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萌黄色の災難 アステル

 書類に目を通す。疑問点を抜き出し、必要な指示を書き連ねる。

 自分の権限で通せる束と、レジーの承認が必要な束とを分けておく。

 一段落着いたところでアステルは顔を上げた。柱に掛かっている重々しい時計に目を向ける。


「もうこんな時間か」


 ベルナールにレジー捜索を頼んでから、小一時間が経過している。彼が出ていった後に顔を出し、正当な理由を獲得してこれ幸いと抜け出したガストも、未だに戻ってこない。ガストはいつものことであるのだからともかく、ベルナールがここまで長い間外出したままというのはおかしい。仮にレジーが見つからないのだとしても、几帳面な彼のこと。とうの昔に一度は帰ってきているはずだ。

 何かあったのだろうか?

 アステルは、目の前の机に置かれた書類の束に視線を戻す。丁度区切りもついた。これ以上はレジーがいないとどうしようもない。

 暫し考えを巡らすとアステルは座っている椅子から立ち上がり、親愛なる幼馴染み兼主君と、どこかを彷徨っているであろう頼もしい護衛仲間を捜しにいくため歩き出した。


 レジーの行動パターンを憶測し、屋内にはいないだろうと当たりをつけたアステルは外に出た。気晴らしに一時の逢瀬を楽しんでいるのか、それとも独りで静かに過ごしたいのか。目的によって向かう場所は違ってくる。前者の場合は五通り、後者の場合は三通りの候補がある。

 さて、まずはどこへ探しに行こうか、とアステルは端々に見え隠れする植え込みを横目に、思案しながら歩を進めていた。


 王城には、階級に応じて立ち入りが制限されている区画が存在する。下位の貴族が決して足を踏み入れることができないその場所は、他よりも特に念を込めて手入れがなされている。美しい佇まいを選ばれた者にだけ、ひっそりと誇らしげに晒していた。

 その一角。青々とした芝生を這わせた丘の側面に、天の御使いを模した彫刻像に脇を飾られた、大理石の階段が設えてある。そこを澄んだ水が下部の池に向かって緩やかに流れ落ち、秩序ある清廉な滝を形作っている。

 水の流れが生み出すゆったりとした情景と、心を落ち着かせる音色を満喫するために、階段の上部には東屋が設置されてあった。

 そこに見知った顔を見つけ、アステルは近寄っていった。

 円蓋型の建物。くり抜かれた四角い窓越しに顔を覗かせているその人物もアステルを認め、親しげに微笑んだ。


「ティナ」


 アステルも笑みを浮かべ、片手を上げて声をかける。


「今日は王城に来ていたんですか」

「ごきげんようアステル。リディに用があったのだけれど、見あたらないのよ」


 ティナが白く華奢な首を傾げ、困ったような表情を作った。今さらながらに、動作の一つ一つが上品でたおやかな娘だと感心する。

 光を集めて惜しげもなく輝く銀髪は高々と結い上げられ、見る者を惹きつけてやまない紫の瞳が憂いを帯びたように煙る。ティナを前にして、『美しい』以外の感想を抱ける者がいるのだろうか。もう十年以上の付き合いになるアステルにしても、ティナが視界に入る度に美を認識させられる。リディも洗練された娘だが、ティナはよく月に例えられるように、もっと滑らかな静けさを感じさせる。繊細で可憐な淑女だと誰もが見なすだろう。

 だがそうかといっておとなしい性格では決してない。接する相手に敵意を抱かせず、意識を守らせる方向に誘導する計算高さと、多少のことでは動じない図太さも持ち合わせている。少々頑固で負けず嫌いな部分はあるが、性質はあっさりしており、アステルが婚約話を断っても禍根を残すような真似はしなかった。

 そういった性格であるから同じく裏表のあるリディとも馬が合うのだろう。レジーもアステルも、ただ慎ましいだけの女性よりはよほど好感が持てると思っている。

 アステルも、僅かだけならティナと一緒になる可能性を考えたことがある。自制心に優れた伯爵家の令嬢となら、理想的な家庭を築くことができるだろう。しかし例え桜がいなくても、ティナと婚姻を結ぶことはないだろうという結論は変わらなかった。

