12 最終話
よろしくお願いします。
ペンの走る音。背中を覆う温もり。
見上げた先にあるお顔は思案するように、ペンを持つ手がその口元へと運ばれ、またテーブルの上の書類へと戻る。
頭をもたせかければ、その体がびくりと震えて、緩む口元を誤魔化すように眉が寄った。
「……リシュフィ。その……あまりじろじろと見るな。気が散る」
「いやです。殿下のお顔を眺めるのは、とても楽しいのですもの。殿下はわたくしがお側にいては、お嫌ですか?」
わずかに赤らむ目が、無言で逸らされる。
お分かりいただけたようで、なにより。
「か、顔を見るだけならば、そこのソファからでもよくはないか」
「なんとまぁ、往生際の悪い……ここが特等席ですのに」
わざと後ろにゆっくりと倒れてみると、すぐさま片手で胸元へと抱き寄せられる。
その動きに満足して、温かな胸に頬擦りする。
「殿下のお膝の上は、わたくしの特等席ですわ」
殿下は諦めたように、ペンを手放した。
迷惑そうな顔をするくせに、大きな両手は私を落とさないようにか、しっかりと私の体を抱きかかえている。
「あの頃のように太ったままなら、ここにはいられませんわ。痩せたご褒美です。堪能させてくださいませ」
「別にデ……や、痩せていなくとも、いくらでも乗せてやる……」
デブでもと言いかけたな? わずかに焦る殿下に、じっとりと瞳を合わせる。
「…………今のは誘導尋問だぞ! お前、まさかまだ婚約破棄を狙っているのではなかろうな!?」
「いいえ、まさか。そのような企みなどありませんとも」
「くそっ……早く式を挙げなければ……」
お口の悪さは相変わらずだ。
あの卒業パーティーが終わったあと、殿下が取り押さえた男の部屋から私の私物がいくつも見つかったらしい。ノート以外にも盗まれていたなんて、気付かなかった。美しくなるのも考えものだ。
見つかった私物は殿下がさっさと処分してしまった。お気に入りのものもあったけど、あの時の怒りの炎を背負った殿下に、異を唱えるだけの勇気は私にはなかった。
アンリエッタ嬢のその後は、男爵家を除籍されたということしか教えていただけなかった。ストーカー男に嘘を吹き込んだのは、やはり彼女だったのかと殿下にお聞きしても、答えは下さらなかった。それが答えなのだろうと思う。
そして私達は無事に卒業し、殿下は陛下へ、すぐにでも式を挙げたいと申し上げられた。
だが、私達はまだ婚約者のままである。
「式は一年も先だとっ!? これ以上待てん……っどうして俺は王太子なのだ……!?」
「無茶苦茶なことを仰って。王太子殿下のご婚姻のお披露目ですのよ。時間がかかるのは分かっていたことでしょうに」
息子可愛い陛下にも一年が最短だと言われたらしい殿下は、事あるごとに私を呼び出されるようになった。
今日のこれは、その抗議でもあるが……逆効果かな?
「そこまで仰るなら、学生の時分に準備を進めておけば、よろしかったのではありませんか?」
会える楽しみはあれど、屋敷からの移動が少々面倒にもなってきている。
同じ王宮に住めば、毎日会えるのに。
「それはお前が! ……い、いやなんでもない」
「わたくしが?」
「なんでもない」
殿下はごまかすように再びペンを取り、書類に向かうが……ペンが進んでいない。
「わたくしがなんです?」
「だから、なんでもないと……ほ、ほら、今日は美味しいカタラーナを用意したぞ。食べてきなさい」
「殿下」
いい加減学んでほしい。私は甘いもので釣れないぞ。
「わたくしが、なんですの?」
一言一言に力を込めて、満点の笑顔を贈る。
数秒ののち、唸りつつも観念したらしい殿下が「お前が……」と口を開いた。
「お前が、破棄しろ破棄しろと言うから、だな……」
風が通り抜けたようだった。
私が婚約を嫌がるから……。
もしも殿下がお披露目を強行してしまえば、式の準備が進む中で婚約を無かったことにするなど私には、いえ、誰にもできることじゃない。
他国からも多くの賓客が招待されるのだ。どれだけ嫌な婚約でも受け入れるしかなくなってしまう。
「わたくしが……逃げられなくなるから、ですわね」
「……逃すつもりなどなかったからな。お前の心が決まるまで、待つくらいのことは、する」
殿下はまるで叱られた仔犬のように耳を垂らしているようだが、これは言いたくなかったことを私に知られてしまったから、しょんぼりとなさっているのだ。
なんという、優しい人。
それなのに私は……。
「殿下……一つ謝罪を、聞いていただけますか」
「……もう、婚約の解消には手遅れだぞ」
私も同じだ。この人の心を、深く傷つけてしまった。
精神年齢が大人の私がデブ呼ばわりされるよりも、まだ幼い殿下が婚約者から破棄を迫られることのほうが、どれだけ辛い思いをさせてしまうか。少し考えれば分かることだったのに。
「申し訳ございませんでした。殿下のお気持ちも考えず、何度も破棄をお願い申し上げて……傷つかれたことも、何度もあったでしょう」
叱られた仔犬はペンを手放し、静かに私を抱き寄せた。
「そんなことはない。俺が、お前を傷つけたのだ。嫌われても仕方ない」
