3.ディック
異世界。その言葉が、俺の頭の中で反響する。まるで、自分の置かれた状況を受け入れようとする脳と、それを拒絶しようとする理性が激しくぶつかり合っているかのようだ。
さて、異世界に来てしまったわけか。なぜ、どうやって来てしまったのか。その原因は全く見当もつかない。最後に覚えているのは、路地裏で不良にボコボコにされた時のことだ。そこから、この異世界への扉が開いたのだろうか。それとも、もっと別の理由があるのだろうか。
しかし、今はその謎を解く時間はない。来てしまった以上、ここから脱出する方法を探すしかないだろう。そのためには、まず現状の把握が必要だ。この世界のルール、文化、そして何より、日本に戻る手がかりを見つけなければならない。
俺は深呼吸をして、目の前の金髪の青年に向き直った。彼は、まるで俺の混乱を楽しんでいるかのような、どこか愉快そうな表情を浮かべている。
「すみません、私は青沼陸人と言います。お名前聞いてもいいですか?」
丁寧に、しかし少し緊張した様子で俺は尋ねた。相手が善意の人物であることを願いながら。
「ああ、自己紹介がまだだったな!俺はディックと言うんだ、よろしくな!」
青年―ディックは、爽やかな笑顔で答えた。その笑顔には、どこか人を惹きつける魅力があった。
「はい、お願いします!」
俺は思わず力強く返事をしてしまった。ディックの明るさに、少し心が和らいだような気がする。
「それにしても、アオヌマリクトって長い名前だな?」
ディックが不思議そうな顔でこちらを見てくる。その表情には、純粋な好奇心が浮かんでいた。どうやらこの国では日本のような名前の付け方はしていないらしい。
(日本人がつくったファンタジーみたいな世界だな)
そんな思いが頭をよぎる。まるで、小説やアニメの世界に迷い込んでしまったかのような感覚だ。
「そうですね、陸人と呼んでください。」
俺は少し考えてから答えた。フルネームで呼ばれるのは、確かに少し違和感がある。
「そうか、わかった。リクトだな!」
ディックは満面の笑みで頷いた。その表情には、まるで新しい友達ができた子供のような喜びが溢れていた。
「はい!」
俺も思わず笑顔になる。ディックの明るさは、確かに人を惹きつける力がある。
「あと、敬語はなしな、堅っ苦しいし!」
ディックは、少し困ったような表情を浮かべながら言った。確かに、彼のフランクな態度を見ていると、敬語を使うのは場違いな気がする。
(なるほど、確かに敬語が馴染まないタイプではありそうだ)
俺は内心で納得した。ここはタメ口の方が話しやすいだろう。この異世界で生きていくためには、現地の習慣に早く馴染む必要がある。
「分かった。ところで、一つ質問していいかい?」
俺は、少し勇気を振り絞って切り出した。これから先の展開を左右する可能性のある質問だ。
「うん?どうした?」
ディックは、興味深そうに俺を見つめた。
「俺が異世界から来たって言ったら信用してくれるか?」
人間の世界と同じく、変な目で見られるのではないかという一抹の不安があった。しかし、ディックの反応は予想外のものだった。
「あー、お前異世界人なのね!どうりでこの世界のこと分からないわけだ!」
ディックは、まるで当たり前のことを聞かれたかのように答えた。その反応に、俺は驚きを隠せなかった。
「え?信用してくれるの?」
思わず聞き返してしまう。これほど簡単に信じてもらえるとは思っていなかった。
「まあ、噂では聞いたことあるからな。日本とかいう国から来たんだろ?」
ディックの言葉に、俺の心臓が高鳴る。日本の名前まで知っているとは。これは、予想以上に重要な情報かもしれない。
「ああ、そうだけど。他にも日本から来た人が?」
俺は、期待と不安が入り混じった気持ちで尋ねた。もし他の日本人がいるのなら、この世界のことをもっと詳しく知ることができるかもしれない。そして、何より、日本に帰る方法を知っているかもしれないのだ。
「ああ、いるみたいだな。俺が会ったのはお前が初めてだけど、噂には聞いたことあるぜ!」
ディックの言葼に、俺の心は複雑な感情で満たされた。安堵と期待。そして、どこか寂しさのようなものも。
(なるほど、俺が唯一の異世界人ってわけじゃないのか)