 ティナはアステルにとってはリディと同じく妹のような存在で、とても大切に思っている。そして好意を寄せられているとあれば尚のこと、本質的な意味で応えてやれない結婚生活を送っていく気にはなれなかった。それが家のためであったとしてもだ。

 これからも家や立場といった背景は抜きにして、仲の良い幼馴染みとして付き合っていければとアステルは願っている。


「今日はリディも出仕しているはずですが……。どうしたんでしょうね」

「アステルこそ、もしかして殿下をお探しなの?」

「分かりますか?」

「ええ。先程も、ガスト様に尋ねられたもの」

「ガストに? あの人はその後どこへ向かっていましたか?」

「はっきりとはお伺いしなかったけれど。恐らく、迷路の方ではないかしら」


 迷路の庭にはレジーもよく行く。所謂、『前者』の目的で。仮にレジーが見つからなくても、今からでもそこへ向かえばガストには会えるかもしれない。

 ついでにベルナールには会わなかったかと質問し、見た覚えはないという答えを聞き出すと、アステルはティナに謝辞を述べて別れ、目的地に向かって歩きだした。



 年中緑の姿を保持する植木の間を抜けながら、迷路を進む。レジーが好む地点は大体決まっている。ガストもそこへ向かうだろうと、見当をつけていた。

 もうすぐ目当ての箇所に辿り着くという位置に差しかかった時、話し声が聞こえてきた。


「――確実に説教される上に、謹慎処分を言い渡されると思います」


 この上なくよく知っている、アステルにとっては最も心地いいと感じられる響き。桜の声だった。

 覚えず、足が止まる。桜もここに来ていたのか。

 自然と温かくなってくる気持ちに包まれながらも、アステルは家族兼想い人の言葉に眉根を寄せた。桜の台詞が誰を指しているかは知らないが、『説教』と『謹慎処分』という単語から自分のことで間違いないだろうと予測を立てる。

 では、あの災難吸い寄せ体質の娘は一体懲罰を受けるような何をしようと企んでいるのか。もしくはもう実行してしまった後なのか。

 アステルとしても、何も好きこのんで桜に口うるさくしているわけではない。心配で、失いたくないからこそ他よりも過剰に気を配る。結果が過干渉に繋がってしまうのはどうしようもなく、本気で嫌がられている様子もなさそうだからよしとしている。

 桜と出会ってから確実に回数の増えた溜め息を漏らし、不作法とは思いながらも、アステルは暫し会話に耳をそばだたせることにした。


「ところで、さっきのお方はティア・ペリドットのようですが、お知り合いなんですか? 随分親しそうでしたが」


 探していた護衛仲間の一人、ガストの声。どうやら桜は彼と一緒にいるようだ。

 そして、ティア・ペリドットと聞いて苦い予感が頭を掠める。桜の起こす騒動に、ユヴェーレンが関わっていることは多い。特にティア・ペリドットは要注意だとアステルは考えている。桜を守ろうとする行為自体には感謝しているが、それで被る弊害もまた多い。

 それからも桜とガストの語らいは続いた。

 ティア・アクアマリン、魔道具、小さな子供、と頭を抱えたくなるような単語が並び、アステルはある危惧を抱いた。いつまでも戻ってこないレジー、彼を探しに行ってやはり帰らないベルナール、姿の見えないリディ。

 全てが数珠繋がりに連なっているような気がした。

 腕を組み、深く苦悩するアステルを置き去りにして会話を重ねるガストの声に、注意を引かれる。


「その魔道具、俺にもぜひ試させてもらえませんか?」


 ガストは王太子殿下の身を守るという、同じ大儀の元に力を合わせ、互いに命を預け合ってきた仲間である。アステルとの絆は深い。であるから、発言した彼の意図が手に取るように分かってしまう。自然と、先程ガストに会ったと言っていたティナの顔が脳裏に浮かんだ。

