2 鏡と私
そもそも、私が何故有名な鏡ランキングをしたらTOP10入りはほぼ間違いないであろう、彼の有名な鏡の中にいるのか。
それは簡単。
……異世界召喚された先がここだったからだ。
そう、多分あれは1年位前の事だったと思う。
ブラック企業に片足を突っ込んでいるといっても過言でない程の仕事量を誇る会社。
しかも、特に厄介だと陰で言われているお局様が教育担当者という最悪な状況下に堪え忍びながら働く事3年。
いつの間にかその状況にも慣れ、新人らしい初々しさなど綺麗にかなぐり捨てて、図太い性格へと成長した私は、その日も仕事に明け暮れていた。
大きな仕事を乗り気って、やっとまともな睡眠時間を確保できると思いホッとした私は、何日ぶりか位に職場のトイレの鏡に映る自分の姿をしっかりと見た。
そこには、お局様に文句を言われない程度の最低限の身だしなみは整えているものの、度重なる睡眠不足と疲労のせいで肌はボロボロ、髪も艶を失った自分がいた。
「うわ、酷い隈。私、こんな顔で仕事してたんだ」
あまりに酷い顔に思わず溜め息を吐きつつ、何とか化粧で誤魔化せないものかと鏡に顔を近付けてもっとよく自分の顔を見ようとした。
……それが間違いだった。
手前に流しがあるせいで、前のめりにならざるを得なかった体勢を安定させる為に鏡に手をついたその瞬間……鏡に手が沈み込んだ。
「なっ!?」
驚きに悲鳴をあげる間もなく、鏡の中へと引っ張られる手。
元々バランスを崩していた私の体は、抗うことも出来ずに鏡の中へと引きずり込まれた。
そして次の瞬間……私の意識はブツリッと糸が切れるかのように呆気なく途切れた。
***
「鏡よ鏡。起きなさい」
失った意識を強引に呼び起こされるような不快な感覚。
それと共に聞こえてくる、何処かで聞いた事のある有名な台詞。
眉間に皺を寄せつつ、繰り返される妖艶な女性の声に仕方なく目を開けると……そこは見知らぬ場所だった。
真っ白な空間に大小様々な無数の鏡が浮かんでいる。
他には何もない空間。
無理矢理意識を浮上させたせいで何処か覚めきっていない頭で、「不思議」「幻想的」なんていう現実味のない感想を抱きつつ、横になっていた体を起こした。
頭が上手く回らず状況が理解出来ないまま周囲を見回せば、一際立派な鏡が私のすぐ傍に置かれていた。
「……鏡?」
上体だけ起こし、見上げた鏡面。
そこをただ呆然と眺めていると、自分の姿を写していたはずのそこがまるで靄が掛かったかのように白くなり、次の瞬間、サーッと晴れて30代半ば位の妖艶な美女が映し出された。
「鏡よ鏡、教えておくれ。お前の名前は何というんだい?」
真っ赤な口紅に彩られた色っぽい唇がゆっくりと動く。
その深紅の瞳が優しげに細められ、私を見つめる。
再度私に向けられた声は、まるでお風呂の中にでもいるかのように私の頭で静かにゆったりと反響する。
……名前。
私の名前は……。
「賀上み……」
名前を答えようとした瞬間、目眩のようなものに襲われ、倒れそうになった体を支えようと床に手をつき俯いた。
まるで催眠術にでも掛かったかのように、言われるがままに名前を答えようとしていた私は、床について自分の手のすぐ脇に文字が掛かれている事にその時初めて気付いた。
血のようなもので真っ白な床に書かれた文字。
その文字に視線が吸い寄せられる。
そこには一言……「名前を教えてはいけない」と書かれていた。
「わ、私は……私は……ミラ!私はミラです」
何故その時、咄嗟にその言葉に従ったのかはわからない。
でも、その文字をみた瞬間、急激に回転し始めた私の頭が警鐘を鳴らし、気付いたら自分がよくネット上で使っていた『ミラ』という偽名を口にしていた。
「……そう。お前は賀上ミラというのね?」
私が名乗ったのを確認した瞬間、目の前の美女がニヤァと笑った。
それは、先ほどまでの優しそうな雰囲気など微塵もない、何処か嘲笑を含んだ意地の悪い女の顔だった。
「じゃあ、この鏡は今から『賀上ミラ』と名付ける事にしようかしら」
「えっ!?」
女が満足気な様子で言った途端、女の移る鏡がカッと赤黒く光り、咄嗟に顔を庇った私の右手首に焼け付くような痛みが走った。
「この鏡は『賀上ミラ』。お前その物。お前はその名を持って、この鏡に縛られ、生涯死ぬまでこの鏡に魔力を捧げ、この鏡の動力源となるのよ」
光の中で女の声が木霊する。
その声に反応するかのように、私の右手首に痛みが断続的に訪れる。
「お前の仕事は、この鏡に己の魔力を与える事」
手首が痛む。
「そして、その中にある、他の多数の兄弟鏡から得た情報を私に教えるの」
もう一度手首が痛む。
「お前はこの鏡の保有者である私に、嘘は吐けない」
更にもう一度。
「お前はその中で得た情報を私に黙っている事は出来ない」
更にもう一度……痛ま……ない?
