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喜びの島

※ドビュッシーの同名曲のタイトルとイメージを拝借しています。ファンの方はどうぞご勘弁を。

 あと、話の中に出てくる「シシーラ島」という名前も、実際の『喜びの島』のモデルになった『シテール島』をもじったものです。ちなみに呼び物の自然はフィヨルドっぽいものだったりします。


 ローズランドの北西、海を挟んだ向こう側にシシーラと呼ばれる島がぽっかり浮かんでいる。大陸からも目視できる距離に位置し、徒歩でも五日ほどで一巡りできる狭い島である。沿岸を流れる暖流のおかげで緯度の割には冬も過ごしやすく、一年を通して湿度が低いため、夏の保養地としても適している。

 ローズランドの一部であるシシーラ島。この地を任されている管理人は中々目先の利く傑物であり、領主のヘンリーの許可を得て、島全体を観光地として仕立て上げた。島民を雇い入れて土地を整備し、狭い島のものとは思えぬ雄大で風光明媚な自然を活かして景観を整え、設備を充実させた。

 特に、気の遠くなるような時間をかけて削られ形成された、他に類を見ない個性的な線を持つ、谷間を縫う湾の美しさは呼び物の一つで、天を突く峡谷から滑り落ちる数多の滝、その白糸を受け悠然と流れる河のせせらぎは、神の声を表すと称されている。もちろん、その眺めを俯瞰できる展望台も抜かりなく完備されている。

 結果、この島からの領地収入は年々増加し、住民の暮らしも豊かになっているということである。



「シシーラ島を訪れる人々の目的は、雄大な自然の手による造形美を心ゆくまで堪能することにもありますが、若い恋人たちの場合、是非とも押さえておきたい場所があります」


 アステルは踏み固められた農道を進みながら、隣を歩く桜に語りかけた。

 季節は夏真っ盛りである。二人はもうすぐ婚儀の日を迎える。どちらも事前の準備に慌ただしい日々を送っていたが、結婚と同時にアステルは父のヘンリーから爵位と領地を譲渡されることが決まっている。いざ式を終えると(特にアステルが)今度は事後の処理に追われてしまうのは目に見えており、まとまった時間が取れる内に二人で出掛けようということになった。

 さらには桜がまだこの地を踏んだことがなく、またシシーラ島に言い伝えられてきた昔話が自分たち、というよりは結婚を控えた男女に丁度いいと思い立ち、王都からはるばる郷里を越えて、馬車と船を乗り継ぎやってきたという次第である。

 迎える方からすれば次期領主の到来、すわ一大事とはいえこちらはお忍ということもあり、仰々しい歓待は控えさせた。

 そして翌朝。人のまばらな時間帯に赴いておこうと、夜明け前の薄暗い内から郊外の領主館を出た。二人は今、離れた場所にお付きの者と馬車を待たせ、上等の生地で出来た簡素な衣服に身を包み、開けた草地を歩いている。

 日中は汗が滲むほどに気温が高くなるが、金色の太陽が頭を覗かせ、鳥たちが朝の挨拶を交わす今の時間帯は肌寒い。遠くの方にはそびえる山々が生まれたての朝日を反射し、堂々たる偉容を誇っていた。馬車の中ではうつらうつら船を漕いでいた桜も、肺の中を満たす清涼な空気に覚醒を促されたようである。

 アステルが目的の、黒い影の塊じみた建造物に目を投げかけた時、二人の間を撫でるような冷たい風が吹き抜けた。

 身を縮こまらせる桜の肩を、薄手のショール越しに抱きながら話し続ける。


「この島の別名を知っていますか?」

「別名?」と桜が顔を見上げる。


 見当もつかない、といったあどけない表情に頬を緩めながら、アステルは答えた。


「喜びの島と言います」

「どっかで聞いたことがあるような……うゎっ!」


 喋っている間にずっと斜め上を向いていたせいか、それとも大分明るくなってきたとはいえまだ夜の名残が完全に取り払われていないせいか、桜が年頃の娘にしてはいささか艶に欠ける悲鳴を上げ、地面に足元を取られてけつまずく。アステルは素早く、自由な方の手で支えた。

