2.異世界へ
「私、陸人のお嫁さんになってあげるわ!」
その声が、無限の闇の中から響いてきた。柔らかく、優しい声。懐かしさと共に、胸が締め付けられるような感覚。まるで、長い間忘れていた故郷の匂いを突然嗅いだかのような、そんな感覚だった。
目を開けると、そこには百合姉ちゃんがいた。6歳の頃の姿のまま、無邪気な笑顔を浮かべている。桜色のワンピース姿で、髪には小さな花の髪飾り。その姿は、まるで古びた写真から抜け出してきたかのようだ。しかし、その表情は生き生きとしており、目は輝いていた。
「なんで...」
言葉が喉から漏れる。混乱した俺は、自分の身体を見下ろした。小さな手、短い足。俺の身体も5歳の頃のままだった。指を動かすと、しっかりと動く。皮膚の感触、空気の温度、全てが現実そのものだった。
周りを見回すと、そこは懐かしい公園だった。木々の間から差し込む陽光は柔らかく、頬を優しく撫でる。砂場からは懐かしい匂いが漂ってきて、遠くでは小鳥がさえずっている。ブランコがかすかに軋む音、遠くで遊ぶ子供たちの声。全てが鮮明で、しかし同時に夢のように儚い。
(もしかして、タイムスリップってやつか?)
そんな荒唐無稽な考えが頭をよぎる。SF映画でよく見るような、過去へのタイムトラベル。しかし、すぐにそれを否定した。
(いや、ただの夢だろ。タイムスリップなんてありえない)
現実味を帯びすぎた夢。それが今の状況だ。しかし、夢だと分かっていても、目の前の光景は痛いほど鮮やかで、心を揺さぶる。まるで、失われた時間を取り戻そうとするかのように、記憶が鮮明に蘇ってくる。
あの日々。無邪気に遊び、笑い、時には喧嘩もした日々。百合姉ちゃんと過ごした、かけがえのない時間。それらが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「陸人は私のこと好き?」
百合姉ちゃんの問いかけに、13年前の記憶が蘇る。同じ質問、同じ表情。あの時と同じように、胸がキュッと締め付けられる。時が止まったかのような感覚。
(大嫌いだって言ってやりたい)
そう思った。これから裏切る奴なんだ。俺が傷ついたように、こいつも傷つけてやりたい。夢くらい、俺の思い通りになってもいいじゃないか。これまでの苦しみ、孤独、怒り。全てをぶつけてやりたい衝動に駆られる。
しかし、口から出た言葉は違った。
「大好きだよ、百合姉ちゃん。これからもずっと一緒にいて欲しい」
その言葉を発した瞬間、自分でも驚いた。大嫌いだなんて言えなかった。これから話しかけるなって言われると分かっていても。夢だと分かっていても。女なんか大嫌いでも。
目の前の百合姉ちゃんだけは悲しませちゃいけない。そう思った瞬間、俺の中の何かが崩れ落ちる感覚があった。長年築き上げてきた壁が、音を立てて崩れていくような。硬く凍りついていた心が、少しずつ溶けていくような感覚。
(なんで俺、こんなこと言ってるんだ?)
