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希望の万華鏡

作者: 眞田あんみ

 足元に、赤い筒がころころと転がってきた。それに和風の花柄が描かれているのが見える。更にのぞき穴があるので、確かに万華鏡っぽい。藤咲華乃はためらうことなくそれを拾った。それにしても、幾らものとは言え、投げて蹴るのはあんまりじゃないか。


「なーんも見えねぇ」

 ある晴れた日の夕方、少年がランドセルを枕にして川岸に寝転んでいた。日に焼けた彼の手には赤色の筒があり、片目をつむってそれをのぞき込んでいる。

「あれ? カズヤ、まだ帰ってねーの?」

 自転車の急ブレーキの音と共に、同じくらいの年頃の少年が、サドルの上から彼を見下ろしていた。

 カズヤと呼ばれた少年は起き上がると、手に持つ筒を振って言った。「こんなもんが落ちてたんだ」

 少年は自転車を停めると、川岸を下ってカズヤへ近付く。

「これって、万華鏡だよな?」カズヤはすぐさま問いかけた。「なーんも見えん。真っ暗」

 自転車の少年はカズヤから赤い筒を受け取ると、自分も真似してのぞいてみた。「ほんとだ、何も見えない。これほんとに万華鏡なの? 壊れてんじゃねーのぉ?」

 カズヤは声を上げて笑うと、川岸を上り始めた。自転車の少年も後をついて行き、道路まで上ってくるとその筒を返した。

「こんなもん、もういらねえよ」

 カズヤはそう言って、受け取った筒を捨てた。自転車の少年は自分の足元に落ちたそれを、ぽんと蹴飛ばして笑った。上空を通り過ぎていくカラスが、一緒にあざ笑うかのように鳴いていった。

 自分にぶつかりかけた自転車に乗っていた少年の行動を遠目で見ていた華乃の足元に、偶然それは転がってきた。拾い上げてのぞいてみると、途端に視界は闇に覆い尽くされる。本当だ、万華鏡なのに何も見えない。

 そもそもこれは本当に万華鏡なのだろうか。華乃は穴から目を離すと、外観を改めて見た。子供の頃に見た万華鏡と、それはよく似ている。もう一度のぞいて、今度は筒を少し回してみたが、その闇に光が差すことはなかった。

 彼女は小さな溜め息をつくとしゃがみ、万華鏡を地面に置いた。

「おーい、早く早く!」

「待て待て!」

「よおし、一番乗りだっ!」

 五、六人の小学生が後方から走ってきて華乃を追い抜かすと、川岸にランドセルを捨てながら駈け下りた。

「ねぇ、待ってよー、僕も行くぅ」

 今度はかわいらしい声も聞こえてきた。

「あれ?」声の主は華乃の前で立ち止まった。「お姉さん何やってるの?」

 華乃は顔を上げると、そこには幼稚園児くらいの年頃の男の子がいた。泣いていたのか、目が腫れている。その腫れた大きな目で華乃をじっと見下ろしていた。

「何やってるの?」男の子は繰り返した。

「ううん、なんでもないよ」華乃ははじかれたように立ち上がった。「お兄ちゃんたちのところ、行かないの?」

 男の子はほほえむと、川岸を少しずつ降りていった。


 華乃は大きく溜め息をついた。筒から目を離すと、勉強机の隅にいる子犬の置き物と目が合う。自分に何かを訴えかけているような瞳がかわいくて買ったはずなのに、今はそれがうっとうしい。思わず目をそらしてしまった。

「華乃ー? 帰ってきてんの? ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけどー」

 階下から、母親が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

「待って、制服から着替えてからそっち行くー」

 華乃は廊下に向かってそう返した。そして万華鏡を子犬の隣に立たせて置いた。


 翌日、華乃はいつものように電車に揺られていた。都会へ向かう電車に乗っているせいか、朝はいつも満員だった。そしてふたつほど駅を通過したとき、いつものようにどっと人が外へ吐き出されていく。完全に人の流れが収まったときに空いている席に座る。どこまでもいつもと変わらない日常の一部だった。

 その日はなんとなく目に違和感がした。目やにが出ている感じだ。華乃は手鏡を取り出そうとスクールバッグのチャックを開けた。

「ひっ」

 思わず声を上げかけながらも、慌ててそれを飲み込む。しかし事態はいまいち飲み込めなかった。

 なぜかそこには昨日の万華鏡が入っていたのだ。

 もちろん入れた覚えなんてない。紺色のスクールバッグの中で、水色のハンカチの隣にいるそれは妙に存在感があった。誤って入れたのだろうか。いや、そんなはずはない、絶対に。

