19 不機嫌な魔女と鏡
……カチャッ。
私の体を包んでいた浮遊感がなくなり、何処かぼんやりとしていた五感が戻ってくるのと同時に、私の耳に陶器と陶器がぶつかる、微かな物音が響いた。
「おかえり、私の可愛い鏡」
嫌な予感を感じつつ、ゆっくりと目を開ければ、予想通り大きな鏡が魔女の姿を映していた。
魔女は私の帰りをお茶を飲みながら待っていたらしく、お一人様向けのアンティーク調の小さなテーブルで優雅にお茶とお菓子を楽しんでいた。
「さぁ、土産話をいっぱい聞かせて頂戴?」
ニッコリと機嫌良さそうに微笑む魔女。
けれで、それを見た私が感じたのは、本能的な恐怖以外のなにものでもなかった。
きっと、蛇に睨まれた蛙は、今の私と同じような心境に違いない。
「……お、王妃様、私なんかを待ってて下さったんですか?お優しいですね。恐縮してしまいます~」
背中にじっとりと冷たい汗が滲み出るのを感じつつ、いつも通りを装ってヘラリッと笑ってみせる。
そんな私の様子に魔女がスッと目を細める。
それでも口許に浮かべた笑みが変わらないのが余計に怖い。
バクバクと心臓が脈打つ。
お局様のお怒りを買った時の数十倍怖い。
当然だ。
お局様は仕事通した実害はあっても、直接的な危害を加える事はない。
でも、魔女は魔女だ。
物語で語られる通り、自分の気分次第でいくらでも危害を加えてくる。
……それこそ命を奪うことすら、何の躊躇いもなく。
今まで私が適当にやり過ごせていたのは、魔女にとって私の小さな抵抗なんて『どうでもいい事』だったからに他ならない。
私もそれをわかっていて、魔女の地雷だけは踏まないように細心の注意を払ってきたし、そこを避けて通れるように上手く話を誘導して誤魔化してきた。
でも、今回は誤魔化しきれる気がしない。
だって、魔女は明確な意思を持って私とスノウフィア王女を引き合わせ、そうしてこうやってわざわざ話を聞きに来たのだ。
その結果を見ずに無傷で見逃してくれる程、魔女は優しくないだろう。
「フフフ……。良いのよ、気にしないで。可愛い鏡の為ですもの。今日はとても面白いお話が聞けそうだから、楽しみにしてたのよ」
「ハハハ……。そんなそんな、私の外出のお話なんて面白くなんかないですよ~」
互いに笑い合っているのに、そこを漂う空気は温もりは微塵も感じられない。まさに極寒。
今すぐに裸足で逃げ出したい。
でも、既に鏡に捕らえられてる私には逃げ場なんて存在しない。
「ねぇ、可愛い可愛い私の鏡。貴方が前からスノウフィアに会いたがってたから、今回のご褒美のおまけとして、優しい私はサプライズで会わせてあげたのよ?ご感想はどうだったかしら?」
上っ面だけの雑談を通して腹の探り合いをしながら、さて次はどう出るべきかと考えようとした瞬間、魔女が直球を投げてきた。
思わず「うぐっ」と喉から呻き声にも似た変な音が出る。
ここはもう少し寒々しくもどうでもいい会話を続けてから、さて本題っていう風になる場面ではないのだろうか?
