7.アイリス宅
「じゃあ、さっそくアイリスちゃんの家に行こうぜ!」
ディックの声が、夜の街に響き渡る。その声には、まるで冒険に出かける子供のような興奮が滲んでいた。彼の目は、期待に輝いている。
(こいつ、女の子の家に行くのが嬉しいだけだろ…)
俺は、内心で呆れながらも、ディックの純粋な喜びに少し微笑ましさを感じた。しかし、まだ解決すべき問題があることを思い出す。
「いや、待ってくれよ」
俺の言葉に、ディックの表情が一瞬曇る。
「どうしたリクト?」
「俺の目的をまだ果たしてないんだけど」
その瞬間、ディックの顔に「しまった!」という表情が浮かぶ。
「あ!!忘れてた、ワリー!!」
ディックが頭を掻きながら謝る。その仕草には、本当に申し訳なさそうな雰囲気が漂っていた。
(こいつ、マジで忘れてたよな!!)
俺は内心で呆れながらも、少し可笑しくもあった。
(そもそも、最初に酒場に行こうと言い出したのは俺なんだぜ)
その事実を思い出し、俺は少し複雑な気分になる。自分の目的を果たせないまま、他人の問題に巻き込まれていく。この異世界での生活は、予想以上に厄介なものになりそうだ。
「マスター、少しいいですか?」
俺は、静かにマスターに話しかける。マスターの目が、俺に向けられる。その目には、何か深い洞察力が宿っているように感じられた。
「どうしましたか、リクトさん」
マスターの声は、柔らかく、しかし何か強い意志を感じさせるものだった。
「実は俺、この世界の住人ではないんです」
その言葉に、マスターの目が少し細まる。しかし、その表情には驚きの色はなかった。むしろ、何か「やはりそうか」という表情に見えた。
「というのは?」
マスターの声には、純粋な好奇心が混ざっていた。
「元々、日本と言う別の国、いや別の世界にいて、目が覚めたらこのユニオン帝国にいたんです」
俺の言葉に、アイリスはビックリしていた。その目は大きく見開かれ、口が少し開いている。
(そういえば、アイリスにはこのこと言ってなかったな)
俺は、少し申し訳なさを感じた。ここまで一緒に行動してきたのに、こんな重要なことを伝えていなかったことに。
「ほう、リクトさんは異世界人でしたか」
マスターの声には、驚きよりも興味が強く感じられた。
「はい、それでどうやったら元の世界に戻れるか知りたくて」
俺の声には、切実さが滲んでいた。故郷への思いが、胸の奥で疼くのを感じる。
「すみません、私も異世界人がいるということは知っているのですが、どうやって戻れるかまでは…」
マスターの言葉に、俺の心が沈む。どうやら、マスターにも分からないみたいだ。マスターほどの情報屋で分からないとなると、元に戻るのはかなり大変そうだ。
しかし、マスターの次の言葉が、俺の心に小さな希望の灯をともす。
「でも、もしかしたら手がかりなら分かるかもしれません」
「本当ですか!?」
俺の声が、思わず高くなる。マスターが情報を提供してくれそうだ。役に立つかは分からないが、今は何でもいい、情報が欲しかった。
「ここから西の方にあるジュエルシティ、そこにあなたと同じように日本と言う国から来たという少女がいるという話を聞きました。そこに行けば何か手がかりがあるかもしれません」
マスターの言葉に、俺の心が高鳴る。同じ日本から来た人がいるという事実に、安堵と期待が入り混じった感情が湧き上がる。
「分かりました、ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。その瞬間、ある事実に気づく。
(うわー、女かよ)
協力しづらいけど、日本に帰るまでの限定的な協力なら仕方ないか。ここは一つ大人になろう。
そう決意しながらも、俺の心の中では複雑な感情が渦巻いていた。この異世界での冒険は、予想以上に困難なものになりそうだ。しかし、同時に、何か大きな可能性を秘めているようにも感じられた。
あとは、どうしても聞かなきゃいけないことが一つあるな。俺は、少し躊躇いながらも、勇気を出して口を開いた。
「マスター、最後に一つ聞いてもいいですか?」
マスターは、静かに頷いた。その目には、何か深い洞察力が宿っているように見えた。
「はい、なんでしょうか?」
「マスター、さっき魔術を使っていましたよね?」
