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明治客人奇譚

延生の少女

作者: Kesuke

残寒も残らず失せ、豊かな春の四月頃、川沿いに並んで生える三本桜のすぐ近く、一軒の長屋に龍蔵という名の偉丈夫が住んでいた。

この男、巷では割と知られた変人なのだが極々一部を除いて誰もこの男の名前を知らぬ。 何故ならばこの男、物書きとして大成するまでは、人に教える名は持たぬと、名を聞く者に吹聴して回るからである。

しかし、それで人が避けて通るかと思えばむしろ逆。 龍蔵の竹を割ったような性格はむしろ衆目の好むところで、龍蔵を知る者は愛称代わりに偉丈夫さんと呼ぶのである。


さて龍蔵、今日も話の種を探さんと長屋を後に歩き出す。 既に四月になり、長屋の前の三本桜も美しく咲き誇り、冷たき冬もどこへ行ったか、と感慨深きものを感じさせる。

ふと桜の下を見れば、木の幹に腰掛け俯く少女がいるではないか。 よくいる子供のおかっぱ頭ではなく、肩より少し下まで髪を伸ばしておる。 少し大人びた面持ちのその少女、よもやこの近所の娘などではあるまい。



どうした、お嬢ちゃん。迷子か。



呼ばれし少女、はっとした様子でこちらを窺う。目色は鳶、着物は薄紅牡丹柄、その端正な顔立ちは、歳を経れば相応の美人となろう。 その少女、龍蔵を見ると溜息一つ、 それきりそっぽを向いてしまうではないか。



お嬢ちゃん、別にお前さんを取って食おうという訳ではない。 その三本桜、今日(こんにち)近所の物書き仲間、それにたらい屋の助六達とそこで花見をするのだ。 すまねぇが、その場所を空けることはできんのかい。



 少女、龍蔵の話を聞いたか聞かずか、ゆっくり立って深々と頭を下げる。 俯いたまま、訝る龍蔵を尻目に三本桜の真ん中の幹より、さらに一つ左の幹へと移動すると、再び腰を下ろす。 いや、まさか、これで手打ちとする気ではあるまいな。 そう訝る龍蔵を少女、ちらりちらりと様子を窺う。 龍蔵、これには頭を掻き掻きどうしたものかと思案にくれる。 少しばかり考え、あれがあったと長屋に戻るや、ある物を手に取り少女の元へと再び向かう。



おい、 嬢ちゃんよ、可愛い顔して悩んでいても仕方あるまい。 こいつをやるから、俺にここに居る理由を話してみんか。



座る少女に龍蔵はずいと小袋を突き出す。 少女、首を傾げて小袋を受け取ると、不慣れな手つきで小袋の口を開く。 中にあるのは、色とりどりの金平糖であった。

甘いものをそれほど食べたことが無いのだろうか。 不安げな顔が笑顔へ変わる。

不意に晒した年相応の少女の可愛らしい笑みに、思わず龍蔵も頬が緩む。



さて、嬢ちゃん、さっきも言ったが俺に理由を話してみんか。 今は良くとも、時間が経てば親御も心配するであろう。


――ここで待てと言われ、ここが何処かも分からぬまま、座って待っているのです。



ふむ、と龍蔵、返事をする間に少女の持つ小袋から勝手に金平糖を一つ手に取ると、少女の何か言いたげな表情を尻目に金平糖を口に投げ込む。 すると、口中にて金平糖の優しき甘みが広がるのだ。



なら、今食った金平糖の礼に一緒に親御を探してやる。 その間に来りゃ、ここで待つ様大家に言っておけばいいだろうよ。



龍蔵、にっかと笑って座る少女へ手を差し出すと、少女は少しばかり戸惑いつつ、それでも恐る恐るその手を握る。 優しく、されど力強く引っ張ってやると、少女もつられて立ち上がった。

 

 ―――――――――――


少女の手を引き最初に着いたのはとある長屋の家の前、軽妙な調子で戸を叩くと、中からひょろりとした男が出てきた。 その男、寝ぼけた様子で龍蔵を見る、次いで少女と目を合わせれば、如何にも演技の如き呆れ顔を作るではないか。