ああ、はい。ないんですね。
魔女が私の反応を見て、上品だった笑みをニタリッと意地の悪いものに変える。
「前から不思議だったのよね。なんで会ったこともないはずのスノウフィアに貴方がそんなに会いたがるのか。不思議だったから……それなら会わせてあげればいいかしらと思ったの」
魔女の目が楽しそうに私を見詰める。
まるで獲物をいたぶるかのようなその様子に、ゴクリッと唾を飲み込む。
もちろん、私はスノウフィア王女に会いたいと思った事は1度もないし、魔女にもそんな事を言った事もない。
むしろ、興味がないフリを装って、ひたすらスノウフィア王女の話題から距離を取り、彼女の姿を視界に入れないように努力してきた。
魔女はそんな私の企てなんてお見通しだと嘲笑い、からかい、私の努力を踏みにじるつもりなのだろう。
本当に性格が悪い。
「いやですねぇ、王妃様。私は会いたいなんて言ってませんよ。興味がないんでどうでも良かっただ……けっ……っ……」
無駄だと思いつつも、咄嗟に誤魔化そうとした言葉には『嘘』が含まれていた。
私はスノウフィア王女に興味がないわけじゃない。
どうでも良くないから守るために彼女と距離を置いていた。
その嘘を口にした瞬間、右腕に焼けつくような痛みが走る。
「あらあら、ご主人様に嘘をつくなんて悪い鏡ねぇ」
「い……やですねぇ。嘘なんて……くっ……」
嘘を誤魔化すために、更に嘘を重ねる。
苦痛に歪みそうになる顔に必死で笑みを張り付けて答えるけれど、咄嗟にこぼれる苦痛の声や滲み出る汗は止められない。
契約の証が刻まれている右手は、まるでマグマの中にでも突っ込んでいるかのような激痛と熱を持っている。
出来ることならは、絶叫しながら床を転げ回りたい。
でも、そんな事をすれば、魔女に負けてしまうような気がして……、今までの全ての苦労を自分で無に返すような気がして、無駄だと知りつつも、私は誤魔化そうとするのを止める事が出来なかった。
「ねぇ、お前。お前は私の味方でしょ?だって、お前は私の鏡なんだから」
ねっとりと纏わりつくような声で魔女が囁く。
妖艶さを滲ませるその声が心底気持ち悪い。
「私は……貴方の鏡の精です」
これは否定しようもない事実。
私の本心がどうであれ、私が閉じ込められている鏡が魔女の物である事は間違いない。
「そうでしょう?……なら、何故あのスノウフィアを助けるような真似をしたの?」
「それは……」
やはり魔女は私がスノウフィア王女を助けようとした事を知っていた。
きっと、先にあの場から姿を消していた魔女の手下の女が、何処かに隠れて様子を窺っていたのだろう。
予想はしていたけれど、いい言い訳が思いつかない。
言い訳を考える間もなく魔女と対峙するはめになった。
何とかこの場で言い訳を考えようとしても、今も継続的に与えられている右手の痛みのせいで上手く思考が纏まらない。
口ごもる私を見て、魔女が椅子から立ち上がる。
「さぁ、答えなさい。何故、スノウフィアを助けたの?お前はスノウフィアの何を知っていて何を隠そうとしているの?……何故、私に隠し事ができるの?」
魔女の声が低くなり、彼女の足元からまるで彼女の怒りに呼応するかのように黒い影が広がる。
コツ……コツ……とヒールの音を響かせながら近付いて来た魔女が、赤いマニュキアが塗られた白い手で鏡に触れた途端、右手の痛みが更に増す。
「うっ……あぁぁぁぁ!!」
右手どころか、右腕全体に広がっていく痛みに耐えきれなくなった私は、その場に蹲った。
痛い、痛い、痛い!!
もうそれしか考える事が出来ない。
涙が自然と滲み出る。
あまりの痛さに呼吸が短くなる。
いっその事、この右腕を切り落としてしまいたいとすら感じる。
左手で押さえていた右手を見ると、どす黒い赤色で腕全体に契約の証が浮かびあがっていた。
「答えなさい、鏡!」
「あぁぁぁぁぁ!!」
魔女が語調を強めた瞬間、これ以上はないと思っていた痛みが更に増す。
気を失ってしまいたいのに、それすら許されない痛み。
もう嫌だ。逃げ出したい。
誰か助けて。
怖い、怖い、痛い、痛い……。
「私は……私は……」
何とかこの苦痛から逃れる為の言葉を捻り出さないといけないのに、上手く頭が回らない。
でも……
「……私のせいで……誰かが……傷つくのは……耐えられないっ……」
気付けば自然とそんな言葉が口から零れ落ちていた。
これは私の本心。
でも、決して相手の為を思っての、奇麗な気持ちからの言葉じゃない。
