嵐の前の
時は前祥一千八百年、後の諡に恭景と号す皇帝の御代。
もとは天庭より、凡界––––––––ここ、地上へと遣わされし天仙を祖とする祥の国からも、仙の気配が薄れて久しく、ただ、人々の中に異なる色彩を持つ者に、わずかに神代の名残を見るのみとなっている、その時代。
さあさあ、皆様お立ち会い。ご用とお急ぎでなければよってらっしゃいみてらっしゃい。ただ今より語られますは、かの偉大なる古代の賢帝と、その麗しき皇妃の出会いの物語。巷に流れる伝説のあれやこれなんてのは嘘っぱち。これこそ本家本元、あんまり外聞悪いってんで秘された、ほんとのところ。じっくりたっぷり聞いてきな。
いいかい。それじゃあ始めるよ。––––––––さあ、まずは、始まりのその前のこと。
空が燃えている。
祥国首都、天瑶。黒曜殿。名が示す様に柱から、小さな床石の一片まで全てが漆黒に染め上げられている、皇族のごく身内の祭事に用いられるこの建物は、皇宮たる瑶樹宮の内廷においても一際奥まった一角にある。
日はすでに地平線から顔を出し始め、東の空を白藍から露草色、そして濃い橙に染め上げていた。
その燃える様な光が降り注ぐ、艶やかな黒い瓦葺きが施された寄棟造の屋根上に、あるはずのない小さな人影があった。上等の青絹と見受けられる寝衣の上下に、腕も通さず黒の氅衣を羽織り、横に長い方形の屋根の中央、一番高い位置を横一線に走る、瓦の葺された正脊の上に無造作に片足を立てて腰掛けている。
歳の頃は十代半ばから二十代前半か。
少年から青年への過渡期も終わりに迫り、今まさに成熟せんとする男子である。やや細面ながら、きりっと引き締まった顔。意志の強そうな眉の下には切れ長の目。
その涼しげな目元を覗き込めば、黒と灰が、水と油を混ぜたように混じり混じらず散った虹彩がみてとれるだろう。精悍な中に僅かな幼さを残した、女人に騒がれていることが想像に難くない容貌である。
と、物憂げに日の出を見つめる青年の脇に、今ひとつの気配が降り立った。一見、屋根に同化してしまいそうな、漆黒の直裾に黒の帯を締めている。片膝を付き、頭を垂れたその男は、さながら影のようであった。
「主人」
影が呼ばう。
「なにか」
応えは黒灰の瞳を持つ青年から発せられた。
「ツェイに放った密偵より報告が。西方の獣に動きがございました」
「詳細を」
「主要十氏族のうち、カクン族、ギャロ族、テーラウ族の若年層にて謀反の兆しがあります。現状、最も緊迫しているのがカクン族。現族長の孫フージンを軸に既に全体の半数を取り込みました。先述の三氏族以外は、今の所様子見のようですが、先の戦の記憶があるものはもはや族長含め、年嵩の一部のみ。どの氏族も長年、先帝が強権的に抑えつけて来たこともあって、潜在的な鬱憤は貯まっています。此度のカクン族の革命が成れば堰を切った様に反祥に傾く恐れがあります」
「……西には周明が居たな。鄭嘉は戻ったか」
「はい。昨日」
返答を聞いた、主人と呼ばれた青年は、寝衣の内に縫い付けてある袋より、手の平大の竹紙と小ぶりの狼毛筆を取り出すと、毛筆の先を口に含んでから紙にさらさらと何やら書き付けていく。墨の一滴もついてない毛筆の走った跡は、当然なんの文字も形作っていない。しかし青年はそんなことを気にする素振りもなく、一通り腕を動かし、最後まで白紙のままのそれを小さく折り畳むと、額に当てて目を閉じた。
待つことしばし。
手中の紙片が明滅する燐光をまとったのを確認すると、青年はそれを影に向けて放り投げた。
「速やかに西に赴き、それを周明に渡せと鄭嘉に」
「畏まりました」
捧げ持った紙片を懐へ入れる影に、青年は首だけ振り返った。
先程は黒灰の入り交じった趣であった、彼の虹彩は、白と黒の太極両義図に変化していた。
「それだけか。何か意見は?お前のことだから私の手の動きくらい読んだだろう」
