秋の楽しみ方 奔走
暫し悩んだ末、私はリディの部屋を選択した。もうちょっとちゃんと吟味したかったけれど、なんせ本当に時間がない。
男性の部屋を選ぶにしろ女性の部屋を選ぶにしろ、さらにはその内で、私かリディの部屋どちらが先だと思うにしろ。どれもこれだという決定打に欠けていて、優劣ない可能性を持っているように感じられる。
だったら、あとは勘に頼るしかない。
そして私の勘は、次はリディの部屋だと告げていたのだ。
私は、自分の部屋と同じ長方形に細長い窓の下、部屋の隅にしゃがんだ。そしてすぐ隣にも、同じようにしてグアルさんが膝を着き、黙ってペロリと黄金色の豪奢な絨毯を捲った。他と同じように、こちらのペトラも静かに美しく虹色を揺らめかしながら、触れられるのを待っている。
片手を床につき、もう一方の手をペトラに触れるために伸ばした。間取りが同じせいか、ふと、私の部屋にあったペトラをリディと一緒に見つけた時のことを思い出す。あの時私の隣にいたのは、グアルさんではなくリディだった。起きて動いてしゃべっていた。
あれからまだ一時間も経っていないのに、写真で眺めて懐かしがる光景のような、酷く昔の記憶という気がしてくる。
アステルだってちゃんといた。
故意に外されたパズルのピースのような、アステルだけが存在しないベッドの光景を思い出す。ペトラに触れる寸前で私の手はピタリと止まった。手の平を広げると、ユヴェーレンが張る見えない幕のような何かに押し戻されている気がして、それ以上進めることができない。
怖い。
喘ぐように呼吸が忙しくなってきた。暑くもないのに、こめかみからスウッと汗が垂れ下がる。
触りたくない! 私は心の中で思いっきり叫んでいた。
この部屋のペトラにしようと、もう決めたはずだった。時間も残り少ない。でもこの選択が間違っていれば、触れた瞬間また一人、私の家族がどこかへ消えてしまう。だったらやっぱり他の部屋にした方がいいんじゃないか、と私はぐずぐず二の足を踏んでいた。
一つ前の失敗に引き出されてしまった臆病な心が、ありもしない障壁を作り出し、結果に繋がる道を阻む。
不自然な体勢で止めていたせいか、それともこの場から逃げ出そうとする衝動と戦っている私の胸中を反映しているのか、伸ばした手が小刻みに震えだす。その状態から抜け出すことができない自分が、どうしようもなく嫌だった。
「桜」
声音がそのまま温度になったのかと思ったら、宙に留まっている情けない手を、別の大きな手が包み込んでいた。
隣に目を向けると、グアルさんが私の手を握り締めたまま、迷いのない眼差しで見つめてくる。
「言っただろう、運の強さを信じようと。自分のことが信じられないなら、ヘンリー様とリデル様を信じればいい。例えこのペトラに触れることが間違っていたとしても、時間が残っている限り足掻き通そう」
そんな場合じゃないのに、またもやさめざめと大泣きしてしまいそうだった。今回、グアルさんの言葉がやけに私の芯を揺り動かす。振動が反響を呼び、どうしようもなく胸を熱くさせる。かつてこれほどグアルさんを頼もしく思ったことがあっただろうか。
私はリディに骨抜きになっていたグアルさんを彼女にチクってやろうと考えていたことを、心の底から後悔した。
絶対彼女に告げ口したりしないからね、グアルさん!
誓約するように、床についていた方の手をグアルさんの手に添えた。感謝の気持ちを込めて、グアルさんの強く思い遣りに満ちた眼差しに頷き返す。
私が腹を括ったと見て取ったのか、それとも彼女に関しての隠れた反省を読み取ってくれたのか。グアルさんは深く理解した様子で、私の手をそっと離した。
見てて、立派に努めを果たして見せるから!
