第一章・九話〜邂逅〜
「マ……モ、ルーーウゥ、グゥルルルルル!! オレガ!! マモル!! ミクラモリアルネェェ!!!!」
かつて誓ってくれた私との約束を、牙を剥き涎を垂らす口から発する巨大な熊ーーいや、熊じゃない。
あれは、見た目が違ってもジルさんだ……
「アァアアアァ!!!!」
「っやめて、ジルさん!!」
数マイ離れたところにいたのに、ジルさんは恐ろしい速度で地面を駆け前足を振るった。
体毛と同じ白い爪には血管を思わせる赤黒い線が走っていて、勝手に反応し受け止めた洗礼剣とかち合った瞬間べりべりと爪から剥がれ右腕に襲いかかってきた。
「ひぅ!!」
あまりにも常識を超えた現象、そして気味の悪い光景に目を閉じてしまった私はすぐに後悔する事になった。
「っ!!!!?」
右腕と足首を同時に襲った痛みで、声を出すのさえ忘れてしまった。
激しい痛みの電流を流され筋肉が収縮するみたいに瞼を開けさせられた私は、見た。
今ではかなり昔に思える、神助という三毛猫に付けられた傷から白光の気が溢れ、自分の右腕に集まり真っ黒い輝きを放つ鎧に変化していた。
何これーーという暇もなく襲ってきた痛みの第二波に気道がヒュッと音を立てて細くなり、呼吸できず半ば無意識のうちに右腕を引くとブチブチと何かが引きちぎれる音が聞こえた。
それが何かを確かめる間もなく私の身体は洗礼剣を左手に持ち替え、バックステップでジルさんから距離を取る。
けれど意思とは関係なく動いてる身体でも疲れや恐れで縮こまった足は思うように動かせなかったみたい。
足が絡まって地面に仰向けになるように転び、やっとそこで私は呼吸をする事が出来た。
「っはぁ!! はぁ!! ーー何なの!!」
鈍色の空から降ってくる雨粒が顔を、身体を、心までも水浸しにして鈍重に変えていく。
まだ痛む右腕を持ち上げて視界に入れれば、嵌っている黒い鎧は騎士団の人が付けている籠手部分と似ていて、模様や形状が少し違うくらいであった。
「何で、こんなのが……痛っ!!」
びりっと走った痛みの先には黒い籠手があり、その表面で赤い……爪から剥がれたあの赤いものがへばり付いてのたうっていた。
「っっ!!?」
その動きに恐怖を感じた私は左手に持った洗礼剣でがむしゃらに籠手部分を斬りつけ、気が付いた時には赤いものは消えていた。
「ーーーーもう、やだよぅ」
地面にぺたりとへたり込み、項垂れる。もう周り全てを見たくなくなった。
怖い、痛い、辛い、苦しいーー前世で経験したどんな事よりも厳しい現実が巨大な熊となり、ジルさんを取り込んで現れたようだった。
ツェリオやクロゥミという敵に、身体を操った元神様に、洗礼剣で斬られたティナさんの魂に。
何より私を恐怖の眼差しで見つめてきたララさんやレマちゃんに。
私の心は押し潰されそうだった。
(……あ)
不意に、思い出したーー
『……己という無駄な事柄に固執しなければ、救えた命もあったはずだが。やはり貴様の道筋は、他者を惑わす人外の道であるな』
あの、獅子を思わせるツェリオと呼ばれた大男の言葉。
つまりこの自分の苦しみも、ララさん達の恐怖も、ジルさんやティナさんも、全部私のせいなのだろうか。
私のせいでーー私はこんなに苦しいの?
