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よろしくお願いします。
殿下の呼び出しも無視し、どこぞで偶然会ったりしないよう注意しながら生活すること数日。とうとう卒業パーティの日となってしまった。
私が着ているのは、淡いゴールドのドレスだ。
数日前、突然届いたこの荷物には送り主のサインがなかった。それでも、この色だ。開いた瞬間に誰から送られてきたものか、すぐにわかってしまった。
送り先を間違えたのかもしれないが、慰謝料がわりだと自分に言い聞かせて袖を通す。
体にぴたりと合うサイズなのが、妙にこそばゆかった。
私のドレス姿を見た友人達は相好を崩して絶賛してくれた。
ここ数日の間、サロンにも行かず殿下から逃げ回っていたことを知られているから、心配してくれていたのかもしれない。
素敵なドレスを贈られて、羨ましいですわとの真正面からの賛辞がむず痒い。
しかし、それぞれが婚約者と会場に向かうとのことで、私は一人になってしまった。
ああ、惨めだ。けれど仕方ない。向かって差し上げないと、殿下が大手を振ってアンリエッタ嬢との恋を成就させることが出来ないのだから。
「レストリド公爵令嬢」
会場へと人気のない廊下を歩く中、声をかけられた。
振り向けば見知らぬ男性が一人で立っている。その服装から、同じく卒業生であることがわかった。
「わたくしに何か御用かしら」
「殿下がお呼びでございます。こちらへお越しいただけますか」
殿下が……。
パーティーも始まるというのに、何の用だろうか。もう会場に向かわないと、時間がギリギリになってしまう。
私の場合身分が身分だから遅れて行けば満を辞してのご登場! のようになりそうで、出来れば中途半端な時間にこっそりと会場入りしたいところだったのに。
……うん、断ろう。何かしら婚約破棄イベントに対する打ち合わせとかそんなことかもしれないし、それに付き合う義理もない。台本とか渡されても困る。
「申し訳ございませんが、急いでおりますの。そのように殿下に伝えてくださる?」
「……やはり、殿下と何かあったんだね」
断りの言葉にニヤリと口角を上げた男は、粘りつくような声とともにゆっくりと近付いてきた。
その異様な不気味さに総毛立ち、思わず後ずさる。
「なんのお話かわかりませんわ。早く、殿下に伝言を届けてくださいませ」
「隠さなくていい、リシュフィ。聞いたよ。殿下に僕達の関係を知られたのだろう?」
「か、関係……?」
今日初めて会いましたよね……?
目の前の男は譫言のように私の名を呼びながら近付いてくる。
その目は爛々と輝き、荒い息が間近にまで感じられた。
「あ、あなたなど、知りません! どなたかと勘違いなさってるんじゃ……」
「ああ、可哀想なリシュフィ。殿下が怖くて仕方ないんだね。大丈夫だよ、僕が必ず君を守ってみせる」
震える声で何を言おうとも、会話は初めから成り立っていない。
誰かいないかと周りを見渡すも、運悪く一切の人影がなかった。
「ひっ……」
背中に冷たく硬い感触があり、悲鳴が漏れた。
後退ることに夢中で、廊下の端に来てしまったらしい。
もう、逃げられない。
熱に浮かされた瞳が私を真っ直ぐに写し、震える体を抱きしめることしかできなかった。
ああ、もしも私がアンリエッタ様だったら、きっと。
こんなときに考えるには、途方もなく下らないことばかりが頭に浮かび、失ってしまったものに対する絶望で心が埋め尽くされる。
アンリエッタ様には王子様がいらっしゃるのに、私にはどうして──。
「ぅ、ぐ……っ」
突然、男が呻き声を上げた。
男を地面に押さえつける見慣れた金色に、するすると腰が抜けてしまう。
「っ……俺の、婚約者に触れようとするなど、王家に対し叛意あるとみなすが、良いか」
滅多になく息を切らした様子で、殿下は男を激しく睨む。
安心からか心臓が急に動き出したように激しく動悸して、痛い。
抵抗する男は次第に大人しくなり、どうやら気を失ったようだ。男を絞め落とした殿下は、押さえつけていた腕を離した。
汗の流れる顔がこちらに振り向き、鋭く睨み付けられた。
「どうして部屋で大人しく待っていない! 廊下からこの様子が見えて、俺がどれだけ焦ったかわかるか!?」
いつにもない激しい怒鳴り声に体がびくりと跳ねる。
だんだんと殿下の姿が滲んでいった。
「ご、ごめ、んなさ……」
「あっ……いや、違う! お前を責めるつもりは……っ」
殿下は我に返ったように慌てた様子で、涙を指で乱雑に、いや、すぐに優しい手付きとなって、拭われる。
すぐに鮮明になった殿下の姿はセットしたのだろう髪も服装も乱れていて、慌てて駆け付けてくださったのが分かった。
「……怒鳴って悪かった。怖かっただろうにな。もう、大丈夫だ」
殿下が優しい声音で話しかけてくださるなど、初めてのことかもしれない。いつもいつも怒鳴られてばかりだったから。
そう思えば涙が止まらなくなって、声を出すのも憚れて、首を振ることしかできない。
私がそんな様子だからか、殿下は恐々と、私を胸に抱き寄せた。
「悪かった……ごめん。頼むから、泣き止んでくれ。お前に泣かれては俺は、どうすればいいかわからん」
困惑する言葉とは裏腹な優しいリズムで頭を撫でられ、心が落ち着いてくる。ここが、これほど心地よいとは、知らなかった。
先ほど感じたひどい絶望がまた私を襲う。
この心地よい場所を、手放したくない。
「……婚約を、破棄してくださいませ」
どうか。
「お前ときたら、またそれか。……そんなに、俺との婚約は、嫌か」
どうか、いつものように、破棄はしないとおっしゃって欲しい。
そうすれば、私は。
婚約者という立場を振りかざして口にできるのに。
私の殿下に近付かないで、と。
ひたりと視線を合わせれば、ひどく歪んだ顔に諦めが浮かんだ。
「…………わかった。俺から陛下に、婚約の解消を申し入れよう」
ありがとうございました。
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