。


僕が吹くのを止めると

彼は僕の後ろに立って、僕を抱きかかえて

彼の暖かい手は 僕の指に触れた。


突然の出来事に、僕は驚いて固まってしまった。


僕の背中に、彼の胸がぴったり寄り添って

彼の腕に抱かれていて

彼の指が僕の指に触れている。


「そのまま演奏続けて。

間違えてるところを俺が直してあげる」


僕の耳元で、彼は低くて優しい声でそうささやいた。

僕はドギマギしながら、練習を再開した。


僕の指と彼の指が、同じ1つのキーを押さえながら、

優しい腕に抱かれたまま、僕はサックスを吹いた。

彼の鼓動が背中から伝わってくる気がした。


間違えそうになると、

彼は正しい指使いでキーを押さえてくれて、

彼の指の動きをなぞりながら、僕は曲の続きを練習した。


16小節のソロパートが、何周も何周も流れて

サックスの艶やかな音は、月光に煌めく水面いっぱいに溢れだした。

そして、最後の音がはるか遠くの岸辺へと消えていった。


挿絵(By みてみん)


「ちゃんと吹けただろ?」

彼の声が、僕の耳元でささやいた。


その低い声のする方にふと顔を向けた。

彼の瞳を見つめたまま、まるで時が止まったようだ。


すると、彼は優しくキスしてくれた。

僕は硬くなって、彼の腕の中でギュッと目を閉じた。


金色に輝く満月の光が 僕らの上に降り注ぎ


夜風に吹かれた川面には

透き通ったシャンパンのように

月の光がキラキラ輝いていた。


その夜、僕たちはそうやって

長い長いキスをして1つになった。

月光が川面に溶けるように。



<第4夜 -下弦->


演奏会が終わるまで、僕は忙しくて

しばらく、あの橋に行けなかった。


今夜はずいぶん久しぶりに、あの橋に向かっている。

見上げると、月はもう下弦の細い月になってしまった。


その夜も、あの橋の上に彼は佇んでいた。

長いシルエットが、寂しそうに川面に落ちていた。


「久しぶり。もうここには来ないのかって思った。」

彼は寂しそうな笑みでそう言った。


「ごめん。演奏会までずっと準備が忙しくて

なかなかここに来れなかったんだ。また会えて嬉しい。」

僕はそう言って、すぐに赤くなった。


「今日、君に会えてよかった。

もう一生会えないのかなって思ってたから」

その日の彼はいつもと様子が違った。


彼はじっと無言のまま、僕を見つめていた。

どこか寂そうで、泣き出しそうな感じがした。


僕はそっと彼に抱きついた。

この前と違って、彼はとても強く僕を抱きしめた。


「俺さ、長期出張が終わってもう明日帰るんだ。」

彼は静かだけど凛とした声でそう言った。


僕は背後からガンと殴られたみたいだった。

あまりにも衝撃だった。


「明日帰るって?もうここには来れないんですか?」

僕は動揺を隠せなかった。


「・・・。この橋にも、東京にも、たぶん来れないと思う。」

彼は僕を見つめたまま、静かにそう言った。


「兄貴が死んで、その後の家業を継がないといけなくなってね。

この出張が終わったら、今の会社は辞めて家業を継ぐことになってるんだ。

だから、たぶん・・地元でずっと暮らすことになると思う。」


「せっかく知り合えたのに・・・。もう会えないなんて

僕は絶対イヤだ!そんなのって・・・」

そう言って、僕は泣きそうになった。


彼は泣きそうな僕を、ギュッと抱きしめてくれた。

僕は、彼の胸に顔をうずめて静かに泣いた。


彼は何も言わず、そうやって僕を抱きしめたまま

嗚咽する僕の背中を優しく撫でてくれた。


見上げると、彼の目にも涙が滲んでいた。

「今夜会えてよかった。

もし今日会えなかったら、二度と会えなかったと思う」


「君に渡したい物があるんだ。」と彼は言った。


そう言って、彼はコートの胸のポケットから何かを取り出した。

それは深い青色に縁取られた綺麗なリングだった。


「それって指輪?」


「兄貴にもらった指輪なんだけど、君にもらってほしい。」


「そんな大切な物、僕もらえないよ。」焦ってそう答えた。


「俺は兄貴からサックス教えてもらったり、いろいろしてもらったけど

何もお返しできないままだった。それを今まで悔やんできたんだ。

でも、兄貴が俺にしてくれたこと。少しはお返しできたかなって。

兄貴が教えてくれたことを、こうやって君に教えることができたから」


挿絵(By みてみん)


下弦の細くて儚い三日月が、西の空低くに

淡い光を僕らに投げかけていた。


遠くで電波塔のネオンが儚げに点滅しながら

静まり返った深い深い闇のなかシクシクと瞬いている。


「僕が兄貴からもらったこの指輪を、君に託したいんだ。

きっと兄貴も喜んでくれると思うから。」


彼はそう言って

僕の指にその空色の指輪を嵌めてくれた。


そして、それが彼との最後の時間だった。


<第5夜 -新月->


あれから3カ月が過ぎた。

もう街全体がクリスマスに浮かれている。


僕は前と変わらず、あの橋の上でサックスの練習をしてるよ。

もう川面を吹きわたる風が冷たくなって、サックスを吹く手がかじかむ。


でもね、手袋はしないんだ。

今の僕とここからの風景を、このリングに見せたいから。


東京にも冬がやって来たよ。

もしかしたら、そっちは雪が降ってるのかな。


僕は・・・元気です。


兄貴と出会えて前よりサックスを好きになったよ。

人に聴かせる深い演奏ができるようになったって最近言われるんだ。


兄貴は・・・元気にやってるのかな。


兄貴のこと思い出して、辛くなる時もあるけど

そんな時はここへ来てずっとサックスを吹いてる。


ここでサックスを吹いてたら

どこかで兄貴が聞いてくれてるような気がする。


僕が見上げている月を

兄貴もどこかで見てくれてるのかな。


僕たちがこうやって出会って、そして、別れたことも

ちゃんと意味があったんだって、今は思えるから

会えないことを悲しんだりしたくないんだ。


この空色のリングを通して

僕たちは同じ月を見ているのだから。


<おわり>

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