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萌黄色の災難 ガスト

 ガストはその日、上機嫌だった。

 麗しの主はどこぞをほっつき歩き、なにかと口うるさいベルナールもどういう具合か姿を見せない。比較的ガストを自由にさせてくれるアステルに、レジーを探してくると言い置いて外へ出てきた。

 休憩時間を多めに取ることは日常茶飯事で、特に背徳感を覚えるわけではないのだが、大義名分があるとやはり気持ちが違う。いつもより幾分軽妙だ。ということは、多少なりとも気が咎めていたのかもしれない。

 俺も根っこの所は真面目なんだよな、とガストは自分の気質を褒める方向に再認識した。


 喜ばしい事というものは重なるもので、先程などはティナと会った。

 クリスティーナといえば、ベルディアが誇る美女である。公爵令嬢リデルと並び、大陸中央で一、二を争っている。『宵闇に射す白銀』『寂夜の野に浮かぶ淡花』等、詩人たちは月の光を思い起こさせる美辞麗句をこぞって彼女に捧げ、その輝きを褒め称える。

 ガストは女性が大好きだ。時にはか弱く、時には女性に逆らえない男の性質を熟知した上で強行に自分の要求を通すという、場面によって顔を使い分けるしたたかさも愛すべき点だと思っている。

 一般に、エルネット生まれの男は血の中に女好き成分が通っていると言われる。もちろん根も葉もない揶揄の類ではあるが、自分に関しては当てはまっているとガストも思う。そうかといって誰でもいいわけではなく、ちゃんと好みの女性だけに反応しているという自負はある。とはいえ好みの範囲が広いことは確かだ。

 なにしろ女性は、むさ苦しい男と同じ生き物なのかと疑いたくなるほどに違う。そこにいるだけで場が華やぎ、気持ちが浮き立つ。男には中々だせないある種の柔らかな雰囲気も持っている。更に笑顔ならその効果は数倍に膨れあがり、ましてや絶世の美女とあれば、祝福が形を取ったかのように感じられる。

 口笛を吹きつつ、軽い足取りのままでガストは迷路の庭に入った。無駄に複雑なベルディア王城名物。物好きしか訪れないこの場所は、王太子殿下お気に入りの逢瀬場となっている。見回りの兵などは、どの地点を特にレジーが好むか知り尽くしており、邪魔などをして勘気を被ってしまうことがないよう、細心の注意を払って職務を遂行する。

 ――一応覗いておきますかね。

 入り組んだ回路だとはいえ、ガストにとっては通い慣れた道のりだ。予測を立てた場所に向かって迷いのない足取りで進んでいき、何度目かの角を曲がる。


「うぎゃっ!」

「うわっ!」


 全身に衝撃が走った。

 身体がグラつき、たたらを踏む。どうやら、前から走ってきた誰かと出会い頭に衝突してしまったらしい。とはいえ、ガストの方に大した被害はない。しかし、ぶつかってきた誰かはガストにはね飛ばされ、地面に放り出されてしまったようだった。


「あたたた……」


 声の主は尻餅をついて片手で腰をさすり、もう一方の手を額に当てて顔を痛そうに歪めている。黒い髪に同色の目という、珍しい色合わせ。ユヴェーレンを彷彿とさせる天海の彩。

 桜だった。


「大丈夫ですか?」


 ガストは女性至上主義精神を発揮するべく慌てて駆け寄り、右手を差し出した。


「へ、平気です。すいません、ぶつかっちゃって」


 気付いた桜がまだ顔を顰めたままありがとうございますと述べ、額を触っていた手を差し伸べてきた。ガストはそれを掴み、尻餅を突いている娘の身体を引き起こしてやる。


「ほんと、すいませんでした。パ……じゃなくてガストさん」


 ちゃんと立った桜がガストの手を離し、土が付いてしまった腰の辺りをパタパタと払う。


「私の方こそ失礼しました。しかし、何をそんなに急いでいたんです?」


 『ぱ』ってなんだ? 疑問に思いながらもガストは尋ねた。


「ちょっと追われてて――」

「桜……!」


 答える桜の声に被せるようにして、別の声が割り込んできた。

 ガストが声の方へ目を向けると、子供が走ってくる。肩に鳥を乗せていて、萌黄色の髪と目――へ? その姿を確認して目を剥いた。

 天海の彩!?


