萌黄色の災難 ベルナール
「ベルナールさん、避けて!!」
切羽詰まったその叫びが、ベルナールの耳に入った時にはもう遅かった。大体、見えない攻撃をどうやって避けろというのか。
ベルナールは馬鹿に小さくなった自分の手のひらを見て、途方に暮れていた。
私が何をしたというのだろう? と、ここに至るまでの経緯を振り返る。
ベルナールは王太子の護衛を務めている。ベルディア王国の至宝と表現して差し支えない次期王の側近とくれば、武芸に於いての秀でた実力は勿論のこと、勇猛果敢を筆頭に、頭脳の明晰さ、そして品行方正であることも要求される。素行については主を含めたベルナール以外の他三名を見ていると、枠の外に置かれている気がしないでもない。一人だけ平均年齢を上げている彼は、それも若さゆえの衝動であろうと黙認している。いや、アステルバードはもう落ち着いているか。
ベルナールの出身は隣国バルトロメである。一応貴族の家に生を受けたもののそれほど裕福でない家の領地は一つだけで、三男坊の彼には受け継ぐべき財産など、権謀術数を駆使して兄たちを蹴落としでもしない限り回ってこない。ついでをいえば彼の家系は身体も頑健で、病気で突然ぽっくり逝くということはまず期待できない。
そもそも、ベルナールは自分が家格を背負って立つ器ではないと理解しているため、下克上など考えてもいなかった。
とはいえ男として生まれたからには心酔する主君に剣を捧げ、主のために死にたい。いささか時代遅れな思想だが、頭の固いベルナールは昔ながらの考えに価値を見出している。
そんな折、ベルディア王太子の噂を耳にした。対峙すると自然に膝をつきたくなる威厳、無駄のない政策を次々と編み出す聡明さ、人を従わせるに足る説得力を備えた美貌。他国にまで轟く英明に興味を引かれ、これはと思い国を出た。
それからあらゆる苦難と努力、忍耐に長々とした経過を辿ってレジーに気に入られ、取り立てられたのだった。
ベルディア王太子の実物と噂には相違がいくつもあった。当初はいちいち驚いていた生真面目なベルナールだったが、概ねのところは彼が思い描いていた人物像に合致しており、時にはそれ以上だと感銘を受けることもある。彼は自分の選択に、非常に満足していた。
ベルナールが尊敬を抱いている主君の美点の一つに実力主義があげられる。レジナルドは要求する能力さえ備えていれば、あまり身分にはこだわらない。
主の性質を反映してか、護衛仲間であるガストは特に際だった生まれでないにも関わらず、自然体で飄々と構えている。ベルディアで名だたる家系に生まれ、自身も侯爵位にあるアステルバードでさえ気さくに接してくる。そればかりか、どんな者に対しても丁寧な態度を崩さないのだ。
ベルナールにとって今生きている所は、大いに居心地がいい場所だった。
そして本日、ベルナールはいつものように出仕した。
「ベルナール、レジーがどこへ行ったか知りませんか?」
「いや、私は今来たばかりだ。探してこようか?」
「すみません、今手が離せないので。見つけたら、俺が呼んでいたと伝えておいていただけますか?」
「分かった」
とまあ、アステルの要請を受けて捜索に出たはいいのだが、親愛なる主君は一向に見当たらない。広い王城内を流れ、流れて屋上庭園に辿り着いた。
「ずるい! 話が違う!」
「違わない……。桜の頼みはちゃんと聞いた……」
ベルナールが数歩足を進めた所で、言い争う声が聞こえてきたのだ。その中の、『桜』という単語が耳を打つ。ベルナールが知る範囲で、その珍しい名前の持ち主は私的にも公的にも一人しか存在しない。しかもそれが護衛仲間にとっての最重要人物であり、世にも稀なる天海の彩とくれば何かあっては大変と、声を頼りに急いでその場所へと走った。
「そりゃあ確かに、実際に頼んだのはここへ連れてきてってことだったけど。でも小さなアステルを見たいって言ったら分かったって言ってくれた!」
「分かったとは言ったけど、待つとは言ってない……。それに、私は別に見たくないとも言った……」
近付くにつれ、声の主の一方はやはり桜らしいと判明してくる。少し高めで聞き覚えのある響き。
もう一人は子供――なのだろうか? 声がやや小さくて甘く、幼い。
そのせいというわけでもないだろうが、この口論もどちらかというと口喧嘩のように思えてきた。言ったの言ってないのと揚げ足取りで、内容もいささか下らない……いやはや、子供じみている……これもなんだか。
もしかすると、ここまで焦る必要はないのではないか。そもそも気にかけるような問題ですらないのではないか、と懸念を覚える。それと並行して、例え心の中ではあっても相手を引き下げるような思考は断じてすまいと。そうベルナールはとりどりの花を横目に駆けながら、ふさわしい言葉を懸命に模索した。
サラサラと流れる川を難なく飛び越え、向こう側の地面を片足が踏みしめる。その瞬間、件の論争に付けるべき名称に思い当たった。
「そうだ、他愛ないやり取り。これだ」
果たして浮かんできた単語が本当に失礼に当たらないかどうかはともかく、ベルナールは軽い満足感に浸る。そしてそういえば、小さいアステルバード? と桜の台詞に出てきた部分に疑問を抱いたところで、二つの人影が見えた。
後ろ姿を向けているのは桜なのだろう。黒い髪と、全身の印象からベルナールはそう判断する。その桜に対峙している子供。桜の肩越し、胸部から上を視界に入れた時、まずは肩に乗っている鳥に注目した。梔色。そして首から上を認め、ベルナールは驚愕を露わにする。
萌黄色の髪と目。天海の彩。
これではまるで……!
