桜の復讐
そもそもことの始まりはといえば、突然現れたイヴが放った魅力的な提言からだった。
その時私は、「ぜひ苦手を克服しましょう」という余計なお世話的な一言と共にエレーヌから渡された、刺繍の図案と枠、裁縫道具一式。それから針で突いた指で汚すのが躊躇われるほど上質で真っ白な布と、格闘している真っ最中だった。
人間、得手不得手というものはあると思う。
淑女の嗜みとされる刺繍。
残念ながら、卓越した色彩センスと鋭い尖端から逃れる技術を要して完成する、色糸の絵画を作る複雑な課程は、私にとっては不得手の方に分類される創造活動だった。
課題が終わるまで部屋から出てはならないと非情に申し渡された昼下がり、窓の外ではうらうらと日射しが踊っている。
外に出て日向ぼっこをするか、ご飯を食べて満足したお腹を休めるべく昼寝を決め込むという使い方こそが正しく相応しい時間帯だというのに、どうして私は室内で暗い思いに沈んでチクチクと手作業に勤しんでいなければならないんだろう? 同じ手芸なら、編み物の方が私は好きだった。
まあ、好きこそ物の上手なれ。嫌いだからこそ押しつけられた宿題なんだろうけれど。
私は手元を見て溜め息を零した。
基礎といえるほど簡単な図案だ。でも一時間も経つというのに二割も出来ていない、水色と緑色で構成されようとしているデイジーのなり損ない。柵に囲まれたお花畑が広がっているはずの真っ白な雪原には、赤茶けた土のような染みが点々と付着している。
私の実力と指先の痛みからすれば当然あるべき姿なわけで、予定調和とさえいえるんじゃないか。
そういえばティナさんは手芸全般が得意らしく、容姿の美しさと共に作品の崇拝者は数多いらしい。世の中にはそんな風に美の女神から溺愛されている人がいるというのに、小さな花の縫い取り一つ満足にこなせない自分がどうにも無能に思えてくるのは、きっとこの鬱々とした状況が悪いに違いない。
半ばヤケになりながら、手に持った幼児の落書きみたいな駄作品をポイとその辺に放り投げる。
「疲れた! もうイヤ!」
ソファから立ち上がり、他に人のいない室内へうんざりした声をこだまさせた。
「じゃあ……、遊びに行こう……」
「――いっ!」
いきなり目の前に現れた子供の姿に、心臓が止まるかと思った。肩に梔子を乗せたイヴが、上機嫌な様子でニコニコ笑いながら立っている。
「イヴ?」
思わず、行儀悪くも指を差して確認してしまう。
「うん……。外、いい天気……。暖かい……。行こう……」
片言のようにそう言って、腕を差し伸べてくる。梔子も「ピルルルル」と私を誘った。この心動かされる申し出に、大人しく座っている自分に対して嫌気が差していた私が、抵抗できるはずもない。一も二もなく頷き、私は光射す外の世界へと旅立っていった。
誰にも告げずに……
この時、どうして書き置きの一つでも残していかなかったのかと悔やむものの、そんなのは後の祭りだ。
だからまあ、確かにこの状況については仕方がないと思う。甘んじて受け入れよう。
「それで貴女はティア・ペリドットのお誘いに応じ、侍女にも知らせず遊びにいったというわけですか」
目の前には、綾なす布張りの背もたれに身体を預けたアステルがいる。塗り物で艶を出した木の肘掛けに右腕を乗せて頬杖を突き、麗しくも厳しい眼差しを寄越し、長い足を組んで一人掛けの椅子に優雅さ全開で座っているのだ。
私はその向かいに神妙な姿勢で立っていた。
アステルを見下ろしている格好なのに、何故か威圧されている。人間関係の上下というものは、単純に物理的な高低差では形成されないものらしい。
黙っていると「返事は?」と実に容赦のない声音で問われ、うつむき加減にはいと答えた。
「忽然と部屋から消え、内外を探しても見当たらない貴女を、侍女二人を筆頭に屋敷の者たちは心配していました。誘拐ではないかと王城に出仕していた俺の所にも連絡がきたほどです」
ごめんなさい。
エレーヌ、ソフィア、お屋敷の皆さん、本当にごめんなさい! 軽率な行動だったと反省しています。
ヘンリー父さんはローズランドへ帰ってしまっている。だからアステルの所に連絡がいってしまったんだろう。うう、ヘンリー父さんだったらもっとお手柔らかに済ませてくれたのに……
私が帰ってきたのは、いつもなら夕食が終わる頃だった。盗人のようにコッソリと部屋に帰還した私を、既に帰宅して恐ろしい気配を装備しているアステルが待ち構えていた、というところで現在に至っている。
せめてイヴが一緒に部屋についてきてくれたら、ユヴェーレンのご威光で避雷針になってくれていたかもしれないのに。……無理か、さっさと逃げだしそうだ。もしかしたら、この状況が分かっていたからこそ私だけを帰したのかもしれない。
