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異世界ハーレムのミソジニスト(女性嫌悪者)  作者: 一条 剣
アークシティ編
5/17

5.酒場

アイリスの声が口を開く。


「実は私の父が借金を残したまま失踪してしまいまして」


アイリスの声には、悲しみと決意が混ざっていた。その声の震えは、彼女の心の内にある複雑な感情を物語っているようだった。


俺は、アイリスの横顔を見つめた。彼女の瞳には、何かが宿っていた。それは単なる悲しみではない。そこには、強い意志と、何かを隠そうとする影が垣間見えた。


マスターのシリウスは、じっと話を聞いていた。その目には、単なる好奇心以上のものが宿っている。まるで、アイリスの言葉一つ一つを慎重に吟味しているかのようだ。その鋭い眼差しは、長年の経験に裏打ちされた洞察力を感じさせた。


「なるほど」シリウスが静かに口を開いた。

その声には、何か深い意味が込められているように感じられた。


「あなたのお父様は何というお名前ですか?」


その質問には、何か意図があるように感じられた。まるで、その名前を聞くことで、何かが明らかになるかのように。アイリスは一瞬躊躇した。その躊躇いは、ほんの一瞬のことだったが、俺の目には確かに映った。


「父の名前はクルドと言います」


アイリスの声は、できるだけ感情を抑えようとしているように聞こえた。しかし、その名前を口にした瞬間、彼女の目に一瞬の悲しみが浮かんだ。


シリウスの目が、僅かに細まる。その名前に何か心当たりがあるのだろうか。彼の表情には、何かを悟ったような色が浮かんでいた。


「お仕事は何をされていたのですか?」


シリウスの質問は、まるで尋問のようだった。しかし、その口調は柔らかく、相手を安心させるような温かみがあった。


アイリスは少し考え込むように目を伏せた。その仕草には、何か言いづらいことがあるような雰囲気があった。


「以前は研究職に就いていたみたいですが、10年前に首になって以降はずっと無職を続けていました」


その答えに、俺は少し違和感を覚えた。10年も無職とは。一体どうやって生活していたのだろう。そして、なぜ研究職を首になったのか。そこには、何か重要な秘密が隠されているのではないか。


シリウスは更に質問を重ねる。その eyes には、何かを追及しようとする鋭さが宿っていた。


「いつ頃から行方不明なのですか?」


「一週間前からです」アイリスの声が少し震えた。その震えは、父の失踪が彼女にとってどれほど大きな衝撃だったかを物語っていた。


「お父様の何かハマっていた趣味みたいなものはありますか?」


この質問に、アイリスの表情が一瞬曇った。まるで、その質問が彼女の心の奥深くにある何かを刺激したかのようだった。


「カジノのギャンブルにハマっていました。借金の原因もギャンブルだと思います」


なるほど。ここで話の核心に迫ってきたな、と俺は思った。ギャンブル依存症の父親。それは、多くの悲劇の始まりだ。アイリスの表情には、その事実を語ることへの恥ずかしさと、同時に父親への複雑な感情が垣間見えた。


シリウスは更に踏み込む。その目には、まるで真相に迫ろうとする探偵のような鋭さが宿っていた。


「なるほど。ちなみにお母様は何をされていますか?」


その瞬間、アイリスの表情が凍りついた。まるで、突然の寒気に襲われたかのように。


「それは…」


言葉が途切れる。アイリスは母親の話になると言葉に詰まった。何か言いにくい事情があるみたいだ。その様子を見て、俺は不安な予感がよぎった。


シリウスは、アイリスの様子を見て急いで言い添えた。その声には、相手を思いやる優しさが含まれていた。


「いえ、言いにくいようでしたら結構です。借金の対象が何故お父様から急にあなたになったのか疑問だっただけなので。普通、お父様がいなくなったら娘の前にお母様のところに行きますから」


マスターの言う通りだ。その点は俺も疑問に感じていた。アイリスの家族構成には、何か重要な秘密が隠されているのではないか。


マスターの言葉を聞き、アイリスは少し唇を噛んだ。その仕草には、何か重い決断をしようとする緊張感が漂っていた。そして、覚悟するように語り始めた。


「いえ、父を探す情報にはならないと思ったから言わなかっただけです。母は亡くなりました。一か月前です。病気でした」


その言葉に、酒場全体が静まり返った。まるで、時間が止まったかのようだった。アイリスの目には、涙が光っていた。その涙は、彼女が抱え込んでいた悲しみの深さを物語っていた。


