狼と少年
三話目です。
登場人物も増えてきました。
鍋のシメは雑炊になった。
半熟の溶き卵がふんわり美味しい。
「ん-、もう一杯」
おかわり三杯目の母さんを見て、僕も父さんも呆れた顔をしている。
「母さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけだから」
僕の問いかけに母さんは笑顔で応える。
「まあ、それだけ食べられるから大丈夫なんだろう。だけど君もそろそろいいトシなんだから、体には気を付けてくれよ」
「あら、私はまだまだ若いわよ。あなたこそアラフィフなんだから、ご自愛なさいませ」
父さんに歳のことを言われて、母さんは機嫌を損ねたらしい。二人とも四十代なんだけどね。アラフィフとは天と地ほどの差があるらしい。
「元気ならいいんだけど…」
いつもならそれで終わらせるのに、漠然とした不安を感じていた僕はつい問いかけてしまった。
「最近、何か危ないと思ったこと…ある?」
「え?なにそれ」
母さんは笑いながら食後のお茶を淹れている。
何もないならそれでいいんだ…そう言おうとした時、母さんはやけに真面目な顔で「そうねえ」と呟いた。
「今日の帰り道でね、大きな犬がいたのよ」
「犬?」
「すごく大きな犬。山と町の境目辺りの、道が狭くなる所。捨て犬かな、野犬かな、町に来ると危ないなって…お父さん、見たことない?」
「いや、僕は覚えが無いな。大きいって、どれくらいなんだい?」
「あのねえ、例えて言うなら」
母さんは僕の顔を見ながら「うーん」と何かを思い出そうとしている。
「そう!一郎くんがやってる狩りゲーに出てくるトカゲくらいの大きさ!」
僕は心の中で「ちょっと待て!」と叫んだ。
どれのことを言っているのか分からないけれど、どれもこれも犬の大きさじゃない。人を餌にするサイズの危険生物だ。
「ちょっと君、いくらなんでもそれは無いだろう」
たまにゲームをしている父さんが、僕の代わりに言ってくれた。
「そんな大きさの犬がいたら、自衛隊が出動するレベルだぞ」
「うん、だからね、見間違いだと思うの。車を運転しながらだったし」
「そうだろう、そうだろう」
「すぐそこにいるのに見えなかったし」
「え?」
「え、私なにか変なこと言った?」
明らかにおかしなことを言ったと思う。だけど母さんは自覚がないらしい。
「君、眼科に行ったほうがいいぞ」
「え、眼科?」
「視野が欠けているのかもしれない。緑内障だったら大変だ。何なら明日送って行こう」
父さんは目の病気だと考えたらしい。だけど僕は違うことを想像していた。
見えないモノがすぐそこにいる
自分の考えにゾッとして、僕は両親から目を逸らした。
「病院行ってよ、母さん。心配だから…」
「二人とも大袈裟ねえ。仕方ない、行くとしますか。優しい家族に感謝」
母さんは照れくさそうに笑っているけど、僕はチクリと胸が痛んだ。
目の病気のせいで見えないのなら、そこにいるのは大きすぎるただの犬だ。
母さんの目が悪いだけであって欲しいなんて…
僕は優しくなんかない。
二階の自室の明かりを消してベッドで横になっても、少しも眠くならなかった。龍樹や朱美さんや母さんの言葉が気になって、目が冴える一方だ。
一人になって考えてみれば、今日はおかしなことだらけ。
(見えないモンスターサイズの犬…)
「逃げなきゃ」
こっそり呟いてみる。
八神きょうだいが言っていた危険とは違うけれど、出くわしたら逃げるしかないだろう。だけど逃げられるのか?自慢じゃないが、逃げ足は普通だ。
「龍樹なら逃げきれるかも」
彼の運動神経は半端じゃない。
「いや、やっぱムリ」
僕は笑いながら上体を起こした。
いるかどうか分からないもの、いるはずのないものに対して真面目に考えている自分が可笑しくなってきた。
「さむ…」
どうせ眠れないのなら、とベッドから出る。
じきに日付けが変わるという時間帯。降り続く雨音にはマヒしているのに、ふと気になる音が聞こえた。
(足音?)