そう思いつつ、俺の頭の中では様々な考えが巡っていた。
(そういえば、日本ではまだ見つかっていない行方不明者が数多くいるって聞くけど、その中にはこのユニオン帝国に来ちゃった人も含まれてるんだろうな)
その考えが頭をよぎった瞬間、現実世界との繋がりを感じた気がした。
(そっか、俺も今向こうの世界じゃ行方不明者ってことになってるのか)
その事実に気づいた時、急に胸が締め付けられるような感覚に襲われた。家族や友人たちは、今頃心配しているだろうか。それとも、まだ俺の失踪に気づいていないだろうか。
そんな思いを振り払うように、俺は再びディックに問いかけた。
「なあ、ここから日本に戻る方法って知ってるか?」
これが、今の俺にとって最も重要な質問だった。しかし、ディックの答えは期待はずれなものだった。
「いや、俺は知らんけど、酒場の連中なら知ってるかもな」
ディックは、少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら答えた。
「酒場?」
俺は思わず聞き返した。その言葉に、どこか懐かしさを感じる。まるで、ファンタジー小説やRPGゲームの世界に迷い込んだかのような感覚だ。
「ああ、酒飲むだけじゃなく、アークシティの情報交換の場になってるんだぜ!」
ディックは誇らしげに説明した。その表情には、この街への愛着が垣間見える。
(RPGの設定みたいだな)
そう思いつつも、俺は内心で期待を膨らませていた。酒場。そこには、この世界の情報が集まっている。そして、もしかしたら日本に帰る手がかりもあるかもしれない。
(だが、情報を多く仕入れるのはいいことだ)
俺は心の中で自分に言い聞かせた。現状を打破するためにも、ここはその酒場とやらに行く必要があるだろう。
「その酒場とやらに連れて行ってもらってもいいか?」
俺は、できるだけ冷静を装いながら尋ねた。しかし、その声には僅かに期待と不安が混じっていた。
「ああ、いいぜ!」
ディックは快く承諾した。その笑顔には、どこか俺を安心させるような温かさがあった。
ディックは部屋の鍵を机の上から取ると、さっそく部屋を出た。俺も慌ててその後を追う。
階段を降りながら、俺は周囲を観察した。どうやら、この建物は本当に旅館のようだ。しかし、日本の旅館とは少し趣が異なる。壁の装飾や廊下の作りに、どこか異世界らしさを感じる。
正面玄関から外に出ると、俺の目の前に驚くべき光景が広がった。活気に満ちた街並み。色とりどりの露店が道路の両側に並び、人々が行き交っている。空には、見たこともない鳥のような生き物が飛んでいる。
(このような光景は漫画でしか見たことがない)
俺は思わず目を見開いた。確かに、日本にいた頃も露店は見かけたことがある。しかし、それらは大抵、祭りの時期だけの一時的なものか、どこか怪しげな雰囲気のものばかりだった。
この街の露店は違う。まるで、この街の日常の一部として溶け込んでいる。人々は笑顔で買い物を楽しみ、商人たちは威勢のいい声で商品を売り込んでいる。
そんな風景を見ていて、ふと疑問が浮かんだ。
「なあディック、この露店商人たちは雨の日はどうしているの?」
俺は素朴な疑問をディックにぶつけた。日本なら、雨が降れば露店は閉じるだろう。しかし、この活気溢れる様子を見ていると、そんな簡単には商売を諦めなさそうだ。
ディックは、少し驚いたような顔をしてから答えた。
「雨の日は商売中止だろ、まあアークシティに雨なんてめったに降らないけどな」
その答えに、俺はさらに疑問を感じた。
「雨が降らないなら、どうやって水を蓄えているんだ?」
この疑問は、単なる好奇心からではない。この世界で生きていくために必要な情報を集めようとする本能だった。
ディックは、少し得意げな表情を浮かべながら答えた。
「そりゃあ、基本的には魔術師が生産してるからな。他所の街からもらうこともあるが」
その言葼に、俺は思わず息を呑んだ。
「魔術師?この世界では魔術があるのか?」
興奮を抑えきれず、声が少し裏返ってしまった。魔術。それは、俺たちの世界では空想の産物でしかない。しかし、ここではそれが現実なのだ。
「ああ、とは言っても使えるのは限られたごく一部の人間だけどね」
