静謐を湛える心
※石のイメージはロマサガのデステニィストーン「幻のアメジスト」の語感より着想。
サイトの方とタイトルは変更してますが、内容は同じです。
またもやタイトルと話の内容が合っていないのであしからず。
日の光も届かぬ岩屋。
剥き出しの石壁は所々が苔むし、それ自体が冷たい温度を放って中の空間を寂しく、孤独に演出しているかに見える。しかし地の床には暖かそうな絨毯が敷かれ、木製の家具が置かれており、快適に過ごせるよう住人によって整えられていた。
この場所で最も上等な場所、ここの主だけが座ることのできる、固く丈夫な揺り椅子に彼は座っていた。
眠っているかのように目を閉じ、曲線を描く椅子の底部が作る心地よい揺れに身を任せていた彼は、ある瞬間ピクリと片眉を上げる。そのまま深く黙考するように動きを止めていたが、ほどなくして目を開けると虚空へ視線を留め、深々と嘆息した。
「面倒な……」
彼はある役割を担う。そのために張り巡らせている網に、再び意識を集中した。魔術で編んだ網は担当領域をくまなく囲い、どれほど小さなモノをも漏らさず感知する。
その通常では見ることもできぬ仕掛けに、触れるモノがあった。
「これは……やれやれ」
彼は顎に蓄えた長い髭を梳くように撫でた。
かかった獲物がこれほどの格を持つモノともなれば、彼が相手をしなければならないのだろう。この義務のためにあらゆる自由が許されているとはいえ、面倒なことだった。どうせならあの生意気な若造の元へ赴けばよいのに、と本人が聞いたら「このアメジジイが!」と激怒の声が返ってきそうな、埒もないことを考えた。
こうしている間にも時は刻一刻と過ぎていく。人里にでも向かわれてはたまらない。
彼は一度、力を込めて四肢を伸ばした後にだらんと弛緩させ、居心地のよい場所を振り切るように立ち上がった。
「仕方がない。ちょっくら行ってくるか」
軽い調子で呟いて愛用の杖を手に取り、彼はその場に溶け込むように姿を消した。
乾いた風が吹く、草もまばらな荒野。
そのモノは、一つの身体に八つの頭、八つの尾を広げ、赤く不気味な眼光を周囲へ振りまいていた。腹の部分は暗い色をした血が滴っているようだが、怪我をしているわけではないのだろう。
固い鱗で覆われた長く、途轍もなく大きい身体が草原にとぐろを巻いて蠢くさまは、それ自身が一つの巨大な山であるかのようだった。少し離れた場所に佇む立ち枯れた木が、まるで山菜のように小さく見える。
「ヤマタノオロチか。こんな厄介なモノがどこから来たのか……。さてさて、どうするか」
魔物には、凶暴なモノもあれば人畜無害なモノもある。
だがどちらにしても、たいていのモノは訓練された戦士、あるいは魔術師の力で駆逐することができるものだ。しかしどうしたことか、時折常識の範囲では手に負えない、別格に位置するモノが誕生する。今、彼の目の前で異様な姿を晒している存在も、そういった類のモノだった。
しかし世の中よくしたもので、力のあるモノは規律でもあるかのように、まずは人の存在せぬ場所に現れる。それが何故かなど、考える必要はない。殺戮を始める前に、叩いてしまえばいいだけの話である。
彼は小石の目立つ地面に降り立ち、心構えのために呼吸を整えながらも軽く思案した。
すでにオロチは彼を標的に定めており、それぞれの赤い目は残酷な喜びに満ち溢れ、裂け目のような口からは先端が二股に分かれた舌がチロチロと覗いている。
己が力を振るえる相手が訪れた。そう嗤っているのだろうか。
彼が少々の嫌悪を感じた瞬間、周りの空気が緊張を孕んだ。
肌を刺す、渦のような重圧。
鋭敏に察知した彼は即座にその場から消え、次の間には中空へ現れる。
見下ろすと、先程まで彼のいた場所は、地形を大きく変容させている。水気のなかった地は巨大な手ですくい上げたかのように大きく抉れ、今までさらけ出したことのない奥深くを覗かせていた。容量分の土はいずこへ消え去ったのか、どこにも積もった様子はない。
