萌黄色の災難 ヘンリー
カンカンと、木と木を打ち合う甲高い音が空へ吸い込まれる。
私が棒で上段から打ち込むと、ヘンリー父さんは木刀で軽く受け流した。それならばと流された勢いのまま、くるりとターンして返す棒で脇腹を狙う。でもそれは棒から伝わる衝撃と、小気味よい音と共に、私の動きを読んだように配置されていた木刀に弾かれてしまった。くっそう。
棒を地面に突き、それを支えにしてしばらくぜーはーと乱れた呼吸を整える。
ここは王都のお屋敷。弱いながらも定期的に型のおさらいなんかをしておかないと、いざという時に身体が動かない、という困った事態に陥ってしまう。というわけで、働き蟻のように真面目な私が広い庭で自己鍛錬に精を出していると、ヘンリー父さんが相手をしてあげようとやってきたのだ。
今はほとんど剣を取ることがないとはいえ、さすがはアステルの前にフリューゲルの使い手を務めていただけはある。ヘンリー父さんの動きは戦い慣れた人のそれだ。私なんか簡単にあしらわれてしまった。
今だって若い私が疲れ果てているのに、ヘンリー父さんは髪を乱してもいない。無駄な動作が少ないんだろうな。
「お父様、強いね……」
「そんなことはないさ。随分衰えてしまったよ」
忙しない呼吸の合間に言葉を発している私には、その台詞は謙遜を超えて嫌みとしか取れないぞ! ついつい心中で悪態を吐いてしまった。
「お前は少し休んでいなさい。飲み物を持ってこよう」
「ありがとう、お父様」
汗と激しい呼吸のせいで喉がカラカラだ。
ヘンリー父さんが行った後、私はお言葉に甘えて休むことにした。支えにしていた棒をズルズルと辿ってペタリと地面に座り込む。火照った身体に、秋の涼しい風が気持ちよかった。
「桜……」
「イヴ」
暫しそのままで揺れる木漏れ日をぼんやり眺めていると、声と共にイヴが現れた。おさげに編まれた萌黄色の綺麗な髪も、同色のぱっちりした目も露わになっていて、肩にはフワフワの梔子が留まっている。最近、こんな風に突然出てこられるのも慣れっこになってしまった。順応するもんだ。
「遊びにきてくれたの?」
「うん……。これを渡したくて……」
口を開いたイヴがおずおずと差し出す両の手にちょこんと乗っているのは、滑らかに光る銀色の小箱だった。幾何学模様の装飾が凝っていて、一見すると宝石箱のようだ。
だがしかし!
「イヴ……。蓋に埋め込まれてるその三角形の石、滅茶苦茶見覚えがあるんだけど」
忘れもしない災難の記憶。あれでどれだけ私が苦労したことか。
小箱に注いでいた視線を、私の指摘に狼狽えたように身を引くイヴへと移した。
「これって、アクアマリンじゃないの?」
「気のせい……。よく似た別の石……」
否定の文言は何故か梔子から紡がれる。
そして如何にも後ろ暗そうに私から顔を背けたイヴは、「除けるように言っとくの、忘れてた……。でも、これが無いと魔力の供給ができないし……」とかなんとか呟いていた。気のせいか、舌打ちの音まで聞こえる。
気を取り直したようにイヴが私に向き直り、満面の笑顔を見せた。
「とにかくこれ、贈り物……。受け取って……?」
「いや、そんないい笑顔で受け取ってって言われても。見るからに怪しげで結果が分かってる物体なんて――」
「駄目……?」
頑是無い容貌の魔術師は途端に表情を曇らせ、目を潤ませる。そのままじーっと表情で語りかけるように見つめられた。
イヴって、イヴって……!