おお、偉丈夫ではないですか、それにその娘、まさか苦しき生活に嫌気が差して、私に人攫いの片棒を担げと、そういうわけでございますか。


貴様阿呆か。 何処を見れば嫌がらずに共に歩いて攫われる娘がいるというのだ。 この娘は迷子だ、帰るべき場所を探しておる故、貴様も手伝え。



話を聞いたひょろり、あからさまな顰め面を作るではないか。 だがその表情、如何にも演技くさい。



ええ、嫌ですよそんなの。私になんの関係があるのですか。


貴様、粋ではないな。俺の伝手にて通りの茶屋の娘と知り合わせた借り、よもや忘れてはなかろう。


 ――それを言われては仕方なし――では、私は町の羅卒(警察)に当たります。


助かるぞ、何か分かったら先に三本桜で待っておれ、花見の準備もあるしな。



 早々にその場を去ろうとするひょろりの背中に語りかけつつ、龍蔵はふと、少女がひょろりをじっと見つめていることに気付く。



何、彼奴はあれでなかなか信頼できる男よ。 俺の友は何分暇な奴が多い。 まぁ、これも小説の種になるというものだ。


――おじさま、人攫いだったのですか。



今更それを言い出すのか、と龍蔵は思わず噴き出す。 少女は何がつぼにはまったのか、いよいよ分からんといった風情で龍蔵を見ると、龍蔵は少女の頭をわしわしと撫で、笑いを含みつつも説明してやった。



言うべき時を誤ったな。別に話が終わるまで待たんでいいぞ、聞きたいことがあったらすぐに聞け。 後な、俺は人攫いではないぞ。 あれは冗談というものだ。 ついでに言えば俺はまだおじさまでもないからな。


うう、おじさまの所為で髪の毛が滅茶苦茶です......



少女、龍蔵の遠慮なき所作で跳ねた髪の毛を抑えつつ、涙目になって龍蔵を睨む。それを見ていると、いつの間にやら多少は打ち解けてくれたかと、龍蔵は少しばかり安心したのである。


 ――――――――――――


 さて、次に来たのはとある宿、二月前までこの宿の一間は物書き達が集う憩いの場ではあったのだが、とある一件にて一間は引き払われ、今は物書き数名と話好きの宿主が玄関先にて世間話をするだけである。

 そして今日も物書き二人と宿の主人が、玄関にて茶を啜りながら話に興じているようだった。



 おうご主人、今日も物書き達から話を聞いておるのか。


 おお、お前はいつもふらふらしとんな、で、今日は何用だ。  


 なに、ちょっとした迷子探しをだな。 ご主人、この娘に心当たりは。



 主人、言われて初めて偉丈夫の後ろに隠れる少女を見つけた。しげしげと見つめる宿屋の主人と物書き達に、少女はなんとも居心地が悪い、といった様子ではあるが。

 主人は乗り出した身をすっと戻し、腕を組みつつ首を振る。



 いや、ねぇな。客でも見たことはねぇ。 だが、この辺に住んでいるというわけでもないんだろう。


 そうみてぇだな、娘に聞いてもこの場所はとんと分からんらしい。 もしやと思ってここまで来たが、外れか。


 そういや、お前の家の三本桜で、今日|九ツ半頃(午後一時)花見をやると聞いたが。

 

 おう、ご主人もどうだい、ただ、酒と食い物は持寄りだがな。


 よし。 んじゃまた花見で会おう、それまでその迷子、当たれるところは当たってみてやる。


流石ご主人。 よし俺も、そろそろそこらの通りを探してみるか。


 ――それじゃ偉丈夫殿、あっしらは他の宿を当たってみます。


 

 横から話を聞いていた物書き二人、言うや否や飛び出して走って行くではないか。 少女がきょとんと見送る中、龍蔵と主人は快活に笑う。



 あいつ等、迷子探しを口実に花見に参加するつもりじゃあるめぇな。


 いやご主人。 あの物書き達の目を見たか、ありゃ一目惚れという奴だろう。 元々頼もうとは思ってはいたが、手間が省けた。


 なるほど。 んじゃあいつ等の分の飯も作っておいてやるかねぇ。 それで三人参加としようじゃねぇか。 お前も、花見の時に労ってやれよ。


 主人も粋だねぇ。 ――さて、俺達もそろそろ行くとするか。



再び少女を連れて八百屋、蕎麦屋、銭湯、茶屋とひとしきり周りまわって訪ねてみるも、親御はおろかこの娘すら皆見たこともないという。

そもそも少女、父母の着物の柄すら分からぬらしく、物好きな八百屋の主人に何を聞かれても口篭るばかり。 その光景に、龍蔵もはてと胸に残るものを感じつつ、道中二人で歩いておった。