 幼馴染みと、そして自身の何よりも大事な存在を邪な思惑から守る必要がある。アステルは決意溢れる口元を引き締めると、植木の壁、その向こう側へと行き着くべく足を動かした。一歩の距離を可能な限り大きくして。


 角を曲がって飛び込んできた光景に、アステルは目を見開いた。恐らくはガストであろう幼い子供が爪先立ちになり、桜に向かって両手を差し伸べている。以前に幼児姿の桜を認めてはいたが、見知った姿が変貌を遂げている様を目の当たりにすると、やはり当惑した。

 だが、どこから見ても健気で心和む幼児の抱擁をせがむ光景も、桜が腰を屈めて抱き留めようとする動作を確認した途端、アステルにとっては憤りの対象に変わった。


「――待ちなさい」


 ことさら意識せずとも冷ややかな声音が滲んだ。

 桜が振り返る。


「あ、アステル!」


 彼を呼ぶその声にしかと歓喜の色を感じ取り、アステルを濁らせる胸のつかえは随分と晴れた。

 謀を巡らせていた様子の幼児はといえば、命を預け合った仲間が醸し出す不穏な空気を察知したのかこちらを見ようともせず、そのままの姿勢で固まっている。

 それでいい、とアステルは何食わぬ顔で二人に近寄っていった。


「また迷路に挑戦しているんですか?」


 桜はまだ一度だけしか迷路を抜けたことがない。その後も何度か試みているようだが、いつも見回りの兵に息を切らしている所を発見され、保護されるという結果に終わっていた。

 天海の彩と顔見知りになれて光栄だから気に病まないでください、と気遣ってくれる件の兵士たちに、アステルは感謝の念を捧げている。時々差し入れを届けたりもしていた。


「や、そういうわけじゃなくてね。ここへ来ちゃったのは成り行き。アステルにお願いがあるんだけど……」


 今いいかな? と厄介事量産機の娘が見上げてくる。

 話の流れからその内容に見当がつくため、あまり聞きたくはない。だが常々、桜の頼みなら出来る限り叶えてやりたいと、半ば使命感さえ燃やしているアステルである。全てを受け入れるかのように、桜に笑いかけた。