私は大きな何かに見守られている気持ちになって、今度は迷いなくペトラに手を伸ばし、しっかりと指で触れた。
相変わらず、触れた方にも触れられた方にも変化は見られない。指を離し、グアルさん、それから大役を果たした私に讃えるような視線を寄越してくるエレーヌとソフィアに首を巡らしてから、立ち上がった。グアルさんも私に続く。
今回はどうだったんだろう? もしヘンリー父さんかリディ、どちらかが飛ばされてしまったなら、騒ぎが起こるはずだ。他の皆もそう思ったのか、私を含めたこの場の全員が、廊下に続く扉の方を窺った。
静かだった。扉の向こうにある世界には誰もいないんじゃないかと思うほど、なんの反応もない。
もしかしたら、とお腹の底から高揚した気分が湧き起こってくる。腰の横で両拳を堅く握り締め、早計に弾みそうになる声を宥めながらも「もしかしたら、合って――」と成功の予感を言葉に乗せている最中だった。
「失礼いたします!」
鋭く遮るような挨拶とノックに私の肩は跳ね上がり、声と肝が凍りつく。間を置かず、扉に体当たりするようにして女性の使用人さんが飛び込んできた。その人はマーガレットさんではなかったため、私は一瞬安堵さえ覚えかけていた。
でも。
「マーガレットさんから」
使用人さんが額に汗さえ滲ませ、深刻な面持ちで報告しようとする。開口の台詞を聞いて、私は唇を噛み締めた。
「伝言でございます。旦那様が、ヘンリー様が消えてしまわれました」
言い終えた後、いたたまれなさそうに視線を落としてしまった使用人さんを凝視しながら、私は小さくかぶりを振っていた。
「また……」
諦観と一緒になった呟きが、自分の口から漏れる。間違えていたんだ。
私の勘なんて一つも当たらない。どこへも持って行きようのない後悔と口惜しさを発散させるために、私は服越しに太ももへ爪を立てた。痛みなんて感じなかった。そもそも、どうして私はさっきから追い詰められているんだろう。
そうだよ。眉間に皺が寄る。水が入ってしまったみたいに鼻の奥が痛い。
もういやだ、なんで私がこんな目に!
全身が高温の蒸気に取り巻かれているように、身体が熱くなってくる。
誰にでもなく――ではなく恐らくは、こんな事態に陥れてくれた過去の人間に対し、高ぶりすぎた恨む気持ちが声になってくれず、代わりに肌の隅々から噴き出したのだと感じた。その後、今度はいやに気持ちが悪くなってきた。世界が回り、胃がひっくり返されたような気分が私を襲う。
アステルに続き、ヘンリー父さんまでも。
そう認識した途端、身体が傾いだ。このまま倒れてしまいたい。そしたら何も考えなくてすむ。楽になれる。そう願うまま、重力に引かれるに任せた。
「いけません、桜様」
私の感覚では立て直せないほどバランスを欠いたと思ったのに、実際は少しの角度沈んだだけで、背中を柔らかく受け止められた。
「しっかりなさってください」
背後から、エレーヌの声が私を押し止めようとする。
「そうですわ、さあ、涙をお拭きになって」
今度はソフィアが、私の目元にハンカチをポンポンと押し当てた。泣いていたなんて、自分でも気付かなかった。
次いで、頬をごく軽い力で叩かれる。
「諦めない、だったよね」
グアルさんが気楽な調子で、少し屈んで私の目を覗き込みながら言った。覚えがある。アステルがいなくなってしまった時に、皆に励まされて私が発した台詞だ。
私、この人たちに際限なく甘えている。座り込んで動けないフリをして、多分は優しく発破をかけてくれるのを待っていた。昔蒼兄ちゃんに、お前はどこまでも年上に甘えようとすると言われたことを思い出す。末っ子体質だって。
心中で、またやっちゃったよとその時の蒼兄ちゃんに向けて舌を出した。
前から思っていたけれど、こうやって失敗続きでも見捨てず支えてくれる人たちがいるって、私も凄く幸運な部類に入るんじゃないだろうか。
口の端を上げ、ばつが悪い思いでグアルさんを見上げながら、私は三人に言葉にならない感謝の想いを抱いていた。
あともう五分も残っていない。
焦燥感を滲ませたエレーヌが告げる残り時間を聞いて、私は本格的に追い詰められてきた。まだ、一番目のペトラしか確定していない。私は悩んでいますポーズを示すように両手で頭を押さえ、窓とグアルさんの間を行きつ戻りつしながら取り乱していた。
「ど、どうしよう、どこの部屋にしたらいいんだろう。エレーヌとソフィアが言ってたみたいに、グアルさんの部屋? それとも意表を突いて私の部屋とか?」
「はいはい、慌てる気持ちは分かるけど、もうちょっと落ち着いてみようか」
そう言って、グアルさんが私の行動を制するようにパンパンと手を打つ。
「ここは一つ、整理するため基本に立ち戻ってみようよ。誰の部屋かじゃなくて、どういう基準で部屋を決めるかだ」