嬢ちゃんよ、お前さんをあそこに連れてきたのは親御なんだろ。 着物の柄はおろか、名前すら覚えてないのか。



龍蔵の問いに少女は小さく首を振るのみ。 その横顔、ことさら寂しく見えるは気のせいではあるまい。 もともとあまり笑わぬ少女のようだが、この陰気さはなかなかのものである。



私は、お父上とも、お母上ともほとんど話したことがないのです。



答えになっておらぬ。 そう思いはしても口には出せぬ。 きっとこの娘には、娘なりの理由があるのだろう。 名前すら口に出せぬ、何かを背負っているのだと。


――――そうか、野暮なことを聞いて悪かったな。


――お役に立てなくて、ごめんなさい。


まあいいさ、俺も人に名を名乗らぬしな。 それに、ちゃんと迎えにくると言ったのだろう。 なら、最後は大人しく桜の下で待てばよい。


お花見の邪魔にならないのですか。


ああ、長屋の大家にでも少し預かってもらうってのはどうだい。 一緒に花見も悪かないが、見知らぬ男衆と花見をしているなんざ、親御が見ればなんと思うか分からんだろう。


そう......ですよね。



寂しげに答える横顔は不安からか。 その胸中は龍蔵には測りかねる。



ま、悩んでても仕方なきことだ。 嬢ちゃん、一つ寄って行きたいところがあるんだがいいかい。


龍蔵の言葉に、少女は不思議そうに聞き返す。


それはどんな所ですか。


なぁに、面白いところじゃあねぇさ。



龍蔵の表情に少しばかり陰が落ちたのを、少女ははっきり感じ取る。 心配そうな少女の目に龍蔵、笑って心配すんなと再び頭をわしわしと撫でたのだった。


 ――――――――――


龍蔵達が来たところは、なんと墓地であった。 真新しい墓石の前にて龍蔵が合掌すると、それを見た少女も龍蔵の後ろにてちょこんと手を合わせる。



用とは、御墓参りだったのですか。


親友の墓よ。 俺の勘違いで死なせてしまったんだがな。



明るく答えたつもりではあったが、少女は何かを感じたか、それきり二人黙したまま、龍蔵が桶の水を墓石へとかけてやる。 と、その時、横から声を掛けてきた者がいた。



おお、偉丈夫ではございませんか。 それに本日は随分可愛らしい娘を連れておいでで。



声を掛けたのは、一月前にふらりとやってきて以来、東京に逗留しておる男であった。 男も龍蔵と意気を同じくする、名を明かさぬ男である。 話を求めて旅をすることから、仲間内では客人と呼ばれておる。

客人、龍蔵の背に隠れてこちらを窺う少女を見るや、ああ、といかにも合点がいった様子。



偉丈夫、まさかとは思いますが、人攫いをしようというのでは。


貴様までそれを言うか。 この娘は迷子のようでな、親御か家か、俺が一緒に探しているというわけだ。 ひょろりには羅卒を当たらせておる故、貴様も手伝え。



龍蔵の怒ったような言葉に客人、たまらず笑い出す。



いえ、実はそのひょろりと先程ばったり会いましてですね、見つけたら偉丈夫を手伝ってくれと頼まれ、こうして馳せ参じたわけです。 何を手伝うかと思いきや、なるほど。


ふん、ひょろりの奴、やはり気が利くではないか。 して、なぜ俺がここにいると分かったんだ。


毎日偉丈夫がこの寺を訪れているのは知っていましたから。 待っていればそのうち来るのではないかと、ここで暇を持て余しながら待っていたのですよ。


そうか、すまねぇな。


ひょろりとは、あの骨と皮の河童の如きおじさまのことですか?