考えてみれば、イヴはあのホープと親しいのだ。人見知りだし気が弱そうに見えるけれど、本当にそうならあの悪魔と仲良くツルめるはずがない。そして子供の姿を取っていても、実際は私よりもかなり年上。その経験を遺憾なく発揮すれば、私を転がすなんてお手の物だろう。
ううう、さすがはユヴェーレン。こんな萎れた花の風情に逆らうなんて中々できることじゃない。少なくとも私には無理だ。ともすれば、苛めているかのような気分になってしまう。
「分かった……」
私はがっくりと項垂れ、イヴから小箱を受け取った。無邪気な(ように装っている)顔がぱーっと瞬時に明るさを取り戻す。むむむ、可愛いらしいじゃないか。梔子も嬉しそうに「ピルル」と鳴いた。
まあいいか。私の方が年下だと充分に把握しているものの、イヴの姿と雰囲気のおかげでお姉さんめいた心持ちに浸ってしまう。だったら付き合ってあげましょう、と小箱の蓋に手をかけた。
「桜」
「あ、お父様」
聞こえてきた声と同時に、息を詰めて私の動作を見守っていたイヴが慌てふためいた様子で姿を消す。木製のマグを持ったヘンリー父さんが近付いてきた。使用人さんに頼まずに、わざわざ自分で持ってきてくれたんだ。優しいな。
「さっき傍にいらっしゃったのは、ひょっとしてティア・ペリドットかい?」
「そうそう。恥ずかしがって逃げちゃった」
マグを渡してくれるヘンリー父さんにありがとうとお礼を言って、片手で受け取る。
「その小箱は?」
「なんに見える?」
ヘンリー父さんによく見えるように、小箱を持った方の手を突き出しながら、マグの中身をグビリと飲んだ。柑橘系の果物で香りをつけた水が口に入った瞬間に、喉が渇きを思い出したみたいにもっともっとと求めてくる。そのまま全部を一息に干してしまった。
「もしかして、ティア・アクアマリンの魔道具かな?」
「あれ? よく知ってるね?」
「ああ。昔、王から警告をいただいたことがあるからね。三角形のアクアマリンで装飾された道具には注意するようにと。何が起こるか分からないとの仰せだった」
「ははは……」
私は複雑な思いからしみ出てきた抑揚のない笑い声を漏らした。お触れまで出ていたとは知らなかった。そういえば、前にイヴも似たようなことを言っていたな。まあ、今回はイヴの確信犯なわけだけれど。
「これの用途は分かってるよ」
「ほほう、なんだい?」
「多分、子供になるんだと思う。前に私が小さな子供姿になったの覚えてる?」
前の時とは小箱の色や飾りの模様が違っている。そして以前私が子供姿に変わった時にかなり喜んでいたイヴが勧めてくることから考えて、この推測はほぼ正しいんだろうと思う。人を幼児化させる専用の魔道具に作り替えたんじゃないだろうか?
「ああ、なるほど。これが原因だったのか」
「うん。あの時は――ってお父様!」
さらに説明しようとした私は、目の前の光景に度肝を抜かれてしまった。
裏返したり拳で軽く叩いたりと、小箱を興味深そうに弄っていたヘンリー父さんが、何を考えたのかおもむろに蓋を開けてしまったのだ。
「目線が低いな」
結果はといえば予想通り。
ロマンスグレーなヘンリー父さんの姿は掻き消え、代わりに推定年齢三歳と思しき男の子が立っていた。
「お、お父様……?」
「ああ、私だ」
呆然と見下ろし確認を取る私に、男の子が全く動じない様子で答える。
――なんで怪しいと分かっているのに自分から蓋を開けちゃうの?
――どうして縮んじゃったのに平然としているの?
という風に、頭の中でヘンリー父さんに対しての質問がグルグル渦を巻いてはいたんだけれど、私から出てきた第一声といえば。
「可愛い!」
これに尽きた。
いやもう本当に。
身長は私の腰ほどだ。ゴールドの髪にエメラルドの目、と私の時と違って色彩は変わっていない。私を見上げる顔はヘンリー父さんの端正な面影を確かに残していて、何をしても許してくれるような、経験を積んだ人だけが持ち得る包容力に溢れているのに。
それなのに。
「可愛い!!」
また言ってしまった。しかも力強く。
「そうかい? ありがとう」
ヘンリー父さんはニコニコと余裕さえ窺える笑みを湛えながら、賞賛の言葉に応える。もうちゃんと舌が回る年齢みたいだ。大人の男の人がもらって決して嬉しいとはいえない単語だろうに、鷹揚に返してくれるところはヘンリー父さんの広大無辺な度量の現れだと思っておこう。なんか、面白がっているだけというような気もするけれど。
まあそんなことはどうでもいい。大事なのは、今のヘンリー父さんが超絶に愛らしいということだけだ。私はもどかしさを感じながらマグを地面に置きつつ、素早く手を広げた。
「お父様! 抱っこ! お願い、抱っこさせて!!」
「いいよ」
自分でも大丈夫か? と不安になるくらいの勢いで懇願する私にも怯まず、両腕を差し伸べてくるその姿に骨抜きにされそうだった。抱き上げた腕にかかる体重は予想よりも重かった。伝わってくる私よりも高い体温、身体の柔らかさ、頼りなさ。
なんなんだ、このお腹の底から湧き上がってくるくすぐったさは。抱き潰したい、愛おしい。これが母性本能ってやつか!? 思わずヘンリー父さんの頭に頬ずりすると、太陽の匂いがした。
うわ~~、もう駄目。デレデレ。傍から見れば、私は立派な変質者以外の何者でもないだろうけれど、かまうもんか。
おチビなヘンリー父さんに籠絡されてしまった私は、しばらくの間飽きもせずに愛らしい幼児との時間を楽しんだ。ヘンリー父さんも辛抱強く付き合ってくれた。
そして幸福な一時は唐突に終わりを告げる。
「桜、楽しんでいるところ悪いんだが、降ろしてくれないかい?」
「え、なんで?」
きっと私の声は誰が聞いても絶望を表現している。
もしかして引かれちゃったのか? と焦りを抱いた私に、小さなヘンリー父さんが目線で合図してから首を巡らせる。その先を辿ってみると。
「ペリドット?」
イヴがソロリソロリ、といった足運びでゆっくり近付いてきた。ヘンリー父さんの前だというのにフードは被ってないし、目も出している。子供姿だから大丈夫なのかな?