文献の中でしかお目にかかれない存在を前に受けた、あまりの衝撃に、意識が全て持っていかれてしまったのだ。
だから自分と、それからユヴェーレンと目される子供との丁度中間地点に位置する桜が、右足を半歩分ずらして身体を捻った理由について、ベルナールの鍛え抜かれた総身は数瞬の間反応を忘れた。
身体の向きを変えたことによって、桜の目にベルナールの姿が留まったのだろう。息を呑んだ彼女が口を開く。その寸前、ベルナールは極限まで開かれた萌黄色の可愛らしい瞳と視線を交錯させた。
何故この子供は小箱を自分に向けて開いているのだろうか?
そして冒頭に戻るわけであり。
「すいません、ベルナールさん!」
目の前で、桜が腰を折って平謝りしている。子供の方は既に姿を消してしまっていた。
しかしベルナールはそんな瑣末なことよりも、もっと重大かつ危急的な状況に狼狽えている。手始めに、随分小柄だと常々思っていた桜を見上げているという事実を捉え、ベルナールは胸の奥に見えない傷をつけた。
見下ろす身体は全てが小さい。手も、足も、地面までの距離も、ついでに何故か身につけている衣服も長靴も。
やけにすべすべして厚みだけはある手を顔に持っていく。頬を触ると、そのなめらかな感触にたじろいだ。この肌からは間違ってもひげなど生えはしないだろう。
そのままなんとはなしに頭へ腕を伸ばし、今まで積み上げてきた自分というものが崩壊するのではないか、という悲壮な感覚を味わう。限界まで上げても、頭頂部に届く程度が精一杯だったのだ。その短さに、果てしない無力さが付随しているような気がした。この腕では剣を持ち上げるどころか、握ることすら叶わない。
この姿なら泣いても許されるのではないだろうか、と心中で不覚にも弱音を吐いてしまうベルナールだった。
ベルナールがいとけない自分の姿を自覚して呆然と立っていると、桜が膝を曲げてしゃがみ込んだ。それでも目線は彼女の方が上だという事実について、もはやベルナールには痛手を受ける余裕もない。
桜が幼い子供に対するように少し見下ろし、小首を傾げて困ったように話しかけてくる。
「本当にすいません、巻き込んでしまって」
巻き込んだとはどういうことなのか。あなたはユヴェーレンと知り合いだったのか。ということは、やはりあなたもユヴェーレンだったのか。いやしかし、それなら町の無頼者如きに遅れを取るはずがない。等々。
目の前にいる天海の彩に対して訊きたい内容は多岐に渡る。しかし言葉を紡いでからベルナールは再度泣きたくなった。
あー。もしくは、だー。
全てがこの、ただ発しただけと思しき声に集約されてしまう。もはや言葉ではない。
これでは赤子ではないか!
そう考えて、実際今は赤子だったのだと心底から嘆息した。
「でも大丈夫ですよ!」
落ち込んでいるベルナールをなんとか浮上させようとしているのだろう。桜が、ガッツポーズを作ってわざとらしいほど明るい声を出した。
何が大丈夫なのだろう?
