20 私と闇と王子様
暗闇の中をゆっくりゆっくりと意識が浮上する。
目覚めを拒絶したくなる気持ちを押し留め、重い瞼を開くとそこには闇があった。
暗い。
真っ暗だ。
一瞬、自分が本当に目を開けているのかどうかすらわからなくなる。
強制的に与えられていた痛みはもう既にないけれど、何処か気怠さを感じる体。
それに鞭を打つように上体を起こして周囲を見渡した。
初めに目に映ったのは、薄ぼんやりとした光を纏った魔女の鏡。
それ以外のものは、全て闇に染め上げられてしまいよく見えない。
「……静か。それに暗い。鏡と周囲の壁が黒く染まるだけでこんなにも雰囲気って変わるものなんだ」
いつもは外の世界を映し出している数多の鏡が、この空間に外と同じ光を与えてくれる。
朝になればそれぞれの鏡から差し込む朝日がこの空間を包み、昼になれば明るいお日様の光が差し込む。
夕方になれば、夕日。
夜になれば月や部屋の住人の使う蝋燭の明りが薄ぼんやりと輝く。
全ての鏡が外と通じているわけではないから、外界と全く同じとはいかなくても、少なくと今が何時かわかる位の情報を……外との繋がりを鏡達が私に与えてくれていた。
ここは隔絶した世界だ。
でも、外の世界と同じ時を刻んでいる。僅かでも繋がりがあるのだと、そう感じる事は出来る世界だった。
「……もう、外を見る事すら出来なくなちゃった」
「ハハ……」と笑おうとしたのに上手くいかず、代わりに涙がボロボロと零れてきた。
怖い。
怖くて仕方ない。
このまま外の世界と隔絶され、生きているのか死んでいるのかもわからなくなるような虚無の世界に包まれて人生を送らないといけなくなるかもしれない事が。
「おかしいなぁ。私、結構図太くなったって思ってたのに……。ちょっとやそっとの事じゃ凹まないって思ってたのに……」
体の震えが止まらない。
唯一外と繋がっている魔女の鏡の前で、膝を抱えギュッと小さくなって自分の体を抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫。だって、これは白雪姫の物語通りに話が進んでいるだけの事だし。この後、白雪姫は魔女に殺され掛けるけど、王子様が……イージオ様が助けてくれて、最後は悪い魔女は退治されてハッピーエンドになるわけだしね」
……なら、魔女の鏡はその後どうなる?
記憶を掘り起こそうとしても、私の頭の何処にも答えはなかった。
色々な形で語り継がれている白雪姫の物語のどこか片隅には載っているのかもしれないけれど、道具でしかない鏡のその後について詳しく知っている人なんてほとんどいないだろう。
少なくとも私は知らない。
だから、この後私がどうなるのかもわからない。
魔女の鏡だからと、壊されてしまう?
誰か他の人の手に渡る?
それとも……存在すら忘れ去られてしまうのだろうか?
「大丈夫。イージオ様が私の事を知っている。だから、きっと助けてくれる。それよりも、今は白雪姫の事を……スノウフィア王女の事を何とかしなきゃ……」
もし、スノウフィア王女が本当に魔女に殺されてしまえば、物語は絶対にハッピーエンドにはならない。
呟く声は、自分でもわかるくらい震えていた。
本当はわかってる。
スノウフィア王女の事どころか、今の私には自分の事をどうにかすることすら難しい状況だって。
この閉ざされた鏡の世界じゃ、誰かを助けるどころか、助けを呼ぶ事すら難しいのだから。
それでも……。
それでも……何か出来ることを探さなきゃ。
踞ったまま動けなくなりそうな自分を奮い立たせて、私は立ち上がった。
この真っ暗な状態では動くこともままならない。
未だ止まらない涙を服の袖で勢いよく拭い、何とか周囲を照らす事は出来ないかと考える。
「明かり……松明……だと手が塞がっちゃうか。なら、火の玉とか?」
頭に闇夜に浮かぶ火の玉のイメージを浮かべてそれを求めると、いつも通り意外とあっさりとそれは現れた。
「……この中だったら、今までと変わらずに魔法は使えるんだ」
ここに来てから当たり前のように使っていた力だけど、それがまだ使えるのだと知っただけで希望が見えた気がした。
「1つじゃよく見えないから、もっとたくさんの光を……」
念じると共に、周囲に何百という火の玉が現れる。
それはまるで、暗闇を照らす星明かりのようだった。
不安と恐怖から手足は変わらず震えているけれど、俯いていた顔を上げさせるには十分な光。
大丈夫。
大丈夫。
……私はまだ頑張れる。