ディックは、当たり前のことを話すかのように答えた。しかし、その目には少しだけ羨望の色が浮かんでいる。
「ディックは使える?」
俺は、思わずその質問を口にしていた。もし、この頼もしい案内人が魔術を使えるのなら、きっと心強い味方になるに違いない。
「いーや、俺は使えないな」
ディックは、少し寂しそうな表情を浮かべながら答えた。その表情に、俺は何か複雑なものを感じた。
「へー、使える人ってどんな人?」
俺は、できるだけ自然に聞こえるよう心がけながら質問を続けた。この世界のことを知れば知るほど、俺の中の好奇心は膨らんでいく。
「生まれつきマナっていうのを持っている人だよ、こればっかりは才能さ」
ディックはそう答えたが、その表情には少し寂しげな影が差していた。どうやら、魔術が使えないことに、少なからぬコンプレックスを感じているようだ。
(それにしても、この世界は魔術もあるのか)
俺は内心で感嘆した。ファンタジー小説で読んだような世界が、目の前に広がっている。是非一度魔術師とやらにお目にかかりたいところだ。その思いが、俺の中で膨らんでいく。
しかし、そんな夢想に浸っている場合ではなかった。現実の世界は、ファンタジーのように甘くはない。それは、この異世界でも同じようだ。
路地裏から、騒々しい声が聞こえてきた。俺とディックは、思わずその方向を見た。そこには、女性が不良三人に絡まれている光景が広がっていた。
(どこの世界でも、同じような連中はいるんだな)
俺は、少し冷めた目で状況を観察した。しかし、すぐに不安が胸をよぎる。
(待てよ、これってまた前みたいにボコボコにされるパターンか?)
先ほどまでの異世界への興奮が一気に冷め、現実の危険を感じ取った俺は、本能的に身構えた。
(それは嫌だな、早く逃げよう)
そう思って、逃げるように歩き出そうとした瞬間、ディックの強い手が俺の腕を掴んだ。
「おい、待てよ!」
ディックの声には、今までにない厳しさが込められていた。
「なんだよ?」
俺は少し苛立ちを込めて返事をした。せっかく危険を避けようとしているのに、なぜ止めるのか理解できなかった。
「お前、あの不良に絡まれてるお姉ちゃん見捨てるのか?」
ディックが真剣な表情で俺に問いかけてくる。その目には、怒りと失望が混ざっているように見えた。
(ヤバい、思ったよりこいつ偽善者だった)
俺は内心で呟いた。正義感の強い人間は、往々にして周りを巻き込んでトラブルを大きくする。それは、この異世界でも変わらないだろう。
(これはめんどくさい説教始まりそうだな)
その予感と共に、俺の中で反発心が膨らんでいく。その前にこっちから反論しないと、と俺は決意した。
「ああ、そうだよ!見捨てるよ!それの何が悪い?所詮、赤の他人じゃねーか!あんな姉ちゃん助けたって何もいいことねーよ!こっちが怪我するだけじゃねーか!」
俺の言葉は、予想以上に激しく、攻撃的なものになった。それは、単に現在の状況に対する反発だけでなく、これまでの人生で積み重なった不信感や怒りが一気に噴出したかのようだった。
「何もいいことがないだと!?」
ディックが俺に問い詰めてくる。その声には、怒りよりもむしろ驚きが含まれているように聞こえた。
(ヤバい、怒らせちゃったかな)
一瞬の後悔が頭をよぎったが、俺はすぐにそれを振り払った。
(でも、今更引けないしなー)
「ああ、ねーよ、あんな女救ってどうするんだよ?」
俺は、開き直ったように言い返した。しかし、ディックの反応は予想外のものだった。
「あんなにスタイルいいのに!?」
「は?」
俺は思わず声を上げた。今までと同じテンションで、まったく文脈の合わないことを言い出したディックに、俺は困惑した。
「あんなに美人なのに!?」
ディックは、まるで当然のことを言っているかのように続けた。
「どういう意味だよ?」
俺は、怒りと混乱が入り混じった声で尋ねた。
「お前、あれが美人だと思わないのか?もしかしてブス専なのか?」
ディックの言葉に、俺はますます混乱した。なぜ、人を助けるかどうかの判断に、相手の容姿が関係するのか。それは、俺の価値観とは大きくかけ離れていた。
「いや、美人だと思うけど...ってそれが何の関係があるんだよ!」
