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よろしくお願いします。
殿下に手を引かれ向かった先は、休憩するために利用できる空き教室だ。ガタリと鍵をかける音が聞こえてきて、手に汗が滲む。
「……泣いたのは……殿下に叱られたからですわ」
「そうか」との声がすぐそばから聞こえて来て、顔が上げられない。
こんなの、婚約者の距離ではないの。もう解消は決まったのに。ああでも、アンリエッタ嬢とのことは、どうやら私の勘違いだったらしい。それならば、どうして……?
「どうして、婚約破棄を了承なされたのです……?」
「お前がそれを聞くのか……ずっと破棄したがっていたのは、お前の方だろう。この十年間、ずっとだ……っ」
殿下は言葉を区切り、一度深く息を吐かれた。その息がひどく震えているように思えて顔を上げれば、激しい悲哀を浮かべる碧眼と視線が合わさった。
「俺の、何が気に食わない? 頼むから教えてくれないか。……先程言った通りだ。俺は、お前を愛している。どうしても……諦めきれない」
殿下の手が私の頰へと伸ばされ、触れる寸前、その熱は離れていった。
「はじめて参加したお茶会で、せっかく張り切って用意したお菓子に誰も手をつけてはくれなかった。お喋りや仲間集めに夢中な様で、俺に媚びへつらうやつらばかりだった。そんな中で お菓子がどんどんと運ばれていく一角があって……」
「お前が振り向いた瞬間だ。あの時からずっと。今日まで。これからもだ。俺にはお前だけなんだ。至らないところは直す。だから、婚約の解消だけは思いとどまってはもらえないか。……頼むから。俺の何が気に入らないのか、教えて欲しい」
殿下の懇願する響きに、まだ心地よい場所が私の手元にあるとわかった。心を満たすのは、歓喜だ。
それでも、どうしても。
「デブって……」
あの日、私と話した子達は挨拶をしたら笑いながら私から逃げて行った。クスクスと笑い声が聞こえるたびに、きっと私が笑われているんだって体が震えて、前世に戻ったようで、怖かった。
殿下だけが私に話しかけてくれて、一緒に笑ってくれて、それがとても楽しくて、嬉しかった。
だから。
「殿下が、デブって言った……っ」
これだけがずっと、私の胸の中に住み着いて、出て行ってくれない。
「お前っ……気にしていないって……ああいや、そんなはずがなかったな……ごめん、リシュフィ。本当に。ごめんな……」
「痩せても言った……殿下が……っあ、あほでぶって言った……」
「そっ、それは、だな……ごめん、やはりそれも、俺が悪いな」
その場で泣き崩れた私の背中が優しく撫でられる。
違う。欲しいのは、それじゃない。
そう思うのに、謝罪ばかりを口にして、頑にそれは近づいてこない。
激しいもどかしさに、そっと濡れた手でその場所に触れる。
わずかに震えたその場所は、ほんの少し近付いて、やはり離れていってしまった。
──私が許すと言わなければ、この心地よい場所は、私の元に帰ってこないのだわ。
本当にこの人は、世話が焼ける……っ!
「抱きしめてください……っ」
次の瞬間には、暖かく包まれていた。腕を背中に回し、きつくしがみつく。
「いいのか。本当に。……そんなことを言われてはもう、離してやれんぞ……」
「よく、そんなことが言えますわね……っ何度破棄をお願い申し上げても、聞いてくださらなかったくせに……」
「ったく口の減らない……」
やっと戻ってきたと思った場所は、するりと離れた。思わずしがみつくも、向けられた優しい瞳に促されて手を離す。
殿下は優しい仕草で私を立たせ、自らは膝をついた。
手を差し出され、そっと重ねる。
「リシュフィ・レストリド公爵令嬢。あなたに、婚約を申し入れたい。至らない私を許してくれとは言わない。どうか、私があなたに負わせた傷を、一生涯かけて償わせて欲しい」
優しい瞳は真剣さを増し、心臓がトクトクと高鳴った。
「リシュフィ。あなたを愛している。この十年、いや初めて会ったあの日からずっと。私にはあなただけだった。……この婚約を、受けていただけないだろうか」
王子様からの婚約の申し出だ。断っては不敬だと、投獄されてしまうかもしれない。
いいえ。この方はそんな心の狭い方でも、横暴な方でもないことは、私が一番よくわかっている。
「お受けします……ただし、ひとつだけ条件が」
「っあなたが私を受け入れてくれるなら、なんだろうとお聞きしよう」
私の返答に喜色を浮かべた殿下は、すぐさま表情を引き締める。その仕草はなんだか子供のようで、凛々しいお姿なのに、とても可愛らしい。
「次に、デブ呼ばわりなさったら、その時は問答無用で破棄していただきますからね」
「無論だ! もう金輪際、決して口にはしない」
私の手を引き寄せ胸に閉じ込めた殿下は「やっとだ」と繰り返した。
「卒業と同時に式をあげなければな。お前のことだから、心変わりされては困る」
「わたくしをなんだと思っていますの。そんなこと、お父様がお許しになるはずありませんわ」
「……いや、叔父上なら喜んで逃亡の手助けをなさるぞ……」
逃がさないとばかりに回された腕に力が込められる。逃げないと言っているのに、もう。
「式に際してひとつ、おねだりをお許しいただけますか?」
「なんだ、言ってみろ。ケーキのサイズか?」
……一度、殿下とはしっかり私に対する認識について話し合わなければならないな。
「だからわたくしをなんだと……ドレスは、ゴールドのものを着とうございます」
「そうか……ああ、そうだな。お前はゴールドも……よく似合っている」
一度体が離され、殿下は私の姿に目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。
しかし、私の顔のわずか下に目を留め、残念そうに眉尻を下げた。
「……やはり式までお預けだろうか」
何が、などと聞く必要はなかった。
「古い慣習では、そうなりますわね」
「よし、では式での挨拶には、古きを尊び、新しきを取り入れ、と付け加えよう」
「なんですの、その妙な決意は」
その可愛らしい決意に、笑いが溢れる。それでも頰が優しく撫でられれば、否応なしに緊張で体が震えた。
この柔らかな感触は、前世でも今世でも、これが正真正銘はじめてのものだ。
「愛してる。リシュフィ」
そのあまりにも甘い声音に、微笑みを返す。
「わたくしも、フェルナンド様を愛していますわ」
私を映す、かつてない優しい瞳に。
今度こそ私は、幸せになれたのだ。
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