私はふと、以前の事を思い出した。
大学を卒業して、初めて入った会社。
初めての事だらけで、しかも教育担当はあのお局様。
毎日のように嫌味を言われた。
意地悪だって数えきれない程された。
自分の仕事すらままならないのに、お局様の分の仕事も押し付けられて帰りが日を跨ぐ事も当たり前になっていた。
親や兄弟達にもそれなりに大切にしてもらっていたし、学生という身分の許に守られた環境の中で、友達とも大きなトラブルもなく平穏な生活してきた私にとっては、初めてと言っていい程の大きな壁だった。
毎日が辛くて、辛くて、今すぐに逃げ出したいと思っても、逃げ出す勇気すらなくて。
人目のない所でいっぱい泣いた。
仕事を終えて人通りすら少なくなった深夜の帰り道を歩く時は、いつも俯いて涙が滲みそうになるのを堪えていた。
時々こらえられなくなって、渇いた地面に沁みを作る事もあった。
逃げたい。
逃げられない。
全てを壊してしまいたい。
そんな力も勇気も何処にもない。
追い詰められて、八方塞がりになって、動けなくなりそうな時……空を見上げた。
町の明かりの中ではほとんど見えない星の光も、町から少し離れた自宅のある住宅街からは見る事が出来た。
その光を見ただけで、真っ暗で行先すらわからなくなりそうな私の心に微かな光が射した。
「大丈夫。明日1日は何とか頑張れる」という思いが湧いてきた。
そんな毎日を繰り返している内に、気付けば徐々に泣く事も減っていき、悲しむより怒る事の方が多くなっていった。
お局様から責められ続ける事で「自分が出来ないのが悪い」と思い込んでいた状態から、次第に「これ、おかしくない?」と思うようになり、最後には「またお局様に無茶を言われた」と感じるようになっていった。
俯いて狭くなっていた視野が広がり、今まで見えなかった事、見えなくなっていた事が見えるようになってくると、次第に自分を責める事が減り、「じゃあどうすればいい?」と次に繋がる道を探せるようになった。
そういった経験が、少しずつ私を強くしていき、少しの事ではへこたれない自分を作っていった。
「大丈夫。まだ、最悪の状態になったわけじゃない。これからが勝負なんだから、落ち込んでる場合じゃない」
暗闇の中に浮かんだ無数の火の玉を見上げる。
真っ暗で何も見えない……何もなくなってしまったと感じていた空間には、今は外との繋がりを絶たれてしまっているけれど、変わらず数多の鏡達が存在している。
自分が自分の住み家として作った家も残っている。
という事は……
「……イージオ様の鏡も?」
ふと気付き、私は慌てて家の中に入り、イージオ様の鏡を隠しておいた場所へと向かった。
魔女に見つからないように棚の中にしまっておいたそれを引っ張り出す。
他の鏡と同様に、変わらずそこにあったイージオ様の鏡は……鏡面に何も映していなかった。
「やっぱり繋がりは切れてるか」
何となく予測はしていたけれど、落胆せずにはいられなかった。
それなりに重量のあるその鏡を膝の上に寝かせた状態で乗せ、そっと鏡面を撫ぜた。
大きな鏡は当然私の膝の上には収まり切らず、膝枕をしているような状態になる。
「……イージオ様」
ここでの私の心の支えとも呼べる美しい人の名前を呼び、上から鏡を覗き込みながら何度も何度も鏡面を撫ぜる。
その時ふと気付いた。
自分の陰で暗くなった鏡面が僅かに本当に僅かに、緑色の光を発している事に。
「あ、明かり!!明かり、消えて!!」
空中で手を振ると、周囲を照らしていた火の玉が消える。
「……やっぱり、光ってる」
それはまるで発光塗料を塗ったかのような淡い光だった。
でも、その光は他のどの光よりも私に希望を与えてくれた。
「繋がってる。まだ、ちゃんと繋がってる!!」
蜘蛛の糸のような頼りなくか細い繋がりかもしれないけれど、それがあるのとないのでは大違いだ。
「イージオ様!!イージオ様!!」
私は必死で鏡に向かって呼び掛けた。
けれど、鏡はうんともすんとも言わない。
単純に、鏡の傍にイージオ様がいないだけで、向こうに私の声は届いている可能性もあるけれど、何故だかそうではない気がした。
感覚的なものだけど、自分の発した声が向こうに通り抜けているのではなく、鏡面で跳ね返されているような感じがするのだ。
「どうすればいい?どうすればいい!?」
急に回転させようとした事で、頭がカッと熱くなるような感覚を覚えつつも必死で考える。
イージオ様との繋がりを強化する方法は?