俺は思わず声を荒げた。この会話の方向性に、どこか違和感を覚えていた。
「今助ければ俺ら命の恩人だぜ!一押しすれば一発ヤれるかもだぜ!」
ディックは爽やかな笑顔で叫んだ。その表情は、まるで素晴らしいアイデアを思いついたかのようだった。しかし、その言葉の内容は、俺の倫理観を根底から覆すものだった。
(笑顔は爽やかだが、言っていることが最低すぎるだろ)
俺は心の中で呟いた。この異世界の価値観の違いに、戸惑いを隠せない。
「じゃあ、なんだ?あのお姉さんが美人だから助けるってことか?」
俺は、最後の確認のためにそう尋ねた。その答えによっては、このディックという男の人間性を完全に見限るつもりだった。
「当たり前だろ!ブスや野郎だったら絶対に助けねーよ!」
ディックの答えは、予想通りであり、かつ予想以上だった。その言葉に、俺は言葉を失った。
(俺も人のこと言えねーけど、こいつマジで屑だ)
そう思いつつも、俺は複雑な心境だった。確かに、ディックの動機は純粋なものではない。しかし、結果として彼は困っている人を助けようとしている。
(だが、理由はともかく助けようという態度は立派だということにしておこう)
俺は自分に言い聞かせた。
(うん、きっと立派なのだろう)
そう思いながらも、俺の心の中では葛藤が渦巻いていた。この異世界で生きていくためには、こういった価値観の違いにも適応していく必要があるのだろうか。それとも、自分の信念を貫き通すべきなのか。
問題は、どうやって助けるかだ。相手は3人。人数では明らかに不利だ。
(自分が囮になって彼女を逃がす方法もあるが、それじゃあディックの目的は果たせないだろうしな)
俺は冷静に状況を分析しようとした。しかし、その思考は次の瞬間に中断された。
(さて、ディックとやらのお手並み拝見だぜ)
そう思った瞬間、ディックの行動は俺の予想を遥かに超えるものだった。彼はいきなり、絡まれている女性の前に立ちはだかったのだ。
「おいおい、いい歳した男どもが少女に何してるんだ?」
ディックの声には、先ほどまでの軽さは微塵も感じられなかった。それは、まるで別人のような、威厳のある声だった。
(馬鹿じゃねーの?)
俺は心の中で叫んだ。
(相手は三人いるんだぞ。正面から戦って勝てるわけねーじゃねーか!)
しかし、ディックの姿勢に迷いは見られなかった。彼は毅然とした態度で、不良たちと向き合っている。
「ねーちゃん、怪我はないかい?」
ディックは、背後の女性に優しく声をかけた。
「はい、大丈夫です」
女性の声は震えていたが、それでも強がろうとしているのが伝わってきた。
「早くあっちに逃げな!」
ディックは俺の方を指さし、女性に逃げるよう指示した。その瞬間、俺は複雑な感情に襲われた。一方では、自分が逃げ道として指示されたことへの安堵感。他方では、この状況に巻き込まれることへの不安。
(おいおい、逃げちまったら一発ヤれないんじゃねーの?)
そんな皮肉な思いが頭をよぎる。そして、その思いは的中した。俺がそう思っていると、ディックも同じことに気づいたようだ。
彼は突然、悔し泣きを始めた。その姿は、先ほどまでの毅然とした態度とは正反対のものだった。
(あいつもしかして本当に馬鹿なのか?)
俺は呆れながらも、どこか滑稽さを感じずにはいられなかった。この異世界の「ヒーロー」は、こんなにも人間臭いのだろうか。
不良たちも、この突然の展開に戸惑っているようだった。
「おいおい、兄ちゃん何泣いてるんだ?」
「そうだぜ、あのねーちゃん逃がして泣きたいのはこっちだぜ!」
彼らの声には、怒りよりも困惑の色が強かった。
「うるせえ、こっちはなー、せっかくのチャンス逃してイライラしてるんだよ!」
ディックは、突如として怒りを爆発させた。その様子に、不良たちも、俺も、そして助けられるはずだった女性も、皆が唖然とした。
(いや、それはお前が悪いだけなんだけどな)
俺は心の中で突っ込みを入れた。しかし、状況はますます混沌としていく。
「なにキレてるんだ!俺らのこと舐めてるのか!」
「ボコボコにしてやろうか、あ!?」
不良たちの声が荒々しくなる。
(あーあ、不良がキレ始めちゃった。どうするんだこれ?)