「えっ? えっ!?」


 思わず首を行きつ戻りつさせ、色目が異なる天海の彩同士を見比べる。

 ガストの狼狽を余所に、桜が声の方を振り向いた。子供が彼女の前に立つ。余程慌てていたのか、それとも今まで走っていたからなのか、息が乱れていた。


「桜……、転んだの……?」

「うん。それは大丈夫なんだけど、でもペリドットのせいだよ」

「なんで……?」

「小箱持って追いかけてくるから! 屋上からこんな所まで来ちゃったじゃない」

「桜が大人しく言うこと聞いてくれたら……、追いかけない……」

「だから、あともうちょっと待ってって言ってるでしょ!?」

「やだ……。充分待った……。それに桜は約束してくれたはず……」

「それはアステルのを見たらって話だったでしょうが! ペリドットだって約束してくれた!」


 ――ペリドットってことは、やっぱりユヴェーレンなのか。……しかし小さい声だな。

 ガストは目下で繰り広げられている、世にも稀なる天海の彩同士のイマイチ緊迫感に欠ける口喧嘩に唖然としながらも、とりあえずは納得した。そしてやはりガストを置き去りにして、白熱の応酬は続く。


「忘れた……」


 子供の方が、プイと顔を逸らす。

 ――ユヴェーレンってのは、意外と子供っぽいんだな。


「都合のいいことばっかり言っちゃって!」


 桜がたまりかねた様子で肩を怒らせた。


「そんなだったら、ペリドットのこと嫌いになるんだからね!」

「そんな……っ!」


 途端に子供の方が桜に向き直り、悲しみに凝り固まったような表情を浮かべる。

 ――おっ、力関係はサクラ殿の方が上なのか? ユヴェーレン相手にやるもんだ。


「本当に……? 本当に嫌いになる……?」


 子供がとうとう大きな目を覆う涙の膜を盛り上がらせ、瞳をうるうる揺らし始める。肩に乗った鳥も、身を切られるように一声鳴いた。


「えっ? あっ……えと」


 すぐに桜が慌てた様子で両手を激しく振り、「嘘! 今の嘘だから!!」と前言を撤回する。

 ――やっぱユヴェーレンの方が一枚上手か。口元笑ってるしな。

 口説く相手の心はともかくとして、他人のことはよく見えるガストだった。


「本当に……?」

「うん、ほんとほんと。ペリドット大好き」

「よかった……」


 萌黄色のユヴェーレンが先程とは打って変わった満開の笑顔を披露し、安堵の息を吐く。

 ――さっきの表情を見てなかったら、外見相応の可愛らしい顔なんだが……。しかし、なんの痴話喧嘩だこりゃ。サクラ殿は宗旨替えでもしたのか?


「じゃあさ、アステルのことが終わったら、今日から明日の夕方までずっと一緒にいるから。それでも駄目?」

「……」


 桜が示す譲歩を受け、子供がいきなり俯き肩を震わせだす。魔術師ではない天海の彩は、その前で再び焦っていた。また泣かせてしまったのかと思っているのかもしれない。

 ――却下されるのか? しかし、さっきからやけにバドの名前が出てくるが…………?