挨拶させてくれと言うヘンリー父さんを、名残惜しさを隠さずしぶしぶ地面に降ろした。
「お初にお目にかかります、ティア・ペリドット」
ヘンリー父さんは洗練された仕草で優雅に挨拶した。いつもなら大人の魅力たっぷりでカッコイイな~と感心するんだけれど、今は小さな子供姿だ。愛くるしい幼子の大人びた仕草というのはもうなんと表現したらいいのか! よくできたねとかいぐりしてあげたい気分。ビデオカメラ回したい!
幼いローズランド公爵の挨拶にビクリと身体を揺らして反応するイヴに駆け寄り、私はガッシと固く手を取った。
「ペリドット! 私、ペリドットの気持ちがよく分かったよ。可愛い。これは確かに可愛い!」
いやまあ感極まって可愛いの連発しかできない私が何を言いたいのかというとだね。イヴがどうして私をお子ちゃま姿にさせたいのかが理解できたってことだ。
理性が飛ぶ。思いっきり抱き締めてハグハグしたくなる!
「桜……!」
イヴはやっと通じ合えたのかと大層感激した様子で、またもや瞳を潤ましている。梔子も倣うように高らかな声を上げた。
その時、私たち二人を微笑ましそうに見上げていたヘンリー父さんが、いきなりニョキニョキ伸びたかと思うと、次の瞬間にはすっかり元の姿に戻ってしまった。
「おや? もう終わりなのか」
「なんで!? 早くない!?」
「アクアマリンに時間を短くしてもらった……。個人差はあるけど、大体一時間から数時間……。それから、小さくしたい相手に向けて蓋を開いても効果はある……」
そんなあ。私はガックリと肩を落とした。こんなことならもっと心ゆくまでヘンリー父さんを抱っこしておけばよかった。
だがしかし! 今度は背筋を伸ばして青い空、白い雲に目を向ける。うん、今日もいい天気だ。
「ペリドット、王城へ連れてって!」
「え……、どうして……?」
「だって、お父様があんなに可愛かったんだよ? 子供になったアステルも見てみたい!」
想像を絶する愛くるしさに決まっている!
元に戻るのに一晩かかるのだったらちょっと躊躇うけれど、数時間のことだったら抵抗も薄い。例え数時間でも人道的にどうかと思いつつ、それでも今の私は自分の欲望にかなり忠実になっており、良心の声にはパタリと蓋を被せた。
「別に私は見たくないんだけど……。それよりも桜に小さくなってほしい……」
イヴは中々頷いてくれない。しかし、私は強力な切り札を持っている!
「ちっちゃいアステルを見たらいくらでもつき合ってあげるから!」
我ながら随分と必死だな。でもイヴはこの言葉に心動かされたようだった。
「本当に……?」
「うん。本当、本当」
「アステルの小さい頃の姿には、どれほど緻密に計算された人形でも太刀打ちできなかったよ」
息子を売るがごとき発言を落としながら、ヘンリー父さんは私に小箱を手渡した。結構無責任だ。私を煽っているのか? でもこの台詞に俄然やる気が湧いてしまった。
「ね、ペリドット。お願い」
小箱を挟んで両手を合わせ、イヴに拝む真似をしてみせる。
「分かった……」
「ありがとう!」
やったあ! 感謝を込めてイヴに抱きついた。相変わらずイヴは真っ赤になってしまう。
「お父様、じゃあ行ってくるね」
「ああ、晩餐までには帰っておいで」
手を振って送り出してくれるヘンリー父さんに振り返したところで、視界がブレた。
この時私は、イヴがすっかり味方になってくれているのだと、安心しきっていた。