「……夫婦になりますのに、嘘をお言いになるの?」
そっと見上げて言えば、苦笑が返ってきた。
頭を胸に寄せられて、お顔が見えなくなる。
「………………俺と結婚するよりは、他の男との方がマシ、と言われた時は……さすがに少し堪えた」
たまらず顔を見たくなって、私を抱く腕から逃れようとするも、強く引き止められた。
諦めて抱きしめる力を強める。
「本当に、申し訳ございませんでした。殿下」
「もう済んだことだ。今、お前はここにいてくれるのだから、俺は幸せ者だ」
優しい言葉をかけられたところで、私のしたことが消えるわけではない。きっと殿下も私に対して同じお気持ちなのだろう。
どうしても落ち込んでしまう。
「……では、お前も俺に償いをくれないか」
落ち込む私を見かねたのか、殿下はそう言って私の体を離した。
やっと見ることのできた殿下のお顔は、とても優しい笑顔を浮かべていて──。
「笑顔を。お前が俺の隣で笑っていてくれることが、俺にはなによりも幸せなことだ」
「……そのようなことで、よろしいの……?」
「ああ。それこそ、俺の特等席だ。お前の笑顔を一番よく見られるここが、俺だけの特等席だろう」
そう言って殿下は私の頰を優しく撫でる。
私は本当に幸せになれるのだと、教えてくれる笑顔と共に。
償いを浮かべて、口を開いた。
「わたくしも、殿下の傷を償います。一生涯かけて」
頰を撫でる手がそっと後頭部へと動き、抱き寄せられる。
この柔らかさは、償いへの誓いだ。
「……一年は、長いな」
「ええ……とても」
ここに座ったのは失敗だった。
この温もりから離れるのは、あまりにも寂しい……そうだわ。
「今日はこちらに泊めていただけませんか?」
いつもならもう帰る支度を始める時間だ。でもお泊まりなら夜までずっと一緒にいられ──。
「駄目に決まっているだろう!! おっお前が同じ屋根の下にいる中でなど……っろくに寝られんわ!!」
「王宮の屋根ですよ……!?」
一つ屋根の下にしても広すぎる!!
「駄目なものは駄目だ! お前が近くにいるとわかっていながら風呂に入り寝支度を、など……出来るわけがない……っ」
「……わかりました。譲歩いたします。殿下の二つ隣の部屋で我慢いたしますから!」
「隣の部屋で寝るつもりだったのか!?」
「部屋が分かれていれば同衾にはなりませんでしょう!」
「はっきりと口にするな! よくそんな言葉を知っていたな!?」
前世の知識です、との言葉は飲み込む。
「お、お前が隣で寝るなど!……っ何か音でも聞こえてきたら……頭がおかしくなりそうだ……っ!! 今すぐ帰りなさい! ……誰かっ! レストリド公爵令嬢がお帰りだ! 車の用意を!」
「酷いですわ、殿下! 勝手に決めてしまわれるなんて!! 帰りません! レストリド公爵令嬢はまだ帰りませんわよ!!」
※
隣室に詰めていた殿下の側近の一人が、主君の声がけに腰を浮かせた。
しかし、続く公爵令嬢にあるまじき音量の言葉に、どちらの命を聞くべきか、わずかに悩む。
「いいから今日は帰りなさい! ……明日迎えをよこすから!」
「嫌です! 絶対に泊まるんです!! 殿下と少しも離れたくありません!!」
「わ、わがままを言うな!! いくら可愛かろうともそれだけは聞けんぞ……っ!!」
答えが出せず振り返り、同僚達に指示を仰ぐ。
「……殿下の臣下ならば、車を呼ぶべきだろうか」
「臣下だからこそ、呼ばぬべきではないか……?」
「少なくとも、まだ呼ばなくとも良いだろうが……同じ男子として、後ほど必ず呼んで差し上げるべきだろうな」
殿下のお側で幼い頃から三人共に行動してきた側近達は、同じ動作で頷いた。
腰を椅子へと戻して、さぁ仕事だとペンを取り──。
「殿下はわたくしと一緒にいたくはないのですか!? 愛してくださっていないから、帰れなどと非道なことが言えるのだわ!」
「愛しているからこそだ! わからんやつだな!! ……わかった。埋め合わせはしよう。何か欲しいものはないか? ドレスでも宝石でも、お前のためなら何でも手に入れてやろう。だから今日は帰」
「……わたくしは……殿下と過ごす時間が欲しゅうございます……」
…………。
同僚の一人が無言で立ち上がり、廊下を通る侍女に指示を出した。
「レストリド公爵令嬢が本日お泊まりになる。支度をしておくように」
どうやら室内の怒鳴り声が聞こえていたらしい侍女は、肩を震わせながら「かしこまりました」と頭を下げて去っていった。
「………………あ、あと少しだけだぞ! その後、俺が送っていくから、必ず帰るのだぞ! わかったな!?」
殿下のお言葉へ、美しく可愛らしい猫をかぶる公爵令嬢からの返答はなかった。
同僚達と肩を竦めた。
今後もここグランドーラ国は安穏とした日々を送るだろう。
王太子ご夫婦の仲のよろしいことは、良いことだ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
もう一話だけ、番外編が続きます。
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