その質問に、マスターの表情が僅かに変化した。まるで、何か重要な秘密に触れられたかのような緊張感が、一瞬だけ彼の目に宿った。
「使いましたね」
マスターの声は、平静を装っていたが、そこには何か言葉にできない重みが感じられた。
「魔術はマナというものを持っている才能ある人しか使えないって聞きましたけど、俺にその才能があるかとかどんな魔術が使えるかとかって分かりますか?」
その瞬間、マスターの目が一瞬キツくなったような気がした。まるで、俺の内側を見透かそうとしているかのようだった。しかし、すぐにその表情は消え、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「ええ、専門家が見れば、その人がどんな魔術が使えるか一発で分かりますよ。専門家には他人のマナが見えますので。私も、注意深く見れば他人のマナが見えますので、同じことが言えます」
マスターの説明は、淡々としていたが、その言葉の裏には何か重要な意味が隠されているような気がした。
「ただ、かなりの集中力が必要ですが、今どうしても知りたいということでしょうか?」
その問いかけに、俺は一瞬躊躇した。自分のマナを見られるということは、ある意味で魂を覗かれるようなものだ。そんな心境が、俺の表情に現れたのかもしれない。
「いや、大変そうですし今日じゃなくても構いません。俺が知りたいときに教えてくれる人がいるのか気になっただけです」
俺の言葉に、マスターは安堵したような表情を浮かべた。
「そうですか、分かりました。では機会があったら」
マスターの言葉に、俺は頷いた。
(なるほど、自分に魔術の能力があるのか知りたいような、知りたくないような)
複雑な思いが、俺の心を過ぎる。
(でも、マスターの魔術カッコよかったなー)
そんなことを考えていると、ディックの声が響いた。
「よし!!リクトの話も終わったことだし、さっそくアイリスの家に行くか!」
ディックの声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。話が一段落したところで、彼が提案する。
マスターは、穏やかな笑顔で俺たちを見送った。
「分かりました、ではお気をつけて」
マスターが笑顔でお辞儀をする。その仕草には、何か深い思いやりが感じられた。
(考えてみれば、俺らが帰ったあと、この現場片付けなきゃいけないんだよな)
俺は、少し申し訳なさを感じた。
(大変そうだし、早く帰りますか)
「お世話になりました」
「ありがとうございました」
俺とアイリスはマスターにお辞儀をして、この店を後にした。扉が閉まる瞬間、マスターの深い眼差しが、俺たちを見送っているのを感じた。
店を出ると、すっかり日が暮れようとしていた。夕闇が街を包み込み、路地裏の影はより一層深くなっている。昼間の喧騒は嘘のように静まり、代わりに夜の世界特有の緊張感が漂っていた。
俺は思わず身震いした。昼の路地裏も十分に怖かったが、夜になるとますます「裏の世界」という雰囲気が濃厚になる。街灯の光が、不気味な影を作り出し、それらが生き物のように蠢いているように見えた。
怖い人の数も、明らかに増えている。昼間は見なかったような怪しげな人影が、あちこちで目につく。彼らの目つきは鋭く、獲物を狙う野獣のようだ。早く表通りに出ていきたいという思いが、俺の中で強くなる。
「大丈夫か?」ディックの声が、俺の耳元で囁くように聞こえた。彼の声には、普段の軽さはなく、緊張感が滲んでいた。
「ああ」俺は小さく頷いた。声を出すのも憚られるような空気が、周りを包んでいる。
表通りに向かって三人で歩いていく。俺とアイリスは明らかに場違いな存在だ。この世界に慣れていない二人は、声をかけられてトラブルに巻き込まれても全くおかしくない。
しかし、不思議なことに、今のところ誰も話しかけてこない。みんな俺たちの方をチラチラ見てくるが、先頭を歩くディックを見ると、何かを悟ったような表情を浮かべ、各々の会話に戻っていく。
(やっぱりこういう時はディックは頼りになるな)
俺は、心の中でディックに感謝した。彼の存在が、今この瞬間、俺たちの盾になっているのだ。