「じゃあ、夜は一緒に寝てくれる……?」

「あ、楽しそうだね。いいよ」

「膝に乗せてご飯食べさせてもいい……?」

「何それ! 精神年齢は変わらないんだから、ご飯くらい自分で……!」

「……」


 相変わらず俯いたままの子供が黙りこくって、途中で一度治まっていた肩の震えをまたもや復活させる。鳥まで追随するように憐れな声を出す。

 ――ああ、こりゃ、サクラ殿には分が悪いな。それにしても本当、なんの会話なんだよ一体。


「うー、もう分かった! ペリドットの言う通りにする! だから顔上げてよ!」

「約束……?」

「約束! でもその代わり、ペリドットも約束守ってね」

「分かった……」


 ここで子供がやっと顔を上げる。その顔に貼りついているのは、心からの喜びを表す無邪気な笑みだった。

 ――今までもああやって転がされてきたのかねえ、サクラ殿は。なんにしろ、双方納得のいく形で決着がついたようだな。


「じゃあこれ……」

「うん、ありがとう」


 子供が、桜に銀色の小箱を手渡した。


「また後で……」

「後でね。――あ、待って、ペリドット」

「何……?」


 桜が別れを告げる子供を呼び止める。


「ガストさんの前なのに、顔隠してないんだね。自分の口でしゃべってるし」

「あ、忘れてた……。慌てたから……」と子供が急いでフードを被ろうとする。

「そうじゃなくてさ」


 桜が手振りで押しとどめた。


「やっぱりペリドットの髪と目の色は綺麗だし、とっても可愛い顔してるんだから、出してた方がいいよって言いたかったの」


 本心からそう思っているようにニコニコと告げる桜に、子供が真っ赤になって俯く。これは演技ではなさそうだ。


「ありがとう……」


 今までよりも一段と小さい声で呟くと、最後までガストを無視したまま、子供と鳥はその場から忽然と姿を消してしまった。ガストは目を見張る。移動の術とは、さすがはユヴェーレン。しかし桜はそのユヴェーレンを手玉に取っているようだ。意図して、というわけではないようだが。


「やりますね、サクラ殿」

「何がですか? って、そんなことよりガストさん!」


 桜が勢いよく尋ねてくる。


「アステルはどこにいますか」

「バド?」


 押され気味になりながらもガストは答えてやった。


「あいつなら、王太子殿下の執務室で書類と格闘していると思いますよ」

「ああっ! そうか……」


 今度は一転して気落ちした様子で、自分に言い聞かせるように独り言を呟いている。


「――やっぱ仕事中だったら不味いよねえ……」

「何かバドに用事でも? 案内しますが」

「いえいえ、仕事を邪魔してまでというほどの用事じゃないんで」

「サクラ殿だったら、バドは喜んで中断するでしょうよ」

「いえ!」


 護衛仲間の想い人は力強く否定した。


「確実に説教される上に、謹慎処分を言い渡されると思います」


 意外だった。アステルといえばいつも穏和に微笑を湛え、特に女性に対して厳しい態度を取る場面など、ガストは見たことがない。しかし微妙に顔をひきつらせ、何かを思い出すかのように遠い目をして語る桜からは、体験者だけが醸し出す真実味が感じられる。

 そういえば桜のことが絡むと、アステルは性格が変わったようになる時があったような? 過去の情景を脳裏に描き、おののく桜の気持ちがなんとなく理解できるガストであった。――怒らせると結構恐そうだしな。

 自分に協力できることはなさそうだ。


「ところで――」


 触らぬ神に祟りなしを実行することに決めたガストは、話題を変えることにした。


「さっきのお方はティア・ペリドットのようですが、お知り合いなんですか? 随分親しそうでしたが」

「まあ、ちょっとした経緯がありまして。あ、でもあんまり人には言わないでいただけるとありがたいんですけど」


 確かに、自身が天海の彩な上にユヴェーレンと親しいなどという事実が広まれば、物珍しさや恩恵に預かろうとする者たちで長蛇の列が出来上がるだろう。しかしさっきの様子からすると、二人の鬼ごっこがどれだけの人間の目に留まったか、分かったものではないのだが。まあそれはガストの考えることではない。


「分かりました。先程のやり取りは、私の胸に納めておきます。それはそうと、その小箱はなんなんですか?」


 桜がティア・ペリドットから受け取った銀色の小箱。何かの魔道具なのだろうか。


「あ、これはティア・アクアマリンが作った魔道具です」


 桜が答えながら、ガストによく見えるよう手のひら大の小箱を差し出す。


「ああ、なるほど」


 小箱の蓋にはティア・アクアマリンの象徴が輝いている。何が起こるか分からず、しかし決して幸福は呼び込まないと呪いの如き畏怖心を伴って伝聞される、ユヴェーレン・アクアマリンの凶悪な魔道具。

 ユヴェーレンが持っているということに、これほど納得できる魔道具も他にないだろう。ガストは深く頷いた。

 だが何故桜がこんな物を嬉々として持っているのか?