シリウスの声が、優しく響く。その声には、深い同情と理解が込められていた。


「そうですか、それはお辛いですね、心情お察しします」


アイリスは強がるように首を振った。その仕草には、弱音を吐きたくない、という強い意志が感じられた。


「大丈夫です。父をどうしても探して欲しいので、他にも必要な情報があれば何でもお話しします」


その言葉には、決意と同時に、何か隠されたものがあるように感じられた。アイリスの目には、単なる父親捜しへの意志以上のものが宿っていた。それは復讐なのか、それとも別の何かなのか。


シリウスは少し考え込むように目を閉じた。その表情には、何かを悟ったような色が浮かんでいた。そして、


「いえ、とりあえずこれ以上情報は必要ないでしょう。カジノの常連客に心当たりがあります。彼に話を聞いてみましょう」


そう言うと、シリウスはカウンターの端にいた大男に話しかけた。その瞬間、酒場の空気が再び変化した。


シリウスがカウンターの端にいた大男に声をかけた瞬間、酒場の空気が一変した。それまでの静寂が破られ、大男の怒声が響き渡る。


「なんだよ!俺は今日は情報はいらねーぞ!!!」


その声に、俺は思わず身を縮めた。うわあ、あの大男滅茶苦茶酔ってるじゃん。視線を向けると、その姿が目に飛び込んでくる。茶色いTシャツに黒い短パンという、この場にそぐわない出で立ち。Tシャツには悪魔のような不吉な模様が刻まれている。いかにも悪そうな親父で、歳は40代半ばだろうか。


髪はだらしなく伸び、頬には数日分のヒゲが生えている。目は酒で赤く充血し、鼻の頭は不自然なほど赤い。清潔感の欠片もない。俺もよく清潔感がないと言われるが、比べ物にならないくらい酷い。その体からは、酒と汗の混ざった臭いが漂ってきて、思わず鼻をつまみたくなる。


しかし、シリウスは全く動じない。その態度には、長年の経験から培われた冷静さが感じられた。彼は穏やかな笑顔を浮かべながら、大男に向かって言った。


「いえ、こちらがあなたから情報をいただきたいのです」


酔っ払いにマスターは笑顔で対応する。流石にこういう店を経営するだけあって対応に慣れているな。その姿を見て、俺は改めてシリウスの凄さを実感した。


大男は不機嫌そうに唸った。その声は、まるで野獣のうなり声のようだった。「フン、わかったよ、どんな情報だ?」


「こちらの女性のお話を聞いてほしいのです」シリウスの声には、どこか魔力のようなものが感じられた。それは、相手を説得する不思議な力を持っているようだった。


大男は一瞬躊躇したが、すぐに「はいよ、そっち行きますよ!!」と声を上げた。


マスターが呼ぶと大男がこちらに近づいてくる。その歩み方は、酔っぱらい特有の千鳥足だ。ふらつきながら、時折テーブルにぶつかり、グラスを倒す音が響く。大男が近づくにつれて、酒の臭いも強くなってくる。うわー、こりゃあ酷い臭いだな。まるで、アルコールの貯蔵庫が歩いてきているかのようだ。


手に持っている酒を飲みながらこっちへやってくる。その手には、半分ほど酒の残ったジョッキが握られている。歩くたびに中身がこぼれ、床に酒の跡が点々と残されていく。


大男はアイリスの隣に座ると、ドスンという音を立てて腰を下ろした。その衝撃で、テーブルの上のグラスが跳ねる。そして、大きな声で自己紹介を始めた。


「俺様の名前はロックだーー!!お嬢さん、俺に聞きたいことがあるんだって!?」


デカい声でアイリスに語りかける。その声量に、周りの客たちが顔をしかめる。アイリスはロックの臭いとこの大声が近くにあることに、不快そうな表情を隠せていなかった。彼女の鼻がかすかに皺んだのが見えた。