ほんの一時でも彼と話が出来るようにするには?
イージオ様と最初に話せるようになった時は……イージオ様と鏡を通して繋がれた時はどんな風だった?
「……そうだ。私とイージオ様の魔力が繋がった時に繋がりが出来たんだ」
目を瞑り、鏡面に触れる指先に意識を集中すれば、魔女の嫌な魔力の向こうに、とても清らかで心地の良い魔力を感じる。
この魔力がきっと、イージオ様の魔力なのだろう。
「イージオ様、見た目も綺麗だけど、魔力も綺麗。まるで聖女様か何かみたい」
聖女様のような魔力って、男の人には褒め言葉になるのかな?
イージオ様自身に言ったら、あの綺麗な顔を真っ赤にして全面否定してきそうだけど。
でも、聖人っていうより、聖女の方がイメージにピッタリとくる感じなんだよね。
……優しくて繊細そうな感じが特に。
執務室で優秀な王子様らしく振る舞っている時のイージオ様じゃなくて、私やリヤルテさんと一緒にいる時のようなちょっと情けなくて面白いイージオ様の顔を思い浮かべて、自然と口元に笑みが浮かんだ。
やっぱり、イージオ様は私にとって最高の癒しだ。
「よし、頑張ろう!!」
少しだけイージオ様の存在に勇気と元気を貰い、私はゆっくりと目を開けて鏡面に触れていた指先に自分の魔力を送り始める。
ねっとりとしていて真っ黒な魔女の魔力に細く穴を開けるようなイメージでゆっくりと意識を集中させながら魔力を送る。
あまり派手にやれば魔女に気付かれるだろうから、気を付けなくてはいけない。
ここまで繊細に魔力を使う作業をした事なんてないから、凄く緊張するし、疲れる。
額からは汗が流れた。
魔力を通している指先がジンジンと痺れ、目の前がチカチカとする。
正直、その作業はとても辛いものだったし、確実にイージオ様と繋がれるとも限らなかったけれど、それでも止めようとは思えなかった。
「後少し……。後少しであの魔力に触れそうな気がする」
どれ位の時間が経っただろう?
鏡の外の様子が全くわからない為、今が何時なのどころか、夜なのか朝なのかすらわからない。
私の体力も気力もそろそろ底を尽きそうだ。
それでも、踏み止まって最後の力を振り絞る。
「……あっ」
一瞬、イージオ様の魔力に……イージオ様がいつも身に纏っているあの優しいオーラのようなものに触れた気がした。
「…………ラ?」
「…………ミ……ラ?」
鏡の向こうから私を呼ぶ小さな声が聞こえる。
「イージオ様?イージオ様!?」
私とイージオ様の魔力が触れたり離れたりを繰り返す中、彼が私を呼ぶ声が微かに聞えた。
少しだけ……少しだけ、指先に送る魔力を強める。
それに呼応するように、イージオ様が私の方に向って魔力を送ってくれる。
「ミラ!!」
「イージオ様!!」
互いの魔力がまるで手を握り合うかのようにしっかりと繋がる。
それは、砂山を双方向から掘って繋がったトンネルの中で、友達と手を繋ぎ合った時のような感覚だった。
砂山――魔女の魔力はいつ開通したトンネルを崩し、覆いかぶさってくるかわからないけれど、今、この瞬間だけは、私達は確かに繋がっている。
それを感じた瞬間、止まっていたはずの涙が再び流れ出すのを、私は感じた。