 一瞬桜の全体重が片腕にかかり、それにしても軽いと感心する。あれだけ甘い物(だけではなく食物全般)を好むのに、身長の成長期を終えた縦にも、それから日々の努力の結果か横にも、丈が増えていかないのである。本人はもっと等身を上げたいと微笑ましくも実現不可能な願望を口にしているが、アステルとしてはこの慣れてしまった高さが丁度いい。


「大丈夫ですか?」


 元より自分が傍についていて、怪我などさせるはずがない。桜の身を支え、あれこれ考えを巡らせつつ、アステルは念のために問いかけた。


「ごめん、平気」


 桜はばつが悪そうに体勢を戻しながら、小石につまづいちゃってと小声でぼそぼそ言い添えている。アステルの大変よろしい視力が確認する限り、よく整備された道は土が剥き出しながらも些細な障害物は可能な限り排除されており、無風な湖面のように平坦である。

 しかしアステルはそれについて言及するような、無粋な真似はしなかった。


「早く行こう」


 腕を取り、何かを取り繕うようにせっつく桜に引っ張られながら、アステルも再び歩き出した。


「そうそう、喜びの島って何かの曲になかったっけ?」


 こういうやつ、と桜が軽やかに歌いだす。思う通りの旋律を、徐々に増してくる陽光の粒子に溶け込ませるように、閉じた唇から紡ぎ出す。

 喜びの島とは、著名な音楽家が作曲した世に名高い楽曲である。

 桜の鼻歌に呼応したのか、近隣の農家が飼っているのであろう犬の遠吠えが聞こえた。まるで不安な空気を感じ取り、仲間に注意を促しているかのようにも聞き取れる。

 極控え目に表現してしまえば、桜は音楽的な才能に少々置いてけぼりを喰らっている。

 これは彼女が全幅の信頼を寄せている侍女による談であるが。


 桜がまだローズランドで日々を送っていた頃。

 日射しもうららかなある日、エレーヌがローズフォール城の庭を散策していると、鶏が絞められている際に上げるような、断末魔の悲鳴にも似た雄叫びが聞こえてきた。そこは料理番が立ち入るような裏庭ではなく観賞用に整えられた庭園であったため、新入りの使用人が入り込んでしまったのではないか、と少々腹を立てながら声の方へと向かった。

 そうすると、訪れた先には雇い主である公爵よりも優先度が高い位置にいる、彼女の主人がいた。日頃どうやって愛する主人の音感を矯正しようかと頭を悩ませていたエレーヌである。だが忠実な侍女の姿を見つけ、退屈している時に遊び相手に出会ったというようなくったくない笑顔を向けられたその瞬間、発想を転換しなければならないと悟った。

 エレーヌは、咲き誇る花々を眺めている内に気分が好くなり思わず歌ってしまった、と語る桜を慈愛深き笑顔でお茶に誘い、ソフィアを給仕に侍らせた。次いでちょうど故郷に帰っていたアステルの元へ、すぐさま嘆願に出向いた。


「世にも稀なる天海の彩をお持ちになり、さらにはその麗らかたる栄誉にご相応の、情け深き心遣いに満ちた桜様のお名前を鋼の如く堅牢に保持するためにも、どうかこの先、桜様がご家族以外の前でご唱歌を披露なさる機会がなきよう、厚くお願い申し上げます。殊に公の場ではなおのこと、重ねてお願い申し上げます」


 桜の名前に冠された仰々しい枕詞に度肝を抜かれたアステルであったが、この陳情は尤もだと心中で深く同意した。ヘンリーとリディにも協力を依頼し、当人の耳にだけは絶対に入ることのない秘策は一部の例外を除き、今のところ成功しているといって差し支えない。ついでながら、一部の例外とは桜と交流の深い世界の平定者たちのことである。その際は酒の席でのことであり、酔って突然歌いだした桜を止める術をアステルは持たなかった。

 そう、最も懸念すべきは、何も気づいていない当の本人なのである。多くの同志――音楽の神に見放された憐れな弾かれ者がそうであるように、桜も己の音楽性に露ほども疑問を抱いていない。優れている、とまではいかなくても、一般と何ら変わらない水準に自分がいると信じて疑わないのだ。