「凄まじいことだ。ここはお伽噺に習うとするかな」
彼は感嘆と共に呟いた。同時に、手に持つ杖にはめ込まれた淡紫の宝石――アメジストが強く輝いた。眩い光が、獲物を仕留め損ない、八本の首を揺り動かして猛り狂っている大蛇をも、眩しく照らし出す。
束の間の光が収まると、彼は八人に増えていた。アメジストの力で作られた幻は、魔力も質感も実体とほとんど変わることがない。
奇妙で不可解な光景に、自身の不利を感じ取ったのだろうか。大蛇が威嚇するように八つの尾で地を揺るがせた。大気を震わせるほど太く、圧力に満ちた叫びを上げる。
――効くかそんなものが。
苛立ちと共にある種の攻撃の意図を含ませた大蛇の声は、何かの膜に遮られたように、彼らを傷つけることは叶わなかった。
彼らは涼しく宙に浮いたまま、同じ冷笑を浮かべる。――大蛇を哀れむかのように。
「さて、麗しの櫛名田比売が被害に遭う前に、とっとと片をつけようか」
全く同じ間、声、抑揚で言い放つ。
八人はそれぞれが決まり切った作業に取りかかるように、一首ずつ、オロチの頭を眠らせにかかった。そうしている間にもそれぞれの尾が彼らを叩き落とそうとするが、頭が眠りかけていてはその動きも鈍い。彼らが躱し、はじき返しながら凌いでいくと、やがて眠ってしまったのか頭も尾も完全に動かなくなった。
「ふん、呆気ないものだ」
一人がそう吐き捨て、彼らは風で作った刃でオロチの頭を切断していった。念のため、八本の尾も切り落としておく。
「やれやれ、これで終わったかな」
厄介な仕事が片づいた。そう言いたげに呟いて、泡を弾くように、本体である彼は幻を解除していった。
この時、彼は確かに油断していた。そして僅かな気の緩みは、時に取り返しのつかない事態を招き入れる。
彼があと一つの幻を消そうとした時だった。つんざくような雄叫びが耳朶を打つと共に、眼前の幻が吹き飛ばされていた。
一瞬、何が起こったのかと驚愕する。
慌ててオロチに首を巡らせ、彼は我が目を疑った。九本目の頭が彼を睨みつけていたのだ。
「変異種か!」
彼は驚嘆の宿る目で、憎しみが籠もった赤い双眸と視線を交した。
「血で汚れた腹で隠していたのだな?」
とはいえ、頭は一本しか残っていない。これも所詮は眠らせてしまえば、後はもう首を刎ねるだけである。
彼に向かって解き放たれる圧力を感じたが、頭一つ分の攻撃など、気を引き締めていれば容易に防ぐことができる。
最後の頭の始末が終わると、彼は動かぬ巨大な骸を一瞬で焼き尽くした。後には塵一つ残らない。
辺りに立ち籠めた熱も流れる風に運ばれ、やがて大気に拡散していった。
さて、問題は……。
「幻が飛ばされてしまったんじゃよ」
ありふれた居間に、生活感漂う食卓。随所に細かい傷が刻まれ、所々が黒ずんだ四人掛けの卓には、三人の男女が座っている。
一人は紅玉の髪と目を持つ、妙齢の気の強そうな美女。一人は紺碧の髪と目を持つ男。女と瓜二つの顔をしているが、表情も纏う雰囲気も柔らかく、髪と目の色を差し引いても見分けるのは容易である。
そして最後の一人は薄紫の目に同色の髪を持つ老人。
いずれも希有とされる天海の彩を備えており、当たり前の場所は平凡とは異なる光景を映し出していた。
その内の一人、女が呆れたように口を開く。
「はあ? 何やってんだよ、スケベジジイ」
女の声に容赦という響きは一切含まれていない。
「スケベジジイと呼ぶなといつも言っておろうが」
負けじと老人が反論する。
「初対面で年甲斐もなく人を口説いてくるジジイを、スケベジジイと罵って何が悪い!」
一時のことではなく、積年の鬱憤がありありと詰まった口調だった。
「あれは儂の人生で最大の汚点じゃ! 見事に騙してくれおってからに……」
老人の声音には心からの深い悔恨が窺える。
「コイツに手を出しやがったらタダじゃおかねえからな!」
そこで女が、二人のやり取りをのんびり眺めている男を指さした。
老人は女の示す先に視線を移し、それからこの愚か者は何も解っていない、というように首を振る。
