13 殿下への嘆願書 側近一同より
よろしくお願いします。
男子寮の廊下を歩いていると、主君が礼儀に反しない程度をほんの少し越えた急ぎ足で、こちらに向かってくるのが見えた。
「殿下。次の授業の件でご相談が」
「後にしてくれ! 急用だ!」
言いながらも決して足を止めることなく、殿下のお背中はすぐに見えなくなってしまった。
首を傾げていると、幼なじみで同じく殿下の側近を務めている二人の友人が、何やら含み笑いを浮かべて、あちらを見てみろと言わんばかりの視線を窓の外へと送っている。
素直に目を向け、納得した。
「なるほど。あれでは殿下も慌てられるだろうな」
視線の先には校舎の中庭があり、木々の隙間から極めて美しい女性の姿が見える。
穏やかな顔でまぶたを閉じ、木に背中を預ける姿から、お昼寝をなさっているようだとわかった。
「なにやら人だかりができていてな。通りがかった殿下に声をかけられ、蜘蛛の子を散らすような有様だったが……外を覗き込まれて、殿下は急用を思い出されたようだ」
「あれは、なによりも急がねばならん用事だろうよ」
確かにこれは急がねばならない。
愛する婚約者の寝姿など、他の男に見せたいと思うものか。
そのまま外を覗いていると、見事な金髪の男性が大股で美女へと近づき、その近くに膝をついた。
恐らくは声をかけておられるのだろう。しかし美女は身じろぎもせず、目を覚さない。
わずかな逡巡の末、殿下はそっとお手を美女の肩へと動かし、ほんの少しためらわれた上で、優しく手を置き揺すられた。
あの方ですら、婚約者に触れることに躊躇なされるのか。
……しかし美女は起きない。どれだけ深く寝入ってしまわれたのだろうか。
殿下は手で顔を覆ったのち、自らの婚約者であるレストリド公爵令嬢の身体を抱きかかえられた。
花々を背にするお二人の姿はなんとも美しく、感嘆の息が三つ溢れる。
「仲がよろしくて、良いことだな」
「まったくだ」
婚約者を抱きかかえた殿下は、一歩その場を踏み出したが、婚約者が身動ぎ、足を止める。
……しかし公爵令嬢は起きなかった。
恐らくは再び寝てしまったのだろう婚約者へ殿下が顔を向け、その頰がゆるりと上がり──。
「…………誰か、誰かここへ、絵師を」
「……気持ちはわかるが、殿下にあのまま動かないでいただくようお願いする役は、辞退させてもらうぞ」
「いやあれは、後世に残さねばならんだろう……」
殿下の慈愛に満ちたそのご尊顔は、残念なことに婚約者が見ることはなかった。
そしてこの騒動は、当時流れていた殿下に対するある噂を消し去るのに、一役買うことになったのだ。
「王太子殿下。あの、授業でわからないところがあるんですが……よろしければ、教えていただけませんか?」
なにを言い出すのだと、側近一同あきれ返った。
廊下を歩く殿下の前に急に飛び出し、真正面から話しかけたのは見たこともない女生徒だ。
恐らくは男爵位以下、いや高位貴族であったとしてもだ。このような無礼な『お願い』をするなど、聞いたこともない。
王太子殿下に婚約者がいらっしゃらなければ、その座を巡る女生徒が殿下に群がることはあるだろうが、現王太子殿下にはご立派な婚約者がいらっしゃる。
レストリド公爵令嬢。
社交界の若手女性の筆頭であり、その美しさと穏やかな気性で男女問わず慕われている方だ。
なんの瑕疵もない婚約者のいる殿下に言い寄るなど、どう足掻いても自らが非難の的となることはわかりきったことだ。
それゆえに殿下は、どれだけ慕われていようとも、このように直接女生徒から話しかけられることなどほとんどあられない。
……ゆえに優しく人の良い殿下は「わ」の口をされてしまったので、我ら側近一同慌てて声を上げた。
「突然殿下に声をかけるなど、何事だ!」
「殿下はお忙しくてあられる。そのようなことを軽々しく頼むでない!」
「そもそも名乗りもせずに殿下の前に立つなど、無礼ではないか!」
殿下は慌てて「わかった」の口を閉じられた。了承してはいけないことだと、ご理解いただけたようだ。
三人もの男からの抗議に、女生徒は首を竦めて怯えた表情を見せた。
「も、申し訳ございません! ビストア男爵家のアンリエッタにございます。その、憧れの殿下をお見かけしたので、嬉しくて……」
女生徒は涙まじりに辿々しく言ったが、その姿は自負に溢れていた。
その見た目と態度で、幾人もの男を手玉に取ってきた、自負だ。
殿下の側近を務めるのは、いずれも大家に生まれた者ばかりだ。ゆえにこのような女の演技は見飽きている。その恐ろしさもだ。
男爵位や子爵位ほどの男であれば簡単に騙せるだろうが、我々が相手では──。
「そのように強く言わなくとも良いだろう。女性を泣かせるものではない」
殿下?