私は、自分のした事で善良な誰かが傷つけられるという罪悪感に耐えられないのだ。
「お優しい鏡ね。……反吐が出るわ」
ギッと1度強く鏡をその赤い爪で引っ掻いた後、魔女は鏡から手を離した。
私を鏡面越しに見下ろすその瞳は冷え冷えとしていて、私を嘲るような色を含んでいる。
「くぅ……はっ……はぁぁ……」
魔女が鏡から手を離した途端に、腕に広がる痛みが緩和する。
「ねぇ、私の可愛い鏡。良く考えてみなさい?人は常に誰かを傷つけ、犠牲にしながら生きているの。現に貴方がスノウフィアを助けた事で、貴方の大切なご主人様は酷く傷ついたわ」
まだ痛みの余韻でぼんやりしている頭に、魔女の声が纏わり付くように響く。
諭すように……洗脳するように。
それは、まるで初めてこの鏡に連れて来られた時のようだった。
「要は誰を優先し、何を求め、誰を傷つけ、誰から奪うか。その選択を行っているにすぎないの。だから、自分のせいで誰かが傷つく事なんて、気にする必要はないのよ。……多かれ少なかれ、皆やっている事だもの」
魔女の言葉が耳から頭へと直接送り込まれるような感じがする。
心の中では「それは間違っている」と叫んでいる自分がいるのに、魔女の言葉に浸された脳が「そうなのかもしれない」と肯定しようとする。
その恐ろし考えを振り切るように頭を振るを、頭上で魔女が「くすくす」と笑った。
「あぁ、可愛くて可哀想で哀れな私の鏡。私の『賀上ミラ』。貴方はただ選択すればいいのよ。何よりも優先すべきこの私の事を。貴方のご主人様の願いをね。そうすれば、私達は幸せになれる。他の誰かの為に自分が辛い思いをして我慢するなんて馬鹿らしいでしょう?」
魔女が『賀上ミラ』と私の事を呼んだ瞬間、魔女の言葉が更に重く私に圧し掛かる。
諭すようなこの言葉は、きっと呪詛のようなものだ。
否定する心と肯定する頭がまるで別の生き物のように反発し合う。
頭がドクドクと脈打ち、鈍い痛みを覚える。
抵抗する心が暗い闇に侵食され、その力を弱め……何も感じないように作りかえられていくような不快な感覚。
けれど、最後の最後でなんとか踏ん張り、魔女の洗脳に耐えた。
……私は『賀上ミラ』ではない。『賀上美環』だ。
だから、私は魔女の鏡に閉じ込められてはいるけれど、本当の意味ではまだ魔女の鏡にはなりきってはいない。
その思いだけが私に抵抗する為の力を与えてくれる。
「……」
「フフフ……。そうよ。そうやって貴方はただ私の言う事を聞いていればいいの。そうする事が私達の幸せに繋がるんだから。他人の事なんて……スノウフィアの事なんて気にする必要はないわ」
何も答えず黙り込んだ私に、魔女が満足気に笑う。
「さて、今日はもう行くわね。私、疲れちゃったわ」
私が魔女の質問に何1つ答えていない事を忘れているのか、魔女がいつも通りの気まぐれさでくるりっと身を翻し私に背を向ける。
否。きっと魔女は勝手に私の言葉に答えを見出して満足したんだろう。
ミラはスノウフィア王女の事を何も知らない。
でも、魔女はスノウフィア王女の事を嫌っているのはわかってるから、自分の与えた情報でスノウフィア王女が傷つけられるのを嫌がって距離を取っていた。
それが真相だと思い込んだ。
そして、それが真実ならば、私がスノウフィア王女の何かしらを知っていて隠していたという疑いも晴れる。
隠すべき情報自体が存在しないのだから、何故私が隠し事が出来るのかという疑問もなくなる。
魔女の思わぬ勘違いにホッとして息を吐く。
何とか窮地を脱したのだと、安心した。
……安心して、油断してしまった。
「あぁ、そうだわ」
魔女が立ち去ろうをしていた足を止めて、再び私の方を振り返る。
再びゆっくりした足取りで歩み寄ってきた魔女は、ニッコリと笑みを浮かべて鏡面を優しく撫でながらこう言った。
「ねぇ、鏡よ鏡。スノウフィアと私、どちらがこの世で最も美しい女性かしら?」
「……っ!!」
与えられたのは、私が最も恐れていた質問。
「そ……れは……」
思わず目を見開く。
喉の奥が一気に干上がり、掠れた声が零れる。
「……鏡?」
当然、何の迷いもなく自分が選ばれるものだろうと思っていた魔女が、私の反応を見て訝しげに眉を寄せた。
それはきっと魔女にとって、私に対する小さな意趣返し程度の質問だったのだろう。
いつも魔女の事を「最も美しい」と讃える事を嫌がり、別の『美』について語る事で誤魔化す私に対する小さな嫌がらせ。