 この件に関しては、遠慮会釈なく意見を述べてくれるティア・ルビーに期待したいところだが、天下のユヴェーレンにも憚らなければならない事柄はあるらしい。今のところ、桜が真実に目覚めている様子はない。

 となれば、アステルとしては桜の美しい世界を壊さぬよう務めるだけのことである。


「その通りです」


 如何なる曲か、どころか音楽であるのかどうかさえ選別不可能な鼻歌を響かせる桜に、その喉より出る旋律こそが正調である、とばかりに眩く笑いかけた。そしてこれ以上、桜が唸りにも似た声を辺りに振りまく必要がないよう説明し始める。


「この島は遥か昔、シシーラという一つの国でした」


 昔話が伝える内容は以下の通りである。


 シシーラは国土面積も小さく、お世辞にも豊かとはいえない島国であった。しかし王は善政を敷き、国民も怠惰に耽ることなく働き、日々の暮らしに困るようなこともなく、国には穏やかな気風が広がっていた。

 王には妃があり、二人は大層仲睦まじく、民たちにも慕われていた。

 この国には一人の魔術師が住んでいた。魔力はさほどのものでもないがこの魔術師、たっぷりとした栗色の髪と、奇跡のように淡く輝く夕焼けの色をした目を持っており、容貌に大変優れていた。

 魔術師はある日王を見て、一目で恋に落ちた。王は若く凛々しかった。自らの美しさに驕っていた魔術師は、我を妃にしろと申し出た。魔術師ほどの秀でた姿を持っていなくても、今の妃になんら不足を抱いていなかった王は相手にしなかった。

 激怒した魔術師は王妃を土の中に隠し、自らが成り代わった。



「それからどうなったの」

「後はお定まりです。行き着くまでにいくつか種類はありますが、最後、王は魔術師の正体を見破り、王妃を無事助けだした」

「その魔術師、魔力は高くないのに他人になりすますなんて、結構大それたことができたんだね」

「土に関する魔術が得意だったようですね。自分を土で塗り固め、成形して王妃の姿を取っていたようです――言い伝えによると、ですが」


 話しているうちに太陽は全身を現し、辺りはすっかり明るくなっていた。同時に気温も上がりショールはもう必要なくなったのか、桜がアステルの腕を離し、歩きながら畳んでいる。アステルは持ちますと受け取り、紛れないよう剣帯に掛けた。桜と再度手を繋ぎ、進行方向に目をやる。

 緩い坂を登った先、目的の遺跡は陽光の下に全容をさらけ出している。石造りの朽ちた基礎は半ば草に埋もれ、崩れた石柱には蔓性植物が巻きついていた。屋根部分は残っておらず、見る影もない。百年や二百年ではきかない、膨大な時間の流れが見て取れる。


「あそこが、その魔術師が住んでて、王妃様が閉じ込められていた場所なんでしょ」


 アステルの視線と同じ方向に顔を向け、桜が指を差しながら言う。


「王と王妃はめでたしめでたし、で終わったんなら魔術師はどうなったのかな」

「それにも諸説あるようですが」


 アステルは桜に目を転じて訊いた。


「どんな最後がいいですか」

「あれ、こっちは最後が決まってないの」

「はい、色々ありますよ。お好みでどうぞ」

「お好みでって、ソースの種類を選んでるんじゃないんだからさ」


 桜が変な顔をした。そして段々距離が近づいてくる遺跡の、さらに遠くを透かし見るような目をしながら言った。


「じゃあ、なるべくその魔術師にも優しい結末がいいな。行動は度が過ぎてるけど、恋する乙女の暴走だもんね。結局は振られちゃったんだし痛い目見たんだから、ちょっとは許されてもいいんじゃない?」

「またのどかな表現をしますね」


 一国の王妃を亡き者にしようとした魔術師の行動を、恋する乙女の暴走で済ませようというのか。アステルの中から柔らかな布で包まれたような、ゆったりとした笑いが込み上げてくる。桜と繋がっている手をしっかりと握り直した。

