23 魔女と魅惑の王子
落ち付かない。
非常に落ち着かない。
魔女の鏡の前をぐるぐると熊のように歩き回る。
「魔女の話を信じるなら、すぐ傍にイージオ様がいるって事よね?」
誰もいない見慣れた魔女の部屋を凝視し、何か彼の存在を匂わせる変化がないかと探すけれど、当然そんなものは見当たらない。
魔女は魔法の鏡を隠している。
だから、誰かを鏡の置いてあるこの部屋に連れてきた事はないし、外からこの部屋の中が見えるようにもしていない。
魔女に聞いても当然教えてはくれないし、自分では調べようもないから確信はないけれど、きっと他者に見つからないように作った隠し部屋のような場所なんだと思う。
「せめて、窓があればもう少し拾える情報もあったかもしれないのに」
ジーッと魔女の鏡を睨み付けながら少し爪を噛む。
魔女がイージオ様の来訪を伝えてから既に数日が経っている。
魔女からもう少し情報を絞り取りたいのに、来なくていい時には来るくせに、来て欲しい時には来てくれない。
ここは絶対に空気を読んで来るべき場面だと思う。
……まぁ、空気を読まれ過ぎて、私とイージオ様の繋がりを疑われて探りを入れられたりしても困るから、本当のところは何とも言えないんだけど。
「イージオ様とは話が出来ない。鏡で情報収集することも出来ない。魔女も来ない。私にどうしろっていうのよ!!」
誰もどうしろとも言っていないのはわかっているけれど、それでも気持ちは焦るばかり。
私のストレスがMAXに達し、ちゃぶ台返しをする為だけにちゃぶ台を魔法で出そうかと真剣に考え始めた時、突然、バンッという大きな音を立ててドアが開き、魔女が大慌てで駆け込んできた。
「ミラ!!ちょっとこの部屋を使いたいから、貴方隠れていて頂戴!!」
「は!?いきなり来てなんですか、その意味のわからない指示は!!」
ツカツカと足早に私の方に近付いて来た魔女の息はやや切れており、頬も高揚している。
魔女が身に纏っているドレスは、色はいつも通りの黒だけどやたらと襟元が開いていたり、腰のくびれを強調していたりして、明らかに普段使いではないセクシーで豪華な作りのものだった。
まるで、舞踏会か何かから抜け出してダッシュしてきたような雰囲気。
イメージ的にはシンデレラ逃走中(魔女版)的な感じだ。
「スノウフィアが行方不明になった事で、今、城中が警備を強化しているのよ。丁度建国記念日の式典前で、観光も兼ねて早めに来た他国の来賓も大勢滞在しているから余計に厳重になってて……陛下に隠れて逢引出来る場所がここくらいしかないのよ」
苛立たしげな様子で口早に説明してから、魔女は何処からともなく魔法の杖を取り出した。
「それなら逢引しなければいいじゃないですか」
「あんな素敵な男性に口説かれたのに、断るなんて出来るわけないでしょ!!」
手にした杖で、杖を持っていない方の掌をパシパシと叩きながら、魔女が眉間に皺を寄せる。
まるで「何をわけのわからない事をを言っているんだ」とでも言いたげな表情だ。
私からしたら、夫がいるのに他の男と逢引しようとする方がおかしいと思うけれど。
でも、そこは最早「魔女だしね」の一言で納得するしかない。
魔女のこういう最低発言はいつもの事だから、今更いちいち反論する気も起こらない。
それより気になるのは……
「……逢引って誰とするんですか」
魔女の異様なまでのテンションの高さと、国王陛下にバレる危険を冒してまで落そうとする相手というのが気になる。
それ程素敵な人。
そして……今、この城に滞在している人。
私の頭の中に、私の№1。それどころか最近only1に進化した人の顔が浮かぶ。
聞こえないはずの警報が耳のすぐ近くで鳴っているような錯覚を覚える。
「女装王子……いいえ、魅惑の王子、イージオ様とに決まっているでしょ?」
いや、決まってませんから!!むしろ、お願いですから決めないで下さい!!