自問自答する。しかし、その答えは見つからない。ただ、胸の奥で何かが熱くなるのを感じた。
百合姉ちゃんも喜んでくれたかな、そう思って顔を見る。笑顔で応えてくれることを期待して。しかし、そこにあったのは予想外の表情だった。
百合姉ちゃんの顔には、悲しみの影が落ちていた。その大きな瞳に、涙が光っているように見えた。俺の言葉を聞いて喜ぶどころか、何か重大な決意をしたかのような表情だ。
「ありがとう、その言葉だけで嬉しい。でも、私なんて好きにならない方がいいの」
百合姉ちゃんが涙をこらえ、そう答える。その声には、子供らしからぬ重みがあった。まるで、未来から来た大人の百合姉ちゃんが、幼い姿を借りて語っているかのようだ。
「どうして...?」
俺は思わず聞き返した。夢の中とはいえ、この展開は予想外だった。百合姉ちゃんは俺の問いに直接答えず、代わりに静かに続けた。
「たとえ、私がいなくなっても、あなたは自分らしく生きて欲しいわ。今みたいに、女の子に優しい、素敵な陸人でいてね!」
その言葉を聞いた瞬間、13年前の記憶が鮮明によみがえった。そう、百合姉ちゃんは13年前も同じことを、同じ表情で言ったのだ。当時の俺には、その言葉の意味が理解できなかった。しかし今、大人になった俺には、その言葉の重みが痛いほど分かる。
「百合姉ちゃん、君はどこかに行っちゃうの?」
俺は必死に聞いた。しかし、百合姉ちゃんはただ微笑むだけで、答えはなかった。
その後、話題は変わった。二人でRPGをして遊んだ。懐かしいファミコンのコントローラーを握り、画面に映る8ビットのキャラクターを操作する。その遊びに夢中になり、さっきまでの深刻な会話はどこかに消えてしまったかのようだった。
しかし、遊びの合間に、ふと百合姉ちゃんの横顔を見ると、どこか寂しそうな表情が浮かんでいるのが見えた。俺は何も言えず、ただゲームを続けた。
その遊びに霧中になってしまった俺は、あのやり取りの重要性を忘れてしまっていた。だって、百合姉ちゃんがいなくなるなんて有り得ないと思っていたから。しかし現実は、俺の思い通りにはならなかった。
その半年後、百合姉ちゃんは小学校に入学し、俺と絶縁した。突然の出来事に、幼い俺は何が起こったのか理解できなかった。そして、その一年後、俺も同じ小学校に入学した。しかし、そこにはもう百合姉ちゃんの姿はなかった。
転校したのだろうか。でも、なぜ俺に何も言わずに?流石に絶縁から一年たって、泣きわめくことはなかったが、それでも転校することくらい俺に伝えてほしかった。そう思うと、今でも胸が痛む。
「はあ...」
深いため息が漏れる。百合姉ちゃんのことを思い出すと、今でも軽く落ち込んでしまう。あの時の傷は、完全には癒えていないのかもしれない。
(でも、どうして今更こんな夢を見てるんだろう?)
そう思った瞬間、景色が変わった。公園の風景が溶けるように消え、代わりに見慣れた教室の風景が現れる。俺の姿も、今の18歳の姿に戻っていた。
机に向かい、まだ終わっていない宿題を必死にこなしている自分がいる。周りでは、クラスメイトたちが談笑している。
「秋吉、佐々木と付き合ってるんだって?」
「ああ、付き合ってるよ!」
その会話が耳に入る。秋吉と同じクラス...ということは、これは高校2年生の頃の光景か。夢の中で、さらに過去の記憶を追体験しているようだ。
(こんなことを今さら夢で思い出して、どうしたっていうんだ...)