 それに気づいたように斜め前を進んでいた桜が少し振り向き、「だからなるべく後味いいやつね」と笑ってから前を向く。

 細められても踊るような快活さを失わない黒い瞳と、明るい日射しを受けてなお瞬く、星空を凝縮したような髪。

 希少な天海の彩を、珍しく思った時期は短かった。同色であるかに思わせて、天に広がる空と海面に映った空が異なる姿を覗かせるように、それぞれが別種の理由でアステルを惹きつける。

 性別は違うが、王を初めて見た際に魔術師が抱いた気持ちを体感しているような心地になり、アステル自身も心底から桜が望む形の説を語りたくなった。

 喜びの島という曲の、終盤部分が頭に流れ出す。打ち寄せる波のように、何度もお互いの名前を繰り返し、存在を確かめ合う。心が震えるような、確固たる旋律。

 呼びかけると応える相手がいる。それが胸の奥底に眠る何かを喚起する相手であれば、どんな卑劣な技をつかってでも手元に引き寄せたいと願ってしまうのは、当然の欲求だという気がした。

 今まで傍迷惑だとしか受け止めていなかった魔術師の行動に初めて寄せる、同情の念なのかもしれなかった。


「こうして見ると、世の無常を感じるねぇ」


 辿り着いた遺跡を前に、桜が首を巡らせ穿ったように言う。

 南からの風が渡るたびに草がそよぎ、花が揺れ、蜜を集める虫が飛び交っている。陰惨な伝説の残る舞台も、時の流れに洗われたように、今は野の匂い香る風景へと変貌を遂げていた。


「盛者必衰の理って言葉、知ってる?」


 苦手な虫からなるべく遠ざかる位置を探しながら、答えを知っている謎かけを出す子供のような表情で、桜が見上げてくる。ただ一人のために、この世界を選んだ娘。


「知りません」


 アステルは桜だけに見せる顔で優しく首を傾げ、答えた。


「あちらの慣用句か何かですか?」


 あちら、とは桜が元いた世界のこと。


「そ。繁栄するのも一時のこと、いつかは必ず衰えるって意味。驕る平家は久しからずってのもあるよ」


 言った後、慌てて繋いでいない方の手を振っている。


「グレアムの家が偉ぶってて、滅びるって意味じゃないからね」

「分かっています」とアステルは微笑んだ。

「いつか――」


 地にしがみつくように残っている基礎の中央に、孤高を保った円い石柱が立っている。まとわりついてその姿を覆い隠そうとする植物は、崩れ去ろうとする宿主を支えているかにも見えた。風雨に削られ折れてしまった頂きを見上げながら、桜が口を開く。


「いつか、私たちの間にも子供が生まれて、さらにその子も子孫を設けて――っていう風に、何代も何代も後になってから、思い立った誰かが家系図を広げて、こんな先祖がいたんだ、って私たちのことを思い浮かべるのかもしれないね」

「その時には、グレアムの家は滅びて家系図も残っていないかもしれませんけどね」

「だから違うってば!」

「冗談です」


 謝罪しながら、食ってかかる桜の手を引き、アステルは基礎の中へと入っていった。ここは多くの人間が行ききしている場所のため、柱までの道が自然に作られている。周りの草を跳ね回る虫に若干警戒した素振りを見せつつも、桜はおとなしくついてくる。


「虫が気になるようなら抱えましょうか」

「外だから、触らなきゃ平気」


 アステルにはどう違うのかが分からないが、逃げ場の少ない屋内とでは受ける恐怖の度合いが異なるらしい。


「ここを見てください」


 目の前にある柱を指し示した。巻きつく蔓を避けるようにして、ちょうどアステルの視線の高さに、親指の先ほどはある大粒の透明な石がはめ込まれている。桜がよく見ようと背伸びをしたので半ば抱えるように支えてやった。


「琥珀色の、石……。琥珀なの」

「いえ、これはトパーズです。それも、質の良い」

「トパーズ? え、それって」


 急いで一、二、三、と目を凝らしながら、桜が指を差し差しトパーズの角を数え出す。


「十一角形。それに土の魔術って……。もしかして、ティア・トパーズ?」

「そのような説もあるという話です」


 最後、命だけは許された魔術師は自らの行いを心から悔い、改心した。その瞬間に魔術の真髄に目覚め、魔力が泉から水が湧き出るかのように増幅し、ユヴェーレンたる資格を得た。その後、魔術師はシシーラ王国を末永く守護したという。