ぱしゃぱしゃと、通りを歩く音がする。
何となく気になってカーテンを少し開けてみた。
思った通り、誰かが雨のなかを歩いてくる。この先にあるコンビニにでも行くんだろう。
カーテンを閉めようとして、あれ?と思った。
(傘をさしてない)
小降りになる時もあるとはいえ、今は結構降っている。わざわざずぶ濡れで出歩くなんて、どうしてなのかと好奇心がうずいた。
街灯のある外のほうが明るいので、こちらは見えないはず。だけど息を殺して通りを見下ろす。
(女の人だ)
若い女性が颯爽と夜道を歩いている。
髪をなびかせ、スカートをひらひらさせて。
(濡れて…無い?)
そのふわりとした髪や衣服の動きは、到底濡れているとは思えなかった。そしてその豪快な足運び。
(似てる)
顔を見たいと思った時、その女性は足を止めて僕を見上げた。いや、そう思っただけだ、こっちは真っ暗だ。見えるわけがない。
だけど見上げたその顔は…
(朱美さん)
息が止まるかと思った。
朱美さんのはずがない。
雨のなか少しも濡れていないなんて。
どう考えたって、おかしいじゃないか。
猛スピードで思考停止した僕は、ただ彼女の顔を見つめていた。
見つめ合うこと、体感時間で無限。
彼女が何か言ったように見えた。
雨音で聞こえるはずのない言葉。
だけど確かに
「大丈夫」
そう言われた気がした。
「あけ…」
思わず声をかけそうになった時、彼女の姿がすうっと薄くなった。そこにいるのに、目に映らない。
「うわ…」
あり得ないものを見た僕はその場に尻もちをつき、四つん這いでベッドに向かった。
「た…龍樹…」
枕元に置いてあるスマホに手を伸ばし、龍樹に連絡を取ろうとする。その瞬間、時刻表示が00:00になった。
「…もうこんな時間。寝なくちゃ」
急になにもかもいつも通りだと感じた僕は、スマホを置いてそのまま眠りについてしまった。
○ ○ ○
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
一足先に出勤する両親を見送って、朝食の食器を片付ける。二人が町の外へ働きに行くようになってから、これは僕の仕事だ。
今朝は父さんが母さんを眼科医へ送って行くという。
緑内障かもって言ってたけど、なにもないといいな。
戸締まりをして学校へ行く。
いつもと同じ朝。今日も雨が降っている。
通学路の途中に龍樹の家。今日の彼は、男性用の傘をさして家の前で僕を待っていた。
「おはよう」
「おす」
軽く挨拶を交わして歩き始める。
「今日は傘、間違えなかったんだね」
「毎日やられてたまるか。俺の趣味かと思われるだろう」
「いやあ、どうかな」
僕ら学生は朱美さんを知っていて、龍樹がどんな目に会ってきたかも知っている。彼女は様々な伝説を残していて、その中には丘の麓から高校の更に裏手のてっぺんまで螺旋状に登りながらゴミを拾いまくったというものや、警察と消防に無断で侵入して捕まるまでの時間を比較したというものもある。
どちらも中学の時の自由研究で、龍樹はもれなく付き合わされて半ベソをかいていた。
「みんな、朱美さんが絡んでるんだろうなってわかってるよ」
「アケ姉か…」
暫く黙り込んだ後、龍樹はやけに真面目な顔で僕を見つめた。
「なあ、イチ。アケ姉のことで、俺に何か言うことないか?」
「え?べ、別に、何もないけど…」
昨日朱美さんに手を握られた時のことを思い出して、僕はドギマギしてしまった。
「そうか…」
彼はなにやら深刻な様子だけど、実の姉による友人へのセクハラでも心配しているんだろうか。
あのくらいなら、まだセクハラ認定は…
「そろそろ『お姉さんを僕に下さい!』的な話があるかと思ったが、まだ早かったようだな」
「セクハラ!君の発言がセクハラだ!」
「怒るな。同級生をアニキと呼ぶ未来を想像する俺の身にもなれ」
「なれるか」
他愛ない話をしながら、いつものように学校への坂道を登っていく。最初は小中学生と一緒でごった返していた通学路も、中学校を過ぎると急に僕たち高校生だけになる。