 少しの間の後、ハンカチは取り出してポケットにしまい込み、バッグのチャックを閉めた。そして辺りをきょろきょろと見渡した。誰も自分のことを見てはいなかった。だが、万華鏡を持ち歩いている自分、について考えると、電車の中でとても違和感があるようにさえ思えた。そしてそんな万華鏡が万華鏡らしくないことも含めて、自分にこんな感情を抱かせたことも含めて、ようやく万華鏡に対してとても不信感を覚え始めた。家に帰ってからさっさと捨てれば良かったんだ。気味が悪くなってきた華乃はそう思ったが、電車に揺られながらではどうすることもできない。気休めとして、鞄のチャックを少しだけ開けると、赤い物体を奥のほうに押し込んだ。

「華乃ー、おはよ~!」

 鞄を抱きかかえるようにして歩いていた華乃は、自分の名前を呼ばれてどきりとした。

「ん? どうしたの?」

 島本千恵が少々面食らったが笑いかけてきた。華乃の長い髪とは対照的なショートカットの子。その笑い方もいつもと変わらないはずなのに、華乃にはどこかよそよそしく見えてしまった。

「ううん、おはよう」

 華乃は笑ってごまかした。そして今朝見たニュースで取り上げられていた犬の話題を振る。

 千恵も毎朝同じニュースを観ている。そして彼女も無類の犬好きなので、すぐにその話に飛び付いた。彼女は華乃のぎこちない笑みにはなんの違和感も持たなかったようだ。教室の窓際にある自分の席へ来た頃には話が飛んで、昨日の帰りに見かけた近所の犬の話になっていた。

「はっなの、千恵っ、はよー」

 校則すれすれのやや明るい髪をなびかせながら、稲津江里子がやって来た。

「ねぇねぇ、ちょっと聞いてよ! 今朝変なおじさんがいてね――」

 華乃は、鞄を自分の席に置いてくる、と一声かけると、その場を離れた。江里子は平気で人の鞄の中をあさるタイプだ。少年たちに投げて蹴られたのがかわいそうだと思ったにも拘らず、今の華乃も不審な万華鏡に対して内心そうしてやりたい気持ちになっていた。そもそも、なんの役にも立たなければなんの魅力もない物体だった。万華鏡のような装いをして、華やかかと思わせておいてその実態は人を楽しませるようなものとは程遠いものだ。そんな筒に少しでも不憫さを感じた自分が馬鹿馬鹿しくなってきた華乃の鞄の扱いは、どこか雑だった。

 半ば乱暴に鞄を自分の机の横にあるフックに引っかけると、ふと顔を上げ、黒板の隅を見た。自分よりももっと早く来ていた日直が書き替えたらしい、そこには九月十九日と書かれてあった。独特な書き方をする人が書いたらしく、「九」という算用数字が、なんだかおたまじゃくしに見えて仕方がなかった。


「弁当忘れたから購買行ってくるねー!」

 午前中の授業を終えた後、千恵は華乃にそう言い残して江里子の後をついて行った。江里子はほぼ毎日購買で昼食を買っているが、華乃と千恵は弁当を持ってくることがほとんどだ。そして教室に残った人が空いた机をくっ付けたりして場所を確保するのがいつのもお決まりのパターンだった。

 華乃は自分の弁当箱を、千恵の正面の机の上に置くと、それをぐるっと半回転させ、千恵の机にくっ付けた。そしてふと、窓の外に目をやる。清々しい天気だ。雲ひとつないその空色を背景に、一羽のカラスが通り過ぎていくところだった。

「藤咲さん?」

 それは急に背後から文字どおり背中を押されたような衝撃だった。びくりとした華乃は目を見開いて自分の横を見る。そして目をまん丸にしたまま固まってしまった。

 よく見慣れた人が、そこにはいた。

 彼の名は洞田恭介という。華乃とは一年生のときから同じクラスで、再び同じクラスになれたと知ったときの半年くらい前の胸の高鳴りはつい昨日のことのようだった。しかし今は、そんなときよりもずっと鼓動の速さを感じた。

「あの、これ」

 彼は右手を軽く上げる。彼のその整った顔に目が釘付けになっていた華乃は、視界の端で動いた赤い物体にそのとき初めて気が付いた。心臓が変な音を立てて一拍すっ飛ばした気がした。