……というか、今、この人、イージオ様に口説かれたとか言ってなかった?
それって、魔女の妄想?それとも魔女の毒牙にイージオ様が掛かってしまったって事!?
「ヤバい、ヤバい、ヤバい!!」と気持ちは焦るけれど、ゴクッと唾と一緒に口から飛び出しそうな言葉を飲み込んで何とか平静を装う。
現状でも麗しのイージオ様が食われるかもしれない最悪の事態だというのに、私との繋がりがバレる事で更に状態を悪化させるわけにはいかない。
幸い、先日の魔女とのやり取りが私にとっては好ましくない状態で終わっている事で、多少表情を作るのに失敗しても、そのせいだと誤魔化す事は出来る。
自分でもわかる位、顔が青くなっているだろう今の私にとってそれは不幸中の幸いだった。
「あぁ、やっぱり早めにスノウフィアを始末しておいて良かったわ。噂とはあてにならないものね。あれだけ素敵な人なら、多少女装癖があってもその魅力を曇らせる事は出来ないわ!!女装だってとても美しかったものね」
……これ、本当は女装癖すらもない素敵王子ってバレたら執着されて更にヤバい事になるよね?
下手すると、国王様から乗り換えちゃう可能性すらありそうなテンションだ。
まぁ、魔女は国王様の事も大好きだから、どちらかと別れて一途に相手を思うっていうよりは、両方を手に入れようとする可能性の方が高いけど。
私の感性からしたらあり得ないけど、魔女は「素敵な男性がいっぱいいるのに1人に絞る意味がわからない」って平気で言えるタイプだしな。
うん。やっぱり何とかしなきゃ。
でも、何とかってどうすれば良いの?
大体、イージオ様が魔女と接触している理由だってよくわからないのに……。
私があれだけ魔女の怖さについて話したっていうのに、まさか本当に惚れちゃったなんて事はないよね?
純粋だからこそ、コロッと騙されそうとか思っちゃってる自分もいるけど、さすがにそれはないと信じたい。
イージオ様は決してお馬鹿なタイプではないから、その辺はちゃんと見極めてくれているよね?
リヤルテさんは一体何をしてるんだろう。
毒を以て毒を制するじゃないけど、あの人が傍に付いていれば、滅多な事は起こらないはずなのに。
でもじゃあ、何でイージオ様はここにいる?
魔女と直接接触した上に逢引なんて話になってるの?
もしかして、この行動にも何か裏があるって事?
あ~、もう何がなんだかわからない!!
どうする事が正解なのかもわからないし、鏡の中に閉じ込められてちゃ何かしてあげる事も出来ない。
どうしよう。泣きたくなる程自分が無力で辛い。歯痒い。
「あら、今日は元気がないのね?まぁ、静かにしててくれた方が私も助かるけど。でもそうね。いくら静かにしてても、これが魔法の鏡だってバレるのは困るから、念の為、こちらからはただの鏡に見えるように魔法を掛けさせてもらうわよ?もちろん、そっちでどんなに叫んでも声は聞こえないからね」
「え?ちょっと待って!!」
「そ~れ」
どうすべきかわからず私が悩んでいる内に魔女は素早く詠唱を済まして、私の制止の言葉も無視して鏡に魔法を掛けてしまう。
「フフフ……。我ながらいつも通り完璧ね」
魔女がはしゃいだ声で自画自賛する。
「待ってってば、王妃様!!貴方には素敵な素敵な国王様がいるでしょ!?他の男性と逢引なんて良くないわよ!!見つかったら大変な事になるんだから!!」
私は鏡をガンガンと叩きながら魔女を思い止まらせようと慌てて叫ぶ。
「久しぶりにいい男が見られてミラも嬉しいでしょう?ついでに私とイージオ王子のラブラブな様子も見せてあげるから感謝しなさい?独り身の女には美男美女の濡れ場なんて、さぞご馳走でしょう?」
魔女は機嫌良く歌うように私に語り掛ける。