「勉強を見るくらい、少しの時間なら構わんよ。この時間なら食堂が空いているだろう」
殿下、もしや騙されましたか? 嘘泣きでございますが?
喜色満面の女生徒を引き連れ、歩き出す殿下の後ろを慌てて追いかけた。
人の良い主君で、我々は苦労……あ、いや、幸せである。
食堂につくと、殿下は女生徒をテーブルの端に座らせ、自らはその隣に腰掛けられた。
さすがにそれはまずいと側近の一人が「私がこちらに座りますので」と申し出たが、殿下は声を潜めて「それではお前達の婚約者が気にしよう。私がここで構わん」と仰った。
我々の婚約者のことを考えてくださるとは! と一瞬感涙したが、同時に、あなた様にも婚約者がおられますよね? と我に返った。
「そ、それでは、レストリド公爵令嬢が気に病まれるのでは……?」
「……………………あれは、嫉妬したりしない」
殿下の婚約者への深い信頼の言葉だった。
なぜかご尊顔に深い影が落ちたように見えたが、気のせいだろう。
結局、殿下が女生徒の隣に座り、勉強をお教えなさったのだが、殿下の寛大な婚約者殿とは違って──。
「なにやら不快な噂を耳にしたのですが……あなた方がついていながら何事です?」
我々の婚約者殿は、可愛らしく苛烈なのだ。
「わ、我々もお止めしたのだが、殿下が勉強くらい良いだろうとおっしゃって……」
「言い訳はお止めなさいませ! 人目のあるところで女生徒を隣に座らせるなど……リシュフィ様が見られていたらどれほど悲しまれるか!」
「そ、その殿下がレストリド公爵令嬢はお気になさらないと……」
「お気になどなさるものですか! たかだか男爵家の娘如き、あの方の足元にも及びませんよ! ですが、外聞というものがありましょう!」
少々矛盾したことを言う婚約者だが、決してその矛盾を指摘してはならない。
妻の怒りは忍び聞くことこそ、夫の務めなのだと父が常々仰っていたからだ。
「君の言う通りだ。すまない。もう金輪際、殿下のお近くには寄らせぬようにするから……」
三者三様に宥める姿勢に入った我らに、婚約者方の怒りは収まらないらしい。
「……随分と可愛らしい娘だそうですが、あなた方が殿下と揃ってお囲いになるなど、どれだけ目立つか。そのくらいのこともお考えにならなかったのですか」
わずかな違和感に、宥める言葉を発さず、婚約者を見つめる。
寄った眉がわずかに下がっているのが、見て取れた。
隣の領地を治める侯爵家の娘である彼女とは、生まれた時から交流がある幼馴染だ。
長く付き合いがあるからこそわかるこれは。
「すまなかった。心配をかけてしまったのだな。だがあのような妙な娘よりも、私にとっては君の方がよほど、そばにいて心地よく過ごせる女性だよ」
「……どうだか」
どうやら彼女が聞いた噂は、殿下が心変わりしたのでは、というものだけではないらしい。我ら側近が、殿下と共にあの男爵令嬢を囲んでもてはやしていたという、根も葉もない噂を聞いたのだろう。
彼女はなにかと口やかましいところはあるが、時々このような一面を見せてくれるから可愛らしい。
彼女は知らないだろう。
幼い頃、隣の領地の可愛らしい侯爵令嬢とあまり親しくしないように、と父に言われたことなど。
それは紛れもなく親心だ。
王太子殿下と同じ年に生まれた貴族令嬢は、その全てが王太子殿下のものだったのだから。
王太子殿下とレストリド公爵令嬢の婚約が決まったと知らせが来た日、いてもたってもいられずに父に頼み込み、侯爵家に乗り込んだのだ。親しさゆえの無礼な訪問に、侯爵は快活にお笑いになった。
そして辿々しく婚約を申し出た私を、彼女は涙を浮かべて、受け入れてくれたのだ。
「心配をかけた私がいうことではないだろうが、私には君以上の女性はいないよ」
頰をわずかに赤く染めて、こちらを睨む婚約者はこの上なく可愛らしい。
「……どうか、もうこのようなことを言わせないでくださいませ」
「ああ。もちろんだ。愛しているよ」
手を取り、甲に唇を寄せる。
お怒りは収まったようで、なによりだ。
その後、我々の鉄壁の防御により男爵令嬢は殿下に近付くことがなくなり、また公爵令嬢のお昼寝騒動により殿下に関するあらぬ噂は消え失せた。
こうなってみれば、可愛らしい婚約者の姿を見ることができて、あの男爵令嬢には感謝してやらぬこともない……ん?