「まあしかし、ご覧の通りシシーラという国は滅び、島に名前を残すだけとなりました。それにユヴェーレンは一国の盛衰に関与する存在ではありません。後世の人間がこじつけた作り話、という説が有力ですけどね」

「夢のないこと言わないでよ……。でも、じゃあこのトパーズは? 何よりの証拠じゃない?」

「確かに裏付けているように見えますし、見事な宝石ではありますが。そもそもティア・トパーズの象徴は、常にご本人が携えているはずですからね。財を持て余した酔狂な人間はどこにでもいます。なぞらえて、嵌め込んだのではないでしょうか」

「ますます夢がない……あ、でもさ」


 項垂れていた桜がいいこと思いついた、というように顔を上げる。


「王様と王妃様と魔術師の三人は、許し合って友達になったのかもしれないじゃない。ティア・トパーズになった魔術師はシシーラを守りたかったけど、ユヴェーレンの掟か何かで適わなかったのかもしれないよ」


 おじいちゃんも似たようなこと言ってたし、と思い出すように虚空へ目をさ迷わせる。


「でも、そうだったらちょっと悲しいね」

「そうですね」とアステルは返事した。


 柱のトパーズをまじまじと見つめる桜を眺めながら、何故このような考え方ができるのだろうかと不思議に思う。アステルは、やはり魔術師は処刑されたのだと推測している。もしくは、王は最後まで真実に気づかず、王妃は冷たい土の中で朽ちていったという可能性すら否定できない。桜の耳には入れなかったが、国を滅ぼしたのは魔術師、もしくはとうとう救い出されることのなかった王妃の怨念である、という説さえ囁かれているのだ。

 しかしアステルは、伝えられた迷信を桜と実行するために、この場に立っている。

 陽光が舞い風が踊るこの場所の、なんと穏やかなことか。

 時の作用だけではなく、桜のような人の善性を信じて疑わない者が願ったゆえに、陰惨な舞台は太陽に栄え、伝説は羽化した蝶のように美しいものへと姿を変えたのではないか。だからこそアステルのように暗い淵を意図して覗こうとする者でも、今その恩恵に預かれているのかもしれない。


「ティア・サファイアたちなら何かご存知なのでは? 当代のティア・トパーズなのかは分かりませんが、同じユヴェーレンのことですし」

「んー、やめとく。はっきり訊くのが怖いような気がする」


 そういえば、と突然何かに気づいたように、柱にへばりついていた桜が振り向いた。いつの間にか、繋いだ手は離れてしまっている。


「すっかり忘れてたんだけど、喜びの島の由来って何?」

「この島の、王と王妃の物語に感銘を受けた音楽家が、二人の結末を取り上げて想起した曲なんだそうですよ。夢のような自然に囲まれ、愛が打ち勝つ、輝く喜びに包まれた楽園のような島。名前の通り、この世に溢れる鮮やかな色彩を、ありありと感じ取ることができる音色を特長としていますね。曲が有名になり、いつしか元になったこの島も、喜びの島の異名を戴くようになったそうです」


 アステルは柱に添えられた桜の手を取り、そっと口付けた。視界を占める顔が、瞬時に赤く染まる。生まれてこの方二度目となる、特別な重さを纏ったこの行為に、桜は当然慣れていない。それはアステルも同じなのだが、三度目はもうないだろう。


「王が悪しき魔術を破ったこの場所は、いつ頃からか誓いの遺跡と呼ばれるようになりました。ここで誓い、口付けあった二人は生涯別たれることはないと言われています。――幸せにします、桜」


 惑う黒い双眸を見つめ、肝心な部分だけは改まって聞こえるように言った。

 まあこんな場所で迷信などに頼らなくても、当たり前に幸せな人生を約束する自信はあるのだが。やはり演出は大事であるし、何より桜の反応を見たくてはるばるやって来たようなものである。

 その当人はというとアステルに手を取られたまま、嬉しくは思っているようだがもう限界だといわんばかりに寸の間俯き、やがて決然と顔を上げた。強い意志を秘めた眼差しに、アステルは軽く意表を衝かれた。