その程度の軽い気持ちで告げられた言葉。
「あ……えっと……」
頭をフル回転させて、何とか逃げ道はないかと考えを巡らせるけれど、二択で訊ねられては回答を別のものにすり替えるのは難しい。
……ここはもう覚悟を決めるしかない。
私は左手で自分の右手首を握り締めた。
誤魔化せるか誤魔化せないかで言えば、誤魔化せない可能性の方が高い。
それでも、少しでも抗う為に私は次に襲ってくるであろう、痛みに備えた。
「それは……王妃様……ですっ」
顔に笑顔を貼り付けて、当然の事のように答えたけれど、魔女の事をスノウフィア王女よりも美しいとは思えない私にとってそれは『嘘』でしかない。
当然、次の瞬間、右手首には再び激しい痛みが訪れる。
冷汗が浮かび、声が無意識に震えそうになる。
それでも笑顔で耐えた。
それが今の私の精一杯の抵抗だ。
「……」
「……」
無言で魔女が私の事を見ている。
私も無言で魔女に愛想笑いを向ける。
「……ミラ、右手首を見せて」
暫く続いた無言の応酬は、魔女の容赦ない追撃によって打ち切られた。
「何でですか?」
「いいから見せなさい!!」
地を這うような怒りに満ちた声。
魔女が鏡面に手をつくと、『嘘』により出現していた痛みが更に増した。
そして、私の意思に反して手が勝手に動き、魔女の前に右手首が差し出される。
「っ!!」
私の右手首に浮かんだ『嘘』の証拠を見て、魔女が大きく目を見開いた。
パリンッという渇いた音を立てて、魔女が触れていた鏡面に蜘蛛の巣状の小さなひびが入る。
「これは……どういう事なの?ミラ」
魔女の周囲に彼女の魔力を帯びた黒い影が広がる。
私を睨みつける瞳は憎々しげで、何処か狂気を帯びた怒りで染め上がっている。
「お前はこの私より、あのスノウフィアの方が美しいというのかい?」
魔女の怒りのボルテージが上がるのに合わせて強くなる痛みに、私は肯定も否定も出来ずただ浅い息を吐き、魔女の視線を受け止める事しか出来ない。
「あんな小娘にこの私の美が負けてるとでも?」
魔女のいる部屋中を覆った黒い陰……最早闇と言っていい程のに膨れ上がったそれが、魔女の指を這いあがり、鏡のひびから私のいる鏡の中の世界へと侵食してくる。
「悪い鏡、悪い鏡、悪い鏡!!」
魔女の甲高い怒鳴り声が部屋に響く。
けれど、右手から全身へと広がった痛みに耐えるのに精一杯の私には、どうする事も出来ない。
「あの憎らしいスノウフィアに誑し込まれるなんて!お前にはお仕置きが必要ね!!」
ひびから入りこんだが影が凄い勢いで鏡の中の世界を闇色に染め上げていく。
闇が広がるにつれて、そこに存在する鏡達も1つ、また1つと闇に染まり外界を映さなくなる。
「か、か……がみ……が……」
呻きにも似た掠れた声が喉から零れる。
苦痛に横たわる中、視界に入ったその光景に私は絶望を感じた。
鏡はこの世界に閉じ込められた私が唯一外界と接する事の出来るツール。
それが失われた世界には、まさに闇しかない。
「悪い鏡は暫くそこで頭を冷やして反省なさい。私は……」
唯一外界を……魔女の姿を映している鏡の向こうで、魔女がほの暗い狂気を帯びた笑みを浮かべる。
「そろそろ、いい加減目障りになってきたスノウフィアを始末する事にするわ。あれが消えれば、お前も王様も目を覚まして、私の美しさを受け入れる事が出来るでしょう?」
「……だ……め……」
掠れた小さな声で必死に止めようとするけれど、女の耳には入らない。
「そうね、それがいいわ!!王宮から追い出すなんて生ぬるい事はせずに、生者の世界から追い出せばいいのよ。今まで何故遠慮していたのかしら?……いらないものは処分するなんて当たり前の事なのに」
「や……めて……」
「フフフ……アハハハハ!スノウフィアのいない世界。何て素敵なのかしら!!こうしてはいられないわ。狩人を呼ばなくては!!」
魔女の言葉に、遂に来るべき時が来てしまったと思った。
私のせいで白雪姫が命を狙われるような事にはならないようにしたかったのに、どうやらシナリオは変えられなかったようだ。
全身を苛む痛みに、白く染まり始めた頭で、ぼんやりとそんな事を考えた。
「それじゃあね、ミラ。暫くそこで絶望を味わってて頂戴」
いつになく高揚した魔女の声が遠くで聞える。
カツカツというヒールの音を耳にしながら私は目を閉じた。
……イージオ様、お願い。助けて。
心の中でそう呟くと同時に、闇に染まった冷たい鏡の世界の中で私は意識を手放した。




