命はぐくむ水の玉
※題名と内容は全く合っていませんのであしからず
弟子が研究室へ入ると、彼女の師匠は椅子に座って足を組んでいた。片腕を机について拳を額につけるという、いかにも僕考えていますと訴えたげな体勢を見せている。
弟子は無言で近付き、師匠の好きなみどり茶が入った湯飲みを音無く机に置いた。そして彼が構ってほしがっていると分かっていながら、あえて声はかけずに退出しようとした。
そこに、淡白な弟子を呼び止めようと師匠が制止の声を上げる。
「待ちたまえ。君は敬愛する師匠が煩悶の海を、打ち寄せる波に翻弄される一枚の枯葉のように、覚束なく漂流しているにも関わらず、例えば相談に乗りましょうか? という慈悲深く恵みに満ちた言葉ひとつかけず、薄情にも置き去りにして行ってしまうのかい?」
やれやれまた始まった。煩わしげな素振りを隠しもせず、平坦な声で弟子は答えた。
「申し訳ありません。師匠の深謀遠慮なる御心の奥底は、凡愚の身である私めなどには想像することさえ憚られるほどに崇高な、侵し難い聖域の如き高みにございます。その至高的存在であらせられるお師匠様に対し、浅慮なる私が見解を申し述べるなどと畏れ多きことは、地を這う卑小な虫の如き虚弱な精神にはとうてい耐え得るものではございません」
「そ、そんな胸が張り裂けんばかりに悲しいことは言わないでくれたまえ。悲哀の膜でこの身が覆われ、慟哭の世界へ旅立つより他、手立てがなくなってしまうではないか!」
ここまで付き合って、弟子は飽きた。
「師匠、疲れました。普通に喋りましょう。師匠が思い煩っているのはいつものことではないですか。どうせ新しい魔道具のことでも考えていたのでしょう?」
「よく分かったね。さすがは我が弟子だ」
よく分かったも何もない。彼女の師匠が考えることといえば、大半が魔道具の開発についてだ。しかも一体なんの役に立つのかと首を捻りたくなるような、端的に言えば碌でもないガラクタ同然の。
いや、ただのガラクタだったらどれほどいいか。
弟子は遠い目をして室内を見渡した。この研究室も彼の趣味が高じて出来上がったもので、かつての空き部屋は、今では怪しい一室となり果てていた。
壁の一面、床から天井までを覆う書架には、どす黒いオーラが漂ってきそうな古書がビッシリと収まっている。
隙間なく詰められた本たちはそれでも入りきらず、周りの床を平積みに浸食していた。彼女が、少しは処分したらどうかと何度提案しても、「全て必要なんだ」の一点張り。知識の源泉はますます増える一方である。
その斜め向かいには、堅い木で造られた観音開きの物入れが置かれている。この中にはどのようにして扱うのか、また、なんの用途で使うのか彼女にはとんと見当もつかない道具や工具類が、満員御礼の状態だ。この道具入れは彼女が来てから用意したもので、それ以前、道具類はそこら辺りに雑魚寝状態で転がっていた。
その、腰の高さほどの道具入れを下に踏みつけて安置されているのは、間違って口にしてしまうと即座に昇天してしまいそうな、鉢植えや瓶詰めの植物たち。一度彼女が掃除をすべく瓶を持ち上げると、内側から硬い硝子ごと貫きそうな勢いで鋭い棘が攻撃してきたことがあり、危うく取り落としてしまうところだった。
あのまま瓶が割れてこの植物が解放されていたら、自分は今頃どうなっていたのかを考えると、彼女は今でも身震いする思いである。
そして今師匠が向かっている机。ここがこの部屋で最も混沌としている場所である。
いかなる代物を量るのか決して憶測したくない秤。鈍い輝きを放つその金属に、点々と彩りを添えている緑色の染みが、寒気を伴った嫌な想像を掻き立てる。
色付きの小さな硝子瓶には材料を推測したくない粉、液体、はたまた丸い小粒の薬類が数多、これだけは色別に整然と並べられていた。
他にも数種類の金属板、鉱石、木材、うねうねと動く昆虫の一部分……。引き出しにもまだまだ戦慄を呼び起こしそうな物体がわんさか入っていそうだが、彼女は幸いにも見たことがなかった。
常々師匠に机周りには近寄るなと厳命されている。彼女としては頼まれても触りたくない物ばかりなので、この言いつけには喜んで従っていた。
「前から不思議に思っていたのですが、魔道具を作る際に工具類は必要なのですか?」
「それはどういう意味なのかな?」
「師匠であれば、全ての工程を魔術で行うことができそうだと思うのですが……」
そこで彼女の師匠がやれやれ分かっていないな、と言わんばかりに両手の平を上にして腕を広げ、かぶりを振る。
それを見た弟子には苛立ちにも似た感情が芽生えたが、賢明にも抑え込んだ。
「物作りとは自らの手で成し遂げることにより、初めて完成した時の喜びを味わえるものだよ。全てを魔術で推し進める行為に何の面白味があるんだい?」
弟子は、とても師匠らしく職人魂溢れる言葉にこの上なく納得した。
「それはそうと師匠、この間まで作っていた魔道具はどうなされたのです? あの、小箱の形をした」
「ああ、あれは誰かに試してもらうために、いつものように置いてきたよ」
「――どこへ? とお訊きしてもよろしいでしょうか……?」
「ベルディア国の王城だ」
弟子が進退を賭けるが如き慎重さで恐る恐る尋ねると、師匠は解の決まっている設問に答えるような気楽さであっさり答えた。
――この、道義心が欠落した魔道具偏執狂め!