だが、自分の目的を思い出したのか、アイリスは一瞬で表情を取り繕い、笑顔をつくってロックに言った。


「はい、どうしても知りたい情報があります。協力してください」


その声には、必死の思いが込められていた。アイリスの目には、決意の色が宿っていた。


「わかった!!まずはお嬢ちゃんのお名前を教えてくれるかい!?」


ロックの相変わらずの大声にアイリスは苦笑しながらも答えた。その態度には、目的のためなら何でも耐えるという覚悟が感じられた。


「アイリスです」


「アイリスちゃんねえ、どこかで聞いたことある名前だなあ」


ロックが思い出せないのをもどかしいといった表情で苦悶している。その顔は、まるで難解な数学の問題を解こうとしているかのように歪んでいた。だが、思い出せないものは思い出せないと諦めたのか、一旦酒を飲み、それを勢いよくテーブルに置くと、本題に入った。グラスがテーブルに当たる音が、妙に鋭く響いた。


「で、アイリスちゃんが聞きたいことってなんだい!?」


その声には、好奇心と同時に、何か危険なものが潜んでいるように感じられた。俺は、思わず身構えてしまう。この男から、どんな情報が引き出せるのか。そして、その情報は本当に信用できるものなのか。そんな疑問が、俺の頭の中を駆け巡った。


アイリスは一瞬躊躇したが、すぐに決意を固めたかのように口を開いた。


「はい、私の父の行方を知っていたら教えてほしいのです」


その言葉に、ロックの目が一瞬大きく見開かれた。酒に潤んだ目が、突如として鋭い光を放つ。


「アイリスちゃんのお父さん行方不明なの!?」


ロックの声には、驚きと同時に何か別の感情が混ざっているように感じられた。好奇心?それとも警戒心?俺には判断がつかなかった。


「はい」アイリスの返事は短く、しかし確固たるものだった。


アイリスが丁寧に一つ一つをロックに伝える。その姿は、まるで重要な取引をしている商人のようだった。ロックも相手が可愛いアイリスだからか、あるいは話の内容に興味を引かれたからか、真剣に話を聞いている。その目は、酔いが醒めたかのように冴えていた。


突然、シリウスが話に割り込んできた。その声は、静かでありながら、場の空気を一変させる力を持っていた。


「アイリスさんのお父様はよくこの街のカジノに出入りされていたそうです」


その言葉に、ロックの表情が変わった。まるで、暗号を解読したかのような表情だ。


「なるほど、それでカジノの常連の俺に情報を聞いてきたわけか!」


ロックが上機嫌になる。自分が重要人物として認識されたことが嬉しいのだろう。その態度には、どこか子供っぽさが感じられた。お酒を飲むペースがどんどん上がっている。グラスを傾ける度に、酒が口元からこぼれ落ちる。


「で、アイリスちゃんのお父さんの名前はなんて名前なんだい?」


ロックの声には、期待と好奇心が混ざっていた。その目は、まるで宝物を発見しそうな探検家のように輝いていた。


アイリスは一瞬躊躇した。その間、酒場全体が息を潜めたかのように静まり返る。そして、ゆっくりと、しかし確かな声で答えた。


「クルドです」


その瞬間、世界が止まったかのようだった。


「なるほど、って何!?クルドだと!!??」


さっきまでの上機嫌なロックの様子が一変した。その変化は、まるで Jekyll と Hyde のようだった。ただでさえ大きかったロックの声がさらに大声になる。その声量に、酒場中の客が驚いて振り返る。


かなり驚いている様子だ。否、驚きを通り越して、激怒しているようにも見える。ロックの顔が、怒りで真っ赤に染まっていく。血管が浮き出るほどだ。


自分の持っていたジョッキをテーブルに叩きつけ、怒鳴り始めた。ガシャンという大きな音と共に、ジョッキの中身が周囲に飛び散る。


「おい、まさかクルド・ヘンドリックスのことじゃねーだろうな!?」


その叫び声は、まるで雷鳴のようだった。突然怒鳴られてアイリスは委縮している。肩が小刻みに震えているのが分かる。その姿は、まるで強風に吹かれる小さな花のようだ。


それでも、前を向きアイリスは答えた。その声には、震えこそあれ、確かな意志が感じられた。


「はい、クルド・ヘンドリックスは父の名前です」


その言葉を聞いた瞬間、ロックの目に憎悪の炎が燃え上がった。その目は、まるで地獄の業火のようだった。


「あの糞爺の娘はテメーか、ぶっ殺してやる!!」


怒りに狂ったロックは急に短パンのポケットからナイフを取り出す。その動きは、酔っぱらいとは思えないほど素早かった。刃が、酒場の薄暗い照明を受けて不吉な輝きを放つ。


おいおい、滅茶苦茶危ねーじゃねーか。俺の心臓が激しく鼓動を打ち始める。冷や汗が背中を伝う。これは、ただの脅しではない。ロックの目には、本気で危害を加えようとする殺意が宿っている。