廊下の向こうから歩いてくる側近二人を見て取り、これはまずいことになったと思った。
同じことを思ったらしい二人も、どんどんと顔が青ざめていく。
「……君が、お側についていると思っていたのだが……」
「そ、それはこちらのセリフだぞ……」
三人。持ちうる限りの速度で校舎を走り回り、主君をお探しする羽目になった。
殿下は校舎の中庭で発見された。
隣ではなんとあの女狐……いや男爵令嬢が勝ち誇るような笑顔で殿下にすり寄っているではないか!
「ああ、お前達…………遅かったな……」
本音が漏れておられます、殿下!
「ご、御前離れましたこと、深くお詫び申し上げます」
何か口実をつけて殿下を連れ出さねば。
何か、口実を……。
側近の一人がいいことを思いついたとばかりに声を張った。
「レストリド公爵令嬢が、至急来ていただきたいと!」
うまい! と思った。
この口実ならば、殿下をこの場から離せるばかりか、殿下には婚約者があられるとの牽制にもなる。
続けて「お早くお越し下さい」とでも声を上げようとして──。
「なに!? リシュフィがか!?」
その、あまりにも喜びに溢れるご尊顔に、我々はとんでもないことをしでかしたぞと思った。
「珍しいこともあるものだな! 初めてではないか!?」
「そうなのですか!?」
婚約者なのに!?
「ならば早く向かってやらねばな! どこで待っている!?」
向かう場所をお伝えする前から殿下は大股で歩き始め「で、でで殿下のお部屋にて、おおおお待ちであると……」と震える声で三人の内の誰かが答えた。
殿下は「珍しいこともあるものだ」と笑いながら、我々が小走りにならねばついていけぬほどの速度で歩いていかれた。
「私は、なんということを……っ!」という友人の苦悩の声には同情を禁じ得なかった。
ふと、激しい悪寒がして振り返った。
悲鳴を押し殺して、すぐさま視線を戻し、殿下の元に駆け寄る。
未だベンチに座ったままの男爵令嬢は、この世のすべての憎悪を滲ませたような激しくおぞましい視線を、我々へと向けていた。
あれは、あまりにも気味が悪い。もう二度とお近くに寄らせぬようにしなければ。
「殿下、恐れながら申し上げますが……もうあの娘には近付かれぬよう、お願いいたします」
歩く殿下に伝えると、殿下は虚を衝かれた顔をして「何かあったのか」と尋ねられた。
「いえ……ですが、やはり殿下が同じ娘と二度も、となりますと、口さがない者もおりますので……」
殿下はたっぷり沈黙し──。
「以前に食堂で教えたのと、あれは同じ娘であったのか?」
……この方は、レストリド公爵令嬢以外の女性の顔を、個々に認識しておられないのかもしれない。
その後、口実でございましたと平伏叩頭する我らは肩を落とす殿下の寛大さに救われたものの、この騒動を知ったらしい婚約者殿には、こっ酷く叱られ泣かれ、自らの失態ながらもなんとも酷い目にあった。
「俺が愛しているのはリシュフィだけだ!!」
愛の言葉を叫び、顔を真っ赤に染められた殿下は「婚約者なのだから当然なことだが……」と呟かれたあと、同じく顔を赤くした婚約者の手を取り、パーティー会場を後にされた。
……殿下は随分と顔を赤くされていたが、もしや、お気持ちを伝えたのはこれが初めて、などということは……いや、それはないだろう。殿下はよく婚約者の元を訪れておられたのだから。愛しているなど、挨拶のようなものだ。
いや、それにしてはレストリド公爵令嬢のご様子も……。
「なんなのよっもう! 小説の通りにやったのに、どういうことよ!? 私が殿下の婚約者になるはずだったのに!!」
甲高い怒声が会場中に響き、あまりに耳障りで、目線で衛士に指示を送る。
正確に指示を理解した二人の衛士が叫ぶ男爵令嬢の腕を掴み、引きずりながら連行していった。