ずしゃっ、と。
巨大なものが水溜りを踏み、こっちに近づいてくる音がする。
のろのろとそちらを向けば、熊の形をしたジルさんが獣じみた唸り声を上げ悠然と歩いてきていた。
そして私の前で止まり、恐ろしい爪を携えた前足を振り上げた。
爛々と輝く金の瞳にはもう理性の輝きはなく、野生の獣が宿す獰猛な本能しか浮かんでいない。
(……なんで私は、これをジルさんと呼んだんだろう。こんな、そう、こんなーーあぁ、そうか)
いやに遅く感じる時が流れ、振り上げられた前足がスローモーションのように降ろされてくる。
(認めたくなかったんだよね、私のせいでジルさんがこんなに成っちゃったなんて。私の、旬ちゃんを救う為なら何でもするって決めたせいで、こんなーー『化物』に)
私に爪が届く寸前、見ることを拒み瞼を閉じてーーそして、確かに聞いた。
心にヒビが入った音。
ーーーー私の瞳で、黒い光が瞬いた。
(……なんだか、凄く温かい)
ヒビの入った音が聞こえたと思った瞬間閉じた視界を埋め尽くした黒い光は、ヒビ割れた隙間から私の心に侵入した。
それらは不快でなくむしろ心地の良い感覚で、全身にすべからく巡った黒い光は心を充足させ、悲観を楽観に、嘆きを輝きに変えていく。
私はさっきまでの自分と別の存在に成った事を肌で感じ、静かに瞼を開けた。
知らず口をついた言葉は、御蔵森或音がミクラモリアルネに変わった事を如実に示していたと思う。
「私はアルネーー戦巫女のミクラモリアルネ」
開けた視界に映ったのは、黒い鎧を嵌めた左腕と爪を受け止める洗礼剣。ジルさん……いや、そう呼ぶのはもうやめる。
その化物は雄叫びを上げ両の爪を振るうけど、洗礼剣で受け止め、時には『黒い翼』が弾き飛ばす。
背中にある存在感に、それが誰でもない自分のものであるのはもう気付いていた。カラスの濡れ羽を思わせる艶やかな黒い翼がばさりと羽ばたき、獣臭い息を吹き飛ばし化物の巨体にたたらを踏ませた。
軽くトンと地面を蹴ればそれだけで身体は宙に浮き、化物が指先ほどの大きさになるところで上昇をやめた。
ティナさんのものと似た局所を守る黒い鎧を身に纏い、銀の髪は長さを増して視界の端で風に揺れている。
黒い光が入り込む前では考えられないくらい感情は冷めていて、次に何をすればいいか、何をしたいのか身体が勝手に動いた。
(洗礼剣は人の魂を斬る……あの化物から感じるのは確かにジルさんの魂)
どうしてそうなったのか、解決策はあるのかーー御蔵森或音なら考えたかもしれない。
けど、もう。
天に掲げた洗礼剣は曇天を貫くほど刀身を伸ばし、掲げた腕をゆっくりと振り下ろすと音もなく地上に突き刺さった。
地上が黒に塗りつぶされる寸前、こちらを見上げていた化物はどんな顔をしていただろう。
「せめて、安らかに眠って」
それはどちらの私の言葉だったのか。
力に目覚めたこの日。
ーー私は、ジルさんとティナさんをこの手で殺した。
私の振り下ろした巨大な洗礼剣は、いわば白光の気の塊だ。
実体のない人の魂を切り裂く事は出来るけど、その他のものは傷つけられない。
化物の爪を受け止めていたのも実際は化物の纏う黒闇の気と反発し合っていただけで、化物の身体に傷は負わせられない。
……だから、地面で血みどろになって動かない大熊が死んだ理由は別にあるはずだ。
けれどその理由を見つける間もなく、ジルさんと混ぜられていたであろう大熊は砂のようにさらさらと崩れてしまった。
砂も風によって飛ばされ、残ったのは鈍色の鎧の破片と一つの皮袋。
きっとインク石や温冷石の入っているはずのそれを、感慨なく私は拾った。
遺品としてなのか利用できると思っただけなのか、それは私にも分からなかった。
「ーー様」
クスクの町の方から声が聞こえる。鷹揚にそちらを向けば、黒い翼を生やしたものが向かってきていた。
「ーーアルネ様、ようやくお会いできました。ああ、我が神よ」
「ティナ……さん」
「ええ。元の身体はそうですが私はアルネ様の天使ですよ」
髪の毛と瞳の色が私と同じ銀色になり、背中から黒い翼を生やしているけれどそれはティナさんであった。
いや、ティナさんの身体に元々いた天使……か。
「本来ならアルネ様が顕現した時に私も目覚めるよう定められていたはずでした。あのツェリオやクロゥミという者共、更にその奥にも何者かが潜んでいるのでしょう」