5分ほど歩くと、ようやく表通りに出た。その瞬間、まるで重い鎧を脱いだかのように、体中の緊張が解けていくのを感じた。今まで息が詰まっていたが、一気に解放された気分だ。
アイリスも同じだったのか、大きく息を吐き出すのが聞こえた。彼女の顔には、安堵の色が浮かんでいる。
「やっぱり二人はああいう所緊張するよな?」ディックが、少し心配そうに二人を見た。
「はい、少し怖かったです」アイリスが正直に答える。その声には、まだ僅かな震えが残っていた。
「大丈夫、何があっても俺が守るから安心しな!」ディックが親指を立てて笑顔で言う。その態度には、どこか頼もしさが感じられた。
「頼りになりますね、ディックさん!」アイリスが笑顔で答える。しかし、俺の目には、そのアイリスの笑顔が少しぎこちなく見えた。彼女の中にも、まだ先ほどの恐怖が残っているのだろう。
表通りには、もうほとんど露店はなかった。昼間の賑わいは影を潜め、代わりに静寂が支配している。そのため、昼ほどの盛況さはなく、どこか寂しい印象を受ける。
「もう、露店はやってないんだな」俺が独り言のように呟いた。
「ああ、一日8時間以上の営業は禁止なんだ。働きすぎないためにな」ディックが答えてくれた。
(素晴らしい法律だな。日本も見習ってほしいものだ)
俺は、この異世界の制度に感心しながら、日本の長時間労働の現状を思い出していた。
「すみません、私の家はこっちの方です。ここからは私が案内しますね」
アイリスが、少し緊張した様子で言った。今まで先頭に立っていたディックに指摘をし、彼女が先頭に立つ。
その瞬間、ディックが小声で俺に話しかけてきた。
「おい、リクトグッジョブだったな!」
ディックは、まるで悪戯を企む子供のように、笑顔で俺の肘をつついてきた。
「何がグッジョブなんだよ?」俺は、呆れ顔でディックを見る。
「アイリスの家に行くってアイディアだよ。確かに筋が通ってるよな!」
「おい、お前何を期待してるんだ?」
俺は、ディックの言葉の裏に隠された意図を察し、内心で呆れた。こいつ、本当に女のことしか頭にないんだな。
「そりゃあ、アイリスちゃんの部屋だよ!いやー、楽しみだなー!」
ディックの目は、まるで宝物を見つけた海賊のように輝いていた。
(何か一人で浮かれてるし。この馬鹿はほっといていいかもしれんな)
俺は、ディックの単純さに呆れながらも、どこか愛おしさも感じていた。
ふと前を見ると、アイリスが先頭で歩いている。表通りを西の方に進んでいく。先には住宅街らしきものが見えた。街灯の明かりに照らされた家々の輪郭が、夜空に浮かび上がっている。
(お互い敬語を使っているけど、よくよく考えると同い年くらいに見えるな)
俺は、アイリスの後ろ姿を見ながら考えた。
(今度機会があったら確認してみよう)
そして、俺の頭に新たな疑問が浮かんだ。
(ところで、ディックはいつまでこの女と一緒に行動するつもりなんだろう?)
その疑問が頭をよぎった瞬間、俺は自分の立ち位置について考え始めた。正直、必要な情報は聞けたし、今ここでこいつら二人と別れたって何の問題もないかもしれない。むしろ、これ以上関わらない方が安全なのかもしれない。
しかし、同時に俺の心の中で別の思いが芽生えていた。ここから先、ディックほど親切な人と会える確率は低いだろう。確かに、こいつは馬鹿だ。女のことしか考えていないようにも見える。だが、わざわざ倒れている俺を看病してくれて、酒場まで連れて行ってくれるほど親切だった。
(ここで縁を切るのはもったいないんじゃないか)
そう思うと同時に、俺は自分の中に芽生えた感情に気づいた。何よりディックに対して、少し情のようなものを感じ始めているのも事実だった。この異世界で、唯一信頼できる存在。それがディックなのかもしれない。
(これからも一緒に行動したいな)
その思いが、俺の中で強くなっていく。しかし、同時に不安も湧いてきた。ディックは今後も一緒に行動してくれるだろうか。それとも、アイリスのことが片付いたら、俺を置いていってしまうのだろうか。
その不安を払拭するように、俺は声を上げた。
「なあ、ディック?」
「どうした?」ディックの声には、いつもの軽さが感じられた。
「俺は今度ジュエルシティに行きたいと思ってる」
「おお、そうか」ディックの声には、興味が混ざっていた。
「一緒に行ってくれるか?」