イヴが見せてくれるいろんな景色や植物なんかが余りにも珍しくて面白くて、つい帰ることを忘れてしまっていたのだ。だって、蜜に吸い寄せられた蛍みたいな虫が集まって、光の花みたいになっている光景なんて、暗くならないと見られないじゃない。
それを理由として口を開きかけるけれど、声は喉元まで上がってから、上目遣いでチラリと垣間見たアステルの表情を確認した途端に引っ込み、胃の消化液で溶かされてしまった。
下手な言い訳は通用しない。それどころか余計な怒りを煽るだけ。後悔と反省と謝罪しか受け付けないぞという、笑顔の仮面を被った時をも止めるその表情。
「ファーミルの伝言を受け取った際の、俺の心境が分かりますか?」
アステルは、イヴやスターたちが私を守ってくれているのは知っているはずだ。
だから心配というよりは――
「呆れた、とか?」
恐る恐る、遠慮がちに言ってみる。
ファーミルの前で、目を閉じて溜め息を吐くアステルがまぶたの裏に浮かぶようだ。
「それもあります。ですが、万が一ということもある。貴女が帰ってくるまで随分気を揉まされました」
またか、とか思っていたんだろうな。でも心配もさせてしまったらしい。
やっぱりここはひとつ、これ以上はないというほど改悛の色を乗せて、謝り倒すしかなさそうだ。
「ごめんなさい、反省してます! 二度としません!!」
腰を折り曲げ深々とこうべを垂れる。体力測定時に頑張る前屈よりも必死に。
その姿勢で待つこと数秒。頭上から、馴染み深く底も深い溜め息が伝わってきた。
「似たような言葉を何度聞かされたか、数える気にもなれません。やはり貴女には言うだけでは解っていただけないようです。――顔を上げなさい、桜」
滅多なことではお目にかかれない命令形のアステル。これはえらい怒りの度合いを窺わされる。私の背中を冷たい汗が伝い落ちた。
私は、上げたくない、このまま下を向いてアステルの顔と対面したくない、と願いながらも、お達し通りに姿勢を戻す。
「ひぃ」
喉の奥から情けない悲鳴が漏れた。
目線の先には半ば予想通り、マグマをも凍らす美貌の無表情が待ち構えていたのだ。
「当然ですが、本日の夕食は諦めていただきます。これはいいですね?」
からっぽの胃はそれこそ当然よろしくないと反抗していたけれど、それをそのまま主張できるはずがない。はい、と従順に返事をした。そしてアステルは、それからと続ける。
「明日からひと月間謹慎してもらいます。決して部屋から出ないように。ここまで手の込んだ方法で教えてくれるほど刺繍の腕を磨きたいようですから、お望み通りにしましょう。エレーヌに伝えて大量の布と糸を用意させます。頑張って励んでください」
「ちょっと待って! 一ヶ月も部屋から出られないなんて、退屈で腐っちゃうよ。それに私、刺繍を頑張りたいだなんて一言も――」
そこから先の反論は、威圧感満点の眼力で強引にねじ伏せられた。アステルの、左手の指先が肘掛けを叩くトントンという音がやけに大きく響いている。私はピタリと口を噤んだ。
「――何か不満でも?」
これ以上逆らったら、他にどんな懲罰を加えられるか分かったもんじゃない。私は了解しましたと観念した。
「ではそういうことで、お休みなさい」
先程までとは打って変わった微笑みで私の頬にキスを残し、出て行くアステルを黙って見送るという結果になった。
確かに、皆に心配と手間と迷惑をかけた私の行動は反省を促されてしかるべきだろう。
その晩泣きながら、無事でよかった、どんなに心配したことかと訴えてくるエレーヌとソフィアに、これでもかと謝罪を繰り返した。
そして翌日からは部屋に使用人さんが訪れる度にごめんなさいと謝り、直接言えない他の人たちにはエレーヌとソフィアから伝えてもらった。
一週間はとにかく殊勝な態度で過ごした。全面的に私が悪いと分かっていたからだ。
二週間目もなんとかおとなしく過ごした。まだ反省が効いていたからだ。
三週間目になって、ちょっと自分の状況に疑問が湧き出てきた。いくらなんでもこれは長過ぎるんじゃないかと。
それでもいやいや、これは自分で招いた事態だとぐっと堪えた。
四週間目。さすがに外の土どころか、トイレとお風呂へ続く以外の廊下さえ長い間踏んでいないという事実に、我慢の限界がきていた。
あと一週間。それさえ耐えればこの囚人めいた日常から抜け出せることは明白なんだけれど、動ける範囲の異様に狭い生活の中で、私の謙虚な心はすっかり鳴りを潜めてしまった。
自分が悪いという事実は遙か高い所にある棚の上に力一杯放り投げ、居場所を奪われて降りてきた、こんな状態へと私を追いやったアステルへの報復心を、がっしりとキャッチしてしまったのだ。
ハッキリいってグレた。悪魔の囁きに耳を預けた状態。
復讐するは我にあり! でも自分の手で行いたい!