「これ、君のだろ? 鞄から落ちるのを見たから……」

「ちょっ、返してよ!」

 華乃は万華鏡みたいに真っ赤になりながらそれをひったくった。そして彼女はそれをつかんだまま、ずんずんと歩き出す。頭が熱い。なんで、よりによって。なんで。周りの景色が遠くかすみ、華乃は何を見てどこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。ただひたすら歩き続けた結果としては、彼女は校庭に立っていた。

 誰もいない。広いグラウンドを見て冷静さを少しだけ取り戻した華乃は、孤独を感じ始めた。

 それでも今更引き返すわけにはいかなかった。華乃はグラウンドの隅のほうまで歩み寄る。そこには茂みがあった。木も密集しており、隠れん坊には最適な感じがした。華乃はそこへ、万華鏡をぽんっと放り投げた。

 次の瞬間、自分の手から飛び出したそれは、地に落ちるや否や金色の光を放ち出した。思わず目を細めた華乃の体は反射的にのけぞる。そして放つ光はすぐにやみ、何事もなかったかのように茂みがそこにあるだけだった。

 今のは一体なんだったんだ。気分が悪いような鼓動と共に、華乃は数歩後退する。それでも万華鏡が落ちた茂みから片時も目を離さなかった。まるで茂みから獣が飛びかかってくるのを構えているようだ。

 しかし、一分くらい経っても何も起こらなかった。音ひとつしない。

 恐怖の反面、時間が経ってくると、一種の興味が湧いてきた。それは足元に転がってきたものを拾い上げるような受動的なものではなかった。哀れなものに情けをかけるような関心でもなかった。ごくりと唾を飲み込むと、ひたすら注がれた視線の先にある茂みにそろそろと近付いた。

 のぞき込むと、先程自分が投げたものが落ちている。しかも、洞田恭介の手の中にあったときと何も変わりはなかった。その静物の様子を見た華乃はそよ風に拭い取られたように、おびえるほどの警戒心をひととき忘れてしまった。

 かがみ込んで、そっと手を伸ばす。

 万華鏡を手にした瞬間、辺りは金色の光に包まれた。再び目をつむる華乃は、闇を感じて目を開けた頃には、薄暗い部屋にかがみ込んでいた。

 ここは一体――?

 薄暗さに次第に目が慣れてくると、辺りに機械がたくさんあることに気が付いた。パソコンのようなものから、高さ一メートル以上ある大きなものまで。

 薄暗さと妙な雰囲気も手伝ってか、華乃は急に冷静になった。だが、自分では冷静になったつもりでいても、目に映るこの光景と自分がいるその場所が同じところだと受け入れることができなかった。

 ガチャリ、となんの前触れもなく戸が開く音が、静寂を引っかいた。

 華乃は悲鳴を上げながら飛び上がる。危うく万華鏡を手から落とすところだった。そして音がしたほうにすぐさま目をやる。背の高い男がドアの向こう側からこちらに入ってくるところだった。

 次の瞬間、電気が点いた。急にまぶしくなった華乃は目をしばたたき、改めてその男を凝視した。年齢はおそらく三十代で、スーツ姿で身なりがきちんと整っており、顔立ちもシャープで整っている。しかし大きめのサングラスをかけているせいで、華乃は警戒心を抱いた。

「……君は?」顔をゆがめることなく男は低い声でつぶやくようにそう言った。

「わ、私は――」華乃は内心びくびくしながらもサングラスを見つめ返す。「――藤咲華乃、といいます」

「どうしてここにいるんだ?」

 男は相変わらず表情を変えることなく問うた。華乃はその男までもが機械なのではないかとさえ思った。

「そんなこと、私が聞きたいです。ただこの万華鏡を――」

「それはナンバー三五一一ではないか」男の声はやや上ずっていた。「どうして君が……それを――まさか誤作動を――?」

 男ははじかれたように動き出した。それがあまりに素早いので、華乃は呆然と立ち尽くしてしまった。彼はすぐさま華乃から万華鏡を取り上げると、次の瞬間にはパソコンの前に座っていた。その隣には小さな機械があって、それがケーブルでパソコンとつながっている。そしてその機械には華乃から取り上げた万華鏡が立たせるように差し込んであった。男は今カタカタとキーボードを打ち込んでいるところだ。