「離しなさいよ!! もうっ意味わかんない!! あの悪役令嬢は全然いじめてこないし! そもそもなんで、デブじゃないのよー!!」
「あれは……何の話をしているのだ?」
「さぁ……頭のおかしい娘だったのだろうよ」
もしも悪役令嬢と……とやらが、レストリド公爵令嬢のことを言っているのだとしたら、とんでもないことだ。あれが王太子殿下の婚約者になっていたらと思うと鳥肌が立つ。
いや。それはあり得ない未来だった。
王太子殿下は分け隔たりなく誰にでもお優しい方だが、その目は一点に、婚約者だけを見つめておられたのだから。
それは、もう十年以上もお側に控える我々が一番よく知っている。
我々は、そんな殿下に仕えることができて、とても幸せなのだ。
側近達に目を向ければ、同じことを考えていたらしい。どうやらあの妙な娘の一件は片がつきそうで、お互いに安堵の表情を浮かべる。
安心する我々の服の袖が摘まれ、三人、同じ動作で振り返った。
後ろには婚約者方が、品よく佇んでいて──。
「先程、殿下が仰った言葉の意味が分からないのですけれど、夜がどうとか……殿方にはお分かりになるものなのですか?」
「リシュフィ様は殿下がご成長なされたとかなんとか、仰られていましたが……」
「殿下のご成長に関することですの?」
殿下。我々は貴方様にお仕えできることは、この上ない喜びだと存じてはおりますが──。
「……い、いや、我々にもよく分からな」
「何年お側にいると思っていますの。嘘をお付きになっていることくらい、お見通しですわよ!」
この飛び火だけは、ご容赦願いたかったところでございます。
侍女に連れられて、跳ねるように部屋を後にした公爵令嬢と入れ代わりに、恐る恐る執務室へと入ると、殿下が机の上でぐったりと突っ伏しておられた。
「……お、お疲れ様でございました……?」
婚約者と過ごした殿下にかける言葉にしては、かなり不適切ではあるが、これしか浮かばなかった。
「……毛布を持て!! 今晩、俺はここで休むぞ! ……いや、バルコニーにするか!?」
バルコニーならば音は聞こえまいが……。
なんとも言えず、三人、沈黙を守った。
「お休みになられる前に、一つご報告申し上げてもよろしいでしょうか?」
側近の一人が、バルコニーを振り返る殿下に声をかけた。
「ん? なんだ?」
「件の娘ですが……」
どうやら、自らの無知を棚に上げ、私の婚約者を貶めようとした娘の続報らしい。
娘の処遇について殿下は、その父である男爵に対応を委ねられ、娘は男爵家からの除籍処分となっていたのだが……。
室内がシンと静まり返る。
「男爵家から除籍され放逐されておりましたが、どうやら男爵から渡された金銭を使い、市井で生活を始めたようでございます」
報告を聞いた殿下は「そうか」と呟き、二度、ゆっくりと、ペンでデスクを叩かれた。
殿下は、とてもお優しい。
──だが。
「リシュフィはあれで、お忍びというのが好きでな。町へも一人で歩いて行ってしまうようなところがあるのだ。
さすがに心配だから俺が共に行くと言ったのだが、王太子殿下のなさることではありません、などと言って、いつも体よく断られる。
一人で町に出るなど、何があるかわからんだろう。だからその時は護衛を山ほど付けたのだが、ひどく叱られてな。
妃となってからはやめてもらいたいところだが、なかなか俺の言うことを聞いてくれる娘ではないからな。そこもあれの可愛いところではあるのだが」
優しいだけでは、為政者は務まらない。
我々はこの方に仕えることができて、心から幸せだ。
三人、同じ動きで頭を下げた。
「仰せのままに。我らが主君」
ありがとうございました。
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