そう思いながらも、俺は嫌な予感がした。この後に、耳にしたくない会話が続くことを、どこかで覚えていたから。
教室の空気が、俺の予感を裏付けるかのように重くなっていく。窓から差し込む午後の陽光が、不自然なほど鮮やかだ。まるで、これから起こる出来事を強調するかのように。
「お前もう佐々木とヤッたの?」
その言葉が、教室に響き渡る。周りの空気が一瞬凍りついたかのように感じた。俺は思わず顔を上げ、声の主を探す。
「ああ、したぜ!茜は胸大きいし、ヤッてて楽しいね!」
秋吉の声だ。その声には、自慢げな調子が混じっている。俺は思わず顔をしかめた。こんな私的な話を、公の場で堂々とするなんて。
しかし、クラスメイトたちの反応は俺の予想とは違った。
「いいなー、俺もあんな彼女欲しーよ!」
「マジかよ、秋吉!詳しく聞かせろよ!」
興奮した声が、あちこちから上がる。まるで、スポーツの試合結果でも聞いているかのような軽さだ。
「最高だぜ。俺が色々教えてあげて、今じゃあんなことやこんなこともしてくれる!」
秋吉の声が、さらに高揚していく。その言葉の一つ一つが、俺の耳に突き刺さる。
「うわー、想像できない!教室じゃ澄ました顔してるのにな!」
「いやー、愛の力は偉大ってことだよ!」
クラスメイトたちの声が、教室中に響き渡る。その声は、俺には遠くて近い。physically close, but emotionally distantという言葉が、ふと頭をよぎる。
「なるほどね、俺は真理子で我慢しとくわ」
「真理子ちゃんだって十分可愛いだろ!」
会話は続く。まるで、人間の尊厳なんて存在しないかのように。
吐き気がした。
かつて自分が少し気になっていた女、佐々木茜。クラスで一番の美人で、成績も優秀。誰もが憧れる存在だった。そんな彼女が、今こうして男たちの欲望の対象として語られている。
別に好きじゃなかった。そう、俺は佐々木のことを本当に好きだったわけじゃない。でも、自分の同級生がこんな風に語られているのを聞くのは、ショックだった。
人は成長するたびにこうやって汚れていくのだと感じた。純粋だった心が、少しずつ濁っていく。そして最後には、こんな下品な会話を平然とできるようになる。
(大学なんかもっと酷いんだろうな)
そう思うと、絶望的な気分になった。これが大人になるということなのか。これが、俺が目指すべき姿なのか。
そう考えていると、突然強い違和感に襲われた。
(でも、本当になんでこんな夢を見ているんだろう?)
そもそも、俺は何をしていたんだ?なぜこんな過去の記憶を、こんなにリアルに追体験しているんだ?
そう思った瞬間、眩いほどの光が差し込んでくる。
目が覚めた。
俺はベッドで横になっていた。天井を見上げると、見知らぬ模様が目に入る。頭がズキズキと痛み、体中が鈍痛を訴えている。
(そうだ、全てを思い出した)
記憶が徐々に戻ってくる。卒業式後、不良にボコボコにされて気絶したんだ。そして、今まで気絶している間に、あの奇妙な夢を見ていたわけか。
ただ、それだけのことだったみたいだ。しかし、夢の中で感じた感情は、まだ鮮明に残っている。百合姉ちゃんとの別れ、クラスメイトたちの下品な会話。それらが、現実と夢の境界を曖昧にしている。
ベッドで寝ているということは、誰かが気絶した俺を看病してくれたのだろう。有り難いことだ。見知らぬ人の善意に、少し心が温かくなる。
しかし、すぐに現実的な心配が頭をよぎる。
(でも、お金とか取られるかな?)
善意を疑うのは良くないが、世の中そう甘くはない。用心に越したことはない。
(てか、俺の荷物は?)
急に不安になり、周りを見回す。俺の持っていたバッグは見当たらない。しかし、ポケットを確認すると、財布とスマートフォンは無事だった。財布の中身も、抜かれた形跡はない。
少し安心したものの、まだ疑問は残る。
(この部屋は誰の部屋だろう?)
辺りを見渡すと、とても質素な部屋だ。というより、どこか旅館の部屋のようだ。ベッドに机、そして奥には洗面所や風呂があるようだ。
耳を澄ますと、シャワーの音が聞こえてくる。おそらく、この部屋の主が入っているのだろう。
突然、シャワーの音が止まった。
緊張が走る。これから、この謎の恩人と対面することになる。感謝の言葉を述べなければ。しかし同時に、警戒心も忘れてはいけない。
しばらくすると、ドアが開き、腰にバスタオルを巻いた男が現れた。
金髪に青い目をした青年だ。上半身の裸を見る限り、かなり鍛えてある。それでいて痩せ型の体型を保っている。一瞬、目を疑う。
(日本人じゃないよな?外国人の部屋にお世話になったのか?)
そんな疑問が頭をよぎる中、青年が口を開いた。
「オッス!目覚めたか?」
予想外の日本語に、さらに混乱が増す。
「はい、助けていただきありがとうございます!」
俺は慌てて返事をした。言葉は日本語だが、その発音は完璧すぎて違和感がある。まるで、ネイティブ以上の日本語だ。
(だとすると、ハーフなのかな?いや、それにしては...)