「それは心配いらん。儂が好きなのはおなごの体じゃ」
キッパリとした老人の断言に、女は揺れるほど強く卓に拳を叩きつけ、勢いのままに立ち上がった。
「紛う方なきスケベジジイじゃねえか!」と向かいに座る好色翁に、事実を告げる罵声を浴びせかける。
受けて立つ! と老人も席を蹴り、女と鼻面を付き合わせた。
「やかましい! 大体、老人を敬わんか、この若造が!!」
「俺の方が年上だろうが!!」
二人を包む空気がいよいよ剣呑さを孕みだした。
その時、今まで黙っていた男がそろそろ頃合いだろうと、睨み合う女と老人をまあまあと両手を広げて宥める。穏やかに口を開いた。
「幻には分散された魂が入っているのですよね。探し出すことはできないのですか?」
和やかな声音にいつもの如く毒気を抜かれた二人は、最後とばかりに目線をぶつけ合った後、椅子を潰す勢いで腰を落とした。一連の動作を確認し、男が我が意を得たりの風情で微笑する。
休戦を果たした老人は、まるでそれが自身の心と同じというように顎のひげを丁寧に撫で、気を落ち着けた後に説明を始めた。
「探し出すことは容易じゃが、身体に戻せないんじゃよ。アメジストから一定以上の距離を離れてしまえば、幻は消えてしまうんでな。幻に入った魂でないと身体に入れることができん。魂の一部が欠けたままじゃと、身体の操作が難しくなってくるんじゃ。そうなると術を扱うにも影響が出てしまってのう……。魔力の制御も危なっかしい」
一度言葉を止めて二人を交互に見やり、それから男の方に視線を留めて老人はさらに続ける。
「そこで頼みがあるんじゃが、わしを冷凍保存してくれんかの? 機能を止めておけば身体の方は大丈夫じゃからな」
「それはお安いご用ですが……今のあなた自身、つまり本体の魂はどうするのですか?」
「身体と一緒に眠りにつく。目覚めるのは欠けた魂が帰ってきた時じゃな」
疑問も露わに首を傾げる男へ、老人はこともなげに笑って見せた。
「そんなことをして、じじいの欠けた魂の方は大丈夫なのかよ。剥き出しのままじゃねえか」
おもむろに、女が口を挟む。
憮然とした体を装いつつも、心配気な様子を隠せてはいない。男が斜め向かいの女に悟られぬよう、顔を背けて微笑む。
「魂の方は大丈夫じゃ。好きに漂っておるじゃろう。ただのう……」
何か難解な問答を頭の中で整理しているかのように言い淀む老人に、男が質問した。
「なんですか?」
「魂が本体に帰るには、誰かの身体に入り、その身体に本体を触ってもらう必要があるんじゃよ。しかし身体に入ろうとしても、魔力が反発をして入れないんじゃ」
ああ、と理解を示すため、男が頷く。
「なるほど。この世界の生き物は、動植物に至るまで必ずその身に魔力を帯びていますからね。だから変異して、魔物などというモノが現れるわけですが」
これは厄介な問題だった。男は一つの国が生まれ、滅びる様を何度も目にするほど長い時を生きてきた。しかし、魔力を保持していないものになど遭遇したことがない。下手をすれば老人は、生涯元に戻ることができないかもしれない。
表情には柔らかさを残したまま危惧を抱いたが、そんな男の心中などどこ吹く風な調子で老人は笑い飛ばす。
「まあしばらくは仕方がないな。いつかなんとかなるやもしれん。それまでは魂の好きにさせておこうと思うての」
呑気な姿勢を崩さず話す老人に呆れながらも、じたばたしてもしょうがないのは確かだった。
男は相槌を打った。
「それでは、丁度お誂え向きな洞窟に心当たりがあります。そこの湖に身体を沈め、凍らせてしまいましょう」
今から散歩にでも行きましょう、と気軽に誘うように立ち上がると、男が消える。
「……お手柔らかにの」
一転して乗り気になった男にいささかの気後れを感じながら、老人も続いて煙のように掻き消えた。
後に残った女は二人の会話に気抜けしながらも、老人を見送るために後を追った。
全てに置いていかれた無人の食卓は、今や平凡な風景を取り戻していた。