 しかし先に片付けておかなければならない問題がある。ガストをこのまま野放しにしておくわけにはいかない。

 話は後で聞くようにし、まずは城内に戻りましょうと桜に提案した。未だ目を合わせず、動きのぎこちない幼児なガストを抱き上げる。そのまま桜を伴い歩き始めた。

 いとけないガストは軽く、頼りない感触は保護欲さえかき立てられる。――正体を知ってさえいなければ。


「ガスト」


 しっかりと抱きしめる素振りで位置を調整し、アステルはその可愛らしい耳に、桜には聞こえないように気をつけて囁きかけた。


「随分とあどけない姿になりましたね」

「うう゛っ!」


 悲鳴とも呻きとも判断のつかない声を漏らし、幼いガストの丸い肩が跳ね上がる。弾力に満ちた柔らかい体躯が、金縛りに遭ったように固まった。


「ガストさん?」


 奇妙な声に桜がどうしたのかと反応したが、アステルは少しふざけているようだと取り繕った。

 桜の注意が逸れたことを確認し、再び幼児の耳に口を寄せる。


「ご自分から魔道具を試すことを望んでいましたが、何を考えていたんですか?」

「あ、あぐ」

「ティナがガストに会ったと言っていたんですが、今からその姿を見せに行きますか?」

「あ~う゛~」


 短い首をすくめ、ガストが大きくかぶりを振る。

 ガストの部屋に到着するまで、意趣返しに彼の反応を楽しんで遊ぶアステルだった。



「その姿では万が一のことがあっても対処できませんからね。元に戻るまで大人しくしておいてください」


 部屋に送り届け、アステルが念を押すと、ガストは壊れた首振り人形のように激しく何度も頷き返す。その様子を確認してから、アステルは桜と共に自室へと戻った。


「それで――」


 長椅子に並んで質問を投げかける。


「俺に頼みとは?」

「えーと。あのね。いざ切り出すとなったら言いにくいんだけど……」

「なんでも言ってください」


 躊躇う桜に、アステルは何事も許してしまえるような慈愛の笑みを浮かべた。どうせ何を告げてくるか予測はできているのだ。

 桜の顔が明かりを灯したかのように輝く。アステルはこの表情をいつまでも守ってやりたいと、心に決めている。


「これなんだけど……」


 説教の可能性を恐れているのか、桜が幾分控えめに魔道具の小箱を差し出した。


「アステル、子供の心を取り戻したくない?」


 予想通り。

 しかし願いはなんでも叶えてやりたいとはいえ、どうして桜はこうも、承諾するに覚悟を必要とする難事ばかりを突きつけてくるのか。

 或いは試されているのか? とアステルが勘ぐりたくなるのも、散々巻き添えを受けて後処理を任されてきた身としては、無理もないといえるだろう。


「要するに――」


 アステルは腹を据えるため、一つ息を吐いた。


「俺を幼児姿にしたいと?」

「うっ」


 桜が詰まる。


「まあ……はっきり言ってしまったらそうなんだけどね」

「いいでしょう」

「へ?」


 即了承の答えが返ってきたことに理解が追いつかないのか、天海の彩の娘がぽかんと口を開けた。その無防備な表情がたまらず、アステルは彼女の頬に口づけを落とした。桜がもう一度へ? と呟き、すぐさま我に返った様子で言った。


「本当に? 本当にいいの?」

「はい。数時間で戻るようですし。ただしこの部屋の中でだけです。構いませんね?」

「うん!」


 目の前の娘が、花が咲いたような満開の笑顔で応える。これが見られるなら、僅かな時間の我慢など取るに足らない些細なことだとアステルは思った。


「それじゃ、早速」

「少し待ってください」


 小箱を開けようとする桜を手振りで押し止める。確認しておきたいことがあった。


「王太子殿下とベルナール、それからリディに会いませんでしたか?」

「殿下とリディは知らない。ベルナールさんには会ったけど……」


 けど、の部分に不安を感じ、頷いて先を促す。


「イ……ペリドットが小箱で小さくしちゃった」


 桜が、隠していた悪戯を告白するような、きまり悪げな表情をする。

 やはり関係していたのか。生真面目なベルナールは、さぞかし大変な思いをしたことだろう。


「で、でもね、ちゃんとベルナールさんの部屋に送り届けてきたからっ」


 大丈夫だよ! と焦ったように言い募る厄介な娘に、アステルは胡乱な目を向けた。次いで、だがまあと考え直す。ベルナールも修羅場をいくつも積んだ屈強な男なのだ。どうとでもするだろう。

 事故に遭ったとでも思って折り合いをつけてもらおう、とアステルはベルナールに関しては不問に付すことにした。他の二人も、もしかするとティア・ペリドットに会っているかもしれないと憶測するものの、今の時点では確かめようがない。二人の強靱さを信じ、この問題も考えないことにした。


「分かりました。では魔道具を貸してください」


 元気よく両手を差し出す桜から小箱を受け取り、アステルは蓋を開けた。

 目の前にいる桜、それから部屋や家具のサイズがやけに大きくなったと錯覚した。逆に、自分の身体は見える範囲全てが縮んでしまったと自覚する。もちろん見えない場所も当然小さくなっているのだろうが。


「アステル!!」


 座っている自らの身体を興味深く見下ろしていると、室内に桜の叫び声が響き渡った。何事かと顔を上げると、座面に両手を突き、感動も露わに身を乗り出してくる桜と目が合った。