それから六日間、復讐鬼と化した私はどうやってこの恨みを晴らしてやろうかと必死で考えた。時には刺繍をしながら、部屋に運んでもらった食事を取りながら、はたまたベッドに入って寝てしまうまでの間。魔道に墜ちてしまった私は、ほとんどの時間を『目には目を』のハムラビ法典方式な考えに費やしたのだ。
ちなみに刺繍は、ソフィアの助言を元に真面目に取り組んできたおかげで、ひと月前よりも大分上達した。
そして六日目の夜。とてもいい案を思いついてしまった私は暗い喜びに顔が緩むのを押さえきれず、枕に顔を押しつけて、くふくふ笑いながら眠りについたのだった。
アステルめ、明日を楽しみにしているがいい!
翌朝は、仕返しに燃える私の前途を祝福するかのように、眩しい青空が広がっていた。
いつもの通り起き出し普段通り朝ご飯を食べ終えた私は、逸る気持ちを抑えてソファに座り、その時をひたすら待っていた。
そろそろだ。そう思っていると、予想通りにノックの音が聞こえた。
来た。ニヤリと悪魔的な笑みが広がる。
すぐにその笑いを引っ込めて、すました顔でどうぞと応じる。アステルが入ってきた。アステルは律儀にも、毎朝王城へと出ていく前に、挨拶しにきてくれるのだ。
「おはよう、アステル」
「おはようございます。今日までよく頑張りましたね。明日からは自由にしていただいて結構ですよ」
「うん。さすがに今回は私も反省したからね」
朝の空気に相応しく爽やかに言ってのけるアステルに対して、私の方も素晴らしく胡散臭い笑顔を貼りつけ、見上げながら言い放つ。
「しでかしたことを考えたら、一ヶ月なんてあっという間だったよ」
自分でも、よくまあここまで心にもない台詞がスラスラと出てくるもんだと感心した。
「それは何よりでした。では、行ってきます」
そう告げて、アステルが身体を屈めて頬へキスしてくる。
今だ!
私はこの機を逃さず、アステルの首に手を回し、ガシッと抱きついた。
「桜?」
困惑したようなアステルの声が聞こえる。でも私は何も答えなかった。身を離そうとするアステルの素振りは意に介さず、ますます腕に力を込めて囓りついてやった。
ふっふっふ。アステルの性格上、縋りつく私を無理矢理引き剥がして邪険に扱うなんて真似はできまい。このままではいつまで経っても仕事に行けないだろう。大いに困るといい。
これが私の復讐方法だ!
アステルからは顔が見えないのをいいことに、私は込み上げる勝利の心と意地悪な喜びを敢えて飲み込まず、くふふと悦に入っていた。我ながら、狡猾な策謀を考えつく自分の頭脳が怖い。
「……」
暫しの無言状態が続く。
これは大分困っているなと満足感を噛み締めていると、おもむろに腰に手が回り、ひょいと抱え上げられた。そのままアステルはドアを開けて部屋を出ていく。
あれ、謹慎は?