「私も!」


 桜が声を張り上げる。


「私も幸せにするからね。大体、今まででも充分幸せにしてもらってたから。アステルがお父様の後を継いだら、その奥さんになる私にも義務とか、責任とかやらなきゃならないことが沢山あるって分かってる。社交の場とかはあんまり出たことないし、苦手ではあるんだけど、そういうのも逃げないで果たしてみせるね。少しでもアステルの負担が軽くなるように、頑張るから」


 ここで桜が一度大きく息を吸った。そして呆気に取られるアステルの前で、吸い込んだ諸々を吐き出す勢いで続ける。


「アステルが、私を選んで良かったって。そう思ってもらえるようにする。そりゃ、その時々で小さな不満は出てくるだろうし、我慢だってしてもらわなきゃならないこともあるだろうけど――っていうかもう実態は知られてるんだから、そんなこと今さら言われるまでもないって思ってるかもしれないけど……」と複雑そうに口ごもる。


 でも、とまた口調を強くした。


「一緒に散歩したりお茶を飲んだりする時間が、何年か経った後に振り返ったらすごく大切な時間だったって実感できるように、二人で積み重ねていこう」


 桜はもう一度、絶対に幸せにするからねと気合いの漲った宣言で締めくくった。叙任式を終え、初めて任務を言い渡された騎士のようであった。

 アステルはたまらず吹き出した。

 台詞を取られてしまい、逆に誓われてしまった。

 全身をくすぐられたような気持ちが後から後から湧きでてくる。口に手を当て、堪えきれずに笑い続けるアステルをキョトンと見た後、何かやらかしてしまったとでも思ったのか、桜の顔がまたもやほお紅をはたいたようになる。


「も、もしかして私、なんか間違った?」

「いえ、失礼しました」


 笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら、アステルは答えた。


「こういった場合に女性から頂ける反応ではなかったので。なんと言いますか、とても雄々しいと」


 桜であれば、常に斜め前を向く発想と、例え偉大なる平定者であっても必要とあれば呼びつけるに躊躇しない常識に囚われぬ神経で、どんな苦境に立たされようと鼻歌を歌うような生活をもぎ取ってしまうだろう。

 これまでもお互い傍にいて、より多くの見返りを受け取ってきたのは自分の方だったとアステルは思っている。桜がやって来てから、ふとした場所に散らばっているアステルの芯を成長させる何かを感取する力は、確実に増した。例えば思いやりや優しさといった触りのいい情緒だけではなく、必要な局面で大事なもの意外を切り捨てる残酷さなども。

 いずれもアステルという一個の人格を組み立てる重要な一部分であり、その中でも桜の存在は支柱的な役割を担っている。

 つらつらと考えを巡らせながら、消えてしまいたいと現実逃避するように目を移ろわせる桜の両頬に手を添え、こちらを向かせた。なんであろうと、いい所を持っていかれたままでは格好がつかない。


「誓い通り、幸せにしてください」


 好きに笑ってればいいじゃないか、と恨みがましげな表情を浮かべる桜に語りかけた。


「俺も、こちらの世界を――桜が俺を選んでくれたことを後悔させないように、全力で励みます。お互いがそう思っている限り、どれほど辛いことがあっても不幸になどなるはずがないんですから」


 そう言ってから、アステルはまなじりを和らげた桜に口付けた。

 いつか、この強い気持ちも風化し衰える日が来るのかもしれない。その時はまた、二人でここへ来よう。幾人もの恋人たちが誓い、確かめ合ったこの場所には、多数の強く幸福な想いが染み渡っている。形がないからこそアステルたちの想いもそれらと重なり合い、増幅されていつまでも残っていく。

 時間が経ち、二人が生を終えてもこの場所が存在する限り、永遠に滅びない。


 その後は、この場所の作用故か、ただ単にアステルの性質が周囲への配慮を忘れただけなのか。

 アステルは桜の唇をしつこく離さなかった。この日二番目にやってきた恋人たちは、遺跡に入ろうとしてすぐさま回れ右を余儀なくされ、しばらく坂の下で待ちぼうけを食わされるはめになった。

 やっと出てきた時、アステルは大層満ち足りた顔をしていたという。

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