「やはり、膨大な負のエネルギーに耐えられなくなって誤作動を起こし、本来なら万華鏡のみがここへ送られるはずだったのだが、君ごとここへ来てしまったらしい」

 しばらくして男はそう言った。言葉が出ない華乃は、彼の頭を見続けるだけだった。

「えっと……ここはなんなんですか……?」

 無言の空気に耐えられなくなった華乃は、少しの間の後、言葉を発した。

「ここは、この万華鏡を作り出した場所だ。それ以外に答えようがない」彼は振り返ってそう告げたが、少し迷った後、言葉を付け加えた。「そこの中をのぞいてみるといい」

 長い腕を伸ばして指差されたほうを見ると、大きなプラスチックの箱のようなものがあった。ためらいながらもふたに手をかけ、少し開けてのぞいてみた。

 赤いものがたくさんある。

 華乃はふたをもう少し開けて、息を呑んだ。そこにはあの万華鏡と同じものが、ぎっしりと詰まっていた。

「これは……?」

「もう作り終わった万華鏡だ」男は初めて口角を少しだけ上げた。「どれかひとつをのぞいてみるといい」

 華乃は、角にあるものを手に取った。そしてあいさつ代わりに外観をじろじろと眺めた。先程まで自分が持っていたものとなんの変わりもないが、おそらくこれにも番号が付けられているのだろう。彼女は電気が点いているほうに体を向け直すと、それを目に当てた。

「うわぁ……」

 爽やかな青色を背景に、光を浴びて輝いたダイヤ型の濃い紫色と、三枚の花びらが付いたような花型の酸っぱそうな黄色が現れた。海の中に宝石が散りばめられているようだ。ゆっくりと筒を回すとそれらは踊り、黄色の部分は徐々に緑色を帯び、芽生えたばかりの若葉のような黄緑色になった。更に背景の青色は徐々に赤みを帯びて、柔らかな薔薇のような薄い赤色へと変わりゆく。更にそこへ透き通るような白色のかけらが現れ、薄い赤を基調とした背景は徐々に淡くなり、日の光を浴びた梅の花に満たされたようだ。更に回すとその桃色は暖かなオレンジ色に変わり、いつの間にか吸収されていたダイヤ型の濃い紫が現れ、鮮やかに浮かび上がってきた。

「すごい……」

 目の前で繰り広げられる幻想的な世界に、華乃は思わずうっとりとした。

 こんなに魅力的なものが、この世にあったんだ。

「……本来なら、この万華鏡もそうなるはずだった」男は目の前の万華鏡を見つめた。「そこに入っているたくさんの万華鏡は、様々な人の夢や希望からできている。何度か人間界へ送って、そのときのぞいた人の夢や希望が詰まっているんだ。そしてこの万華鏡も、途中までは何事もなく上手くできていた。しかし、もう少しで完成だ、というところまでできた頃、戻ってきたこれをのぞいてみたら、少し、黒い闇に覆われるようになっていた」

 華乃は万華鏡から目を離した。

「最初は気にするほどではなかった。怒りや憎しみや恐れや悲しみなどの、負の感情を――それも強力なそれらを持っている人がのぞくと誤ってそういった感情を吸収してしまうことは今までにもまれにあったからだ。しかし、今までは闇が現れても、次に送ったときに別の人がのぞくことによって和らいでいき、君が持っているような状態に完成することができた。ところが、このナンバー三五一一はどうだろうか。明らかにおかしかった。送れば送るほど回復するどころか黒い部分が広がり、ある日、完全に真っ黒になってしまった。もはやどんなに心の清らかな人間がのぞいても浄化されることはなくなってしまった」

 男は落としていた目線を上げると、立ち上がった。

「そこにあるたくさんの綺麗な万華鏡は、ひとつひとつ見え方が違う。それは吸収した夢や希望が違うからだ。そしてそれらは、その感情が欠乏している人の下へ送られる。それで終わりだ。しかしナンバー三五一一は、もうどうすることもできない。おまけに、誤作動を起こして君ごと連れてきてしまったというわけだ」

「はぁ……」

 一度にたくさんのことを話され、華乃は混乱していた。

「えっと、その万華鏡だけ、どうして元どおり……綺麗な色にならなかったんですか……?」

「それは分からない。こんなのは初めてだ」男は少々苛々しながら言った。「全く心当たりがないんだ……。製造段階では問題がないはずだ。だから、のぞいた人間の精神が、余程悪に染まっていたか、相当乱れていたのだろうかと思う。とにかく想定外だ」