「その名前が出てくるって事は、ティナさんだった時の記憶があるの?」
「この奇跡の大地に関する知識と、アルネ様がいた異世界の知識、そしてティナ・リッカリートとして過ごした記憶があります。けれど私は天使でありティナ・リッカリートとは別ものですよ」
淡い微笑でたたずむ天使を見ていると、突然くらりと目眩がして身体から力が抜ける。
倒れそうになる私を「お疲れになったのでしょう」と彼女は優しく支えてくれた。
「初めて白光の気を使って心身ともに疲労が溜まったのです。私が天使として目覚めてすぐ町にも白光の気は伝播してきました。黒闇の気を残らず消滅させたのです、疲れは当然ですよ」
天使の彼女はそう言って私の握っていた皮袋を受け取り、ついと鈍色の鎧が残された方を見た。
「……こちらに飛んでくる最中、地面に倒れ伏しているマッシュ・バックワイヤーなる錬金術師を見ました。奴は所々砂状化しており、濃い黒闇の気に侵食されていたのが伺えました。黒闇の気は御印を持つもの全てに奇怪な影響を与え、身体を蝕みます。ですからきっとアルネ様の放った白光の気に心と身体が耐えられず……ジル・セントメントに何かしたのはあの者とクロゥミなる者でしょう」
そこで彼女は私から手を離し、きちんと立てる事を確認してから両手を胸の前で交差させ跪いた。
「私の目覚めが遅く大事な証言者を捕らえられなかった事、またアルネ様の手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」
「あなた、それ……」
「どうされましたか?」
淡い微笑を向けてくる彼女の目元にそっと触れると、雨とは違う暖かい水滴が指先を濡らした。
「泣いてるの?」
「私に人のような感情はないので、恐らくこの身体の反復運動のようなものだと思いますよ」
涙を流しながら微笑を続ける彼女の表情を見ながら、私は「そうよね」と一人納得した。
(ジルさん……死んじゃったもんね。悲しいよね)
魂が無くなっても記憶と身体はジルさんの死を悲しみ、涙を流させたんだろう。
ああ、けれどおかしいな。殺したのは私なのに後悔も悲しみも何も無いなんて。
黒い光ーー白光の気が心に入り込んだ時から何だか感情が薄れた気がする。
それが人が神様に成るために必要な事なんだとしたらーーうん、仕方ないよね。
旬ちゃんを助けるために神様に成るのだ、私が誰かの死を悲しめなくなってもそんな事は構わないんだから。
(あれ……でも私)
何でこんなに、旬ちゃんの事助けたいんだっけ?
「っ」
「アルネ様!!」
ぞわりと寒気が全身を舐めあげるのと、天使の彼女が私に飛びついたのは同時だった。
思うように動かせない身体が押されてぐらりと傾げ、数瞬まで頭のあった場所を凄まじい速度で何かが通り過ぎていった。
次の瞬間、今まで感じた事のないくらいの黒闇の気が噴き出し、白光の気で出来た鎧と洗礼剣を霧散させる。
(な、にっ、これ)
見えない手で押さえ込まれたように地面へ膝をつき、けれど何とか顔を上げた。
「っ、な、えーー」
だけど私の口から出たのは意味のない言葉だった。
それくらい理解の範疇を超えたものが、数マイ先の空中に浮かんでいたのだから。
「あなたが、御蔵森或音なのですね」
「あなた、だれ……?」
その、純白の翼をはためかせて空中に浮かぶ少女は。
ーー『前世の私と同じ顔をした少女』は。
感情の読み取れない声で言った。
「わたくしの名はアルネリート。あなたより何十年も先に顕現したーーこの奇跡の大地の、本当の神様です」
自分の顔で、自分ではない誰かが喋っている。それが例えようのない嫌悪感を生み出し吐き気を催させる。
金髪と金の瞳というツェリオ達と同じ特徴、純白の翼も生えていて前世の自分とは少し違うものの顔も体型も高校生だった私そのままだ。
なんで、どうしてーーグルグルと回る思考に答えなんて出るはずもなく。
思考停止に陥った私の前に降りたアルネリートという少女は、無表情のまま右手に持つものを掲げた。
「せん、れいけん……」
「そう、あなたの罪と罰を取り除き新しい生を与える洗礼剣です。まだまだわたくしの扱える白光の気は少ないですが、あなたを救う事は出来るはずなのです」
もしかして、このおどろおどろしい気配を纏った純白の洗礼剣を彼女は白光の気と言ったの?