けれど、視線がいまいち合わない。私が全力で叫んでいる声も聞こえていない様子からして、おそらく、もう既に魔女の方からは私の姿は見えないようになっているのだろう。
「王妃様!私は純粋培養なのでそういう大人な世界はちょっとというか大分見たくありません!!」
本当は私もそれなりに年はとっているし恋愛事だって嗜んできた。知識だってあるから純粋培養とは言い難いけど、この際そこは嘘も方便という事にしてもらう。
少なくとも他人の濡れ場を……しかも知り合いの濡れ場を見て平気でいられる程、大人な世界にどっぷりはまってはいない。
それ以前に、自分の大切な人を最低最悪の女に食べられる事を喜ぶ事は私には出来ない。
「さて、後はこの部屋をもうちょっと綺麗にして……2人で横になれるような上等なソファーを用意すれば、客間としてはいまいちだけど、逢引用の部屋としては完璧ね」
魔女が素早く杖を振ると、杖から魔女の魔力が溢れ出て、部屋の内装が次々に変化していく。
魔法の鏡を使う為だけの閑散とした部屋が、あっという間に小奇麗な部屋へと変わった。
ひと際目を引くのは中央に置かれたソファーとテーブル。
柔らかそうな素材で作られたソファーは大柄の男性でも横になれそうなサイズで、柔らかくてとても座り心地が良さそうだ。
「このソファーセット、気に入って買ったはいいけど、部屋に置くにはちょっと邪魔なサイズだったからずっとしまいっぱなしにしてたのよね。でもこうして役に立つ時がきたのだからやっぱり買っておいて良かったわ」
魔女の私室とこの部屋。面積の面からどちらの方がこのソファーを置いても邪魔になり難いかと考えれば確実に魔女の部屋の方だろう。
腐ってもこの国の王妃だ。
王妃の私室の大きさとこの鏡置場とを比べてはいけない。
けれど、今の魔女からすればこの入ったらすぐにソファー。他はほとんど何も置けないという状況は反対に好都合なのだろう。
「さぁ、イージオ王子をお招きしなくちゃ。折角決まり掛けた縁談が婚約者候補が行方不明になった事でご破算になって落ち込んでいる彼を、優しい私が慰めてあげないとね」
「ちょっと魔女!止めてよ!!貴方の毒牙でイージオ様を穢すなってばぁぁぁ!!」
割れないように気を付けつつ、ガンガンと鏡を叩いて怒鳴るけれどやはり魔女に私の声は届かず、彼女はスキップでもし始めそうな勢いで部屋から出て行ってしまった。
「リヤルテさん!!今こそ貴方の出番でしょうが!!何やってるのよ!?私じゃ守れないんだから、お願いだから守ってよ!!」
誰もいなくなった部屋に……否。私のいる鏡の中の世界にのみにだけど、私の悲痛な叫び声が響いた。
***
「イージオ王子、こちらどうぞ」
いくら私が叫んでも止めようもなく、その時は来てしまった。
見た事もないような満面のニコニコ笑顔でイージオ様を招き入れる魔女。
叫び疲れて項垂れていた私は、その声に導かれるように顔を上げた。
「……イージオ様」
そこには何日ぶりかのイージオ様の姿があった。
心なしか少し痩せたように見える。
穏やかな笑みを浮かべているその顔は、何処かいつもより緊張しているように感じた。
「私はここに待機しております」
部屋に入ってきたのは魔女とイージオ様だけだったけれど、扉の陰からリヤルテさんの声が聞こえる。
リヤルテさんは一応イージオ様にくっついて来てくれたみたいだけれど、イージオ様と魔女の行動を止める事も特になく、送り出しているようだ。
「あぁ、何かあったらすぐに知らせてくれ」
「畏まりました」
イージオ様が扉の陰に視線を向け、小さく頷く。
その様子を見る限り、どちらかというと私が知っているオフモードのイージオ様ではなく、お仕事モードのイージオ様な印象を受ける。
……やっぱり、私が知らないだけで何かの意図を持って動いているという事なのだろうか?