「お前は私の許可なく、絶対にそこから出る事は出来ない」
今度は微かな弱々しい痛みを感じた。
「お前は私に絶対の服従をするのよ」
今度も微かな痛みのみ。
初めのような、激しい痛みは訪れなった。
「さぁ、これで契約はなされたわ」
女の言葉と同時に、周囲を包んでいた赤黒い光が消え去った。
「さぁ、私の可愛い鏡。これで精霊更新の儀式が済んだわよ。前のは魔力がちょっと弱かったから、すぐに死んでしまったけれど、今度は大丈夫そうね」
女は、右手首の痛みを庇うように左手で握り締め蹲っている私を見下ろした。
「ミラ。お前はその名を持って、この鏡の栄養源――鏡の精になったの。そこからは私の許可がなくちゃ一生出られない。その中にいる間は、ひたすらその魔法の鏡に魔力を奪われ続けるの。大丈夫よ。私が見る限り、お前の魔力量はかなりのものだから、失われる分と回復する分の比率を考えても、後50年はその中で生き続けられるわ」
茫然とする私の前で女が話し続ける。
「お前は主である私に仕え、必要な情報を寄越しなさい。情報源は、その鏡の中にある無数の鏡よ。その鏡は1つ1つが私の鏡の材料となった魔鏡石と同じ山から採掘された魔鏡石で作られている。謂わば『兄弟鏡』。その鏡の向こう側は全てこちらの世界のその鏡がある所場所に繋がっているわ」
私の様子などお構いなしに語り続ける女の言葉につられて、チラリッと傍らにあった別の鏡に視線を向ければ、そこにはお伽話に出てくるようなお姫様が映っていた。
意識を向けて耳を澄ませば、鏡の向こうの声も聞えてくる。
御姫様は今、昼からのお茶会の服装で悩んでいるようだった。
「お前は、私と私の大切な王様の為に、そこから情報を得て私に伝えるの。もちろん、嘘も知った情報を隠す事も出来ないわよ?そう契約に織り込んだからね。ほら、貴方の右手首の契約印が私の言葉に反応して痛んだでしょ?それが『制約』の痛みよ」
何が楽しいのか、コロコロと笑いながら私に語り掛ける女。
その様子に腹が立って睨みつけたけれど、女は全く気にしていないようだった。
「あぁ、後、私の王様に言い寄るような悪い女がいたらそれも教えて頂戴。……そんな悪い子はお仕置きしないといけないからね」
『お仕置き』。
その言葉を吐く時にだけ、女の瞳が冷たく光った。
女を睨んでいた私の背筋にゾクッとしたものが走る。
この女はヤバいと思った。
わけがわからない状況で、ここが何処なのかも、相手が誰なのかもわからなかったけれど、それだけは理解出来た。
職場のお局様と最初に相見えた時のような……否。それ以上のヤバさを感じる。
モンスター中のモンスター。
いちゃもんだけで相手を虐め抜くことが出来る。
そういう人種だ。
ゴクリッ。
私の喉が鳴る。
何1つよくわかっていないのに、最悪な状況だと本能が理解していた。
「あぁ、そうだわ。あの忌々しいスノウフィア……皆に白雪姫とか呼ばれている小娘の事も何かわかったら教えて頂戴。仲の良い友達とかお気に入りの侍女とかね。どう見ても私の方が美しいのに、皆があの子をちやほやするのが気にくわないのよ。立場をわからせてあげないとね?」
深紅の紅を塗った唇が楽しげに弧を描く。
その赤い唇を見つめながら、私の耳は唯一聞き覚えのある名詞を拾っていた。
「……白……雪……ひ……め?」
何でこんなところでそんなファンシーな単語を耳にする事になっているんだろう?