私はといえば、腕を離す、これ即ち敗北に通ずというわけで動くこともできず、迷いなくズンズン歩いていくアステルにしがみついたまま、やむを得ず運ばれていった。
「馬車を用意してください」と告げるアステルの指示の下、用意された二頭立てに乗り込む。もちろん、へばりついたままの私は膝の上だ。動揺のために顔を上げられない私はアステルの肩に顔を埋めたまま、内心で問いかけた。
もしもし、アステルさん? あなたはいつも馬で王城へ出仕なさっていませんでしたか? 栗毛の大柄な体格と稲妻のごとき豪快な走りが自慢の愛馬、ギュンターが置いてけぼりにされて拗ねてるんじゃないの?
事ここに至って、私は大きな勘違いをしていたのではないかと不安になってきた。
アステルは、これくらいで困るような可愛い神経をしていただろうか、と。
揺れの少ない公爵家お抱えの馬車は、何の問題もなく王城へと続く道を突き進む。そんな中、私たちはお互いに一言も口をきかなかった。私の方は自分の作戦に自身がなくなってきたことによる、怯えを含む焦燥感から。アステルは……どうしてなんだろう? 顔が見えないから窺い知ることができない。まあ実際のところ、見えたとしても私に表情を読めたかどうかは分からないんだけれど。
とにかく、この沈黙が余計に落ち着かない気分を後押しした。
まさか、アステルは王城に着いてもこのまま平気で私を連れていくつもりなんじゃなかろうか。そう考え、次の瞬間にはいやいやそんなはずはないと打ち消した。馬車が止まったところで、頼むから離れてくれろと降参してくるに決まっている。そこで私はしょうがないなあと勝ち誇って、得意げに腕を解いてやるのだ。
不安に潰れそうになる胸の内を誤魔化しながら、早くこのいたたまれない状況から逃れたい、と私は到着を今か今かと待っていた。
果たして私の祈りが通じたのか――別に通じなくても当たり前に――間もなく馬車は王城の降り場へと辿り着く。
さあ、今こそ観念の言葉を吐く時だ、アステル!
「行きましょうか」
そう、行きましょ……って。
――え?
聞き間違い? と自分の耳を疑っている私を余所に。アステルはしっかりと貼りついている、まるで意志のある荷物のような私を抱えたまま馬車を降りた。もう絶対に顔を上げられるはずなんてない。そんな度胸私には皆無。今回は頭部を隠してくれるヴェールも上着も掛かっていないのだ。
アステルは通りすぎる人と挨拶を交わしながら進んでいく。時には疑問の声を軽く躱しながら。
私は顔を押しつけている肩に小さな声で怨嗟の言葉を呟きながら、血の気の引く音というのを初めて聞いたと観念していた。
アステルが扉を開けて、どこかの部屋へ入る。そこでやっと立ち止まった。多分、アステルの部屋だ。
喧噪から遮られた室内に、笑いを含んだ声が響く。
「それで、どうしましょうか。このまま殿下の部屋へもご一緒しますか? 俺は構いませんよ」
額を通して耳に伝わってくる音波の振動が、まるで強烈な一打のように私の意地をノックアウトする。再生不可能なほど完全に、バキッとくじけてしまった。
私は顔を上げ、力なく首を横に振った。多分、滅茶苦茶情けない顔をしていると思う。アステルは可笑しさを堪えきれない、でもなんとか我慢しているという危うい均衡の上に立ったような表情をしていた。
確実にからかわれていたのだ。もう、悔しさも感じない。
アステルは項垂れている私をソファに座らせ、頭を撫でた。
「今日はこの部屋で謹慎していてください。昼食は一緒に取りましょう」
優しげに落とされたその言葉に逆らう気力も残っていない。私の唇に柔らかい感触を残し、アステルは部屋を後にした。
しばらくの間、アステルに取り憑いていた私の存在は王城内で噂になるんだろう。でもアステルはそれを平気な顔して受け流すんだろう。リディには帰った後で文句の雨を降らされるのかもしれない。
取り残された私は部屋を見渡した。
ここの本棚には私の読めそうな本が一つもなかった。余計な物を置いていない部屋には、暇潰しにつき合ってくれそうな道具も置かれていない。
これだったら、お屋敷で大人しく過ごしていた方がよっぽどマシだった。
何かを負ぶっているかのように、ガックリと肩が落ちていく。
私は今回の件で、報復を企てると手痛いしっぺ返しを喰らうという世の中の真理を学んだ。