まだ、気になる女性の前で格好つけたくて素の姿を見せていないだけという可能性も捨てきれないけれど、ほんの少しだけ安堵すした。
「さぁ、イージオ王子、こちらにお掛けになって?ゆっくりお茶でも飲みながら語り合いましょう?」
リヤルテさんを部屋の外に残し、部屋のドアが静かに閉められる。
部屋に男女2人きり。
正確には私もいるけれど、この場合ノーカウントという事になるだろう。
現代日本と違い、今の状態はこの世界では浮気を疑われても仕方ない状況だ。
そんな2人の様子を私は唇を噛みしめて、鏡に張り付くようにジッと見つめた。
本当はイージオ様が女性と2人きりの光景なんて見たくない。
見たくないけれど、心配で目を離す事も出来なかった。
鏡面についていた両手は、いつの間にか力がこもりギュッと握りしめている。強く握り締めすぎて、徐々に爪のあたる位置に痛みを感じるようになってきている。
「マージア王妃、私の為に時間を作って下さって有難うございます」
甘やかな笑みを浮かべ、イージオ様が魔女の手を取り、その甲に口付けを贈る。
こんな状況でなければ、思わず桃色の溜息を吐いてしまいそうな光景だが、今の私には悪夢にしか見えない。
「そんな、お気になさらないで?スノウフィアが行方不明の今、貴方のお相手をするのは私の役目ですもの」
イージオ様をソファーに座らせ、自分も隣に腰かけた魔女は妖艶な笑みをイージオ様に向ける。
「お茶でも飲みながら」と言いつつも、お茶を用意する気配はない。
「マージア王妃はお優しいんですね。大切な王女が行方不明でご自身も不安でしょうに、私の事を気遣って下さるなんて」
フッと心配そうに眉を寄せ、イージオ様が魔女の瞳を覗き込む。
「いいえ。イージオ王子がこうして一緒にいて下さるからこそ、それに耐えられるのですわ」
魔女が頬を赤らめて、恥ずかしげに視線を逸らす。
そして、ソッとイージオ様の方に体を傾けた。
「それは私も同じです。マージア王妃がこうして私の相手をして下さるからこそ、未来の花嫁になって下さるかもしれなかった方がいなくなってしまった悲しみに耐えられるのです」
如何にも抱き寄せて欲しそうに自分の頭をイージオ様の胸に摺り寄せる魔女の肩に、ソッとイージオ様の手が添えられた。
……何だか凄く良い雰囲気に見える。
お互いスノウフィア王女の事を話題に出しつつも、気に掛けているのは相手と自分の事のみ。
雰囲気も何処か甘くて、まさに逢引の現場という感じだ。
その光景に、私の心臓は嫌な感じに脈打っている。
もし例え何か理由があったとしても、こんな風に魔女相手に甘い雰囲気を漂わせるイージオ様の姿は見たくなかった。
「……イージオ様、あんなに純粋無垢だったのに、いつから貴方はそんなに変わってしまったんですか?」
小さく呟きながら、胸を占めるジクジクとした痛みに耐える。
例え本心ではなかったとしても、こんなにそつなく魔女と甘い雰囲気を漂わせるイージオ様を私は知らない。
目の前にいるイージオ様は本当に私の知っているイージオ様と同一人物なのだろうか?
「イージオ王子、私が貴方の不安をお慰めいたしますわ。ですから、どうか私の不安は貴方が……」
魔女が顔を上向かせ至近距離でイージオ様と視線を重ねる。
そしてキスを強請るように潤ませた目をゆっくりと閉じた。
鏡越しにも臭ってきそうな程、魔女の色香が部屋中に満ちる。
これって、このまま……
胸が張り裂けそうだった。
噛んだ唇の何所かが裂けたらしく、口の中に僅かに鉄の香りが広がる。
嫌だ。お願いだから止めて!!