少女の問いに龍蔵、客人の両人は互いに顔を見合わせた。 確かに、言われて見ればそう見えないこともない。 後ほど会った時に、ひょろりのあだ名を変えなければな。



うむ。 先程の河童男がひょろり、この目の前の男が客人じゃ。 ーー忘れておったが、俺は偉丈夫と呼ばれておる。 皆互いの名前は知らぬのでな、嬢ちゃんもそう呼ぶがいい。


――私は、小春と申します。


小春か、中々に可愛らしい名前ではないか。 よし、小春。 気に入ったぞ。 探しがてら好きな処へ連れていってやろう。



龍蔵の言に、最初は躊躇いつつも、意を決したかのように小春は龍蔵を見据える。 その頬は、若干赤く染まっているようにも見える。



私は偉丈夫さまと、皆と一緒に花見をしたいのです。


今日、俺たちがする、あの花見にか。


はい。


だが今日やるのは俺達男だけの花見だぞ。 お前にとってはつまらんかもしれぬ。 それに......



だめですか、と見上げる小春の表情を見ると、好きな処へ連れて行くと言ってしまった手前、龍蔵にはもはや拒否する事などできるわけもなし。



偉丈夫殿、私は花見の酒を調達しないと、それに、小春ちゃんの分の甘酒も、一緒に確保しておきますよ。



横から助け舟を出した客人の言で、小春の顔にぱっと笑顔が広がる。 金平糖をあげた時に見た、あの可愛らしい笑み。 龍蔵は、自分が女子供に弱いのだと、つくづく思い知らされる。



 ――客人よ、すまねぇな。 仕方ねえ、俺は小春ともう少し探してから行くからよ。


早く行きましょう。 偉丈夫さまっ。



 客人の心憎い配慮に感謝しつつ、龍蔵は小春に手を引かれ町へと駆けゆく。 それを端で見ていた人物一人、見送る客人の傍までくると、駆ける龍蔵を見やりながら語り掛ける。



 そこの御仁、あの御二人とお知り合いですかな。


 はぁ、そうですがと客人、振り返ればそこにいたのは寺の僧であった。

 

 一つ忠告しておきますが、あの娘は人ならざる者でしょう。 拙僧、徳が到らずあの娘が何者かは分かりませぬが、亡者か妖か、どちらにせよ、人が関わるのは良き結果にはなりますまい。


 いや、とてもそうは見えませんでしたが。 

 

 あの娘と一緒におられた御方、あのような方は良くも悪くも目立つもの、ご注意なされるよう。

 


 そう話したきり、僧はくるりと向きを変え念仏を唱えながら行ってしまった。 一人置かれた客人を、一陣の風が吹き抜けてゆく。


 ――――――――――

 

 結局、方方(ほうぼう手を尽くして午後二時過ぎまで探してみたものの、何一つ手掛かりなく三本桜の近くへと戻ってきてしまった。 三本桜の下では、羅卒より戻ったらしいひょろりや酒担当の客人等、忙しく花見の準備に奔走しておる。 きっと、皆刻限の限界まで小春の為に捜して廻ってくれていたのだろう。 未だに花見が始まっている様子ではなかった。

それを遠くに見つつ、龍蔵と小春は川のほとりを歩いていた。



 小春、一緒に探すと言ったのに、探しきれずにすまんな。いよいよ無理なら大家のとこに頼んで泊めてもらうしかあるまい。

 

 偉丈夫さまは、どうして小春にそこまで良くしていただけるのですか。



 小春の問いに龍蔵、顎に手を当て考えるものの、明確な答えなど出ない様で曖昧に笑う。 そういう性分だ、と一言で言うにはどうもそれだけではないらしい。



 小春、逆に聞くが、小春はこういう風にされて嫌だったか。


 いえ、嫌じゃ――ないです。 ただ、こういう風に一日を過ごすのは初めてで...

 

 俺が体現したいのはな、粋一文字を背中で語る生き様なんだ。 小春、こういうもんはな、理屈ではない。 助けたいと思ったなら、最後まで面倒見るのが粋というもんだ。


 

  言いつつ笑う龍蔵と裏腹に、小春は寂しそうに笑うのみ。 それを龍蔵、ちらと見て見ぬ振りをして、少女に何かただごとではない何かを感じ取る。 龍蔵はこの時、別れの時には小春には笑っていて欲しいと、思わずにはいられなかった。



 偉丈夫さま、花見の準備がそろそろ終わりそうです。

 

