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星を統べる者  作者: 小糸
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少年は夢を見る

 


 こえが──聴こえる。


『それ』は様々な命の声だった。

 人だけではない。獣の咆哮も混じっている。

 しかし種族や性別の差こそあれど、彼等が自分の名をさけび、必死になにかを訴えているのは何故だかわかった。


 聲を、いっとうはじめに捕えたのはいつだったであろうか。

 今となってはもう思い出せない。

 気が付いた時にはアオイは既に彼等を認め、己の中に迎え入れていた。

 夢の中で──否、夜の中で、かもしれない。

 己が覚醒しているかどうかもわからぬほど深い、ふかい心の奥底で、アオイは彼等の聲に耳を澄ませた。

 彼等が何を言わんとしているのか見極めようとした。

 闇の中でたった一本の細い糸を探すかのように聲を求め、聲を聴き……その悲壮で苦しい響きはやがてアオイの中に水のように滴る。

 凪いでいた湖面に荒々しい雨粒が打ち付けるかのようにして、アオイの精神こころを乱していく。

 初めこそ微細であった波紋はやがて、強力な衝撃となってアオイを襲い──


 ──アオイはいつもそこで朝を迎える。


 汗をびっしょりとかき、動悸を激しく乱しながら飛び起きる一瞬、朝の光がほんの僅かだけ照らし出してくれた『彼等』の面影を脳裏に刻み付けて。


「……また、あの夢……」


 紅くあかく染まるそら。

 轟々と音を立てて奔流する真っ黒な血。

 一人の少女が泣いていた。小さな子犬が溺れていた。

 火のように燃え盛る空に、たくさんの人間がまるで塵のように飛び交い、舞い上がって。


『彼等』が死に向かっていることは明らかだ。

 しかしそれでも彼等は叫ぶ。

 文字通り命を賭して、ただ一つの名を。



 ──ソウロ、と。



 *** 


 入学式、始業式と春の校内行事が立て続けに行われ、いっとき騒々しかった高校には平生の穏やかさが戻りつつあった。

 見慣れないクラスメイトの中でまだごわごわと固い真新しい制服に身を包み、大して強い執着があるわけでもない校舎の中に突っ立っていると、まるで自分だけがすっぽりと世界から抜け落ちているかのような感覚に陥る。

 切り絵のような、ジオラマのような、あるいはいつかどこかで見た人形劇の舞台のような。

 とにかく造られた舞台の上で造られた登場人物が規則正しく動く中、自分はその他大勢の端役だからポイと指でつまんで捨てられてしまうような、そんな妙な感覚を覚えるのだ。

 大したとりえがないからこの先の人生を悲観しているとか、両親がいないから自分が誰かわからなくて苦しんでいるとか、そういう感傷とはちがう。

 ただ、強烈な違和感があるのだ。

 自分は何かを忘れているような──あるいは、忘れさせられている・・・・・・・・・ような。


 今、自分は確かに呼吸をして二本の足で立っている。

 だがアオイは、時々己の全てを疑いたくなる。


 それはたとえばアルバイトに遅刻しそうになり、急がなければとアスファルトを蹴って走り出した時だ。

 中学では陸上部だったアオイは、自分の足が速いことを知っている。どのように筋肉を使い、どのように体を傾ければどんな走りができるかという、そのシュミレーションを行うことが出来る。

 だが時々、本当に焦って無我夢中になると、目の前から景色が消えうせるほどの速度で駆けていることがある。

 はっ、と気が付くとアルバイト先の新聞屋の看板が目の前に見えていて、己の認識と肉体が見せたあまりの差異にぞっとするのだ。


 ありえない・・・・・のだ。

 この距離をこの速さで、この疲労度で、自分が駆けることなどできる筈がない。それどころか多くの人間は不可能だろうという速度で、だがアオイは確かに走ったのだ。


 そういう類のことが近頃たしかに増えている。

 はじめこそ些細だった違和感は、積み重なるにつれて巨大な不安となってアオイを責め苛んでいた。

 せめてこれで両親がいれば、幼い頃の自分がどうだったか確かめることができて、少しは不安がぬぐえたのかもしれない。

 だがアオイには両親がいなかった。

 物心ついた時には両親は既に双方の不和で離婚しており、祖父とおばに育てられた。

 おばは父の妹で、一度は結婚したが子供ができずに離縁されてしまったそうで、アオイが小学校に入る年に実家に戻ってきた。そしてその後はアオイを実の息子のように育ててくれた。

 祖父は今年で七十になるが、腰も曲がっておらず声にも張りのある、矍鑠かくしゃくとした男性だ。

 しつけに厳しく、だらしないアオイを日に何度も怒鳴り散らすので少々鬱陶しく思うこともあるが、人に対してよりも己に対してもっと厳格である祖父をアオイは誰よりも尊敬していた。


 アオイの家族は世間一般において最も多いと思われる、両親と子供という家族ではない。

 そういう意味では普通ではないのかもしれない。

 だがアオイにとってはおばこそが母で、祖父こそが父であった。

 だから何もおかしいとは思わないし、むしろアオイは家族のことが大好きであった。


 だが彼の胸に蟠る違和感は、そのような感情とは全く関係のない所で、アオイを重い鎖のようにがんじがらめにして締め付けはじめていたのであった。


 この、幸福な生活の背景に、ごく稀に生じる黒点のような違和感。

 どれだけ美しい写真でも、虫めがねで焦点に光を集めればたちまち火と煙につつまれて消えうせてしまうように、


 例えばこの今の日常が後から付け足されたフィルムなのだとしたら?

 そしてその下に、アオイの違和感の正体が映った、本当のフィルムがあるとしたら?


 ──ソウロ


 あの、聲が呼ぶ名前が。

 自分の本当の名前であるとしたら?


「んなわけあるかよ……」


 あり得ないとは思っている。

 だが彼らの聲も姿も、脳裏にこびりついて消えない。

 むしろ近頃では夢がどんどん鮮やかになって、寝ていなくても日中に白昼夢としてあらわれるほどなのだ。


 あの泣いている少女が誰なのか。

 溺れる子犬はどうすれば助けられるのか。


 アオイは近頃そればかり考えていた。



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