「あ、これの機能は分かってるんですよ」


 疑問が顔に出ていたのか、彼女が言った。


「小さな子供になっちゃうんです。でも数時間で元に戻れますから、そんなに危険な魔道具というわけでもないでしょう?」


 桜の言う通り、噂に聞いていたティア・アクアマリンの魔道具にしては控えめな性能といえるだろう。先程のティア・ペリドットとの会話の意味と、二人の目的も仄かに察することがきた。

 不意に、小さな子供と聞いてガストの胸をある幼い少女の面影が掠めた。その姿が、目の前の桜とどことなく重なる。そういえば、似ているような気がする。でもまあ髪と目の色は全く違っているし、他人のそら似だろう。

 ――あの嬢ちゃん、元気にしてるかな。よく動く表情と仕草を思い出し、少し感傷的になってしまったガストだった。

 しかし次の瞬間、そのしんみりするような物思いを吹き飛ばす、電撃のような妙案がガストの頭を駆け巡る。

 ガストはあの少女を抱いて動き回っていた。ということは、子供というものは公然と抱きついても、なんら不自然さを抱かせない生き物であるということだ。そしてほとんどの女性は、幼子を見ると愛らしいと思わずにはいられない性質を持っている。きっと幼児が両腕を差し伸べてくれば、躊躇を覚えず抱き上げるだろう。

 ――つまり、子供になれば触り放題!

 いつの間にか腕を組み俯いて考えに耽っていたガストは、その素晴らしい思いつきを直ぐさま実行に移すべく、素早い動作で顔を上げた。


「サクラ殿!!」

「は、はい!」


 余りの勢いに、桜が弾かれたように返事をした。いかんいかん、薔薇色をした期待に熱が籠もりすぎてしまっている。ガストは逸る気持ちを抑え、心持ち声に落ち着きを加えた。


「その魔道具、ぜひ俺にも試させてもらえませんか?」

「え?」


 桜が目を丸くした。


「いいですけど、ガストさんも子供になってみたいんですか?」

「ええ。この歳にもなると、子供の頃の気持ちなど、とうの昔に忘れてしまっていますからね。ここらで一つ、童心に返ってそれをこれから先の人生にも活かしていきたいと愚考するわけです」


 口を突いて出てきた言い訳が何を意味しているかなど、もはやガスト本人にも分からない。今ならまだティナも城内に残っているだろう。上手くすれば、あの麗人のあんな所やそんな所の感触を――ガストの頭を占めているのは、溢れくる欲望だけである。

 そんな邪な考えなどおくびにも出さず言い募るガストに、桜はふむふむと感心した様子だった。


「それじゃ、いきますよ」


 桜が小箱を開いた。

 ガストの目線が瞬時に低くなる。立てはするようだが足元は覚束ず、喋ろうとしても意味不明な唸り声にしかならない。見下ろしていたはずの桜の腹部を斜め上に、ガストは心中でよっしゃと快哉を叫んだ。いつもより重く感じる頭を上げ、その拍子にふらつきながら年上になってしまった娘の表情を確認する。

 桜の目は愛玩動物を見つめる時のような輝きを抱き、まずガストの頭の天辺から爪先まで移動して、再び上に戻り、顔面に固定された。試しに自慢の笑顔をニコリと振る舞ってみせると、ふにゃりと破顔している。可愛くて仕方がない、という想いが表情にも態度にも透けている。

 これはいけそうだ。

 幼児姿の成人男は頼りなさを前面に押し出すように言葉にならない声を一つ上げ、桜に向かって計画通り両腕を差し伸べた。向けられた当人の目が更に輝きを増す。ガストを抱き上げるべく桜が前屈みになる。

 ――いざ、至福の世界へ!

 胸を弾ませたガストが桜に抱きつこうとしたその時。


「――待ちなさい」


 どこからともなく制止を意味する語句が降ってきた。よく知っている聞き慣れた声音には気のせいか、静かな憤りが混じっているように感じられる。首を巡らせれば、きっと金の髪を持つ美貌の護衛仲間が立っているのだろう。

 アステルが浮かべている表情を目にしたくないガストは、とりあえず固まっておくことにした。


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