「基準?」
落ち着いた態度を取る人の冷静な声音というものは、それだけでざわついた心を沈静化させる効力を持つ。この人が言う通りにしておけば、絶対に大丈夫という心地になってしまうのだ。
足を止め、頭に置いていた両手を降ろしつつ、怪しい新興宗教に嵌る人の気持ちが分かるなあと私は場違いなことを考えた。確信的な挙動で未来の展望を示してくれる今のグアルさんにだったら、開運のハンコを法外な値段で売りつけられても、借金してでも購入してしまいそうだ。
グアルさんは「そう、さっきは何を基準にした結果、リデル様の部屋を選んだのか?」と問いかけを発して、安心させるように私に笑いかけた。
うう、教祖様……じゃなくて。
祝福の鐘的に別な方向へトリップしていきそうになる思考を修正し、考えながら答える。
「確か、男女の違いについて、だったよね。女は男に守られるものっていう」
「ああ。君は君の論理で女性の方を先として選んだ。そして失敗した。だったら今度は、もう片方の論理に賭けてみるっていうのはどうだい?」
「もう片方……」
同じ、女性が男性に守られるという理屈から生まれた意見。私とは真逆の、男性の部屋を先にして女性の部屋を囲むという並び。私は一瞬、その可能性を提案したエレーヌとソフィアに目をやった。私とグアルさんのやり取りを見守りつつ壁際に控えていた二人が、応えるように膝を折る。
筋道立った説明をされてちょっとだけ頭の働きが戻ってきた私は、二人から視線を外し、頬に手を当てて考えた。そういえば、そもそもアステルの部屋が最後という確率が高い以上、男性の部屋で女性の部屋を囲むという捉え方の方が、無理なく自然という気もしてくる。もちろん私の部屋という見込みもなきにしもあらずなんだけれど、それはさすがに違うように思えた。他二つの部屋に比べても、根拠が少なすぎる。
私は一つ頷いて答えた。
「そうだね、そうしてみよう」
グアルさんの部屋は客用でもない普段は使われていない場所なので、置いてある調度品も少なく、さっぱりしているように感じられた。でもそれは生活の匂いがしないからという意味であって、殺風景なわけじゃない。特に、この部屋に敷いてある森の緑のような色をした絨毯が、空間が息づくような温もりを与えていた。広がる深緑とそれよりも淡くうねる種々の線。踏まれた回数が少なそうなコシのある糸一本一本が、真新しげな艶を放っている。
私とリディの部屋との大きな違いは、窓の意匠や数、それから寝室へ続く扉の位置だった。後は備えつけられている照明や壁紙のトーンなんかも、おとなしめな雰囲気だ。
数日過ごした経験からか、グアルさんが勝手知ったるという風情で部屋を大股に横切り、寝室とは反対側の壁の隅まで移動した。そこにペトラがあるんだろう。私も早足で後を追う。エレーヌとソフィアも小走りについてきた。
「さあ、もう時間も僅かだ。迷わずに」
しゃがみ込んだグアルさんが捲った絨毯の下に、やっぱりペトラが仕掛けられていた。
そうだ、今さら躊躇っている暇はない。
私はほとんど座る勢いに任せて、ペトラを覆うように手のひらを叩きつけた。
「桜様、移動するだけで時間がなくなってしまいます!」
ポケットから小さな時計を出して、間を置かずにソフィアが小さく叫ぶ。
責任転嫁をするつもりは全くないけれど――多分、現状を告げるこの言葉が、私の決定的な場所に奥深く食い込んでしまったのだ。決して離れない、釣り針のようなしつこさで。
私はすぐさま立ち上がった。まだ今のペトラの結果が分かっていない。でもそれを窺っていたらタイムリミットがきてしまう。そう考えながら、私は駆け出していた。間違っていたらいたで、次の部屋へ向かっている間に使用人さんが知らせにくるはずだ。
廊下へ続く扉を駆け足でくぐる私を、グアルさんの声が追いかけてくる。
「桜、次はどこへ!?」
その問いに、私は答えられなかった。赤い旗に突進する闘牛のように、早くペトラに触らなくてはという目的だけに頭を占拠されていた。声を出す行為すら移動の妨げになると、完全に思いつめていた。
後ろを振り返る余裕もなく、左右が高い壁で囲まれている一本道を前へ前へとだけ突き進む人間は、時にとんでもない愚行を犯してしまう。
アステルとヘンリー父さんをみすみすどこかへ飛ばしてしまった失敗と、時間が無いという事実への焦り、それら苦境からくる混乱に、私は頭の天辺から爪の先まで支配されてしまった。とにかく時間以内に全てのペトラに触らなければ、と目的をはき違えてしまっていたのだ。
最悪の報せをもたらす使用人さんはやってこない。それがグアルさんの部屋で正しかったという証拠なら、次は私かリディの部屋、どちらにするかを吟味して選択する必要があるのに。