後先考えず、衝動的に目の前の鏡を割りたくなった。
思わず振り上げた拳を、手加減なしにそのままフリ下ろそうとしたその時……。
私の視界に入ってきたのは……キスを強請る魔女を前に笑みを貼り付けたまま、視線だけを落ち着きなくキョロキョロと動かすイージオ様の姿だった。
……表面は取り繕っているのに、滅茶苦茶焦ってるじゃん。
別人のように見えていたイージオ様の中に、私のよく知る彼の姿を見つけた瞬間、私の中を嵐のように駆け巡っていた不安と悲しみと嫉妬と怒りが混ざったような嫌な感情が急激に凪いだ。
もちろん、イージオ様の内心がどうであれ、状況は変わらないから全くなくなりはしないけれど、少しだけ冷静さが私の中に戻ってくる。
良く見れば、瞬きはいつもより多めだし、微笑みつつも目は笑っていない。
顔色もやや悪い気がする。
そこら辺の人じゃわからない程度の変化だろうけれど、ストーカー並にイージオ様を観察してきた私にはわかる。
イージオ様は、今、絶対に困っている。
それに、魔女に対してはそんなに好感は持っていない。
きっと、それらを取り繕う為に、お仕事モードのポーカーフェイスを必死で保っているところだ。
「……良かった」
イージオ様の心の在り方は変わっていない。
安心した途端、私の目からポロリッと1雫涙が零れた。
魔女に食われそうというのは変わらなくても、そこにいるのが私の知っているイージオ様ならば、このまま魔女にキスをするなんて事はないだろう。
好きでもない相手にキスをするなんて事を、あのイージオ様が許容出来るはずがない。
彼はそういった面でも清廉潔白だ。
力が入っていた手をゆっくりと開き、噛み締めていた唇を開放する。
大きく深呼吸をして、気持ちを新たに鏡に向き直ると、丁度そのタイミングでイージオ様と目が合った。
いや、向こうからこっちは見えていないはずだから、合った気がしているだけで、彼は単純に鏡を見たというだけだろう。
けれど、その瞬間、今まで魔女に向けていたものとは全く異なる純白の白い花が咲いたような綺麗な笑みが彼の顔全体に広がった。
「……イージオ王子?」
いつまでも自分の唇に唇を重ねてこないイージオ様に焦れたのか、魔女がやや不機嫌そうな声でイージオ様を呼ぶ。
魔女がイージオ様の様子を窺うようにゆっくりと瞼を開けたのに合わせて、イージオ様はその美しい笑みを引っ込めて、作り物の笑みを顔に張り付かせた。
「すみません、美しい人。貴方の美しさに触れてはならない神聖さを感じ、つい見惚れてしまいました」
「まぁ!」
ニッコリと笑みを深めたイージオ様に、魔女が見惚れたように口をポカンッと開けたまま、頬を赤らめて固まる。
私にしてみれば、さっきまでの神々しさすら感じる心からの美しい笑みを見た後では、今の笑みは安物の笑みにしか思えない。
もちろん、それでも美しい事には変わりはないんだけど。
「ところで美しい人。美しい貴方にピッタリなあの綺麗な鏡は貴方のものですか?」
イージオ様が私の方を指差す。
魔女は急な話の転換に付いていけず、一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、イージオ様の指に導かれるように私の方を見た。
「え、ええ、そうですわ」
1番触れて欲しくないものに触れられ、魔女の頬が動揺したように一瞬引き攣る。
けれど、王妃の称号は伊達ではなく、あっという間に動揺を引っ込め何事もないかのように笑みを浮かべた。
「私は美しい調度品にとても興味があるんですよ。……この鏡に映った貴方の姿はさぞ美しいでしょうね」
ソファーから立ち上がり、私の方へとイージオ様が歩いてくる。
そうする事で、さり気なく魔女との距離も開けたかったようだ。
「あっ……」
イージオ様が鏡に触れた途端、思わず小さく声が漏れた。
久しぶりのイージオ様の姿に、心臓が大きく跳ねる。
胸が熱い。
いつも通りの穏やかな笑みに導かれるように、彼が鏡に触れている部分に私も触れようとした。
鏡越しにでも、彼に触れたいと思ったから。