俺は、もはや傍観者の立場に徹することを決意した。
(俺は知らないぞー、逃げる準備だけしとくか)
そう思って、俺は少しずつ後ずさりを始めた。しかし、その時だった。
「ふん、お前らごときが俺をボコボコにするとか無理に決まってるじゃん」
ディックの声が、再び変化した。先ほどまでの泣き言や怒りは影を潜め、代わりに現れたのは、底知れぬ自信に満ちた声だった。
不敵な笑みを浮かべながら、ディックは不良たちを挑発するように見つめている。
(何か秘策があるのか)
俺は、思わずその場に釘付けになった。
(頼むぜディック。酒場まではなるべくお前と行動したいからよ!)
しかし、同時に俺の本能が警告を発していた。
(でも、巻き添えだけはごめんだ、一人でなんとかしてくれよ)
その瞬間、不良たちの方から動きが始まった。
「おもしれー、やってやろうじゃねーか!」
彼らの声には、もはや理性の欠片も感じられない。ただ純粋な暴力への欲求だけが、そこにはあった。
不良が三人がかりでディックに襲い掛かる。その動きは、まるで獣のようだった。しかし、ディックの動きはそれ以上だった。
不良の一人がディックの顔面めがけて殴り掛かる。その拳は、確実に当たるはずだった。しかし、次の瞬間、俺の目を疑うような光景が広がった。
ディックは、まるで予測していたかのように、軽々とその攻撃をかわした。腰を下げ、相手の動きを読み切ったかのような動作で。そして、避けると同時に、カウンタークロスを相手に浴びせた。
その一撃で、不良の一人が吹っ飛んだ。まるで、映画のアクションシーンのような光景だった。
残りの二人は、その光景に一瞬ひるんだ。その隙を、ディックは見逃さなかった。
まるで、踊るように滑らかな動きで、ディックは次の攻撃に移った。一人の顔面に鮮やかな蹴りを入れ、もう一人には正確な腹パンを決めた。
その動きは、あまりにも速く、正確だった。不良たちには、避ける隙など微塵もなかった。
3秒もしない間に、不良三人は意識を失い、そこらへんに転がっていた。まるで、人形のように。
「ざっとこんなもんよ!」
ディックは、まるで当然のことをしたかのように、得意げな顔でこちらを見た。
俺は、言葉を失った。
何か秘策があるのかと思っていた。だが、違った。この男は、ただ単純に強かったのだ。
(恐らく日本で言えば格闘技の大会で優勝できるレベル。いや、それ以上かもしれない)
俺の目では、あいつの動きの速さを正確には捉えられなかった。不良とディックでは、まさに天と地の差があった。
(そりゃあ、余裕なはずだ)
ディックの驚異的な戦いぶりに、俺の頭の中は混乱の渦に巻き込まれていた。あまりの光景に、現実感すら失いかけている。そんな中、ふと隣から声が聞こえてきた。
「あの人強いんだ、ふーん」
その声に、俺は思わず振り向いた。そこには、先ほどまで不良に襲われていたはずの女性が立っていた。彼女の表情には、驚きと安堵、そして何か測り難い感情が混ざり合っていた。
長い黒髪が夜風になびき、街灯の淡い光を受けて綺麗に輝いている。その姿は、まるで幻想的な絵画から抜け出してきたかのようだった。しかし、その存在自体が、俺の中に大きな衝撃を与えた。
(逃げたと思っていたのに)
俺は、自分の状況判断の甘さに愕然とした。目の前で繰り広げられた壮絶な戦いの間、彼女がずっとここにいたなんて。それどころか、彼女の存在自体を完全に忘れ去っていたのだ。
彼女の目は、まだディックの方を見つめたままだった。その瞳には複雑な色が浮かんでいる。それは、単なる「助けられた女性」の目ではなかった。何か別の、もっと深い何かを感じさせる眼差しだった。
冷静に考えれば、これほどの騒動の中で、か弱そうな女性が堂々としていられるはずがない。それなのに、彼女は髪を乱すこともなく、服装も乱れていない。まるで、最初からここに佇んでいたかのように。
(なぜ気づかなかったんだ?)
自分の不注意さに歯痒さを感じつつ、同時に不可思議な感覚に襲われる。この女性の存在が、何か重要な意味を持っているような。そんな直感が、俺の心の奥底で鳴り響いていた。