ーー何かがおかしいと、感情の薄れた心がそれでも警鐘を鳴らす。
元ティナさんだった天使はと目を動かすと吹き飛ばされたのか遠くに転がっていて、大きく抉れた脇腹を押さえながら必死に這ってきていた。
片方だけになった翼も動かしてはいるけど距離はまだあり、その顔には初めて焦りの表情を浮かべていた。
「お逃げください!!」
必死の声は聞こえているのに、身体は思うように動かない。濃密に黒闇の気を発する、純白の洗礼剣と鎧を身に纏う姿は前世と同じ顔だとしてもーーアルネリートは神々しかった。
その姿に見惚れただただ見上げる事しかできない私に、一瞬だけアルネリートは表情を歪めた。そして何も言わず、洗礼剣を振り下ろした。
「ーーはいはーい、ちょっとゴメンね?」
そんな声が聞こえたと思ったら視界がぐるりと回転し、気づいた時にはアルネリートから離れた場所に座り込んでいた。すぐ近くには天使がいて、私の前にはーーツェリオ達と同じ鼠色のローブを羽織った小柄な女の子。
後ろから見える髪の色は暗めの茶色。
「わたくしには神様に成る責任があります。その者は……この奇跡の大地にとっての敵、なぜ邪魔をするのですかシャルミリウ?」
底冷えするようなアルネリートの声に、シャルミリウと呼ばれた少女は私と天使の手を握り、まるで悪戯小僧のように笑った。
「うんうん、怒るのは無理ないけどこの子を殺すのはいただけないなー? だって白光の気はこっちから匂ってくるんだから」
「……この純白の鎧と洗礼剣が、わたくしが白光の気を扱える確たる証です。仲間なのに裏切るのですか?」
「元から仲間じゃないからねー。自分はただ見定めてただけ、この世界に必要なのは誰なのかなって」
無表情のまま、けれど発散する黒闇の気を濃くしてアルネリートがこっちに歩いてくる。
「精霊の導くままに動いてゆくのが自分ーーシャルミリウ・ウルウだからねー。またの名を孤高の天才錬金術師バイキング!!」
「えっ」
「ふふふーん、驚いたミクラモリアルネ? 君が自分の名を知っていたのは偶然か必然か。それよりとりあえず、逃げよっかー?」
タンタンと靴を鳴らすと私達の身体は水に沈んでいくように地面に吸い込まれていく。
ツェリオやクロゥミの時と同じだーーと思い出した時にはもう顔まで地面に吸い込まれた。
周りが真っ黒な空間で水中のような浮遊感を味わいながら、意識が徐々に薄くなってくる。
「……あれを本当に白光の気と信じてるのか、疑う事すら出来ないのか、とにかくあの子もまた救われないよね」
手を握ったままポツリと呟かれた声は、バイキングと名乗った少女のものだったのか。
《……心が無くなるのが先か、神に成るのが先か……あなたはどうか、私のようにはならないで》
消え入りそうな声が頭の中に響き、だけど誰のか考える間もなく。
私の意識は、ぶつりと途切れたーー
残り一話で第一部は完となります。そちらも書き終わったら一気に載せるようにいたします。