戸惑いつつ呟いた名前は、目の前の女には別の意味に捉えられていた。
「そう、白雪姫。このホワイティス王国のお姫様。あぁ、私の子じゃないわよ?私の子だったらもっと美しい子になるはずですもの。あの忌々しい前王妃の子、スノウフィアがそう呼ばれてるのですって。雪のように真っ白な肌の子だからとかなんとか言われているけれど、雪なんて溶けるときは土と混ざってぐちゃぐちゃで汚くなるのにねぇ。あの子にはそっちの雪の方がお似合いだわ」
「…………」
白雪姫。
鏡。
それに、性格の悪そうな、やたらと自分の美しさに自信がありそうな女。
……しかも、よく見ればドレスの黒いローブを羽織っているし、めちゃくちゃ魔女っぽい。
それって、もしかして?
「とにかく、これからしっかりと私の為に働いて頂戴ね?さて、今日は貴方も混乱しているだろうし、休んでいいわ。欲しい物があればその中でなら願えば何でも手に入るわよ。命のない物限定だけれどね。後は……そうねぇ。適当に次に私が来るまでに鏡の使い方に慣れておいて頂戴。私の役に立てるようにね」
「……」
呆然としていて、返事すらろくに出来ない私を見ても、女はクスクスと楽しげに笑うだけで特に気にする素振りは見えない。
「それじゃあ、よ・ろ・し・く・ね~」
言いたいことを言い終えたのか、女はその場に座り込んでいる私に背を向けて、さっさと歩き始める。
「ちょ、ちょっと待って!!」
女の背中を見て、やっと我に帰った私は、慌てて手を伸ばして女の後を追おうとした。
けれど……
バンッ!!
「そんな!!」
女のいる場所と私のいる場所を繋ぐ鏡は『鏡』でしかなかった。
その先には別の空間が広がっているのに、透明な何かが私とそこを隔てている。
「待って!!待ってってば!!もっとちゃんと説明してよ!!」
遠ざかる女の背に向かって叫んだけれど、女が振り替える事はなかった。
まるで私の声が聞こえていないかのように無視し、そのまま無情にも扉の向こうへと消えてった。
「何これ。夢か何か?私、働き過ぎとストレス溜まり過ぎと寝不足で遂に頭がイカれたの?」
1人取り残されたその場で座り込んだまま、頭を抱える。
その可能性も実際に有りそうで怖いけど、これだけはっきりと色々と考えられてる時点で、違うような気がする。
何より、この世界が私の頭がおかしくなった結果だとしたら、私のストレスの根源であるお局様が登場しないのはおかしい。
仮に全てを忘れてハッピーな世界の妄想だとしたら、こんな最悪な状況なのがおかしい。
でも、もしこの状況が私の頭のせいではないとしたら?
実際に起こってる事だとしたら?
これは所謂……
「異世界トリップとかいうやつ?」
しかも、よくあるゲームの世界へトリップとか、勇者や聖女になって無双するとかそういうのじゃなくて……。
「白雪姫って、まさかの童話の世界かよ!!しかも、役どころが魔女の鏡の精、もとい鏡の栄養分ってどうしろってのよ!!助け呼ぶのも、何かフラグ立てるのも、無双するのも、ここから出られない時点で無理じゃない!!」
あんまりな状況に、私は思わず叫んだ。
もう意味がわからない。最悪過ぎる。あり得ない。悲しい。辛い。腹が立つ。疲れた。……眠い。
「ひとまず……寝よ」
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、完璧にキャパオーバーした私の頭は、ここ最近の劣悪な仕事環境で酷使されていた事もあって限界だった。
うん。もしかしたら起きたら夢おちかもしれないし。
私の頭の故障が直ってる可能性もある。
……そうじゃなくても、この眠さじゃろくに頭が働かないもんね!!
ひとまず、寝てから考えよう。
後から考えるとよくあの状況で寝れたなと自分でも思うけれど、ずっと頭の片隅に居座り続けていた睡魔が、「もう待てん」とばかりに私の脳を襲い、私は抗う術もなく眠りへと落ちた。
それが、私の異世界生活1日目だった。