 ああ、男臭い連中ですまんな。 だがあいつらも小春がいると喜ぶだろ。


 偉丈夫さまはさっきから謝ってばかりですね。


 おう、すまん。

 


 くすくすと笑う小春。 歩く二人にひょろりが気づき、手を振りながら早く来いと合図する。

途中まで行くと、わざわざひょろりが迎えに出てきた。 ひょろりが言うには、結局、皆は小春の親を見つけられず、とのことだった。 予想はしていたものの、これで桜の下で待つことになったわけである。


二人、桜の下に着いて初めて気づいたが、御萩に餅やまんじゅうと、花見団子以外には普段は揃えぬ菓子が多い。 どうやら龍蔵以外の者は皆、最初から小春を数の内に入れていたらしい。

口に手を当て驚く小春に、男衆は皆、してやったりと得意気である。 これに関して言えば、龍蔵よりも皆の方が一枚上手であった。 兎にも角にも、こうして花見は始まったわけである。


美味い料理に舌鼓を打ち、満開の桜の下では酔った主人が踊り出す。 物書き達が、酒の力で珠玉の話を晒し出せば、いつの間にやら寝入る者も現れたり。

龍蔵も、ひょろりや客人、そして小春。 皆、確かに笑っていた。 楽しき時間が過ぎていった。

そうして、いつの間にやら既に夕暮れ深くなりつつあった。 酒の力か、春の陽気に当てられたか、いつの間にやら皆、寝入っていた。 小春と、もう一人を除いて。


小春は皆を起こさぬようにそっと静かにその場を離れ、龍蔵の長屋の裏へと廻る。



――小春、一人で長屋の裏なんぞに来てどうするつもりだ。



小春が驚き振り返ると、今しがた通ったそこには、寝ていると思われた龍蔵が立っていた。



――小春はもうお別れの時間です。 皆さまに――お世話になりましたと――――お伝えください。



小春は、泣いていた。 大粒の涙を流しつつ、必死に嗚咽を堪えておる。 龍蔵、ゆっくりと近づき、着物の袖でそっと小春を抱いてやる。 龍蔵の腹に顔を押し付け泣く小春に、龍蔵は語りかける。


理由を、教えてくれんか。



問われた小春はしゃくりあげ、途切れながらも答える。



私は、もう死んでいるのです。――ずっと寝たきりだった小春を、かみさまが一日だけ...自由にしてくれたのです。 それで、桜の下にて待つようにと......。


神の配慮であったか。 通りで、場所も、何もかも分からぬわけだ。


幸せに思ってしまったら、分かってたはずなのに、偉丈夫さまと...別れたくないのです。


小春、お前は縁、というものを信じるか。 一度触れ合った縁は、時を経て再び交わるという。 客人が、そんな話をしておった。



泣き続ける小春からは、返事はない。 それでも構わず、龍蔵は続ける。



本当に縁があるのなら、いつか時を経て互いが生まれ変わったとしても、再び出逢ったその時は俺がまた世話をしてやる。


――――偉丈夫さまと出逢えて、幸せです。



小春は龍蔵を見上げて笑った。 背中に触れた感触も、確かにそこにあったのだ。 一陣の、さりとて強い風が吹いた時、腕の内に小春の姿はなかった。 いつ消えたのかも、分からなかった。 ただ、手に残る温もりと、着物を濡らした涙だけが、そこに小春がいたことを語るのみ。



小春ちゃん、行ってしまいましたか。



後ろを見ると、寝ていた筈の客人、ひょろりが立っていた。ひょろりの奴など、いつから聞いていたのか、顔面を使い終えた塵紙のようにくしゃくしゃにして泣いておる。



なに、またいつか、逢えるだろうよ。





小春が消えて三日後、帝都東京のとある寺、一組の夫婦が、墓地の一角にて佇んでいた。


あなた、私達以外に、誰がこんなことを。


分からん。 ただ、きっとあの子も喜んでくれてるだろう。



金平糖や団子の供えられた墓石には、桜木小春と書かれておった。 死因は労咳(結核)。 当時、死病と恐れられた感染症である。

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[一言] すみません。シリーズ物だと知らなくて、こちらを先に読んでしまいました… 古典風…時代劇の様な感じを受けました。初めて読んだ作風でしたが読みやすく、するすると読み進めました。 小春には初…
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