ロックは我を忘れてナイフを振り回している。カウンターの上にある酒が次々と床に飛び散っていく。ガシャンガシャンと、グラスの割れる音が響き渡る。


急な騒動に、周りの客も野次馬根性でこちらに注目している。しかし、誰も止めようとはしない。この酒場では、こういった事態も珍しくないのかもしれない。


ロックは依然として暴れまわっている。その姿は、まるで暴走した機関車のようだ。そのままの勢いでアイリスに近づく。アイリスは驚愕のあまり動けないでいる。その目は恐怖で見開かれ、顔は青ざめている。


ロックがアイリスの顔めがけてナイフを振り下ろす瞬間、時間が止まったかのように感じられた。酒場の喧騒が遠のき、アイリスの息遣いだけが異常に大きく聞こえる。その瞬間、アイリスの目に何かが閃いた。生存本能だろうか、それとも何か別のものか。


アイリスがそれに気づき、間一髪で後ろに避ける。その動きは、まるで舞踏家のように優雅で、同時に野生動物のように素早かった。ナイフの刃が、彼女の頬をかすめていく。髪の毛が数本、宙を舞った。


だが、完全には避けきれなかった。アイリスの左腕にナイフがかすったのか、切り傷が出来てしまっている。赤い血が、白い肌の上にゆっくりと滲んでいく。その赤さが、妙に鮮やかに見えた。


痛いのか、その切り傷の部分を、自分の右手で覆っていた。アイリスの顔には痛みの色が浮かんでいたが、同時に何か別の感情も混ざっているように見えた。恐怖?それとも怒り?


その瞬間、静寂を破るように怒声が響き渡った。


「おい!!アイリスちゃんを傷つけるのはやめろ!!」


ディックの声だった。その声には、これまで聞いたことのないような怒りが込められていた。それは単なる興奮ではない。まるで、獰猛な獣が目覚めたかのような、本能的な怒りだった。


ディックが怒鳴るとロックに襲い掛かる。その動きは、まるで猛獣のようだった。俺は思わず息を呑んだ。確かにディックは強い。だが、相手はナイフを持っている。こんな狭い場所での戦いは、ディックに不利なはずだ。


「うるせえ、俺の気も知らねーで!!」


怒り狂ったロックは、今度はディック相手にもナイフを振り回した。その動きは、酔っぱらいのそれとは思えないほど正確だった。刃が空気を切る音が、不吉に響く。


ロックに見境がなくなったと悟った周りの野次馬は、今日はこれで解散とばかりにみんな店から出ていく。椅子を引く音、慌ただしい足音が重なり合う。こういう危ない喧嘩も、もしかしたらここの連中からしたら日常茶飯事なのかもしれない。


酒場はあっという間に、ディック、ロック、アイリス、そして俺とシリウスだけになった。緊張が、部屋中に充満している。


「オラ、食らえ!!」


ロックの叫び声と共に、ナイフがディックの左腕に突き刺さる。その瞬間、鈍い音が響いた。うわー、すげえ痛そうだよ。俺は思わず目を背けそうになった。


しかし、驚いたことにディックの表情は変わらない。いや、むしろしてやったりの笑顔になった。その笑みには、何か不気味なものが感じられた。


「あれ?抜けねーぞ!」


ロックがディックの上からナイフを抜こうとするが中々抜けない。その姿は、まるでアーサー王の剣を抜こうとして失敗する騎士のようだった。


そういうことか。俺は状況を理解した。ディックはあえてナイフで刺されにいったんだ。そして、刺されたあとに、刺された箇所に力をいれることで、筋肉の硬さで中々ナイフが抜けない状況をつくる。すると、相手は至近距離にいながら何も出来ないわけで、


「オラよ!!」


ディックが叫びながら空いている右手でロックの顔面を殴る。その一撃には、まるで雷のような威力があった。ロックはテーブルの方に派手に吹っ飛んだ。その姿は、まるで人形のようだった。