けれど、それは叶わなかった。
「イージオ王子、申し訳ありませんがそれは大切な鏡なので、お手は触れないで下さい」
ソファーに置き去りにされたような状態になった魔女がやや強めの口調でイージオ様に注意する。
つい先日、魔女自身が鏡にヒビを入れたばかりだというのに、『大切な鏡』とはよく言えたものだ。
「すみません、マージア王妃。あまりにも綺麗だったのでつい」
離れていったイージオ様の手に追い縋るように、彼の触れていた場所に触れる。
「私にとってその鏡は大切ですが、既にヒビが入っているものです。そんなに美しくはないでしょう?」
やや棘の混じった声で、魔女が鏡を貶すような事を言う。
おそらく、イージオ様は鏡自体を褒めているのだとしても、その先に『女』である私がいる事を知っている魔女は、彼が鏡=私を「美しい」と褒める事が気に食わなかったのだろう。
「いえ、ヒビが入っても損なわれる事のない、この美しさが凄いと思ったのですよ」
「……イージオ様、そんな事よりも、もっと私とお話をしましょう?」
知ってか知らずか、魔女の意図を無視して更に鏡を褒めたイージオ様に対して、魔女があからさまに拗ねた様子を見せ、イージオ様を引き戻すように手招きする。
けれど、そのタイミングを見計らっていたかのように、部屋にノックの音が響いた。
「あら、何かしら?」
魔女はこの部屋をなるべく他人に……特にこの城の者に知られたくないだろうから、ここに侍女を連れて来てはいないだろう。
先程の入室の時だって、外にはリヤルテさんの気配以外のものは感じられなかった。
そうなると、このノックは十中八九リヤルテさんのものだろう。
魔女もそれがわかっているからこそ落ち着いた様子で席を立ち、こちらに背を向けてゆっくりと歩いて行く。
その様子を確認してから、イージオ様がこちらを振り返った。
そして再び鏡に触れ、コツンッと額を鏡面にあてる。
「ミラ、そこにいるんだろう?やっと見付けたよ。すぐには無理だけど、必ず助けるから私を信じて待っていて」
私を癒す声がソッと告げる。
魔女は扉の傍でリヤルテさんと話をしていてこちらの様子には気付いていない。
「イージオ様、来てくれたんですね。会いたかった……」
イージオ様を真似るように、私も額を鏡面にあてて囁き返す。
声は聞こえていないし姿も見えてはいないのだろうけれど、私達は確かに繋がっていると感じた。
嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
スノウフィア王女の事や今後の事等、彼がここにいるからこそ心配な事は山ほどあるけれど、この瞬間だけは全てが頭の中から消えていた。
ジワリッと滲む涙をぬぐう事もせず、鏡越しでは感じれない彼の温もりを求めて額に意識を向ける。
「……ごめん。今は不安だろうけど耐えて」
それだけ告げると、イージオ様は魔女の方を向いて、今の一瞬の逢瀬がなかったかのように自然に振るまう。
それを名残り惜しく思いつつも私も額を離して真っ直ぐと前を向く。
扉の向こうにはやはりリヤルテさんの姿があった。
彼は、魔女に気付かれないように一瞬こちらに視線を向けて、イージオ様が頷いたのを確認してから話を打ち切った。
「イージオ王子、残念ですが、今日はここまでのようですわ」
魔女が眉尻を下げて物凄く残念そうにそう告げた。
……今にも舌打ちをし始めそうな勢いだ。
「どうかされたのですか?」
イージオ様が魔女の方に歩み寄る。
「陛下が折角だから友好を深める為にも3人でお茶でもしようと仰り、私達の事を探していらっしゃるようですの」
「あぁ、それはお待たせしてはいけませんね」
魔女の言葉に頷くと、イージオ様は魔女の背を押すように退室を促す。
大好きな国王陛下の呼び出しという事もあり、無碍にも出来ないのか、魔女も渋々ではあるが抵抗する事なく部屋を出て行った。
扉が閉まる一瞬だけイージオ様が振り返って私に視線を向ける。
しっかりと頷いてみせたその仕草は、「任せておいて」と言っているかのようだった。