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見つめていたい

作者: 泉 羅卯

 男は妻を、心から愛していた。少し赤みがかった茶色い髪。ショートヘアーの髪から覗く、形の整った眉。いつも潤んでいる大きな瞳を、どこか遠くを見つめるように細めるときの、愁いのある表情――。どれもが愛おしかった。そのどれをも、失いたくないと思った。華奢な鎖骨が、光を浴びて艶やかにその線をあらわにするところすら、男は愛した。そして、その鎖骨のすぐ近くにある小さな黶すら、愛してやまなかった。結婚して何年も経ち、子供が生まれても、出会った頃の感情のまま、妻を愛し続けていた。

 そんな妻がある日、身体の不調を訴えた。心配した男は、すぐに病院に連れて行った。

 検査の結果は、残酷なものだった。妻の身体は、重い病に蝕まれていた。

 男は仕事を辞め、ずっと妻に付き添った。一日の面会時間が終わるまで、妻から片時も離れずにいた。

 しかし、男の願いも、献身的な支えも、虚しいものとなった。妻は、日に日に痩せ衰え、声を出すことすらできなくなっていった。

 やがて男は、妻の姿を見るのが辛くなった。相変わらず、時間の許す限りそばに寄り添っていたが、それでも、妻と目が合うと、思わず視線を逸らしてしまうようになった。

 家に帰ると、男は録画したビデオを見つめた。いつからか、それが日課となった。

 ビデオには、妻が映っていた。目を細め、こちらに向かって話しかけていた。頬が赤く染まり、薄桃色の唇が、濡れたように光っていた。風が吹いたのだろうか、前髪が揺れた。意志の強そうな眉が見えた。そうして、つるりとした額も……。すべてが輝いて見えた。

 見つめながら、男は複雑な思いがした。ビデオの中の女性は、確かに妻であった。それなのに、その女性を見つめていることに、疚しさを覚えた。けれどその一方で、ビデオの妻から、目を離せなかった。いつまでも見つめ続けていたかった。そうしていると、幸せを感じた。

 ある日、いつものように妻の傍らに座っていると、不意に妻が言った。掠れた声で、苦しげに、

「ねえ、あなた」

と、男に話しかけた。

「なんだい?」男は答えた。答えながら、無意識に窓の外へ目を向けた。

 男が窓外の樹木を見つめていると、妻がまた、苦しげな声を出した。

「あなたに、お願いがあるの」そう言ってから、ふふっと笑い、「私のこと、見つめてほしいの」

 妻の意外な言葉に、男は妻に目を向けた。妻の青白い顔を見やり、

「どうして、そんなこと、言うんだい?」訳もなく不安になって、そう訊いた。

 すると、妻が言った。

「梨花が言ってたの。パパはいつも、ビデオに映ったママを見つめてるって……。私、それを聞いて、やきもちを焼いちゃった」

 妻が無理に笑顔をつくった。

「おかしいでしょ? でも、本当なの。……あなたには、私だけを見つめていてほしいの。だって、私は……」

 その後の言葉を言わせずに、男は妻に顔を寄せた。「ぼくは、君だけを、今目の前にいる君だけを、見つめるよ。これからもずっと、見つめ続けるよ。だから、きっと、そうさせておくれよ」

 男は涙声で言い募った。そうして、妻の瞳を、じっと見つめた。

 妻は、

「ありがとう……」と、囁くように言った。

 妻も男を見つめ返した。見つめながら、笑顔になった。穏やかな笑顔だった。心なしか、頬を染めていた。

 妻の笑顔を見て、男は驚いた。こんなにも美しい妻の笑顔を、今まで見たことがあっただろうか――。初めて妻の美しさに気づいたような、そんな気持ちがした。

 しばらく男を見つめていた妻が、男に言った。

「疲れちゃった。……もう、眠るね」

 そう言うと、妻は目を瞑った。それきり、妻はもう、目をあけなかった。

 妻が亡くなった後も、男はビデオの妻を眺めることがあった。

 あるとき、そばで一緒にビデオを見ていた娘の梨花が、ぽつりと言った。

 ママって、きれいだね――。

 娘の言葉に、男は「そうだね」と答えた。けれど、そう答えたものの、心の中では頷いていなかった。

 もっと美しい女性だったんだよ、ママは――。

 男は、いつか娘にそう言ってあげよう、と思いながら、その言葉を胸にしまい込んだ。



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