「ふう、これで一安心だな」


ディックがアイリスの元に笑顔で行く。その表情には、まるで英雄のような自信に満ちた輝きがあった。だが、その姿を見て、俺は複雑な気持ちになった。あいつ、本当に女しか見えてねーな。その前にまずは自分の身体の心配をしろよ。


「おい、ディック、まずはお前の腕に刺さってるナイフを抜けよ!」


俺が思わずディックにアドバイスをする。その声には、自分でも驚くほどの焦りが混じっていた。


「そうだな、忘れてた、マスター包帯貸してくれ!」


ディックの声には、まるで些細な傷でも話しているかのような軽さがあった。その態度に、俺は呆れると同時に、この男の異常な強さを改めて実感した。


ディックがマスターの方に振り向いた瞬間だった。時間が止まったかのように感じられた。俺の目に、スローモーションのように映像が流れる。


テーブルの方で倒れていたはずのロックが急に起き上がる。その動きには、先ほどまでの酔いの影は全くない。まるで、獲物を狙う猛獣のように素早く、そして静かだった。


ロックは、ディックの真後ろに立っていた。その目には、憎悪と狂気が渦巻いている。右手には、お酒の入っていたであろう瓶を持っている。その瓶は、薄暗い酒場の灯りを受けて不吉な輝きを放っていた。


俺の喉から声が出た。それは、自分でも驚くほど大きな声だった。


「おい、ディック危ないぞ!!!」


その叫び声は、酒場中に響き渡った。しかし、それでも遅かった。ディックが気付く前に、ロックは右手を振り下ろしていた。


瓶が空気を切る音が、異常に大きく聞こえる。俺の心臓が、激しく鼓動を打つ。アドレナリンが全身に駆け巡り、時間の流れが遅くなったように感じられた。


(終わった)


その思いが、俺の頭をよぎる。ディックがやられちゃ俺らもおしまいだ。そう思った瞬間、予想外の光景が目の前で繰り広げられた。


ロックの右手は振り上げた状態から動いていない。まるで、空中で凍り付いたかのようだった。結局ロックは瓶でディックを殴らなかった。いや、殴れなかったのだ。


何故なら、


「ロックさん、私の店で暴れられたら困ります」


シリウスの声が、静かに、しかし威厳を持って響いた。マスターがロックから少し離れたカウンターから、ロックの方に右手を突き出している。その姿勢は、まるで古代の魔術師のようだった。


「私の持っている魔術式、忘れたわけじゃないでしょう?」


シリウスの声には、冷たさと同時に、何か悲しみのようなものが混じっていた。ロックが怯えた表情でマスターを見ている。その目には、恐怖と共に、かすかな悔恨の色が浮かんでいた。


「金縛りの術式をかけさせていただきました。あなたは私が許可しない限り一生動けません」


マスターが優しくロックに語る。その声は、まるで子供を諭すような柔らかさがあった。しかし、その言葉の持つ重みは、誰の目にも明らかだった。


「さあ、どうしますか?」


笑顔で問いかけるマスター。その表情には、慈悲深さと同時に、絶対的な力を持つ者の威厳が感じられた。


俺はマスターがこの店を経営できている所以を理解した。それは単なる商売の手腕ではない。この男には、人々を従わせる力がある。そして、その力の源は…


そして、生まれて初めて魔術というものを目撃した。その光景は、俺の世界観を根底から覆すものだった。目の前で起こっている出来事が、現実なのか夢なのか、一瞬分からなくなった。


シリウスの指先から、かすかな光が漏れている。その光は、ロックの体を包み込むように広がっていった。ロックの体が、まるで石像のように硬直している。


俺は、自分の目を疑った。しかし、同時に、この異世界の真の姿を垣間見た気がした。ここには、自分の知らない力が存在する。その力は、恐ろしくも、同時に魅力的だった。


アイリスとディックも、驚きの表情でその光景を見つめている。特にアイリスの目には、何か複雑な感情が浮かんでいた。それは驚きだけではない。まるで、何かを思い出したかのような表情だった。


酒場の空気が、一変した。先ほどまでの殺気立った雰囲気は消え、代わりに神秘的な空気が満ちている。誰もが、言葉を失っていた。

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