「ございません」
青年は顔を戻し、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「お前はいつもそればかりだ。まあいい。他には」
「江北省は常州に続き、湯州でも知州の汚職が発覚、江北省統 由科玄の命で、秋の人員入れ替えまで暫時、隣州の知州が役目を兼ねております。事実上、江北は朱子毅の手に落ちたものと」
「省統がすげ替えられた時から見えていた流れだが、相変わらず機と見ると行動が早いな」
青年は無感動に呟くと、未だ言うことがある、という顔をしている影に視線で続きを促す。
「天炉の見立てでは二月の内に、長雨で五山府北部が大規模な水害に見舞われるとのことです。志安、安寿の両名を既に現地に向かわせております。術でおよそひと月は保たせますが、お早い対応を。事後の報告になりましたことにつき罰はいかようにも」
「構わない。何度も言うが地仙達の差配はお前に任せている。少々予期していたものよりも早かったが、水害についての方策は既にある。明日からでも根回しをさせよう。……して、天炉は息災か?」
「はい、主人様のお蔭をもちまして。近頃は夢を視ても、身体の不調を訴えることがなくなったようでございます」
「そうか。なによりだ。長の眠りについているのは分かっていたが、このところ、顔を見ていなかったからな。分かっていると思うが、天炉は今後の計画の遂行に欠かせぬ者だ。何かあればすぐに唐化に知らせろ」
「はっ」
「そういえば、先日、羽思の国から沙螺の良い香木が届いてな。天炉が好んでいたはずだから、持っていけ。昏君の寝宮においてある」
「主人、卑小な奴婢共にそのように過分な」
「香扇、もうその出し物は飽きた。いいから持っていけ。命令だ。そろそろ刻限になるぞ。戻れ」
気付けば、太陽はもうすっかりと空にその全貌を現していた。
長ったらしい口上を主人に強引に切り上げられた影––––––––香扇は、やや逡巡したのち、主の背中に向け、いまひとつ情報を落とし、次の瞬間には音もなくその場から消え去っていた。よくよく目を凝らせば、薄ぼんやりとした影が屋根の上を飛ぶように高速で移動しているのが辛うじて分かるだろうか。
直裰や直身といった、両脚にそって腰ほどまで上衣に切れ目の入った装束に比べれば、格段に動き難いだろう、直裾をまとっての、その身のこなしは正に神業と評するに相応しいものであったが、唯一その場に居た青年は、最早見慣れたそんなものに興味はなく、立ち上がった拍子に体からずり落ちた氅衣を羽織りなおしながら、ぼんやりと香扇の置き土産について思考を巡らせていた。
お耳に入れるべきか迷ったのですが、と前置きをした上で香扇が告げたのは、ほんの一言。
『漣大師について良からぬ噂が高官を中心に徐々に広まっております』
内容も告げないということは、すぐに、まともに自分の耳にも入る程度には広まっているということ。
上は国家転覆から、下は隣りの者の夕飯の献立まで、ここ瑶樹宮に集いし文武百官の間に飛び交う流言なんてものは、本来ならば一々取り上げて、気かけるものではない。
けれど、その一つをあえて、あの《・・》香扇が拾い上げ、今こうして自分が知ったことはきっと偶然ではなく、そこに何かが確かにあるのだ。
三代に渡って我が国に仕え、皇朝の棟梁たる臣、漣耀光。
近頃とみに力をつけ、いよいよその権勢が揺るがし難くなった宰相、朱子毅が思いのままにしている朝廷において、あくまでも中立の立場を貫く数少ない清官である。
真っ白な髭を蓄えた好好爺然としたの漣耀光の姿を脳裏に描き、それに引きずられる様に記憶の底から引き出された、とある少女との思い出を、反芻する。
何かが変わっていく予感を漠然と覚えながら、青年は、その時、昏君はどうするのだろうかと、胸の内で一人つぶやいた。