青年の容姿は、完全な外国人そのものだ。ハーフにしては、日本人の特徴が一切見られない。頭の中で様々な可能性を巡らせていると、青年が再び口を開いた。
「ここからシャワーの音聞こえただろ?」
「はい、聞こえましたけど」
俺は素直に答えた。しかし、青年の表情に妙な笑みが浮かぶ。
「俺が風呂場から出てきてガッカリしたな?」
青年はニヤニヤしながら、意味深な質問を投げかけてきた。その目には、からかうような光が宿っている。質問の意図が分からず、俺は困惑した表情を浮かべる。
「いやー、女じゃなくて残念だったな!」
「いや、別に残念でもないですけど」
俺は思わず否定の言葉を口にした。しかし、青年は更に畳みかけるように言葉を続ける。
「嘘つけ、女の裸期待しただろ!」
(なんだ、そんなことか)
ようやく青年の意図を理解し、俺は内心で溜息をついた。下らない冗談を言う人だな、と思いつつも、この人のおかげで命拾いしたのは事実だ。だから、あからさまな不快感は示さないよう心がけた。
「まあ、そんなことよりだ!」
俺の反応が予想外だったのか、青年は話題を変えてきた。その素早い転換に、俺は少し驚いた。
(意外と空気は読める人みたいだな)
「お前、ボロボロで倒れてたけど大丈夫か?」
突然、青年の口調が真剣になる。その目には、本当の心配の色が浮かんでいた。
「はい、少し不良に絡まれてしまって」
俺は簡潔に状況を説明した。しかし、青年の反応は予想外のものだった。
「フリョウ?ふーん、そんな厄介な魔物がいるのか?」
青年の言葉に、俺は耳を疑った。魔物?何を言っているんだ、この人は?もしかして、これもジョークの一種なのか?
「魔物なんているわけないじゃないですか!」
俺は半ば呆れた様子で否定したが、青年の表情は真剣そのものだった。
「何言ってるんだ?この街一歩出たら、そこらへんにいるじゃないか」
青年の言葉に、俺の中で違和感が増幅していく。この会話の違和感、この部屋の雰囲気、そして何より、この状況全体が持つ非現実性。
「え?」
言葉にならない疑問が漏れる。青年は、まるで当たり前のことを言うかのように続けた。
「とにかく、もう一人で街を出るのはやめとくことだな」
青年の言葉に、俺の中で何かが切り替わった。これは単なる冗談ではない。どうやら、この人は本気で言っているようだ。そして、もしそうだとすれば...
「すみません、ここってどこだか教えてもらってもいいですか?」
俺は恐る恐る尋ねた。その答えによっては、自分の置かれている状況が劇的に変わる可能性があることを、直感的に感じていた。
「アークシティだな」
青年はあっさりと答えた。その名前に見覚えはない。日本にそんな名前の街があっただろうか。
「国の名前って分かります?」
更に踏み込んで聞く。青年は少し不思議そうな顔をして答えた。
「お前、そんなことも忘れちまったのか。ユニオン帝国だよ!」
その瞬間、俺の中で全てのピースが繋がった。アークシティ、ユニオン帝国、魔物...。これらの言葉が意味するものは一つしかない。
(なるほど、間違いない)
ユニオン帝国なんて国は、世界のどこにもない。それに、海外に行ってしまったのなら、日本語が通じるのもおかしい。そもそも、海外でも魔物なんていないだろう。
全ての疑問、全ての違和感が、一つの結論に収束していく。俺の頭の中で、現実世界の常識と目の前の状況が激しくぶつかり合う。そして、ついに一つの答えにたどり着いた。
(俺は異世界に飛ばされてしまったらしい)
その結論に至った瞬間、俺の世界観が大きく揺らいだ。これから先、自分がどんな運命を辿ることになるのか、想像もつかない。しかし、一つだけ確かなことがある。
俺の人生は、今この瞬間から、大きく変わろうとしているのだ。