その中に佐々木さんの姿を見つけて、僕はそっと龍樹から離れた。
「サンキュ」
小さく呟いた龍樹が、佐々木さんの隣に並んで歩く。
きっと彼は『僕に下さい』的なことも考えているんだろう。
ぼくはまだ想像できないけど、こうして少しづつ変わっていくんだな。
一人で教室に向かっていると、後ろから「イチロー!」と呼ぶ声が迫ってきた。
何となく先が読めて横に避けながらしゃがむと、僕の頭の上を誰かの腕が素通りしていく。
全速力のラリアットを躱された誰かは、数メートル先でUターンしてそのままのスピードで戻ってきた。
「避けるなよ、イチロー!」
「避けるよ、普通」
「あえて全ての技を受けるのが友達だろ?」
「それ、友達と書いてプロレスラーって読む?」
「分かってんねー!さすが友と書いてライバル!」
ぐっと差し出された拳を掌でやんわり押しのけて、僕はうっすーい笑みを浮かべた。
「授業が始まるよ、宗太くん」
「くー、お手本のような棒読み!さすがドS!」
「人聞きの悪い…」
クスクスと笑い声が聞こえてくる。
こいつと居ると悪目立ちするから恥ずいんだ。違うクラスで良かった。
「用がないなら行くよ」
「待て!用ならある」
宗太は僕を押しとどめるように両手を突き出し、大きく息を吸ってから声を張り上げた。
「オオカミが出たぞーーーー!」
ざわついていた廊下が一瞬で静まり返った。
みんな笑うこともできず、表情を凍り付かせたまま足早に教室へと入っていく。
ほとんど無人になった廊下に佇み、僕は途方に暮れていた。
(…逃げたい)
逃げたいけれど、ロックオンされている状態では追撃されるに決まっている。
(先生…龍樹…誰か助けて)
僕が心の中でどこかの誰かに助けを求めていると、宗太の頭が後ろからがっしと鷲掴みにされた。
「痛い…」
宗太は眼を見開いて、頭上の凶器に手を伸ばす。
彼の後頭部を手中にしている大きな手のひらの持ち主は、よく響く低音の声で僕に詫びた。
「おはよう、すまない、一郎。こいつは俺が連れていく」
「あ、ありがとう、大和」
平均身長の僕が見上げる体格の大和が、僕より小柄な宗太を片手で移動させる。
宗太は自分で歩いているのに、クレーンに吊り上げられて運ばれているようにしか見えない。
「いたいいたいいたい!」
宗太はわーわー喚いているが、大和は全く意に介さない。そのまま隣のクラスに運ばれて行って、最後に宗太の声だけが残った。
「本当だって!すげー大きなオオカミがいて、目の前にいるのにすーっと消えたんだってよ!」
教室の扉が閉められて、その声も小さく聞き取りにくくなっていった。
僕はその声を遠くに感じながら、どこかに置き忘れてきたような気がする何かを、必死に思い出そうとしていた。
「イチ」
全く気配がなかった背後から声を掛けられ、僕の喉が「ひゅっ」と鳴る。
振り返ると、龍樹がそこにいた。
僕はなぜか「怖い」と思い、一歩下がろうとするけど体が動かない。
「なあ、イチ」
龍樹の声が、二人だけの廊下に響く。
「何か俺に、伝えたいことがあったんじゃないか」
あったような気がする。だけど思い出せない。胸がざわつく。どうしてだろう。いつもと同じ学校なのに。
「イチ、俺のことが見えているか?」
見えている。何を言っているんだろう。ゆうべの朱美さんじゃあるまいし…
その瞬間、息が詰まった。
そう、忘れていたわけじゃない、ゆうべのことを。
それを取るに足らない、普通のことだと感じていたんだ。
今日も皆に会えるのと同じくらい、普通のことだと。
「イチ」
声が聞こえる。龍樹の声がしっかりと。
姿だって見える。君はここにいる。
ただ、少し透けているように見えるのに、それを普通だと思ってしまうのは何故なんだろう。
授業開始のチャイムを聞きながら、僕は龍樹がそこにいるのを、ただじっと見つめるしかできなかった。
次からは週に一度ほどの掲載を目標にしております。
よろしければ次回も見に来てくださいませ。