「凄い、お父様が言ってた通りだ! 天使みたい! めちゃくちゃ可愛い!!」


 桜が両の拳を胸の前で握り締め、ぶんぶんと音がしそうに激しく首を振っている。

 嬉しそうな様子は大変結構なことなのだが、アステルはお父様という部分を聞きとがめた。


「父上がなんと?」


 言葉はしゃべれるようだ。

 随分と高い声だ、といつもと違う音域を奇妙に思う。


「実はね、お父様も小さくなっちゃったの。あ、お父様の場合は自分からだったよ」


 打ち明けながらも、桜が「抱っこさせて」というように両腕を差し出し催促してくる。アステルは素直に桜の膝へと移動した。

「可愛いなあ」と満面の笑みで呟きながら、桜はアステルの頭を撫でたりかき抱いたりしてくる。その行為自体にやはり異論は全くないのだが、桜の台詞がどうしても気になる。

 父上が、自分から? 困惑が表情に出ていたのか、珍しく桜が読んだように言葉を続ける。


「うん。ビックリだよね。でも本当にお父様が自分で蓋を開けちゃったんだよ。やっぱり親子だね~。小さいアステルとお父様って瓜二つ。ああもう、どうしよう!」


 感に堪えないというような桜に、またしても締めつけられる。アステルは桜に覆われた狭い視界の中、視線を移ろわせた。

 桜の頼みでもなければアステルは、自ら幼形をとるなどとてもできそうにない。ガストのように何か目論見があるならともかく、ヘンリーはなんの他意もなく、ただ面白そうで試したかったからそうしただけなのだろう。アステルはヘンリーの大きさを感じた。父を乗り越えられる日はまだまだ遠そうだ。

 敗北感に苛まれながらもアステルは、ヘンリーが未だ高くそびえる壁でいてくれるという事実を喜んだ。


 何はともあれ、アステルも正常な男である。通常ではあり得ない状況の中桜の腕に包まれ、普段ではまだ味わえない感触を堪能した。

 しかしその一時も、突然姿を現した闖入者によって終わりを告げられる。


「そろそろ時間切れ……。アステルバード、桜の上からどいて……」


 肩に梔色の鳥を乗せたペリドットが、勝者の栄光の如くアステルに指を突きつける。桜が「ええ、もう?」と不満を訴えた。

 どうもこのユヴェーレンには快く思われていないようだ。しかしこのまま留まり続けて、元の大きさに戻った時に桜を潰してしまうような事態はアステルにとってもよろしくない。

 胸の中で諦めの溜め息を吐き、潔く快い場所から降りた。

 その途端、いつの間に自らの手に移動させていたのか、ペリドットが桜に向けて小箱の蓋を開ける。

 見慣れた桜の姿が煙のようにかき消え、そこには代わりに、可愛らしくちょこんと座った幼児がいた。あどけない顔を驚きに染め、キョロキョロと辺りを見回している。年の頃は以前と同じようだが、今回は天海の彩そのままの特徴が残されていた。

 どんな姿でも愛らしい、とアステルは惚けたことを考えた。


「じゃあ、桜は明日の夕刻まで預かる……。公爵にもそう伝えておいて……」


 なに?

 信じがたい内容を頭の中で反芻しているアステルになど一瞥もくれず、ペリドットは桜を抱き上げると愛しそうに頬ずりし、そのまま消え去った。連れていかれる間際、手を振っていた桜に応える間もない、鮮やかな手並みだった。

 アステルは、可愛らしくなってしまった手のひらを額に当て、今日何度目かの溜め息を深々と吐いた。


 間もなく、気を取り直したアステルの身体が本来の大きさを取り戻す。

 取りかからなければならない用事はいくつもある。さて何から片付けようか、と立ち上がったところでノックの音が聞こえた。


「お兄様、いらっしゃいます?」

「リディ? どうぞ」


 いささか焦った様子でリディが飛び込んでくる。ここまで走ってきたのか、息が荒い。


「何をそんなに慌てているんですか?」

「ああ、やっぱり終わっている……」


 どうしたことか、アステルを一目見見るなりがっかりした様子でリディが座り込んだ。

 不思議に思いながらも、まず最初は父に桜の不在を伝えることにしようと頭の中で段取りをくむ。

 だが、その前に。

 ティナが探していたことを告げるため、また、今まで何をしていたのかを聞くために、リディと話をする必要があるだろう。


 肩を落とし、床に手を突く妹を起こそうと、アステルは一歩を踏み出した。


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