虚脱気味に尋ねたかったベルナールだが、あの屈辱的な声は二度と出す気になれない。無言のまま、目に宿る表情だけで問うた。
「この姿のままでいるのはせいぜい数時間だけです。お父様なんて、一時間程度で戻ったんですから」
お願い、だから平気だと思ってください、とばかりに懇願の窺える笑顔で桜が答える。
――ヘンリー様まで犠牲になったのか。
まさかそのヘンリーが自ら幼形を取ったとは思いもよらないベルナールは、心中で彼の尊敬するお方に僭越ながら、と断ってから同情の念を寄せた。
などと、割と早く元の姿に戻ることができそうだと少しだけ安堵しつつ、ベルナールは呑気に思考遊びを楽しんで、なるべくこの現実から目を背けるようにしていた。しかし憐れにも次なる桜の発言に、その僅かな気晴らしさえ打ち砕かれることになる。
「そういうわけで抱っこして連れていきますから、ベルナールさんの部屋まで案内してください」
抱っこ……
三十路に差しかかり、どちらかというと体格に恵まれた男であるベルナールには、使われたことがない幼児向けの専門用語である。いや、それはベルナールとてかつては幼子であったのだからして、その折りにはふんだんに抱きかかえられもしたのであろうが。いや、確かに今の自分は持ち運ばれても不自然のない姿をしているのであろうが。
しかし中身は成人して十余年を経た、大人のままなのだ!
支離滅裂ながらも、ベルナールは話すことができれば彼女に何を言いたいのか。それを頭の中で素早く纏めた。
要するに。
――冗談ではない!
確固の念を以て桜に意識を戻すと、既にベルナールを抱き上げようと両腕を差し伸べてきている。何故か表情には零れんばかりの愛情が溢れていて、その顔が雄弁に物語っているだろう単語をベルナールは聞きたくないと願った。
『かわいい』などと言われてしまった日には、立ち直れなくなってしまうではないか!
とりあえず、千切れよとばかりに首を振って断固とした否定を表明し、逃げるために一歩後ずさりする。するとその足が小石を踏んでしまったのか、均衡を失った身体は呆気なく地面に転がってしまった。ころりと。
青さを惜しげもなく滲ませた空が眩しい、とベルナールは自分を慰めた。
「ベルナールさん!」
狼狽するような声が聞こえる。先程までの自分の抵抗は一体何だったのかと虚しくなるほどあっさりと、ベルナールの身体は持ち上げられてしまった。
ベルナールの身体を彼女曰くのところ『抱っこ』した桜が、大丈夫ですか? と尋ねながら背中の土を払い、頭を撫でてきた。恐らく、彼の本当の年齢など彼女の中では捨て置かれているのだろう。「私の時よりまだ小さい。一歳ぐらいかな」などと、心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか?
あまりの状況についていけず、呆然とされるがままになっていたベルナールは突然気付いた。
これを、アステルが知ったらどうなるのだろうか?
以前、今とは逆に桜を抱きかかえた際に向けられた、護衛仲間の突き刺すような視線を思い出す。ベルナールの背中を嫌な汗が伝った。桜はやはり自分の年齢など頓着していないのだろう。お構いなしに顔を近づけ、ギュウギュウとベルナールの身体を抱き締めてくる。そうなれば当然、親密である者しか触れてはいけない箇所も押しつけられているわけで。
架空のアステルに向けられる視線の矢先が更に鋭さを増したような気がして、ベルナールは戦慄した。
身の危険を感じた幼児姿の男は、どうにかして降りようと必死で暴れる。しかし無念にも、とうとう華奢な娘の腕から脱出を果たすことは叶わなかった。
かくなる上は一刻も早く自室へと戻るしかない。
一転して協力的になったベルナールに桜は疑問を抱いた様子だったが、身振り手振りの説明を受け、無事に部屋まで送り届けてくれた。
奇跡的に誰にも見咎められることもなく辿り着き、自分の部屋の扉を見た瞬間、本気で泣きそうになった王太子殿下の屈強な護衛だった。
そのままの姿で過ごすこと約二時間。部屋の前を誰かが通り過ぎる度に、入ってきはしないかとビクビク震え、どうにかこうにか堪え忍んでやり過ごす。生きた心地が全くしなかった。
大きくなった自分の手足を確認した時、これまで生きてきて今ほど安堵したことはないと、世界の全てに感謝を捧げた。
そしてやっと余裕を取り戻したベルナールは、再び桜の言葉を思い出す。
『小さなアステル』
今ならその発言の意味するところが否応なしによく分かる。 自分もあれほどの心労を味わったのだ。アステルも、相手が桜なら本望だろう。
もうこの件に関わりたくないベルナールは、主君の元へ参じるべく廊下への扉を開いた。