俺の声には、自分でも驚くほどの切実さが込められていた。ディックの答えを待つ間、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「ああ、構わないぜ!」
その返事に、俺は思わずほっとため息をついた。
「本当か!?」
「俺自身、特に目的なく色々なところに行く旅人だからな。異世界人に会ったの初めてだし、面白いから付き合ってやるよ!」
ディックの言葉に、俺は心の中で喜びを感じた。
(ディックって馬鹿だけど、本当にいい奴だよな)
俺がこの世界で出会ったのがディックで本当に良かった。その思いが、胸の中で大きくなっていく。
(惚れそうになっちまうぜ。いや、流石に男には惚れないけどな)
そう思った瞬間、ディックが続けた。
「それに、ジュエルシティには異世界人の少女がいるんだろ?超楽しみだぜ!」
(前言撤回。ただの馬鹿だったな)
俺は、内心で呆れながらも、少し笑みがこぼれた。こいつの単純さが、ある意味で救いになっているのかもしれない。
ディックが一緒に行動してくれるのは嬉しい。だが、女は嫌いだ。正直、一緒に行動していると少し緊張するし。そう思うと、新たな疑問が浮かんできた。
「それで、ディックはいつまでアイリスと一緒にいる気だ?」
「そりゃあ、一発ヤるまでよ!」
ディックの返事は、予想通りだった。俺は深いため息をついた。
「ハア...。じゃあ、もし出来そうになかったら?」
「まあ、せめてもの人情として、お父さんと会えるまでは協力してあげたいかなー」
その言葉に、俺は少し驚いた。
(なるほどね、ディックにも本能だけじゃなく人情があるわけか)
しかし、すぐに現実的な問題に気づく。
(でも、クルドと会えるまでか。それは、相当時間がかかりそうだな)
しばらく、アイリスとはお別れ出来そうにない。その事実に、俺は複雑な思いを抱いた。
(しゃーない、アイリスと別れるにはやっぱり何か行動に出ないといけないだろうな)
ディックとそんな会話をしていると、いつの間にか住宅街に入っていた。街灯の明かりに照らされた家々が、静かに佇んでいる。その住宅街の端の方に、目的の家が見えてきた。
申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。アイリスが現在もこの家に住んでいることを考慮して、書き直します。
二階建ての一軒家が、夜の闇の中にその姿を現した。月明かりに照らされたその家は、特別豪華というわけではなく、並んでいる他の家と同じような庶民的な佇まいだった。
しかし、よく見ると他の家とは少し違う雰囲気が漂っている。庭の手入れが少し行き届いていないようで、雑草が少し伸びている。それでも、完全に放置されているわけではなく、アイリスが精一杯努力している跡が見られた。
(そりゃあ、そうか。アイリスだってそれどころじゃねーもんな)
俺は、アイリスの置かれた状況を改めて実感した。父親の失踪、借金取りの追及、そして母親の死。これだけの問題を抱えていれば、庭の完璧な手入れまでは手が回らないだろう。
アイリスが足を止め、深呼吸をした。その仕草には、何か重い決意が感じられた。
「ここが私の家です。何か手がかりがあればいいけど…」
その声には、希望と不安が入り混じっていた。アイリスの目は、日々の生活の場でありながら、同時に失われた家族の記憶が詰まった空間を見つめているようだった。
(ここは一週間前までクルドが住んでいた家だ。手がかりがないわけがない!)
俺は、そう確信した。しかし同時に、この家に入ることで何か取り返しのつかないことが起きるのではないかという不安も感じた。
ディックは、そんな空気も読まずに、興奮した様子で声を上げた。
「よっしゃ!さっそくお邪魔していいかい?」
ディックがアイリスに許可を求める。その目は、まるで宝箱を前にした海賊のように輝いていた。
(とっととアイリスの部屋に入りたいらしい)
俺は、内心で呆れながらも、ディックの単純さに少し救われる思いがした。
アイリスは、少し躊躇した後、静かに頷いた。
「ええ、どうか手がかりを見つけてください、お願いします」
その言葉には、切実な願いが込められていた。アイリスの目に、決意の色が宿る。
俺たち三人はアイリスの家に入っていった。