「あの……私は、元いた場所に帰れるんですか? というか、今すぐにでも帰してほしいです」

 改めて部屋を見渡す。全体的に白い光景だった。機械だらけのそこは、明らかに自分は場違いだったし、どうにも落ち着けなかった。

 突然、これは全て夢なのじゃないか、という考えを乱れた思考が生み出した。大体、万華鏡が鞄の中に出現したことから今自分がこんなところにいることを含めて、全てがありえないことの連続だった。華乃は、先程の万華鏡が生み出した幻想的な世界を思い描く。あれこそまさに、夢の中のような世界だった。自分の目先にあるはずの美しいそれは、色とりどりで形を持って輝いているはずなのに、手を伸ばしたところで届くことはなく、むしろ存在そのものすら幻のようだった。

 そうだ、私はきっと、長い夢を見ているんだ。

 そうはっきりと心の中で思ったとき、華乃は急に強い眠気を覚えた。いつの間にか別のパソコンのキーボードを打っている男の姿が、徐々にぼやけて薄れていく。

 最後に、ぼやけ切った男は顔を上げて華乃のほうを振り返った。もはや表情の判別ができなかった。そして次の瞬間その顔は完全に消え、華乃の視界はただ白一色になっていた。


 華乃はのっそりと顔を上げる。まだ眠いせいか、なんとなく頭が重い。そして自分の目に映る光景を認識して、ぽかんとした。彼女は教室にいた。教室にいて、自分の席に着いていたのだ。

 どうやら授業中に眠りこけていたようだ。黒板に向かって白いチョークをこすり付けている太った中年の教師は、幸い彼女がぐっすりと眠っていたことには気付いていないようだ。

 時計を見ると、十四時を回ったところだった。お昼の一番眠たい時間だ。けれども華乃にとってそんなことはどうでも良かった。なぜ自分の記憶が十四時過ぎから始まっているのか、理解できなかったからだ。腹は減っていないが弁当を食べた記憶がない。

 更に黒板の隅に書かれた日付けを見て、華乃は仰天する。そこには九月十九日と書かれてあった。そのおたまじゃくしのような数字は万華鏡を所持していたときに見たそれと全く同じものだった。

 私は、本当に夢を見ていたのだろうか。

 彼女のその混乱振りに誰も気付くことなく、授業は淡々と進んでいく。

 理解できない時間の終わりをチャイムが告げる。生徒たちの騒ぎ声が華乃の周囲を漂うが、それはどれも一定の距離を置いているようだった。謎の男と共にいたときの静寂のほうががまだ華乃にとっては生々しかった。

「藤咲さん?」

 それでもその遠巻きにある話し声をかいくぐって華乃の心に響いてくる声はあった。

 振り返ると、そこには洞田恭介が立っていた。

「あの、これ、君のだろ?」

 彼の手には水色のハンカチが握られていた。

「どうして――」華乃は自分の声が渇いていることに気付く。「――どうして私のだって分かったの……?」

「後をついて行ったら……えっと……校庭に落ちていて……」

 眉尻を下げる彼の口調はどこかぎこちなかった。

「えっ?」

 華乃は思わず彼の困惑した目を凝視した。ふたりは見つめ合っていた。

「落ち――えっと――」

彼は不意に目をそらした。

「……なんでもない。とにかく、このハンカチ、藤咲さんのでしょ?」

 華乃が突き出されたハンカチをおずおずと受け取ると、彼は踵を返した。

 頬が熱くなってくる。華乃は目をぱちくりとしながら彼の背中を見つめた。




 今朝のとりわけ冷え込んだ空気を太陽が暖めている頃、公園のベンチに腰かけた小学生くらいの女の子が、筒をのぞいていた。彼女は隣の少女にその筒を渡すと、受け取った少女も真似して筒をのぞき込む。綺麗だ、と小さな喜びの声を上げていた。

 ようやく体が温まってきたのでマフラーを外した華乃は、そんな少女たちを少し離れたところから立って見ていた。かわいらしい声を上げる彼女たちが持つ赤い筒は、華乃の目をとりわけ惹く。

 やがて少女たちは筒をベンチの上に置いたままにして、どこかへ走り去っていった。華乃は迷うことなく筒に近付く。そしてその和風の花柄の筒を取り上げると、彼女はそれを目に押し当てた。

 彼女の目に映るのは、夢にまで見た光景だった。だがしかし、それには何かが足りないように思える。

「藤咲さん」

 背後で自分の名を呼ぶ男の声が、心までも温める。華乃は万華鏡から目を離すと、そっと振り返った。






6年前に書いた小説をアップしました!

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