この師匠はいつもこうだ。怪しげな魔道具を開発しては、自分で実験せずに他人の身体で試そうとする。そのために、出来上がった物を不特定の場所へ、ポンと放置しておくのだ。
哀れな被験者はそうとも知らず魔道具に触れてしまい、想像を絶する事態へ否応なしに巻き込まれていく。救いといえば、魔道具の効力は長くとも三日程度で切れてしまうことか。
それが災難に遭った者への慰めになるかどうかは不明なところなのだが……。
「――あの小箱は一体どんな変事を引き起こすのですか?」
知りたくないとは思いながらも、常々妙な責任感の芽を育てている弟子は、師匠に確認を取った。
「変事とは面白いことを言うね、君は」
何が面白いというのか。
弱々しく反駁する弟子の心中を知ってか知らずか、師匠が続ける。
「何、ただ変身してしまうだけだよ。ただし、どんなモノになるかは魔道具の気分次第だがね」
「魔道具を生き物のように仰らないでください。それから、どんなモノとはどういう意味ですか、モノとは」
まるで生き物以外のことを指す師匠の言い方に、不吉な引っ掛かりを覚えた弟子は疑問をぶつけた。
いい所に目をつけた、とばかりに師匠が心持ち身を乗り出す。
「そのままの意味だよ。モノには『者』も『物』も含まれる。考えてもみたまえ。あれにベルディア王や王太子がうかうかと触れてしまい、ティーセットにでも変化したらどうなると思う? それを知らない者がお茶でも注ぎ、さらにはその最中に効力が切れてしまったら?」
弟子はその光景を、見てきたようにまざまざと想像してしまい、微妙に青ざめた顔を引き攣らせた。
視界の中では、そんな彼女の様子を心ゆくまで楽しんだ師匠が、組んだ指に顎を乗せ、ニヤリと笑う。
「実に愉快だと思わないかい?」
「……大騒ぎになるでしょうね……」
「些細で可愛いイタズラだよ」
「とても些細とは思えませんが……」
お茶を注いだ者の末路を思うと、憐れすぎて涙を誘われる。
――しかしまあ、そうはならないだろう。
弟子は、悔しさに顔を歪ませる数十秒先の師匠を確信しながら口を開いた。
「ご存知ですか? 師匠のイタズラは各国の王族に知れ渡っており、師匠の魔道具には近寄らない旨、密かに布れが出ているらしいですよ」
これには大層ショックを受けた様子の師匠が組んでいた指をはずし、ダンと強く机を叩いた。
推測通り。
弟子はいい気味だ、と師匠に悟られぬようこっそりほくそ笑んだ。
「何故だ! 何故僕の魔道具だということが分かるんだ!!」
「何故も何もないでしょう。師匠の作る魔道具には必ずアクアマリンがはめこまれているではないですか。ご自分でなさったことでしょうに」
「当然だろう。僕の魔道具は魔力の消費量が大きいからね。被験者に負担がかからぬように、アクアマリンから僕の魔力を供給しているのだよ。これでも気を使っているというわけさ。それに印を付けておかないと、その魔道具に対する賛美の声を、どこの者とも知れぬ輩が浴びてしまう可能性が出てしまうではないか」
気の使い処が間違っている。そして被験者改め被害者からは、苦情や怨詛の怒声は上がっても、褒め称えるが如き歓声は間違っても聞こえてこないだろう。
様々な意見が口を突いて出てきそうになったが、もう色々と諦めている弟子は何も言わなかった。
師匠が気を取り直した様子でのたまう。
「まあいいだろう。事情を知らぬうかつな者が、引っかかるだろうからな」
弟子はその未だ見ぬ誰かに深く同情した。
彼女は嘆息する思いで師匠を見やる。
アクアマリンで飾り立てられている腕輪をはめた、形のよい手が広い袖口から覗いている。
右を前に打ち合わせて帯で留めた服は、故郷の衣装だと以前に聞いたことがあり、その下には長い足を収めたズボンを穿いていた。肩の下まで伸びた艶やかなマリンブルーの髪を緩く一つに纏めて垂らしている、髪と同色の思慮深そうな目を携えた眉目秀麗なこの男は、黙っていれば棚に飾っておきたいほど目の保養になる。
それなのに口を開けば最後、外見から受ける印象は完膚無きまでに叩き潰されてしまうのだ。
ユヴェーレン三角の座、マルタロサ・アクアマリン。
洒落にならないほどの酷いイタズラを仕掛ける師匠ではあるが、平定者としての役割を放棄しているわけではないことを、彼女はよく知っていた。
弟子がじっと見つめていることに気付いた師匠は薄く笑い、立ち上がって彼女を優しく抱き寄せる。
「師匠……」
「名前で」
「――マース」
マースは愛しい弟子が自分の名を呼ぶ声に心地好く耳を澄まし、その響きを紡ぎ出す場所に、自らの唇をそっと落とした。